2011-08-07

傲慢さとコンプレックスの狭間で。

最近、蒸し暑い日が続いています。
特に夜が暑くて、しんどいです。
明日も暑くなりそうです。
今週、だんだん過ごしやすい気温になっていくようです。
ちょっと期待しています。


今日はニュージャージー日本語キリスト教会の牧師としての6期目の任命式。
教会の皆さんと互いに支え合って行くことを誓い合い、
祈っていただきました。


この新しい歩みが神様によって祝福される約束をいただいて、
感謝しています。
神様がしてくださることを心から期待して。


明後日火曜日からはJOY JOY Camp。
今年は52名の子供たちがやってきます。
中高生スタッフも与えられて、
日本からの助っ人も与えられて、
会場の設営も無事終了して、
明日もう一日細かい準備をして、
今年も思いっきり楽しく、思いっきり熱く、
神様の愛を伝えさせていただきたいです。


会場の様子は子供たちに情報が漏れるとまずいので、秘密です。
あさって、アップしますね。


さて、最近の聖書から。
土曜日は列王記第二の19:20-37を読みました。


「あなたはだれをそしり、ののしったのか、だれに向かって声を上げ、高慢な目を上げたのか。」22節。

人は必ず傲慢という罠にはまる・・・これは昨日の「日々のみことば」の中の一説です。
昨日は、朝の時間、ずっと「傲慢」という言葉について思いめぐらさせられました。

私は「傲慢」という言葉には敏感な方だったと思います。
子供の頃から、それは一番いけないことだと思っていました。
こう言うことをこんなところに書くこと自体が「傲慢」っぽくて嫌なのですが、
でも、オブラートに包んでも・・・と思うので書きますが、
いわゆる「お勉強」や「点数を取ること」は子供の頃からできる方でした。
というか、はい、できました。

中学の時は最初の中間テストで学年1位を取って、ほめられるかと思ったのですが、
その時に親から「いい気になるなよ、これを続けることが大切だ」と言われて、
「これでもほめられないのか!くそ!だったら、見てろ、やってやろうじゃないか」と、
その言葉通り、1回だけはダメだった時があったのですが、
その他は、3年間ずっと学年1位を守ってきました。
ま、結局それでほめられたかと言うとそうじゃないわけですが・・・。

でも、その一方で、そんなのが何の役にも立たないと思っていました。
これも人に言われてきたことですが、
「どんなに点数が取れても、xxxじゃあダメだ」
そのxxxには「スポーツもできなければ」だったり、
「実際の生活の中で使わなければ」
「創造性がないと」
「もっとハキハキしないと」だったりするわけです。
そういうことを言うのはだいたい学校の先生だったわけで。

だから、「自分って、世の中では役に立たないヤツなんだ」と思っていました。
「傲慢になってはいけない」という、自分にとっては他の何よりも大切な「信仰」の世界からのメッセージは、回りの大人のメッセージと一緒になって、自分を自分が神様から与えられているものに目を向けるのではなくて、「自分はダメだ」と思うことによって正しい生き方ができるのだという考えを自分の中に形作ってきたと思います。

この年になって、自分でしっかりと聖書を読むようになって、
その「傲慢」と「謙遜」の問題について、自分が持っていた先入観がどれほど歪んでいたものであったか、目が開かれてきました。

今日も礼拝でお話ししたのですが、
たとえ私の手の中にあるものが5つのパンと2匹の魚だったとしても、それについて誰かが「これが何の役に立つでしょう」と言ったとしても、主の許に持って行く時に、主はそれを祝福して、喜んで大きく用いてくださる、それが聖書のメッセージです。
自分の持っている物を、「こんなのはしょうがない」とか、「私なんか・・・」と謙遜ぶることは決して、神様の喜ばれることではないことがわかってきたのです。

大体、才能も神様が与えてくださったもの、
それを自分で得たものであるかのような、態度を取ることが傲慢なのであって、
その才能自体を否定するのは、謙遜でも何でもなくて、神様のくださったプレゼントを「こんなもの」とおろそかにすることに他ならないのです。

そんなことを考えながら、自分に神様が与えてくださった才能は何だろうか、と考えた時に、それは「物事をおおざっぱに、大きく、捕らえて、理解して、全体的なメッセージをまとめて語ること」だと思わされています。「木を見て森を見ず」ということとは無縁で、おおざっぱすぎる批判を受けることはあるだろうなあと思わされます。でも、そのおおざっぱさが自分の強さだと思わされています。主がそれを与えてくださったのですから、それを本当に用いていただきたいと思わされます。

謙遜、それは「私には何もありません」と謙遜ぶったり、またはホントに自己卑下をしたり、神様から与えられているものをディスカウントすることではなくて、神様の与えてくださったものを感謝して受け取り、主のために、人のために用いていただくこと、そういうことんだろうと思わされます。

主よ、
あなたが与えてくださった才能に感謝します。
この与えられたものを、あなたの御用に用いるものとならせてください。
何もないのではない、あなたが与えてくださったものを感謝して、あなたの元に持って行く者でありますように。

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