2010-09-03

存在を喜ばれる主。

今日も暑かったです。
気温以上に湿度の高さがしんどかったですね。
ハリケーンの影響は全くなく、晴れていた空が曇ってきたなあ、という程度。


夜11時になってもまだまだ湿度が高く、
蒸し暑く感じます。外の気温は23.9度。
でも、この後、寒冷前線が通過して、
明日からはカラッと晴れそうです。


そして、明日からは北東部、ワシントンからボストンまでの日本語教会が集まって、2年に一度持たれる合同ファミリーキャンプ。私は今年も子供集会を担当することになりました。半分くらい・・・と思っていたのですが、あまりの子供たちの数の多さに、フル回転の予定。おはなしは2回なのですが、それについて準備をしています。


明日の夜は「神様にとってあなたの存在がたいせつ」というテーマ。


その準備をしながら、ほんとうに自分は本気でそれを信じているだろうか、そのように生きているだろうかと思わされています。言葉だけじゃなくて、本当にそこに生きているだろうかと思わされます。


やっぱり成果が問われるこの世界。
才能や能力、決断力や実行力、そんなもので計られる世界。


そこで、本当に一人ひとりをその人の能力や才能とかではなく、
なにかをやったという実績とかではなく、
その人の存在自体を受け入れているだろうかと。


随分前に、「誕生日は、その人の存在を神様の前に感謝して、人々の中で喜ぶ日。」ということを学んで、本当にそうだなあと思わされて、それを実行しているつもりなのですが、それが形だけになっていないだろうか、本当に心からその人の存在を喜んでいるだろうか?と問われているように思います。でも、本当は、それができるのは神様だけなのかもしれない。神様だけが、本当の意味で、その人の存在自体を喜びとされているのかもしれない。


どうやってそれを伝えよう?


まず、自分自身がそこに生かされることだな。
自分が主にそのまま、存在自体愛されていることに目を留めることだな。
主の愛の中にどっぷり浸かることだな。


どっぷ〜。
さあ早く休もう。


さて、また何日かぶりの「日々のみことば」。


9月になってから、「列王記第1」を読んでいます。
1−4日、4日間かけて、1章を読みます。
今日までで1−39節。


「 一方、ハギテの子アドニヤは、『私が王になろう』と言って、野心をいだき・・・」5節。

アドニヤの傲慢さ。
アドニヤは野心を抱き自分の力で立とうと思った。
ソロモンはただ、王ダビデの命を待った。

13年前、まだ30代前半だった自分が、
この教会の牧師になったときに、
それまで50代、60代の牧師が続いている中で、
「彼は野心があるのでは?」と思われた方々がおられた。

その時には、やたら腹が立ったのだが、
今思い出してみて、
本当のところ、どうだったんだろうかと思わされる。

自分では本当に純粋な思いで主に仕えているつもりなんだけれども、
そこに「野心」が入り込む危険はないのだろうかと。

また、「自分がやらなければ・・・」みたいな、メシヤコンプレックスの入り込む余地はないのだろうかと。

いや、そういうことの全くない者なんかいないのかもしれない。

本当に主のもとにへりくだり、主の導きを求めていく、
ぎりぎりのところまで、主を信頼して、求めていく。
自分が傲慢になりやすい者であることを認めながら、
野心が忍びこんできやすいのだ、ということを認めながら、主の導きを求めていく、そのような歩みをさせていただきたいです。

主よ、
どうか、あなたの前に歩ませてください。
あなたの前に真実に歩ませてください。
他のものが入って来やすいです。
ただ、ただ、あなたのみ思いに心を向けることができますように。

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