2009-08-27

15年ぶり。・・・23日(日)

昨日はシャナンドゥー・バレーで泊まりました。
今までの自分たちだと、遅くなってもいいから・・・
と一気にNJ走ってきたのですが、
今回は、「もう休もうか・・・」となってしまいました。
そして、お約束の、一人で朝早く目が覚める・・・と言うパターン。
そこで、久しぶりの本格的な更新。


今日は晴れるみたいですが、
東海上のダニー君の動きがどうなるか、気になるところ。
その動きによっては、明日~あさっては晴れるか、
はたまた強風を伴った冷たい雨になるか、
それとも熱帯性のなま暖かい、にわか雨になるか・・・。
要注目です。


さて、日曜日は15年ぶりにアトランタの郊外、
ノークロス教会の礼拝に出席しました。
牧師は新しい方になっていたのですが、
その日はたまたま、私が行っていたときの宣教師の先生。
15年ぶりにその先生を通して主が語ってくださるメッセージをお伺いしました。


「聖霊の賜物と聖霊の実」の話でした。
先生自身が若い頃にある方に受けた質問がきっかけでした。
「わたしの教会の牧師はすばらしいメッセージをする方でした。
でも、ある時、礼拝に2人の警官が来られました。
私たちは、てっきり、この二人の警官も、私たちの教会の牧師のすばらしいメッセージを聞こうと思ってきたのだと思っていました。実際、その日のメッセージもすばらしいメッセージでした。でも、彼らは牧師のメッセージが終わった後、彼を逮捕して連行して行きました。
彼は自分が犯罪を犯していたことを知っていました。
そして自分が逮捕されることを知っていました。
そんな中で、彼はすばらしいメッセージを語っていました。
どうしてですか?
どうしてそんなことが可能のなのでしょうか?」


その時には、うまく答えられなかった。


でも、今は聖書から、またいろんな経験から、お答えすることができる、と次のようなメッセージをされました。


聖書には「聖霊の賜物」というものと「聖霊の実」という
聖霊様がくださる2種類のものが出てきます。


誰かが、私にプレゼントをしてくれたとします。
たとえば、「ベンツ」。
私がプレゼントしてもらったベンツを運転していたとしても、
そのベンツは私について何も説明出来ません。
私がどんな人間であるかということとは何の関係もありません。
そのベンツには価値があります。
そして、ベンツをくれた友人がどれくらい豊かな人かということもわかります。
そして、その友人がどれくらい私のことを大切に思ってくれているか、もわかります。
でも、私がどういう人間であるかということとは何の関係もないのです。


それが御霊の賜物といわれる、神様からのギフト、
すばらしいメッセージをするとか、
その人が手を置いたら、祈ったら癒されるとかという癒しの賜物とか、
そのようなものの性格です。


しかし、「実」は違います。
「実」は「木」がどんな「木」であるかを表すのです。
「木」だけを見ただけでは、どんな木かわからなくても、
「実」を見たときに、木がどんな木かわかります。
ぶどうの実がなっているときに、「ああ、この木はぶどうの木だ」と。


聖霊の実はそのようなものです。
愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制
そのような実を結ぶことを求めるべきです。


そのような内容のメッセージでした。


先ほどの牧師はすばらしい賜物が与えられていた、
でも、聖霊の実についてはあまりにも無頓着だった。


本当に私のために主が準備してくださったメッセージだと思わされました。


さて、8月19日(水)の聖書。
第2コリント11:1-15。


「私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」2節。

ああ、このパウロの情熱。
このパウロの熱心さ。
どんな非難の中でも、「知るか!勝手にしろ!」を思わないで、
彼らを愛し、彼らをキリストの花嫁として整えるために、
熱心に力を尽くした。
議論をも恐れず、大胆に悔い改めを迫った。
そして、愛をもって彼らに尽くした。

その情熱を私も持たせて頂きたい。
その同じ情熱をもって人々に仕える者でありたい。

日曜日の礼拝の中で読まれた聖書、ヨハネの10章の「羊が自分のものでない雇い人は、狼がくるのを見ると羊を捨てて逃げ去る」という言葉を思い出させられました。

主よ、
わたしの愛を増してください。
もっともっと人を愛する者とならせてください。
もっともっと熱く人に仕える者とならせてください。
逃げ出さない愛を与えてください。

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