2011-06-23

いつ、その日が来たとしても。

蒸し暑い一日でした。
そして、激しいにわか雨。雷。
北の方を雷雲が直撃したようで、
大変な洪水も起こったようです。


今、レーダーを見たら、
今夜もう一ラウンド雷雨がありそうですね。


明日ももう一日蒸し暑い日が続きそうです。


ちょうど、その雷雨の時間帯にぶつかってしまったのですが、
今日はサキの小学校の卒業の日でした。
町によって小学校と中学校の切れ目が違うのですが、
ウチの町は4年生まで。
親が学校に迎えにいって、
先生に挨拶をして、ちょっと記念撮影をして・・・
というプログラムがありました。


外だったらよかったのですが、雨で体育館の中で。


まあ、中学校や高校を卒業する時のような、
また日本の小学校を卒業する時のような、
感無量な・・・ということはないですし、
先日のコンサートでスライドショーを見て、そのような感覚は味わったので、
妙にさめている娘の態度も手伝って、
ちょっと写真を撮って、先生に挨拶をして・・・、というひとときでした。


でも、ここまで守り導いてくださった神様に心から感謝。


さて、先週読んでいた第2テサロニケから。


「働きたくない者は、食べるな」3章10節。

文語体では「働かざる者、食うべからず」という言葉で、たぶん、「日本人で聖書を読んだことのない人が一番良く知っている聖書のことば」ナンバーワンだと思われる言葉です。

でも、その文脈は、世の終わり、イエスがもう一度来られる再臨の信仰に関しての話です。

当時、テサロニケには「もうすぐイエスが来られるから・・・」と仕事を辞め、財産も処分して、ただ、イエスの再臨を待っていた人たちがいました。そんな彼らに対して、「それは違う」とパウロは言ったのでした。

いつ来られても大丈夫なように準備しなさい。そして、落ち着いた生活をしなさい。と言ったのです。

1ヶ月ほど前ですね。
NYの地下鉄でポスターを見てびっくりしたのですが、
一人のラジオで活動しているキリスト教の伝道者が「○月○日、大地震が起こって、イエスが来られる。世の終わりが始まる」と宣伝している、というのです。

まあ、こういう話は歴史の中で何度も繰り返してきているので、
そのことに触れることすらいやだと思うほどの嫌悪感を持ったのですが、
とんでもない話です。

イエスははっきりと、その日はわからないと、
自分自身も知らない、ただ、天の父だけが知っていると。
そう言われました。

これは大問題です。
三位一体の神の中で、
父なる神だけが知っていて、
子なる神であるイエスが知らないことがあっていいのだろうか、と思います。

でも、それがある、それは世の終わりがいつかということだ、と聖書は語っているのです。

それほどのことなのに、いろいろ根拠薄弱というか、まあ、噴飯ものの計算をして、
「○年○月○日に世の終わりが来る」なんて、あんたは何様かと思うのです。

でも、そのとき、確かそのしょうもない預言が、5月21日だったと思うのですが、
「5月22日は確実にやってきます。5月22日日曜日、教会で会いましょう」と言っている牧師がいました。それはまたびっくりです。
だって、イエスは「わからない」「誰も知らない」と言われたのに、どうして、「5月22日が来る」「5月21日にはこの世は終わらない」なんて、断言できたのでしょうか?

個人的な人生でもそうです。
そして、大きなこの世の歴史でもそうです。
明日終わりが来るかもしれない。来ないかもしれない。
20年後かもしれない、50年後かもしれない。
いつ、その日が来ても喜んでイエスを迎えることができるように、
目を覚ましているように、テサロニケの教会への2つの手紙を通して、
パウロが、そして、パウロを通して神様が私たちに語っていることなのだと思います。

主よ、
その日がいつ来たとしても、
慌てないで、受け入れることができますように。
明日でも、20年後でも、備えていることができますように。
そして、生かされる日々、あなたの喜ばれるように生きることができますように。

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