2011-04-25

復活のいのち。

昨日は、暑いくらいだったので、
今日は普通に暖かいという感じでした。


でも、それは主観的な話で、
また教会でネクタイをしていたので、
かなり堪えましたが、
休養日で、しっかり休ませていただいたので、
昨日の方がめちゃくちゃ暑くて、大変だったという印象が残っているだけなのかもしれません。


いずれにせよ、この暖かさで、裏庭にはタンポポが咲き誇り、
ほったらかし畑にはアスパラが生い茂り、
ニラがにょきにょき生えてきています。


今日はアスパラを18本収穫して、
アスパラのベーコン巻きを
リクエストしてきたサキに自分で作らせました。


そして新芽の柔らかいニラをニラ玉豆腐にして、
「今日は冷蔵庫の中の残ったものゴハンだ!」という感じだったのですが、結構立派な食事になりました。


春の恵みに感謝。


昨日の朝。
ちょっと疲れていたのか、花粉症の薬でぼーっとしているのか、震災のことで心が重くなっていたのか、男の更年期なのか、ミッドライフクライシスなのか、とにかく、気持ちが重くて、「朝起きるのがつらい〜」という日曜日の朝でした。


毎朝6時には教会に行って45分まで祈りのときを持っていますが、
昨日の朝も、教会に行って、祈っていました。
でも、重い気持ちを引きずっていました。
「イースターなのに」「牧師なのに」という思いで、
「ダメだなあ」「なんでだろうなあ」と落ち込みながら、
「こんな自分の心、みんなが知ったらがっかりだろうなあ」とどう思われるかを気にしたり、
「隣の○○牧師とか、Twitterでいつも元気な○○牧師とかは、こういうことはないんだろうなあ」と比べてみたり、
ドツボにはまっておりました。


で、なんでか覚えていないのですが、
いつもより早く30分頃にはふらふら〜と立ち上がって、
車に乗って、走り出していました。
最初の信号のところで、「あれ、まだこんな時間だ。教会のニュースレターにも『45分前で毎朝祈っています』と書いてあるので、誰か来るかもしれない・・・」と思って、教会に戻りました。そう、今日に限って、誰かが来られるような気がしたのです。


でも、教会に帰って「何やってんだろう自分」と思ったとたんに、涙と一緒に、神様への祈りが出てきました。「自分はダメです。こんな調子です。イースターの朝なのに、こんな調子です。あと数時間で皆さんが来ます。何かを求めてきます。主にお会いすることを求めて来ます。なのに自分の心の状態はこんな調子です。助けてください。」と祈りました。


その時に、礼拝の中でお話をする内容が浮かんできました。
ルカによる福音書24章でイエスの復活の日の夕方、エルサレムからエマオという小さな村に歩いていたふたり。そこに復活されたイエスご自身が近づいて、聖書全体から、ご自身について書かれていることを解き明かした、その時、彼らの心が燃えた、というところです。イエスさまは聖書の御言葉を通して、私達の心を燃やし、私達の目を開いてくださるのです。そのことを語らせていただくことになっていました。


「さあ、あなたも聖書から聞きなさい」と言われているように思いました。
最近、自分は人の励ましや、超自然的な「聖霊の働き」による励ましを求めていたのかもしれません。


そこで、もう既に30分前に読んだところだったのですが、もう一度「日々のみことば」の4月24日のところを開きました。そしてゆっくり読んでいる中で、一つのことばが目に留りました。


「あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。」マルコ16:4。


私の「大きな石」も「あれほど大きな石」と言われるものであっても、復活のイエスの力はそれを動かしてしまう。いやも動いてしまっているのだ。


そのことを思わされた時に、本当にあのルカの24章のふたりのように、「ああ、イエスさまはおられたのに、私が気がつかなかったんだ」と思いました。目が閉ざされていたのだと。


昨日も書きましたが、それから一言祈って、立ち上がった時、教会の駐車場の風景が変わっていました。いや、大げさに聞こえるかもしれませんし、自分自身、こういう表現は好きではないのですが、事実だったのでしょうがありません、ホントに「キラキラ」していました。


復活の主に感謝します。


さて、それで今朝の聖書。
今朝はマルコ16:1-8を読みました。

「主は彼らと共に働き・・・」20節。
「イエスご自身、彼らによって・・・」(別の追加文)

原典主義(って言葉があるかわかりませんが、最初に著者が書いたものに権威があるという考え)なので、原典にはなく、後代の追加であることがわかっているこの部分は、私自身は飛ばしてしまってもいいのかと思っていて、「日々のみことば」誌で「神様によって追加された」と書かれているのにはちょっとびっくりしましたが、両方の追加文で共通しているメッセージに心が向きました。

そう、両方、主語は復活されたイエス。
弟子たちはイエスとともに働く存在です。

私たちにとって大切なのは、
主イエスに働いていただくこと。
私達が一生懸命働いて、神様を喜ばせようとするのではなく、
私達の存在を主の前に差し出して、主が私達を自由に用いてすばらしいことをしてくださることを待ち望むこと、なんですね。

主がなさることをもっともっと見せていただきたい。
そんな思いです。

主よ、
どうか、この地にあなたのリバイバルを。
日本の国にあなたが触れてください。
あなたの御業をなしてください。
そして、私達があなたのために用いられやすい、
あなたに従順に従う者でありますように。

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