2011-01-07

福音に立つ教会。

今日は結構降った。
朝から昼前までがピークで15センチくらい。
でも、早い時間にピークを過ぎてくれたし、
気温も2度くらいまで上がったので、
本当に穏やかな午後になった。


夜になって、冷え込んできて、夜の10時前だけど、
今の外の気温は−4.8度。
シャーベットに残った雪は
ガチガチに凍っています。


明日の朝は6時半から今年はじめての祈祷会。
どなたかいらっしゃれるだろうか?


さて、今日は「教会とは」を考えていました。
聖書を読みながら、祈りながら、
聖書学院やこちらの大学での勉強を思い出しながら・・・。


やはり、それはもう聖書に戻るしかないですね。
私たちのイメージや、私たちの願望ではない、
そうしたところ、導かれたのが、
福音に立つところ。
達成感や一体感や目的意識で集まっているというよりも、
イエスの十字架と復活の福音に動かされた者たちの集まり。
そこに希望を持つ者たちの集まり。


人の集まりの中で、
何かを達成した喜びが、
イエスの福音に触れた喜びよりも大きくなったり、
何かのために一致して頑張っている喜びが、
十字架によって赦された喜びよりも大きくなったり、
復活の力に満たされる力よりも、大切になったら、
やっぱりどこかが違うんだと思います。


いろんな本の中で、「奉仕した人たちをappreciateしなさい」みたいに書いてあるのを読んだりします。間違いじゃないし、牧師としていつも心に留めておくべきなんだろうけど、それが人々の奉仕の動機になったり、誰も気づかなかったときに、「何で?」と思うようなメンタリティーを育んでしまったら違うと思うんですよね。(自分もそういう弱さ[appreciateしてもらいたいみたいな思いに捕らわれている]を感じる時があるから・・・でもそれは焦点がずれている時だと思う)


すべての奉仕は主への奉仕だし、主の恵みに対する応答でしかないわけで、決して、認めてもらうためのものではなくて、すでに何かをする前に認めてもらっているのだから、そこに感謝をして歩んでいくんだと思うんです。


私たちの教会の2010年12月号の月報に掲載されていた証、(このリンクは毎月更新されるので、もしもリンクが違う証につながっていたら、こちらもトライしてみてください。今はまだリンク切れですが、まもなく、最初のリンクには最新の証がリンクされ、後の方に2010年12月号がリンクされます。)その中で、ホスピスにはいられた方が、「ここで主のお役に立つ」事を願ったんだけれども、そこで示されたのは、「何もできなくても自分の存在が愛されているんだ」ということだったという、そこに福音の根本的なメッセージがあるんだと思うのです。


何かをすることではなくて、
主に愛されている、ひとり子を与えるほどの愛によって愛されている自分を生きることに喜びを見出していく、そのような者たちの集まりとしての教会。
「受洗者〇〇人!」とか「礼拝出席〇〇人!」とか、
「伝道集会決心者〇〇人!」とかという「目標達成の喜び」ではなくて、
福音によって盛り上がっていく教会。
そういう教会形成をと願っています。


で、今日の聖書。
今日はマルコ3:1−19。


「それは彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ・・・」14節。

福音のメッセージ、それは彼ら自身がこれからのイエスとの歩みの中で見せられること。
近くに歩むことが許されて、イエスと共に歩んだ弟子たち。

今、自分もそのように生かされていることに感謝。

そこに福音がある。

私のような者が、主と共に歩む事ができる。
元々、イエスの一番嫌いなタイプの人間である私のような存在が、
イエスに招かれている。

だから、感謝して歩んでいこうと思う。

福音に生きることをもっともっと教えていただきたい。

さて、明日は早い。
早く休もう。

主よ、
あなたと共に歩める幸い、
あなたの近くにおいていただける幸いを感謝します。
どうか、私の中に喜びを満たし、
その喜びによって歩んでいく者とならせてください。

2 comments:

  1. 先生、奉仕者へのappreciationを現すことについて、私もそんなふうに感じていました。もちろん、主に仕えているのだから感謝しなくていい、という意味ではないのですが。

    ECでもそうだと思いますが、CCでも、最後にその年のCCを振り返ったスライドショーを上映します。その前の晩は、担当者が徹夜でそのビデオを作ってくださいます。何年か前のCCで、そのビデオ上映の時に、実行委員長か司会者が、感謝を表明するために、「このビデオは○○兄が、夕べ徹夜で編集してくださいました。皆さんで感謝の拍手を!」と言い、みんなで感謝の拍手をしたのですね。
    するとその兄弟は、実に困惑した顔をされました。そして後から、「僕がせっかく天に積んだ宝が、奪われてしまった」と言われたのです。みんなの前で感謝されてしまったら、その奉仕に対する報いは、すでにそこで受けたことになり、天で受ける報いがなくなる、ということなんですね… 私は本当にハッとさせられました。

    あのとき、私たちは確かに彼に感謝を示したかったのですが、その兄弟の、ただ天のみ、主のみを見つめる忠実さ、真実さに、姿勢を正される思いでした。
    そして、誰かに感謝をするときは、みんなの前でするのでなく、本人だけに、そっと感謝を示すほうがいいのかもしれないと思うようになりました。(もっとも、それでは不満な人もいるかもしれませんが…)
    そして、私もこの兄弟のような姿勢を忘れずに持っていようと思いました。

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  2. はちこさん、

    そうですね。

    そのCCでの奉仕者の姿勢は大切なことなんでしょうね。

    感謝を表すことが決して間違っているとは思わないのですが、それが教会にとってとても大切なことであるかのように書かれているときにはちょっと疑問を感じます。

    教会の喜びは、やはり神の恵みによって生かされている喜びであって、それはイエスの足跡をたどって行くときに見えてくるのであって、それは十字架の道だと思うんですよね。注目されず、または、逆に悲くなるような評価を受けるようなときにこそ、見えてくるものなのではないかとおもうのです。

    それは、はちこさんが言われるように、「天だけを見つめる忠実さ」に通じていると思います。

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