夕方、スティーブ・ジョブズ氏が亡くなったというニュースが流れて、
FacebookもTwitterもその話題一色になった。
世界中のブロガーたちも追悼の文章を書いていることだろう。
自分もいろんなことを考えさせられていた。
今日の午前中は、ちょっと久しぶりに、のんちが被災地でのボランティアの経験の報告をする予定があったので、昨日の夜遅くまで、それを準備したり、いろんなことを思い出していた。
なので、おなじ一人の人の死でありながら、
ここまで世界中の人が悲しみ悼む死ってなんだろう、
ということも考えさせられていた。
でも、自分自身も惹き付けられていた。
ま、84年にマックが世に登場した時には、
それともまだ無縁の世界に行きていて、
日本で「ワープロ」とか一家に一台あればいい?
って感じの時だったので、何も知らなかった。
もちろんApple II とかは今見ても「これ何?」だ。
初めてアップル社の製品を手に入れたのは1992年だから、
スティーブはアップル社にはいない時代だ。
その後、進んだ大学は「マックなんて小学生じゃないんだから・・・。PCじゃないと論文書けないだろう!」という偏見の固まりのようなところだったし、その後のマックのマイナー化の波に乗り、ウィンドウズマシンを遍歴して来た。
そしてその次に手にするのは2008年まで下る。
だから、TwitterやFacebookで思い出を語る人々とは
ちょっと思い入れが違うことは確かだ。
でも、自分自身も彼には惹き付けられていた。
特にあの有名なスタンフォード大学でのスピーチは時々思い出しては聞いている。
その中の「もし今日が自分の人生の最後の日だとしたら、今日やろうとしていることを私は本当にやりたいだろうか?」という問いかけを、時々、自分に対して投げかけている。もちろん、クリスチャンである私にとってはそこに、「そして、それが神が私に対して求めておられることだろうか?」という問いかけも含まれるわけだが・・・。
だから、自分にとっては、彼の死は、「自分は生きているだろうか?」というチャレンジを与える。
それは、日本の震災の中で亡くなった方々や、またそこから立ち上がろうとしている方々から問いかけられていることでもあると思わされる。もちろん、神様からも。
「オマエは生かされて、そこに置かれている。オマエは『生きている』か?」と。
ジョブズの演説いいですねえ
ReplyDeleteジーンと来ます。
知りませんでした。
昔からアップル大好きだったんですけど。
Anonymousさん、
ReplyDeleteコメントありがとうございます。
また何日かたって、
この演説の聴衆がどんな人たちだったか、
そして、スティーブ自身がどんな生い立ちをしたか、
そんなことを考えながら、
この演説について思いめぐらしています。
自分の心からわき上がる思いと、人々の期待(特に親からの・・・)と間で揺れ動く中で、「自分が本当にしたいことは、すべきことは何だろう?」を問い続けて、「本当は私はこれをしたいし、これをすべきなのだ」というところに立った人が、エリート大学を卒業して、世に出て行こうとしている若者たちへの最高のメッセージだったのではないだろうか、そんなことも感じていました。
そして、世の中年男性たちにとってはまさに「俺の人生これでよかったのか?」を問いかけ始める、ちょっとある意味危険な(?)スピーチでもありますね。回りの人たちとってはとっても迷惑な決断をする人もいるのでは・・・(笑)