2011-07-23

悲しいこと。

昨日は朝から28度。夕方には40度を超えました。
ホントにあつくて、多分体力を吸い取られていたんでしょう、
おかげで夜10時には睡魔に襲われ、11時には沈没していました。
今朝、5時半に起きたのですが、疲れはイマイチ取れず。


今朝の最低は26度。
ちょっとマシでしたが、2晩続けての熱帯夜。
昼間は37度止まり。


昨日より、ずいぶん楽でした。
夜の11時で29度。・・・うーん、どうなるでしょうか?3晩続けての熱帯夜・・・。


明日からはちょっと楽になるようです。
期待しつつ。


昨日はノルウェーでのテロには本当にびっくりしました。
首都での爆弾もそうですが、その後の虐殺。


犯人は・・・例によってイスラム過激派か?と多くの人が思ったかもしれませんが、今朝あたりの報道では「キリスト教原理主義者か」という文字が踊っていました。その後、そちらもトーンダウンしているようですが、いろいろ考えさせられてしまいました。


原理主義とはfundamentalism。
根本主義という訳を使われることもありますね。


9-11の後、イスラム原理主義が取りざたされたので、「こわい」「ひどい」というイメージが強いですが、元々、過激派でもなく、暴力主義でもありません。それは近代主義/世俗化/既得権を持った「宗教組織」へのアンチテーゼとして、根本に帰ろう、原理に帰ろう、という運動です。


近代主義へのアンチテーゼとして原理主義があるならば、そして、それが「原点に戻れ」「原典に戻れ」ということを標榜していると考えるならば、私自身も原理主義的な考えを持っていると言っていいでしょう。「徹底的にイエスに従う」「聖書をそのまま神のことばとして受け入れる」「世俗化による堕落を捨てて、最初の教会のように生きる」ということを大切に思っています。


9-11のときもそうでしたが、今回も恐らく、多くの人々が「私たちはあの人とは違う」「あのグループのような極端なことはしない」と、自分はそのような人々は関係ないと言って自分を守ろうとするだろうな、と思います。それが、私はとても悲しく思うのです。


もちろん、自分の信条のために人を殺してでも・・・ということを肯定しようとは思いません。そんなことは考えることもできません。


でも、人間である以上「彼らとは全然関係ない」とは言い切れない、自己中心性や、罪深さを持っていると思うのです。まして、信仰者として、宗教は皆同じ・・・なんて決して思いませんが、一つの信仰を持つ者として、自分自身、それによって自分を絶対化し、他人を否定する危うさを持っていると思うのです。


神の前にひざまずくこと。
ひとりの罪深い者として、迷いやすい、自分を絶対化しやすい存在として、神の前にひざまずくこと。それが、本当に大切だと思うのです。


宗教はコワイ。
オウムが事件を起こした時に、多くの日本の人は思いました。それから今も、ずっとその風潮は続いていると思います。


クリスチャンの多くの人々は「私は宗教を信じているのではない、イエスとの関係に生きているのだ!」と言われます。すばらしいです。本当にそう思います。


でも、やはり、外側から客観的に見ると、社会学的にキリスト教は宗教ですし、やっぱり「コワイ」と思われても仕方がない、危うさを持っているのです。信仰者たちが、それを自覚しないことこそが、ほんとうに「コワイ」ことなんじゃないかと、私は思うのです。


ある牧師は言いました。
「宗教はコワイ、と言われる。コワイです。変なのに引っかかったら大変、だから、ちゃんと調べてください。調べてもらっても全然大丈夫なものだと、わたしは信じているから、そう言えます。そして、納得して信じてください。」と。


そうだな、と思います。


・・・そして、どこかで「納得」だけではなくて、「自分が砕かれる」「神に身をゆだねる」ことが必要なんだとも思いますし、その「大丈夫」の危うさをも自覚しながら、信じることの大切さも感じるのです。


また、誤解を恐れないで言うと、
社会で「あいつらヤバいんじゃない?」と思われるものが全くないものでいいのかな?とも思います。新約聖書の使徒行伝では最初の教会の人々が「疫病のような奴ら」「社会をひっくり返している」と呼ばれていたことが書かれています。


愚直に聖書のメッセージに生きる者となれますように。


明日は元ヤクザの伝道者/井上薫先生と奥様の比呂子さんが礼拝で神様からのメッセージを取り次いでくださいます。これもすごいですね。ヤクザやっていた人が、覚せい剤で廃人になりかけた、自殺未遂を繰り返していた人が、今は世界中を回って、神様の話をしているんだから。幸いな礼拝となりますように。

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