2011-04-11

最悪を想定しても恐れない。

今日はホントに暑かったです。
我が家の庭の最高気温は30.6度C。
今も25度くらいあります。
でも、もう雨が降ってきました。
今夜、にわか雨、時々雷雨で、
明日は最高が12度くらいになるようです。
「現実に引き戻される」って感じですね。


最近、「想定外」という言葉がしょっちゅう使われます。
津波対策の問題でも、東電の原発の問題でも、「ここまで大きな地震が、こんなに大きな津波が」想定外だったということでしょう。
各地域の津波対策の問題よりも、原発の問題でその言葉が使われるときに、「言い訳」感を本当に強く感じます。「これは天災なんだ、どうにもならなかったんだ」と。
対策をとっておられた方々の努力に対しては敬意を表します。でも、「想定外」は、言い訳の言葉にすべきではなくて、「想定できなかった己を恥じる」べきなのではないかと思います。
また、今朝、NHKで柳田邦男さんがおっしゃっていましたが、「M9レベルの地震、内陸数キロまで入ってくる津波は平安時代に記録がある。今回の地震も、歴史的な記録や科学的可能性を超えているのではない。ただ、それを想定して設計するとものすごいコストがかかる。だから、現実、そこまでは対策ができない。コスト対効果の問題だ」と。


1000年に1回あるかどうか、ということのために対策をしていたら、電気代がべらぼうに高くなってしまう、ということだと。


やっぱり意識的に、意図的に「想定外」ということにしていたんですね。


ちなみに、私の昨年のクリスマスのキャンドルサービスのメッセージが「想定外のクリスマス」。またその後にも年末のカルフォルニアでのご奉仕に遅れてしまったことも「想定外の猛吹雪」でした。


人間の計画の限界と、それを超えた神様の前に謙虚になることだと。


想定を超えることが起こるのだと、それを覚悟して行くことも大切だと思います。


政府やマスコミの対応を見ていると、「大丈夫、大丈夫」からだんだん「ヤバいかも・・・」、「逃げてください」と。
原発の事故も最初は「チェルノブイリとは全然違うから」でしたが、最近は「チェルノブイリの例でも、それほどのガンの発症率は上がっていないから」になっています。


人々を不安にさせないように・・・なのでしょうが、重い病気の方に告知をしないで「大丈夫だから」「え、ほんとはどうなの?」と疑心暗鬼になってしまうのと同じかんじがします。


そして、この原発の問題、今日もボヤがあったそうですが(この「ボヤ」という発表も「火事」と言って問題になるのを避けているのでは・・・と疑心暗鬼になってしまいます)、やはり重い病気で苦しんでいる時に、「今度の検査結果はいいものでありますように・・・」と思っているのに、また悪い結果が出た時の気持ちに似たものを感じます。


私も決して人々の不安感をあおったり、どこかの新興宗教のように「世の終わりだ!」と叫ぶつもりはないのですが、でも、そういうことがあっても「想定外だ!」と言わなくてもすむように、心の奥底にある「たましい」の準備をしておくことの大切さを感じています。


聖書にこんな言葉があります。


「彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない」詩篇112:7


この言葉に出会ったのは、今から10年くらい前、
ある大きな病を負いながら歩んでいた一人の牧師のメッセージの中だった。


彼はある夜、この言葉が与えられた。心に響いてきた。
彼は翌日、検査の結果を聞くことになっていた。
直感的に、「ああ、明日の結果は良くないな」と思った。


その夜、妻とふたりで祈った。
よくない結果を聞くのだろう、でも、この聖書の言葉のように、「ゆるがない」心を与えてください、と。


そして、その通り、悪い結果だった。
そして、その御言葉の通り、彼の心は揺るがなかった。
そして、前の夜にこの言葉が与えられていたことに感謝した。


聖書は、わたしたちの命には限りがあることをはっきり語っています。
それはわたしたちの経験とも一致するので、疑う人はいません。
でも、「自分の命に限りがある」ということはなかなか実感が湧きません。


「あなたがたは、明日もわからぬ身なのだ」とヤコブの手紙の4:14にあります。


わかっています。でも、本当にそうだな、あそこで命を落としていたのは私であっても、ちっともおかしくない、と思うのは阪神の時だったり、9-11の時だったり、今回の震災の時だったりします。


もう一つ、
聖書は、この世にも最後が来ることをはっきりと語っています。
でも、それは誰も経験したことがないので、
というか、今まで何千年もこの世界は一度も終わりを経験していないので、「そんなことあるのかな」と思います。逆にときどき「世の終わりが来るぞ!」といい加減な日程を言い出して(もちろん、当人は至極真剣です)、人々の不安をあおる人が現れてはそれが外れると、「そんなバカなことを信じる人がいるなんて・・・」と思います。


いつの間にか、「世の終わりなんてものはないんだ、そんなことを言うヤツは狂信的なヤツなんだ」という気持ちになってしまうのです。


でも、そんな想定外のことに出会ったら、あなたも「想定外で・・・」と言い訳しますか?
勝手に自分で線を引いて「想定外」にしてしまっているだけなのでは?


聖書は世の終わりについて明言しているとともに、そのための「たましい」の準備についてもはっきりと言っています。もっというならば、「何年何月何日に終わりが来る」と言うようなヤツのことを信じるな、そうじゃなくて、いつそれが来たとしても、大丈夫なように準備しておけ!と言うのです。


「想定外のことが起こっても、最悪の想定のことが起こっても、大丈夫な備え、恐れない強さ」持たせていただきましょう。


超長くなりましたが、とても大切なことだと思うので。


のんちは、月曜日はホントに忙しかったようです。
日本時間で夜1時頃にやっと電話で話せた、というところ。
災害援助もやはり人が集まってやっていること。
急性期をすぎて、それなりに人の間に立つことの難しさもあるようです。
一つ喜んでいたのは、避難所には家族同然のペットを連れてきている人もいれば、アレルギーの人もいる。一応ペットがいられるのはこの範囲、という規則はあるけど、なかなか徹底できない。そんな中で「電気が使えない避難所でも使える充電式掃除機」と「粘着テープ式掃除用具」が、昨日のリクエストで今日与えられた、ということ。迅速な対応に感謝していました。何をするにも時間のかかる日本の「話し合い/調整」文化。こんな時は少しでも迅速な対応が求められます。


火曜ももう一日塩釜延長。
その先は調整中だそうです。


さて、今日の聖書。
今日はマルコによる福音書12:35-44


「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました」43節。

人は金額を見るよね。
ホントに。悲しいくらい。
でも、主が見ておられるのは献身。

私たちにとって、
すべてはかみさまのもの。
教会や、慈善事業に献金するものだけじゃなくて、
すべてが神様のもの。

自分で稼いでいるんだから自分で自由にしていい、というのも、
十分献金しているから、あとは自分で自由にしていいというのもちがう。

自分のために使うのも含めて主が任せてくださったもの。

あ、時間もそう。
すべてが神様のもの。
そう、時間の方が、お金よりも大切だよね。
大切だから、もっともっとその面で神様を第一にするんだよね。

神様、
私の人生はあなたのもの。
神様のご自由に用いてください。
あなたの導きに従順であることができますように。

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