2010-03-23

寒くなるかなあ。

今日は雨もだいたいあがりましたが、
どんよりとしていて、肌寒い一日でした。


明日は晴れそうです。


でも、やっぱり先週の暖かさを経験した身には
ちょっと寒く感じそうです。


そして、JOYJOYイースターまであと4日ですが、
もうだいたい決まりましたね。


天気は大丈夫。
でも、一度25度を経験した身には
「めちゃくちゃ寒い」日になりそうです。


みんな暖かい格好でJOYJOYイースターに集合です!!


久しぶりのPurpose Driven Life。
21日目は「教会を守る」ということ。


ここも弱いですよね。


教会がMarket Placeと化している現代、
多くの人々が教会から教会へと渡り歩きます。
(もちろん、悩み抜いて祈り抜いて、どうしてもそのような決断に至ることもあるでしょう。)


集う人々は消費者になってしまう危険もあります。
教会を建て上げる者ではなく、
礼拝スタイルを評価し、メッセージを評価する者になってしまいます。
主の前にひれ伏す礼拝ではなくて、満足させてくれる礼拝になります。


そんなところで、
ちょっと人間的な問題が出てきたとき、ひとたまりもありません。


牧師の立場で、ここを強調すると誤解されるかもしれませんが、
本当に大切なことだと思うので、あえて書きます。


「あなたの牧師や指導者たちを支えること」
牧師も誰も同じ・・・ということが言われることも多いです。もちろん、同じ部分も多いでしょう。でも、主が与えられた使命と賜物はやはりあると思います。自分自身、甘えの気持ちで「みんな同じ」という気持ちがあったと思います。でも、主のCallingに本当に忠実であることが大切だと思わされます。


「教会の一致を守るというあなたの責任を真剣に受けとめてほしいのです。そのために全力を注いでください」


「私たちが教会の中に置かれている一つの理由は、私たちが自己中心とは逆のことを学ぶためなのです。共同体において私たちは『私』ではなく、『私たち』を、そして、『私の』ではなく、『私たちの』と言うことを学んでいきます。」


さて、昨日、3月22日の聖書。
マタイ25:31-46。


「わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え・・・」35-36節。

先日、「与えられた時間の十分の一を主に捧げる」ということを話された方がいて、
自分はどうだろうかと思わされていました。
牧師は「全部捧げているよ」と思っているかもしれません。
でも、そういう意味だったら、どんな仕事でも主への献身なんですよね。
だから、起きているときも寝ているときも、みんな主のための時間。
だから、本来クリスチャンはみんな十分の十、全部主に捧げている。
人生全体を主に捧げている。

でも、その象徴として、特別に取り分けて捧げ物をするのが十分の一ですよね。
そこには痛みがあるし、戦いもある。でも、もっと深いところにあるのは、感謝だし、喜び。

ある人は聖書を読んで祈る時間が2時間24分という方もおられます。
神様とだけ時間を過ごす。
まあ、そういう考えもあるでしょう。

でも、この聖書の箇所を読んだとき、「これかも・・・」と思わされました。
「これらの最も小さき者の一人にしたのは私にしたのである」と言われたイエスの言葉。

仕える者とならせていただきたいです。

空腹な者に食べさせ、
渇いた者に飲ませ、
旅人に宿を貸し、
裸の者に着せ、
病気の者を見舞い、
投獄されている者を訪ねる。

具体的な一歩・・・何だろう?

主よ、
あなたが私に与えてくださっている時間、
これはすべてあなたの時間です。
どうか、私のなすべきことを教えてください。
最後の投獄されている者を訪ねる、という言葉が心にとまっています。
どうか、主よ、あなたが出会いと導きを与えてください。

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