2007-01-24

言葉と行動

今は夜の11時前。
9時過ぎにNYから無事帰還しました。
今日2回目の更新です。
これで「一日一章」が追いつきます。

気温は0.8度「も」あります。
「も」というのは、
明日あさってはここまで上がることはないだろうからです。

今北の方からどんどん冷たい空気が南に降りてきているみたいで、
今夜から明日にかけてにわか雪が降るみたいです。
軒並み60パーセントの雪の確率が出てきています。
うっすら雪化粧するかもしれません。

で、何日か前に「ああ、消えたー」と落ち込んだのは、
どんなことを書いていたかというと、
「証し」の1章として、
「牧師の家庭に生まれたこと」でした。

「牧師の家庭」に生まれるということは、
日本ではほんとうに特別なことだと思います。
100人に1人のクリスチャンで、
そのうちの牧師のうちなんて。

だから「恵まれている」ことは確かです。

もしも、自分が牧師の家に生まれていなかったらクリスチャンになっていたか?
どうだっただろうか、と思います。
だから、私にとって、そこに生まれたことはとても良かったことなのです。
それなしに今の自分はあり得ません。

でも・・・

まさにそれがゆえにある「痛み」もあると思います。
少なくとも私の場合は。
勘違いしないでください。
別に何か特別なことがあったわけではありません。
やはり恵まれているんだと思います。

でも
「恵まれているんだよ」と言われれば言われるほど、
行き場がなくなってしまうのです。
自分でも自分にそういい聞かせます。
そして、自ら行き場をつぶしていくのです。

何か、「何があったんだろう?」と疑心暗鬼になる方がおられると困るので、
「何も特別なことはなかったんだよ」という意味で、ちょっと書きますと・・・。

何でしょうか、自分で自分にプレッシャーをかけていたのでしょうか、
「牧師の息子だからこうしなければいけない」という気持ちはいつもありました。
学校の友達にも「教会の子供がそんなことをしていいのか?」みたいな、言われ方もしましたしね。

教会も楽しかったです。別に嫌なことがあったわけではないです。
でも、自分たちの休みの日である日曜日は親は一番忙しい日。
自分たちの親ではなくなり、教会のみなさんのものになる日。
祝日も何かいろいろ教会行事が入ったものです。

小学校1年生の時に、
『開校記念日』で、日曜日でも祝日でも何でもない日が休みになったとき、
5月13日。絶対に忘れません。
父が潮干狩りに連れて行ってくれました。
それから、ずっと「また潮干狩りに行きたい」と37年間思い続けています。

というくらいなんです。

だから、特別に何かがあったわけではないのです。

書きながら、「自分の『痛み』ってそんなもんかい、やっぱりホントに恵まれているよなあ」と、また思いました。

うーん、まだ自分の中でどう受け取っていいのか分らないのかもしれません。
これは自分の人生の宿題ですね。

で、今日の聖書。
今日はテトスへの手紙に入って、1章。

「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。」
16節

どきっとする言葉ですよね。
「言ってることとやってることが違うじゃないですか!」
なんて言葉を聞いたりします。

他人事とは思えない感じがしました。
自分はどんな生き方をしているだろうかと。

もう一つの聖書の言葉を思い出しました。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」ヤコブの手紙1章22-24節

神様を神様とする歩み。
それが信仰のキモなんでしょう。

自分を神様にするのではなくて、
神様を神様とする。

明日は今月最後のJOYJOYキッズクラブです。
神様のすばらしさが示されますように。

主よ、
どうか、御言葉を聞くだけ、語るだけのものではなく、
そこに生きる者としてください。
自分を神とするのではなく、
あなたを神として従っていくことができますように。

明日のキッズクラブも祝福して、
たくさんの子ども達との出会いが与えられますように。

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