2010-08-24

Warning!はありがたい。

昨日はNJを出る時には雨がザーザーだったのに、
途中、Newarkを過ぎる頃に晴れてきて、
フィラデルフィアでは完璧に晴れていました。


帰る頃にはあちらも雨が降り出しましたが、
この不安定な天気はNYから北東の方に広がっているみたいですね。


でも、これも明日まで。
あさってからはまた晴れます。


日本は残暑が厳しいようですが、
こちらは「暑い」と言っても、朝には20度に下がるわけで、
ありがたいことです。


先週の土曜日、NC州で、ある事件があって、
慌てていたとき、そこは州立公園内で25マイル道路だったのですが、
自然と気がせいていて、いつの間にかスピードが上がってしまっていました。


そこに、うしろから、サイレンが・・・。


はい、慣れ親しんだあの出来事です。


こういう出来事に出会ったならば、「ひたすら礼儀正しく」です。
(「親しげに明るく!」が通用した若い女性もおられることも知っておりますが、男性がやって通用するかどうかはわかりません)


「Yes, Sir.」の連発です。


でも、この時はそれに加えて、「この出来事で、とにかく、慌ててしまって、申し訳ない」と気持ちを表しました。


免許証を持っていったofficerが帰ってきたときに、
その手には、なんと!「おみやげ」がなかったのです!!!


「あなたの言葉を信じましょう。verbal warningということにします。あなたの状況では、それは心配だろうけれども、子供たちがいたり、たくさんの人達が歩いたりしているところだ。落ち着いて運転して、しっかり制限速度を守りなさい」とお言葉をいただきました。


もちろん、答えは、「Yes, Sir!」です。


その後、めちゃくちゃ制限速度を順守しながら目的地について、
問題も無事に解決して、めでたしめでたし。


でも、本当に思いました。
あの時、警告をしてもらわなかったら、本当に慌てて、60マイルでも70マイルでも出していたかもしれません。そんなところに、誰かが道にふらふらっと出てきたら、取り返しの付かないことになっていたでしょう。だから、あそこで警告されてよかった、と。


人生の出来事もそう。
「警告」が鬱陶しく思える時もある。
やかましく感じることもある。
でも、それによって救われることがどれだけあるだろうか。


自分も勇気を出して、言うべきことを言わなければいけない、
そして、勇気を出して、警告を与えてくれた人々を大切にしなければいけない。
どっちも苦手だ。
でも、苦手であると言い訳をするのはやめよう。
自分が生き、また人をも生かすために。


そんなことを思わされました。
(でも、そこで「警告」ではなくて「おみやげ」を貰っていたら、そう素直に思えたかどうか・・・)


さて、ここ2週間の「日々のみ言葉」の中から。


レビ記8章、先週の火~水曜日のところでしたね。


「また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらにそのかぶり物の前面に、金の札すなわち聖別の記章をつけさせた。」8章9節


「また、あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。」8章33節。

祭司として奉仕をすること、
そのために聖別されることは、本当に真剣なことだった。
それは時間もかかり、自分がどんな働きのために立てられているかを
真剣に学ばなければいけないことだった。

私たちの一つ一つの奉仕における真剣さ、
問われているように感じます。

自分自身の牧師としての使命、
その任命の重さをも思わされます。

そして、一つ一つの働きの奉仕者が、
自分の弱さを認めながらも、
そこに立てこもらないで、
主に使命が与えられたことを重んじで、
それに従って歩むような、
そのような教会となりますように。

主よ、
あなたの与えられた働きに忠実な者とならせてください。
真剣に受け取る者とならせてください。


あなたの警告、人の警告を素直に受け取る謙虚さを与えてください。

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