2010-05-03

寄り沿う。

今日は朝と夕方に一回ずつ激しい雨。
でも、その他の時間は穏やかな一日でした。
昨日ほども暑くなく、
夜になったら、昨日ほど蒸し暑くもありません。


明日はもう少しいい天気です。


にわか雨もあるかもしれませんが、
それほど心配ありません。


まだ薬は飲んでいますが、
先週とは全然体調が違います。
そして、何よりも頭と心がスカッとしています。


なんだったんだろうと思います。


パウロが自分の肉体の刺をとっていただけるようにと3回祈ったとありますが、私もアレルギーを取り去っていただけるように祈ろうかと思います。これからの季節、いちごやさくらんぼ、桃、梨など、大好きなフルーツがほとんど食べれないのも辛いですが、でも、この春の花粉の季節の厳しさ、取り去っていただきたいです。


でも、先週思わされたことがありました。
先週の金曜日、いろいろな仕事が溜まっている中でしたが、
迫りを感じて、ある方を訪問してきました。


90代のおばあちゃん。
いつもそうなんですが、
最初は「初めてですよね」と言われてしまいます。
(「博士の愛した数式」みたいだ)
そして、何度も「子供は何人?」「男、女?」「何歳?」と聞かれます。
同じことを何度もお話します。


でも、だんだん、だんだん、話が合ってきます。
話が広がってきます。
そして、だんだん会話になっていくんですよね。
これって、すごい、と思いました。


いつもほとんど日本語を使う場面がないおばあちゃんなので、
それもあるんでしょうが、日本語を使っていくと、
どんどんいろんなことを思い出してくる。


30分くらい話をしたあとで、
聖書を開いてお祈りをしようとしました。


でも、目も細かい字は良く見えませんし、
耳も、日本語、英語、中国語、みんなごっちゃになるのでしょうか、
それとも、私の発音の問題でしょうか、余り聞きとってもらえません。


何とか聖書を読もうと思って開きかけたところが、
昨日の礼拝の聖書箇所。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
というマタイ28:20にあるイエスの言葉。


でも、その時に思わされたのです。


「ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように」というパウロの言葉。コリント第2の手紙(5月4日訂正・第1の手紙でした)です。


聖書の言葉が通じているか通じていないか、とにかく伝えて行く事の大切さも知っています。その力をも信じていますし、何度も経験させられました。でも、ここでは、自分がイエスの代わりにはなれないけれども、少なくとも、自分があと30分、ここでおばあちゃんと一緒にいることの方が、ここで一つの聖書を開いて帰るよりも、正しいと思ったのです。


聖書をそこにおいて、膝をついて、おばあちゃんに話しかけました。


「今日はおばあちゃんと一緒にいられて、ほんとに嬉しい。」と。
毎朝、わたしが祈りの中で、主に言っていただく言葉を思いながら。


だから、「とげ」があった方がいいのかな。
(言葉のとげ、じゃないですよ、肉体の弱さの方です)
トンネルの中では、「もう、何とかして欲しい!」と思うんですけどね。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ39章1−10節。


「ユダの王ゼデキヤとその全ての戦士は、彼らを見て逃げ・・・」4節。

神のみ思いを知っていながら、従えなかったゼデキヤ。
最後、彼はイザという時には、民を捨てて逃げてしまったのでした。

ネブカドネザル王によって滅ぼされることは、
エレミヤの予言で知っていたのに、
そこに従えなくて、最後は逃げ出す。

なんなんだろうかと思います。

でも、昨日も書きましたが、
人を責めるのは簡単ですが、自分はどうだろうかと思います。

本当に主に御声に従い、
最後まで逃げないで、自分の使命を果たす、
そのように歩みたいと、思います。
このことをイザという時に思い出して、
主に従い、責任を果たせますように。

主よ、
どうか、逃げることがありませんように。
主の導きに従い、主の与えてくださる使命に生きる者とならせて下さい。
あなたの使命を見極める目、聞き分ける耳を与えて下さい。

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