2011-09-11

神を神とする。

今日は2011年9月11日。
あの日からちょうど10年。


今日はそのことを覚えつつ礼拝を守った。
午前中は依頼されて、プリンストンの教会での礼拝メッセージ。
「あああ、遅れる〜!」と叫びながら、8時半頃家を飛び出して、1時間余りのドライブ。


その車の中で、ラジオを聞いていた。
そこから流れて来たのは、Ground Zeroでもたれているメモリアルサービスの様子。
自分と同じ世代のお父さん、お母さんがたくさん亡くなっていた。
だから、名前を読み上げる中に時々出てくる、子供たちの親へのメッセージ。


「お父さん、ありがとう。愛しているよ。私をこの世に生まれさせてくれてありがとう」
「お父さん、僕の立派になった姿を見てほしかったよ。一緒に遊んでほしかった・・・」


そんな言葉を聞きながら、自分もあのときのことを思い出していた。


「何だこれは?」
「これは絶対に戦争が起こる・・・」
「崩れないでくれ、頼むから崩れないでくれ・・・」


そのあとのことはもうちょっと書けません。


そうやって聞いていたら、よく聞く声が詩篇の46篇を読んでいました。


紙は我らの避けどころ、また力である。
悩めるときのいと近き助けである。
それゆえに、たとい地は変わり、
山は海の真中に移るとも、


我らは恐れない。
・・・


オバマ大統領でした。
耳を疑いました。
一国の指導者が、このような場で聖書を読んでいる・・・。
胸に熱いものがこみ上げて来ました。
本当にうれしかったです。


でも、それとともに昨日読んだ記事が思い出されました。
それは「テロリストはdirty bombをTimes Squareで爆発させようとしているのではないか」という記事でした。


恐ろしいことを考えるヤツがいるものだ、と思いつつ、
アメリカが9.11以来、どれだけクラスター弾や劣化ウラン弾を使って来たのか、
アフガニスタンを空爆し、イラクに戦争を仕掛けてきたか。
それを考えると、この指導者は、この国は、本当にこの聖書のことばに生きようとしているのだろうか?
そのことを考えさせられました。


その詩篇の46篇の中にこのような言葉があります。


「静まって、私こそ神であることを知れ」


アメリカの国も神を利用しようとするのではなく、
本気で神を神として、神に従い、神にひれ伏し、悔い改めて立ち上がろうとしているのか?


神を神とすることの反対は自分を神とすること。
神の名を自分のために利用すること。


「静まって、私こそ神であることを知れ」
そのように言われる方の前に、この国も、指導者も、そして、私自身も本当にひれ伏すことができますように。


今日のプリンストンの礼拝は、
本当に多くの方々が、喜びを持って礼拝をささげている姿に励まされました。
子供たちのためのメッセージも任せていただいて、うれしかった。
もう少し皆さんといろいろ話をしたかったですが、
午後の礼拝のために、とんぼ返り。


そして、JCCNJの礼拝では、
日本の「オアシスライフ・ケア」の松田代表からのメッセージビデオや、
JCCNJの元のメンバーの中上祐子さんが、9.11の時に作られた「Chain Reaction」
が送られて、また、9.11の時にすぐ近くで働いておられた方が、そのあと、クリスチャンなられて、証しをしてくださって、とても幸いな礼拝の一時となりました。


もっともっと多くの方々にこのメッセージを分かち合いたかったな。


主を主と崇めつつ、
主が与えてくださった仲間とつながりつつ、
弱さを覚え、痛みを覚えておられる方につながる、


これからも、その働きをさせていただきと思わされます。


さあ、明日は牧師会のためにフィラデルフィアへ。


でも、明後日からの日本行きの準備・・・やばいかもねえ。
パスポートとグリーンカードと・・・あと何だ?

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