2012-01-25

聞くこと。

さて、日付が変わって水曜日の未明です。
昨日は暖かかったですね。13度くらいまでいきました。
今は夜の1時過ぎですが、なんと5.4度C。
明日も穏やかな日になりそうです。


で、この先、ちょっと暖かそうです。


次に冬らしくなるのも、雪が降るのも、分かりません。
元々、2月には寒くなると思っていたのですが、
ホントにこのまま春になるのでは・・・という勢いです。


さて、昨日の午後は、来月には85歳になられるご婦人を訪問しました。


 「さっき、聞いた話も忘れちゃうんだから、嫌になっちゃう」と言いながら、なかなかどうして、しっかりしておられます。ちょっと久しぶりに会う私のこともばっちり覚えておられました


そして、今日は「神の愛」の話。「『神が愛だ』った言うけど、私は自分の都合の良いように解釈しているんじゃないかと思う。いいことがあるとすぐ『神様が守ってくれた』って」・・・と。


なるほど、確かに、意外に多くの場所で「神様の愛」=「災いから守られる」「いいことがある」と思われているのかもしれません。だから、わたしたちは悲しいことがあると「神様が愛ならどうして?」となってしまいます。


 でも、神様の愛は「困難の中でも共に歩もうとする愛」なんじゃないかと思います。(人間同士の愛もホントはそうだね。)そして、その神の愛の極致が十字架。どこまでも、わたしたちとともに歩もうとされた神の意志の結晶。 そんな話をしました。


そして、何倍も話を伺いました。正直言うと、ちょっと話しすぎたのかもしれません。ですから、一生懸命伺いました。60年前にアメリカに渡ったご婦人は、若造(!?)の私とは「困難」のレベルが違うんです。


お話を伺いながら、10年以上も前、マンハッタンに毎週のように訪問していた寝たきりの方、その方の話はもっと一生懸命聞いていたよなあ、と思いだしていました。いつの間にか、焦っていろいろ話す牧師になっちゃったかな、とちょっと反省。若いときの方が、もっと謙虚に、もっと聞く気持ちがあったのかもしれません。原点に帰らないと。


 教会から40分のところに住んでおられるんだけど、「今度ぜひ行きたい」と言っておられた。教会の皆さん、歓迎モードのスイッチ入れておいてくださいね。


さて、昨日の聖書。
昨日はルカ2:21-38。


「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」34節。


イエスの存在は、立ち上がるためにだけにではなく、倒れるためにも、用いられて、また反対を受けるしるしなるのだ、というのです。

そのイエスの福音を受け取っているわたしたちが、
その福音をただ、人の気持ちのいいこと、人の喜ぶこと、受けのいいことだけを語るために用いてはいけない、と思わされます。それはある人を倒すような力を持っていて、反対をする人も出てくるのだ、それでいいのだ、というのです。

本当に誠実にまっすぐに福音を語り続ける者でありたいです。罪がわからないと、愛も分からない。本当にはっきりと罪を語る者、そこからの救いを語る者とならせていただきたいです。

主よ、
どうか、あなたの福音をちゃんと語ることができますように。
人が受け入れ易いようにと、罪を割り引いてしまったり、いい加減にしてしまうことがありませんように。

2 comments:

  1. 旧ジャージー1/25/2012 08:22:00 AM

    >でも、神様の愛は「困難の中でも共に歩もうとする愛」なんじゃないかと思います

    先生!!ただただアーメンです
    神様の本当の愛って何だろう??と思いながら祈祷会から帰ってきたところだったので
    何ともピッタリなお言葉でした<(_ _)>

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  2. 旧ジャージーさん、
    レスポンスありがとうございます。
    多くの人々に主の思いが伝わりますように。

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