2013-08-05

違和感。

今日はきれいな青空でした。
さわやかな一日でした。
気温も27度くらいで、湿度が30パーセントくらい。
もう何も文句の言えない一日。

夜になって冷えて来ています。
今は夜の11時で18度。
朝には13度くらいになっているでしょう。

明日からちょっと天気が不安定になりそうで、
金曜日くらいまで、毎日にわか雨の予報が出ています。

前回、金曜日の夜というか土曜日の未明というかに書いた「ホロコースト記念館」についての記事ですが、これは本当に恐ろしいことで、忘れてはいけない、目を背けてはいけない、と思うのですが、日本人としては、それと共に、ヒロシマはどうなの?ナガサキはどうなの?という気持ちはやはりふつふつ、と湧いてきます。




もちろん、ここはアメリカですからね、多大な期待はしていないですが、どう考えているんだろうなあと思います。「日本の本土決戦で、特攻隊のようなことを考える日本の精神風土を考えると、アメリカ兵にとっても、日本の人々にとっても、あの原爆は、早く戦争を終わらせて、戦死者を最小限に止めるために必要だったのだ」という議論は子供のころから、アメリカ人の人たちには何度も聞かされてきました。立派なクリスチャンの人たちからも。

そうだったのかもしれませんし、私が日本人ではなかったら、同じ説明を聞いて、「まあそうだよね」と思っていたと思います。でも、一般市民が10万人以上一瞬のうちに、犠牲になったのです。たくさんの人々が何も知らないで死んでいったのです。日本で育って、子供のころからそのような体験談を何回も聞いて、原爆資料館に行って、やっぱりやられた方がよく覚えているっていうこともあるんでしょうが、なんでここまでしなければならなかったの?と思います。ナチスによる何百万人のユダヤ人虐殺と同じ次元ではないでしょう。でも、根底にあるのは同じものじゃないかと思います。想像力の欠如というか、「自分の家族だったら、自分だったらどうよ?」ということを考えられないんでしょうかね。

戦争なんだから、本当に悲惨なことはあります。多分、誰も責められない。
でも、人間の愚かさ、罪深さを思わされます。

そして、それを見る目があまりにも互いに自分中心的な視点に立っていて、他の視点をなかなか認めることができない、そんな互いの弱さ、愚かさを感じさせられます。

日本でも、原爆の悲惨さは声高に叫び、
その一方で、日本が周りの国に対して来たことには、「ねつ造だ」とろくに根拠も上げないで、論じる人々が多いことには、ちょっと最近「うんざり」です。


本当に互いに謙虚になることの大切さを思わされます。

ヒロシマに原爆が投下されてから68年。
もう二度とそれが使われることがないようにと祈ります。

さて、7/10の「日々のみことば」。使徒行伝21章。

[幾日か滞在している間に、アガボという預言者がユダヤから下ってきた。そして、わたしたちのところにきて、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った、「聖霊がこうお告げになっている、『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すであろう』」] 10-11節。

パウロがエルサレムに行くことは神様の導きだった。
でも、預言者たちは、パウロが苦しむことを預言している。
そんな預言にも動じない、まっすぐに歩んでいくパウロの姿出てくる。

パウロが苦しむという預言は、
そのまま、これから起こること、なんだろうと思う。
でも、それに対して、逃げるのか、向かっていくのか、
それはパウロに任されていたのだろう。

どんなことが起こるか、わかっている、知っている。
それが大切なことではないのだろうと思う。
結局はわかっていてもわかってなくても、
どう生きるか、それが大切なんだろうと思う。

占いだろうか、預言だろうが、
将来起こることを知りたい、という不思議な願いが私たちにはあるようだ。

でも、結局のところ、明日、私にどんなことが起こるか、
それがわかることがそんなに大切なことではないと思う。

主イエスが「わたしについて来たいと思うならば、自分を捨て自分の十字架を負うて私に従って来なさい。」と言われたこと、そのことに忠実に歩んでいく者となりたい。

主よ、
あなたに従います。
あなたの導きに従います。
イエスさまの「自分を捨て自分の十字架を負うて私に従って来なさい」という言葉にそのまま従う者とならせてください。


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