2006-09-21

いのちのパン

大阪は金曜日の朝です。

今日は昨日よりもワンランク涼しくなって過ごしやすい日になりそうです。

今年は関西に今までで最長の4泊。
なにを隠そう、大阪生まれで4歳までこちらにいた自分、楽しく過ごしています。

エスカレーターに乗る時に、
「立つ」人は右側、
「歩く」人は左側、
というのもずいぶん慣れました。

東京は逆ですよね。
ついつい左側に立ってしまって、
周りの邪魔になっていることもあります。

時間帯によるのかもしれませんが、
東京よりもエスカレーターで歩く人が少なく感じます。

「関西の人の方がガンガン歩く」と思っておりましたが、
意外とそうでもないですね。
まあ元々「江戸っ子」はせっかちでしたから、東京の方がセカセカしているのでしょうか?

あと、高校の修学旅行の時の経験から、
「関西の人は電車に乗る時に、降りる人を待たない」
というイメージができあがっていたのですが、
どうしてどうして、そんなことはありません。
「△印1?8番のところで2列になってお待ち下さい」とアナウンスが入って、
みんなそこで待っています。
まあ、電車がホームに入ってくると微妙にその列が乱れるのは否定できませんが・・・。(^_^)
そして、みんなが降りるのを待ってから乗ります。
25年くらい前の記憶でイメージを作り上げてしまっていた自分に反省。

水曜日の聖書。
あと一歩で追いつくのですが・・・。

水曜日はヨハネによる福音書6章でした。
イエスが5000人の人々を5つのパンと2つの魚で養われたところです。

その後にイエスは「私はいのちのパンである」と言われました。

そしてこう言われました。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」
54節の言葉です。

その言葉でつまずいた人々がたくさんいた、と書かれていますが、
まあ、確かにそうだろうなあ、と思います。

この言葉の意味を知らされている私たちは恵まれていると思います。

イエスの十字架の意味を知り、それを信じて、
それを自分の生きる糧として歩んでいる者は、
永遠のいのちを持っている、ということです。

聖餐式でもイエスのみからだであるパンを食べ、イエスの血潮であるぶどうジュースを頂きます。

でも、それだけではなくて、
その十字架の恵みを自分のものとして、
自分に与えられたものとして、
歩んでいくことの大切さを思わされます。
それを自分のうちで消化して、
それによって生きていく。感謝して生きていく。
その力であると思います。

何かをやりとげた達成感や、
目的意識よりも、
イエスの十字架の愛の大きさに感動して、歩んでいく、
それがイエスの肉を食べ、血を飲む、ということの意味です。

自分はどうだろうかと思いました。
やはりどこかで「達成感」で生きていたり、
「使命感」で生きていないだろうかと。

もちろん、それらも主が与えて下さることだろうけれども、
何よりも愛されている喜びに生かされていきたいと思います。

主よ、
あなたに愛されている恵みを感謝します。
イエスさまの十字架の恵みを感謝します。
何よりもそれを生きる糧に歩んでいくことができますように。

今日の一日の一つ一つの出会いを祝福して下さい。


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