2007-02-15

聖なる者となる

今日はまた寒い一日でした。
朝は-10度。
昼間の最高気温は-5度。
そして夜の10時でまたまた-9度。

これで氷点下daysは連続3日目です。
シカゴとかは連続19日にもなっているようですが・・・。

明日も寒い一日でしょう。
もう一日は確実に氷点下です。

でも、この寒波ももう出口が見えてきているみたいで、
あと一週間ほどで10度くらいまで上がる日も出てくるようです。
春はもうすぐです。

「証し」の第12章。

私は4人兄弟ですが、
それぞれ個性的ではあります。
その中で、兄貴はさすが長男!というところがあります。

その兄貴、名前は「氷小豆」(仮名)と申しますが、
子供の時から「ボクは牧師になるんだ!」と言っておりました。
そして、何においても一生懸命。
そして、積極的でした。
そしてまとめる力もありました。
うらやましいヤツでした。
というか、次男のかきごおりはそのように思っていました。

いつも兄貴のようになりたい。
いつも兄貴はいいなあ、と思っていました。
算数では負けない自信がありましたが、
リーダーシップや信仰ではかなわないと思っていました。
一生懸命友達を教会に誘ってきたり、
友達に神様の話をしたり、
「子供週報」とかを小学校5年生くらいから作って、
マンガとか書いて、配っちゃう氷小豆君にはかなわないと思っていました。

私の教会では、というか、私の中ではいつの間にか「氷小豆神話」が生まれていました。
「氷小豆はすごい」「氷小豆君はいかにも牧師になったらいい、という感じだよね」
そんな声が聞こえてきました。
それは、「うらやましい」と思うと共に「自分にはできない」という劣等感を持っている次男かきごおりには、「氷小豆君はいいけど、かきごおり君はねえ」という声に聞こえてきてしまうんですね。

ですから、第11章の「君は牧師には向いていない、止めた方がいいよ」というKGKの主事の言葉はいつもいつも自分の心の中にあった声でもあったのです。

「だよね・・・。やっぱ、向いていないよね。兄貴みたいに伝道もできないし、リーダーシップもない。クリエイティブなこともできない、話も下手。赤面症、恥ずかしがり屋・・・、向いてないよねえ」

それから悩みました。

そんな中で参加したのが、またまた「大島泉の家」のキャンプ。

集会の後で祈っていました。

「神様、どうしたらいいんでしょうか?私はあなたが召して下さったと思って牧師になろうと思いました。でも、客観的に見たら向いていないんです。兄貴のようにはできません。でも、止めてもいいんですか?止めた方がいいんですか?・・・」

しばらく祈っている中で、聖書の言葉が心に響いてきました。

「私の力はあなたの弱いところに完全にあらわれる」第2コリント12章9節の言葉です。

「ああ、神様の力だ、イエスの力だ、その力が私の『向いていない』ところに完全にあらわれるのだ。だったらいいじゃないか、だったら、神様の力を見せて頂こう。完全な力を見せて頂こう」そう思いました。迷いは完全に吹っ切れました。人の言葉も怖くなくなりました。ホントは人の言葉ではなくて、自分の劣等感だったのだと思います。でも、それでもいい、自分の弱さは自分が一番知っている。その弱さに神様の力を表して頂こう、と思いました。

そして、今、はっきりと申上げられることは、この聖書の言葉は、単に劣等感に捕らえられている人を励ますための言葉ではなく、事実なのだ、ということです。ほんとうに主は私の弱いところにご自分の力を表して下さってきた、ということです。私の弱い、不十分なところ、よくわかっていないところ、未熟なところにその力を表し続けて下さったのだということを思います。そして、これからも、この方は私を用いて下さるのだ、ということを信頼して言うことができます。

さて、今日の聖書。
今日はペテロ第1の手紙に進んでその第1章です。
「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」15節の言葉が心に留りました。

「聖なる者」
何か仙人のようになってしまうような感じがします。
世離れしてしまうような気がします。
それは誤解だろうという気持ちもあります。
でも、誤解ではなくてもいいのかもしれません。

「聖なる者」となりたいと単純に思いました。
聖書に書いてあるんだから。

「聖書にはそう書いてあるけど・・・」という生き方もあります。
でも、私は「聖書にはそう書いてあるから・・・」と生きたいと思いました。
そのように書いてあるんだから、神様に「聖なる者」とされたい、と思いました。

「聖」とは「他のものと区別された、特別な」という意味があると言われます。
神様に焦点を合わせた、
神様のみこころに焦点を合わせた、
神様の言葉に焦点を合わせた歩みをしたいと思います。

昨日の佐藤彰先生の言葉のように、
その背後に神様が見えてくるような、そのような者となりたいと思います。
神様がこの人と共におられる、ということがクリスチャン以外の方にも見えるような、
土の器である私の中にあるキリストという宝が輝き出るような者でありたいと思います。

主よ、
私をきよくしてください。
私を聖なる者として下さい。
あなたのことを指し示す、
あなたのすばらしさを表す者とならせてください。



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