2020-03-06

2020レント集会第2回「神の栄光を求める祈り」ヨハネによる福音書12:20-36


今年は「イエスの苦難の中での祈り」というテーマで学びの時を持っています。

先週は「変貌の山での祈り」を学びました。その中で、「ペテロの信仰告白を境にして、イエスは十字架への道を歩み始めた」と書きました。その時から、イエスはご自分が苦しみに遭われること、十字架にかけられること、そして、3日目によみがえることを弟子たちに話し始められましたのです。

<背景:弟子たちの無理解・人々の熱狂とイエスの思い>
しかし、その歩みは、孤独な歩みでした。イエスは十字架に向かって歩んでおられ、またそのことを弟子たちにもお話になって来られたのですが、弟子たちにはそのことが全くわかっていませんでした。最初にイエスがご自分の苦難を預言された時に、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」(マタイ16:22)と、イエスを諌め、イエスは「引き下がれ、サタン!」とその言葉にサタンの働きを見ています。また、イエスが3回目に受難預言をされたときにも、その直後に、ヤコブとヨハネのお母さんが自分の子どもたちに、イエスの王国の第2、第3の地位を与えてやってくれ、と懇願するのです。(マタイ20:20-28)

イエスはそんな孤独の中におられました。十字架への道を歩みながら、一番自分のことをわかってくれているはずの弟子たちに、全く理解されずに、一人で歩んでおられたのです。その歩みの中で、いつもイエスを支えていたのは父なる神との交わりでした。

そして、いよいよ受難週に入ります。イエスはエルサレムに入りました。人々は熱狂的にイエスを迎えました。罪人とともに歩み、当時の宗教的指導者たちの姿を批判していたイエスの働きに対して、怒りを覚えていた人々は、その人々の熱狂ぶりを前にこのように言っています。

「もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。」(ヨハネ11:48)
「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか。」(ヨハネ12:19)

そのような状況の中での出来事です。

1)イエスが栄光を表される時が来た
数人のギリシャ人たちがイエスに会いたい、と言ってきました。当時の世界の中で、ギリシャは文化・学問の中心でした。地方のガリラヤ出身の者たちがほとんどの弟子たちにとって、ギリシャの人々が自分たちの先生に会いたいと言ってくる事自体、色めき立つことでした。エルサレミの人々の熱狂を見て、またギリシャの人々から、声がかかって、いよいよ、先生の時代がやってくる、私たちの先生の働きが世界に認められるのだ、そんな思いだったことでしょう。彼らはワクワクしながら、イエスに言ったことでしょう。「ギリシャの人々が会いたいと言っていますよ」と。

それに対して、イエスは言われました。「人の子が栄光を受ける時がやってきた」と。

そこまでは、弟子たちも「そうだ!」と思ったことでしょう。しかし、イエスの言葉が続きます。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」

イエスにとって、栄光を受けるということは、一粒の麦として地に落ちる、ということだったのです。それによって、人々が救われる、ということだったのです。

私たちはイエスが注目されたこと、人々がイエスに従っていったこと、イエスがエルサレムの町に入る時に、人々が熱狂的に迎えたことを見て、神様はすごい!と思うかもしれません。しかし、その中で、イエス様の思いは違いました。イエス様は違うものを見ておられたのです。それは、自分が一粒の麦として地に落ちる時に豊かに実る麦の穂であり、私たちが救われて、喜びにあふれて歩む姿だったのです。

2)イエスの心のざわめき
ヨハネはその時、イエスの心が一瞬ざわめいたことをしるしています。27節には「今わたしは心が騒いでいる。わたしは何と言おうか。」と言われたことが記されています。これは、イエスが「ゲッセマネの祈り」の時にも、経験されたことでした。マルコは「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」(14:38)とイエスが弟子たちに言われたことを記しています。私たちの救いのために十字架にかかられるイエスにとって、私たちが救われる、ということは喜びであり、栄光であったのですが、それとともに、私たちの罪を背負って、罪の塊となって罪の呪いを身に受けること(ガラテヤ3:13)は、本当に大きな恐れでした。ですから、イエスは心が騒ぐのを経験されたのです。

イエスの十字架への道は、簡単な道ではありませんでした。イエスは最初からその使命を負ってこの世に来られたのですが、イエスに十字架を避けさせようとするサタンとの闘いでもあり、この罪を負うことの重さとの闘いでもありました。

その時に、イエスは「父よ、この時からわたしをお救い下さい。」と一瞬のうちに神に目を向けました。その時に、イエスは力を与えられて、このように祈られたのでした。「しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。 父よ、み名があがめられますように。」そして、それに対して、神は語りかけられました。「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」と。神ご自身「私は栄光を表す」と約束してくださったのです。そして、イエスはもう一度十字架の道へ目を真っ直ぐに向けました。

このイエスの祈りの姿は、また私たちが学ぶべきものです。日々の生活の中で、人々と語り合っているときも、問題にぶつかって困っているときも、一瞬、神様に目を向けて「主よ」と祈るのです。焦点がずれているかもしれません。チューニングがずれているかもしれません。そんな時に、「主よ、お助けください」と祈るのです。神は、私たちの焦点を、チューニングを直してくださり、行くべき道を示してくださるのです。

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