2011-07-20

新しい任期に備えて。

今日も暑かったです。
そして、明日からいよいよ、警報ものの熱波です。
気温は36度くらい、体感気温は43度Cくらい、
だそうです。


無理はしないでください・・・ってことですね。
今夜はまだましなのかな、外の気温も9時半で27.2度C。
熱帯夜はどうにか免れる予報が出ています。


さて、実は、今の教会の牧師に就任したのが、
1997年の7月20日。
日本からホーリネス教団を代表して、ひとりの先生がおいで下さって、
按手礼という、正教師としての資格をいただくお祈りをしてくださいました。


それから14年。そんなに経ったんだ、早いな、という気持ちです。
牧師としてまだまだ駆け出しのような気持ちで、
少しずつ、大切なことがわかってきたかな、というところなので、
ちょっと数字の大きさに気持ちが焦ります。
でも、いつもいつも、私自身が聖書学院に入る時に平安をいただいた言葉、


「あなたの弱いところに、わたしの力は完全にあらわれる」


というイエスの言葉を信頼して、歩んで行こうと思わされます。


そして、今の任期は7月末まで。
8月1日からは新しい任期が始まります。


そんなことを考えながら、今日手にしたのが、


「牧会ジャーナル」


もう十数年前から発行されている小冊子ですが、
初めて、実物を手にしてみました。


存在は知っていたのですが、
どこに頼んだらいいのかわからず、
まあ調べればすぐにわかるのでしょうが、
また海外で購読するコストを考えると、
二の足を踏んでいました。


今年の春に、牧師としての働きのために、
教会のこれからの歩みのために、
祈っている時に、近所の教会の牧師が、バックナンバーを貸してくださったのでした。


その中にある牧師のこんな言葉が、心に留まりました。


「牧師会で、何となく比較されるようで出るのが億劫」


わたしは正直なところ、そこまでは感じたことはなくて、NY地区の日本語牧師会をいつも楽しみにしているのですが、
確かに、目に見える成果のようなことを披露し合うような場になりかけた時に「何か違うんじゃないの?」と思ったことはありました。


でも、ホントのところは、
自分が自分で比較しているんでしょうね。


もちろん、回りの人々に比較される場合もあります。


「あっちの教会のメッセージの方が恵まれる」といって去って行った方々もいました。
(逆のことを言われると愚かにもまた舞い上がったりするわけで・・・)


でも、どんなことがあっても、どんなことを言われていても、
結局のところ、自分がしっかりと立つべきところに立っていれば、
いいんですよね。人が比較する言葉にもびくともしなくなる。


そのことを本当にこの新しい任期の始まる時に、
改めて、確かにさせていただきたいと思いました。


あと、英語の本で「Unnecessary Pastor(必要とされない牧師)」(Marva J. Dawn, Peter Santucci, Eugene H. Peterson)という本のことが紹介されていて、すげー題!?と思って、アマゾンで中古の本を注文してしまいました。ちゃんと読んでみないといけないんでしょうが、「一般に『こんな牧師が必要とされている』という牧師になるなよ」「ホントの牧師というのは世が求めているものとは違うんだよ」という警告と、じゃあ、牧師はどうあるべきか、ということを書いてある本のようです。この著者のひとりのピーターソンの書いたものにはいろいろ教えられることが多く、今回も楽しみにしています。邦訳じゃなくて、原文というのがハードル高いですが。


いつもいつも主に聞いて、聖書に聞いて、
そこに答えをいただいて、立ち上がって行く、
そのようなものとならせていただきたいと思わされます。


でも、ちゃんと投資すべきところには投資しないといけないですね。
もしももっともっと早くこの「牧会ジャーナル」を購読していれば・・・という気持ちです。


反省。


でも、それでなくても、日本語/日本文化の中での研修の機会の限られている海外の牧師のためには電子図書版もあればいいなと思います。
ホントはそっちの方が皆さん助かるのだろうと思うのですが・・・。


さて、今日の聖書。
今日は列王記第二9章27-37節でした。

「エフーがイズレエルに来たとき、イゼベルはこれを聞いて、目の縁を塗り、髪を結い直し、窓から見下ろしていた。」30節。

聖書を読んでいて、
時々、「どうしてこんなことを丁寧に書いているんだろう?」と思うところがあります。
ここもそうです。

イゼベルがお化粧直して、髪を結い直したこと、
わざわざ書くことの意味は何?
と思って読みました。

飾ったということ?
そして、特に皇太后としての、
威厳を表そうとしたということ?

ああ、でも、自分もそういうことあるかなと思いました。
飾るとき、威厳を表したいとき、
結局は自信がないんですよね。
恐れている。

イゼベルも結局そうだったのかなと思います。
強い女性のように思われているのでしょうけれども、
ホントは自信のない、恐れに縛られていた人だったんじゃないかと。

低くなって出ること、
真実になって、裸になって出ること、
本当に大切だと思います。
主が受け入れて、支えてくださるのですから。

神様、
わたしも虚勢を張りたい時があります。
自信がないとき、恥ずかしい時です。
でも、そんなとき、ありのままを受け入れてくださる
あなたの存在を目に留めて、
真実であることができますように。
あなたから答えをいただいて歩むことができますように。


明日からの暑さの中で、
一人一人が守られますように。

No comments:

Post a Comment