2010-09-24

ホセア書から。

今日は本当に蒸し暑かった。
いや、真夏だったら、大したことはなかったと思う。
でも、もう9月も終り近くなって30度を超える蒸し暑い日はちょっと勘弁。


でも、これも今日まで。
しばらくはこんな日はないと思います。きっと・・・。


明日はカラッと晴れるでしょう。


昨日、今日、そして、日曜日と同じ内容ですが、
ホセア書から学びます。


ホセア書は独特な預言書で、
ホセア自身、不倫の罪を犯す妻を赦し愛し続ける経験を通して、
神様の愛を伝えます。


その赦し、愛がいつも注目されるのですが、
今回、とくに今日、学びをしながら思わされたのは、
そこに出てくる、
「霊的な姦淫」の概念です。


ホセアの妻ゴメルは夫がありながら、恋人を作り、
彼らが心を満たしてくれる、と信じて、彼らを慕います。
本当はホセアが彼女の必要を満たす存在であり続けたのですが、
彼女にはそれが見えていなくて、恋人たちが、自分を養い続けてくれたのだと思い込んでいるのです。


またイスラエルの民は神以外の偶像を神として拝み、
また国難の時に、神ではなくて、他の国々を頼りにして、同盟を結んで乗り切ろうとします。


そんな彼らの姿を、ホセアは「霊的姦淫」と糾弾しますが、でも、そこまで行っても、まだ愛し続け、戻って来るようにと招き続ける神のメッセージと伝えるのです。


その「霊的姦淫」の記述を読みながら、
最初は、自分には無関係な「愚かな昔のイスラエルの民」と読んでいました。


でも、この「神以外のものを頼りにして、それによって満たされることを求める」というのが「霊的姦淫」であるならば、その罪は私も犯してきているのではないかと思わされたのです。


文字通りの「姦淫」は犯さないかもしれない(というか、今までのところ、守られている。イエスの基準の、「心のなかで情欲をいだいて女を見た人は・・・」とまで言われると確実に有罪だが)、偶像礼拝もしない、拝金主義でもなければ、他の国を頼りにして生きているわけでもない。


でも、本当に神こそ泉であり、神こそ隠れ家であり、命の源であり、癒し主であり、元気を与え、リフレッシュさせてくださる存在、と本気で信じているだろうか?他のものによって元気をもらおうとしたり、神様に喜ばれないものに慰めを求めていないだろうか?


聖書は読めば読むほど、自分の「罪」に関する見方が薄っぺらい、浅い、表面的なものであろうか、と思わされます。でも、そこにも注がれる、どうしようもない、呆れ果てるような自分勝手な自分にも注がれる神の愛を見せられると、またなんてありがたいんだろうか・・・と思わされます。感謝。


さて、今日の聖書。
今日は列王記第一8:44-53でした。


「彼らはあなたの民であり、あなたがエジプトから、すなわち鉄の炉から連れ出されたあなたご自身のものであるからです。」51節。

神は、私たちのことを、ご自分の民としてくださっている。
神ご自身のものとしてくださっている。

それが本当にありがたく、
慰めとなる朝だった。

主のものとされているとはなんという幸いだろうか。

私は神のものだ。
神のものとされているのだ。

主よ、
あなたのものとされていることを感謝します。
あなたの御手の中で、ジタバタしないで、
歩ませてください。



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