2010-05-24

主の御手の中にあること。

昨夜はそれほど疲れを覚えていなかったのですが、
9時には睡魔に襲われて、そのまま寝てしまいました。
それで、今朝は3時起き。
すっかり朝モードです。


昨日の礼拝。特に「わたしは救われるためにはどうすればいいんですか?」という、ペンテコステの日に3000人の人々がしたようなレスポンスはいただいておりませんが、
でも、すべては主の御手の中にあることを思わされて、
平安の中にあります。
そう、昨日のメッセージの最初にも語らせていただきましたが、
聖霊様は自由な方。自由にお一人ひとりに触れて下さいますから。


もう十数年前のことですが、
アメリカから日本に一時帰国をしたときに、
一人の方をご訪問しました。


その方は、私達が日本で、大きな教会の副牧師をしていた頃、
私達の住んでいたところの近くで始まった小さな集会に集い始めいてた方でした。
お子さんをめぐる一つのトラブルのことで、心に痛みを覚えておられました。


その時に、いろいろお話をお伺いして、聖書を開いて、お祈りをしました。
帰り道、なんだか、心が通じきらない、もどかしさ、
聖書の言葉が届いているのか、どうか、わからない思いをもって、
電車に乗って帰りました。


でも、それから2週間後くらいでしょうか、
お便りをいただきました。
その日の夜に、祈りの中で、主が語ってくださったそうです。
そして、その方は、ご主人の仕事で、まもなくNYのLong Islandに引越され、
NJに引っ越してきた私達と、そのころ、Yaohanといっていた今のMitsuwaで再会。


そして、その後、現地の英語の教会で洗礼を受けられました。
今はCAで信仰生活を送っておられます。


だから、本当に人の心に触れてくださるのは主なのです。
それを信頼して歩んでいこうと思います。


さて、昨日までの「ひびみこ」から。
22日に読んだところですが、


「わたしはエラムの力の源であるその弓を砕く」49章36節。

またまた何度も出てくるテーマですが、
人々は神ではないものを「力の源」にしていました。
この場合は軍事力でしょうか。
それを主は砕かれる。

本当の力の源はどこにあるのか、それを教えるために。

わたしは、教会の牧師として何を頼りにしてきたんだろうかと思います。

正直なところ、ここでも何度も書いていると思いますが、
やはり人を頼りにしてしまうんだろうと思います。
マンパワー。

大学で社会学を学んでいる中で、
その重要性を何度も感じた、マンパワー。

牧師として奉仕をしている中でも、
最初に副牧師として任命を受けた、200人の方々が集う教会でも、
また今奉仕をしているNJの教会でも、
やはりマンパワーの大切さを感じさせられてきました。

そう、特に信仰的に筋の通った人々のマンパワー。

でも、結局のところ、どこまで行っても、
自分自身の最終的な力の源は主ご自身で、
自分自身が主によって力をいただいていかないといけない、
ということをあまり学ばないできのだと思います。

最近読んだある牧師さんの体験記も、
そのことを書いていました。
「一緒にやろう」という同労者が与えられて、張り切って新しい教会を始めたけれども、
ある時、彼が「やっぱりやめる」と言い出した。

その時に、自分はいつの間にか、
この同労者がいる、ということを頼りにしてしまったのではないだろうか、と書いておられました。そして、そこから、神様を頼りにして、神様だけを頼りにして再出発をされたと。

主が与えられた同労者に感謝しつつ、
しかし、主にこそ、力の源があることを、
いつもいつも大切にしつつ、歩みたいと思います。

主よ、
たくさんの信仰の友、
支えて下さる方々、
教会の同志としてのメンバーたち。
感謝します。
しかし、究極的な力の源があなたであること、
あなたご自身を頼りにして歩んでいくこと、
同労者たちも、互いを頼りにしてもたれ合うのではなくて、
共にあなたを頼り、共にあなたを見上げる仲間であることを、
忘れることがありませんように。


今日のひとりひとりの歩みを守って下さい。


わたしの月曜日も守って下さい。


明るくなってきました。目覚ましも鳴りました。
教会に行って祈ってきます。


今日はどんより、蒸し暑い一日となりそうです。

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