2006-10-22

「世界中を騒がせてきた者たち」

今日の日曜日、
また皆さんと共に礼拝を守れて、感謝でした。
また、今日はカルフォルニアのノブ先生もご夫妻で来られて、
お二人で賛美して下さいました。
感謝。

それから、今日は礼拝後、特に会議とかもなかったので、
皆さんとお話をするチャンスもあって、よかったです。

会議も悪くはないのですが、
こうやってゆっくり日曜日の礼拝後を過ごせるのは、
とても大切なことだなあ、と思います。

日曜日の夜なので、ちょっとゆっくり書きますが、
8月31日に文字化けした投稿がありましたが、
あれは確かに携帯メールを使ったものでした。

アメリカでは携帯で日本語のメールをやりとりするのは、
結構無理があります。
普通の携帯はもちろん日本語は読めませんし、
書けません。

私のように10年以上前にこちらに来た者たちにとっては、何てことないのですが、
最近、駐在とかでこちらに来られた方々にとっては、
携帯メールでコミュニケーションができないのが、ストレスになっているかもしれないですね。
(それがいいのか悪いのかは別にして・・・)

有料サービスはあるんでしょうが、
そのためだけにまたお金を払うのはねえ・・・ということで調べてもいません。

で、元々Palm使いなので、Treoなんかもいいんだと思うのですが、
それも調べたのですが、TreoをAmazon.comをとおしてCingularで使うと、
本体にちょっとお金がかかるのに加えて、
最低で月々40ドルの料金が通話代にプラスで必要になります。

で、最終的に選んだのが、

Nokiaの6682

なぜかというと、8月の段階では、Amazon.comで、新規契約の場合、1セント。
というか、10ドルリベートが送られてくるので、-9.99ドル。
(今はもう取り扱ってないみたいです)

月々通話料に20ドル足せば、データ通信は無制限。
追加オプションなしでアドレス帳とかもコンピューターと同期できる。
そして、これはSymbian OSを使っているので、
50ドルくらいで日本語化ソフトを買うと、
日本語でメールを受けたり、送ったりできる。

という代物なんですね。

一番安いFamily Planで4台で通話料金は80ドル=1台20ドルで、
550分なんですが、絶対、使わないです、そこまで。
夜はタダだし、同じ会社の携帯同士はタダだし。

でも、まあ、考えてみれば、
他の携帯に日本語メール打っても、
読める訳ないですから、
日本の皆さんみたいに、
携帯メールでコミュニケーションというわけにはいかないのですが・・・。

で、今日の聖書。
今日は使徒の働きの17章。

6節の言葉が心に留りました。

「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいり込んでいます。」

これはパウロとクリスチャン達を人々が非難して語った言葉ですが、
その言葉にいろいろ考えさせられました。

私たちはその様に言われることがあるだろうかと。
余りにも「ふつう」になりすぎて、
余りにも妥協的になりすぎて、
また逆に余りにも世の中との接点がなさ過ぎて、
「世界中を騒がせてきた者たち」
なんて言われなくなっているのではないだろうかと・・・。

そんな風に言われるのを意識的に避けようとしているのかもしれません。

もっともっと世の中にインパクトを与えるような、
「あそこでは何が起っているんだろうか」と思われるような、
大きな主の働きを見せて頂きたいと思いました。

また、それと共に、私たちが、
福音をオブラートに包まないで、
ストレートに多くの人々に語っていく使命を感じさせられました。

主よ、
私たちは生ぬるくないでしょうか?
本当に真剣に福音に生きているでしょうか?
本当に純粋に福音に生きているでしょうか?
大胆に歩ませて下さい。
人にどう言われるかを恐れないで、
あなたのメッセージを語る者としてください。
社会に何の影響も与えないような者ではなく、
世の光、地の塩として、歩む者としてください。

2006-10-21

神さまの導かれるところ

またまた、ホントは日付が変わってしまっています。
今日は夕方からユースの集まり、教会での祈り会、そして、その後、
NYへの送迎で、時間がバタバタ過ぎていって、
あっという間に12時を回ってしまいました。

でも、今ちょっとホッと一息です。
さっきまで、(家族-5歳の娘+泊まりに来ている17歳の男の子)で、
JOYJOYキャンプのビデオを見ながら、爆笑しておりました。
キャンプの参加者のご父兄とキャンプのスタッフの皆さんには
来週中くらいに、お渡しするかお送りします。

明日の日曜日、また皆さんにお会いできるのが楽しみです。
礼拝が豊かに祝福されますように。

今朝は予想よりも高くて6.5度Cありました。
でも、今夜はもう冷え込んできて、12時半で5.6度まで下がっています。
2度くらいまで下がるでしょう。

明日の夕方には一雨あって、
月曜日からもう一段寒くなるようです。

今日の聖書は、使徒の働き16章でした。
パウロが2回目の伝道旅行に出かけて今度はアドリア海を渡ってヨーロッパに福音を伝えていくところです。

今日心に留ったのは、6-7節のところです。
「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」

福音を伝えようとするのに、
聖霊様がそれを許されなかったということはどういうことだったのだろうかと思います。
どうして、神さまはそんなことをなさったのだろうかと・・・。

そして、それはパウロがマケドニヤに進んでいくためだったことがこの後分かる訳ですが、

後にならなければわからないことですね。
その時には、「どうして、神さまのことを伝えようとしているのに・・・」という感じだと思います。

そして、ピリピに導かれた彼らは、ああ、このためだったんだ、と後になって分かるんですよね。

私たちもそういうことがある。
それでいいんだと思いました。
一つの道が閉ざされる時がある。
もう一つの道も閉ざされて、
何なんだろうか、って感じる様な時。

大体、今自分がここにいることだって、
最初は願ったことではなかったことを思い出します。
大学のカタログを見ながら、
「うーん、とりあえず送っておくけど・・・」
と思ったことを思い出しました。

でも、神さまは私をここに導かれたと、今ははっきり言うことができます。

道が閉ざされる時、

そこに神の御手を覚えることができるようにと祈ります。

主よ、
楽しいたくさんのことも、
あなたの御手の中にあることを信じます。

そして、願った道が閉ざされる時も、
あなたの御手がそこにあると信じます。

どうか、あなたの御手を見たり、感じたり、覚えたりすることのできる、
霊的な敏感さ、それを私に与えて下さい。

あなたの御手を信じ続ける信仰をお与えください。

2006-10-20

主の恵みによって救われた

夜の集会が終わって帰ってきました。
今日もたくさんの方々が集まられました。
いろんな質問や意見も出て、いい集会だったと思います。

午前中の祈り会も、
多かったですね。
共に祈ろう、という方々がたくさんおられるのには、励まされます。

今日は3時頃に雨がザッと降って、
強い風が吹いて、
18度Cくらいあった気温がどんどん下がってきました。
今、夜の11時半ですが、
8度まで下がってきています。

今夜の最低気温の予想は4度C。
来週の半ばに向かってさらに下がって行くみたいです。

10月中の初雪はないでしょうが、
冬はもうすぐそこなんでしょう。

おととい(かな)、Internet Explorerの7.0が出ました。
早速入れてみました。
というのは、「タブブラウジング」ができるようになったから・・・やっと。

もう、何年もFirefox派の私にとっては、
それはもう「当然」という感じでした。
むかしは何だったけな、Firebird?
そのころからIEより軽くて、ウィルスの心配を余りしなくてよくて、
タブブラウジングができるので、
ずっとそれを使っています。

でも、IE向けに作られたページとかもあるので、
時々はIEも使っておりました。
今度のIEはいい、と思います。
深いところまで分かりませんが、見てくれはいいです。
ちょっと使ってみたところは便利です。
やっぱりちょっと重いですがね。
でもたぶん乗り換えないでしょう。
FirefoxのextensionのGmail Managerなんかも、便利だし・・・。

ちなみに、メールソフトも、この夏から、
すぐにフリーズするようになったOutlook(2000だけどね)を止めて、
Beckey!を使っています。
こっちも快適。
着々と脱Microsoft路線、邁進中。
まあ、OSはこのままxpで行くと思いますが。
今さら、10年ぶりに林檎派なんてことにもならないとは思いますし・・・。

さて、今日の聖書。
今日は使徒の働きの15章を読みました。

ここはエルサレム会議、最初の教会会議といわれるところです。
ここで話し合われたのは、クリスチャンになるために、ユダヤ教に回心しなければならないのか?
割礼を受けたり、律法を守ったりする必要があるのか、ということが話し合われたのです。

その中で、
心に留ったのは、
「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」
11節のペテロの言葉です。

ここを読むたびに感謝します。
私たちが今、ここで福音を信じることができるのは、
ここで、信仰をもって歩むことができるのは、
このエルサレム会議の決定で、
「恵みによって、信仰によって救われる」という結論に達したからです。
聖霊様がそのことを導いて下さって、
その様な結論になったからです。

この時に、「やはり、イエスを信じるためには、割礼を受けなければならない、
モーセの律法を守らなければならない」と決まっていたら、
日本にまで福音は伝わってこなかったでしょう。
ユダヤ教の一派として時代の中に埋もれてしまっていたでしょう。

「恵みによって救われる」
何というありがたいことでしょうか?
何と感謝なことでしょうか?

恵みがなかったら自分も救われていなかった、その様に思います。

主よ、
今日もあなたの恵みに感謝します。
あなたの恵みがなかったら、私の人生は20年で終わっていたことでしょう。
あの自分の真の姿を見せつけられて、
絶望のそこに落ちた時に、
私の人生は終わっていたでしょう。
あなたの恵みによって救われる、
その大きさ、そのありがたさ、そのかたじけなさ、
心から感謝します。

明日の一日が守られ、祝福されますように。

2006-10-19

断食して祈る

もう本当は日付が変わっていますが、
19日分です。
投稿時間を自分で勝手にいじれることを発見した(遅い!)ので、
19日となっていますが、ホントは今12時を回って11分です。

今日は、帰ったのは11時過ぎだったのですが、
なぜかというと、
去年の修養会の講師をして下さった先生の、
奥様が、カーネギーで歌う、ということで、
聖書学院同窓会してました。

10人くらいの方々がカルフォルニアから来られて、
オペラのアリアとか、有名な曲を次々と歌っていく、
というプログラムで、その10人に、その牧師夫人、選ばれたんだそうです。

高校時代「音楽部」という「オペラ部」で、
トロンボーンをやっていたので、
高校時代はオペラ好きでしたねえ。
今、メトとかに行けるところに住んでいるんですが、
なかなか行けません。
12年間で1回だけ?かな。
「トゥーランドット」に行かせて頂きました。
チケット頂いて。

とにかく舞台の大きさ、豪華さに圧倒されました。
高校でやってたのは何だったのか、と・・・当たり前か。

メトの話はいいとして、
今日のコンサートもすばらしかったです。
楽しかったです。
もっと大々的に宣伝して、
JCCNJ軍団で行けばよかったかな。

今日のキッズクラブもたくさんの元気な仲間が集まりました。
今日も30人くらいかな。
この勢いで来週もたくさんみんな来てくれるといいなあ。

で、今日の聖書。
今日は使徒の働きの14章を読みました。

その中で心に留った言葉、

「 また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。」23節。

「主にゆだねる」という言葉がここにあります。
私たちがよく使う言葉です。

「主にゆだねよう」と。

でも、ここを読むと、「断食して祈った後」と書かれています。
主にゆだねるのは、決して、軽々しく考えてはいけないことだと思わされました。

自分が主にゆだねようと言う時に、
自分はいったい、断食して祈るほどの真剣さ、
断食して祈るほどの熱心さを持って、
「主にゆだねる」という決断をしているだろうか。

自分で責任を取りたくないから、
何にも考えたくないから、
「主にゆだねよう」といっていることがないだろうかと。

ここでパウロが教会を主にゆだねる、という決断をした時に、
どれほどの大きな決断があったか、
どれほど熱い思いがあったかと思います。

本気で主にゆだねる、その様な経験をしたいと思いました。
また、断食して祈るほど熱心に祈る経験をしたいと思いました。
最後に断食したのはいつだったでしょうか?

主の前に出る真剣さ、熱さを持って歩んでいきたいと思います。

主よ、
本当の「ゆだねる」という経験を与えて下さい。
祈って祈って祈り抜く中に、
「ゆだねる」という経験を持つことができますように。
断食して祈るほどの熱い祈りを捧げさせて下さい。
他のことには熱中して食事をすることを忘れることがあっても、
祈って、食べることさえもどうでもよくなってしまうようなことはあるでしょうか?
そんな祈りへと私を導いて下さい。

2006-10-18

喜びにあふれる人

今日は暖かな一日となりました。
昨日の雨も上がり、晴れるかなあ、と思ったのですが、
結構雲が多く、どんよりとしていましたが、
22度Cくらいまで上がり、暖かい日となりました。

明日も暖かくなりそうです。
JOYJOYキッズクラブの日が暖かくてよかったです。
でも、それも明日まで。
あさっては雨で、それからまた冷え込みそうです。
でも、今回はそれほど厳しくないでしょう。たぶん。
そして来週の前半くらいまで冷えて、
そのあと、ちょっとゆるむみたいです。

ところで、accuweather.comの冬の予報が出ました。
それによると、今年は平年よりも少し寒めで、雪の多い冬になりそう、とか。
暖冬を予想している連邦政府の気象庁とは対照的な予想になりました。

ま、それほど、長期予報は難しい、ということ。
さて、どうなるか?

昨日の郵便の中に、
15歳の息子宛のWNBAからの手紙が・・・。
バスケットの絵が描いてあります。
バスケットの好きな息子のためにチケットのセールスか、
はたまた、高校生のためのトレーニングキャンプのお誘いか・・・
もしかしたら、将来性に注目してスカウトか!?
でも、"W"NBAです。
女子バスケ?

そうか、名前を間違えたんだ、
きっと5歳の娘の方の将来性に目をつけたんだ(12歳もいるけど・・・)、
と、ありえない(わからんが・・・)シナリオをいろいろ楽しく想像しながら、開けました。

開けてみて、え?でした。

なんと、


クレジットカードの勧誘・・・



まあ、私宛や家内宛には一日に2-3通はそうゆう手紙が届きますが、
とうとう息子までそんなのをもらうようになったかと。

いやあ、ちょっと申し込んでみようかなあ、なんて思いました。
まさか、作れないとは思いますがねえ。

そのうち、5歳の娘にまで来るのでは・・・と、またそれはそれでちょっと楽しみになってきました。

今日の聖書。
今日は使徒の働きの13章。

パウロの第一回目の伝道旅行のところです。

ピシデヤのアンテオケというところで、福音を語った様子が書かれています。

その最後の言葉に心が留りました。

「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」52節の言葉です。

この時の弟子たちは、決して手放しで喜べるような状況ではなかったはずです。
ユダヤ人の反対もありました。
身の危険を感じるようなこともあったでしょう。
でも、彼らは「喜びと聖霊に満たされていた」というのです。

私たちは、いや、私は、どれほど状況に振り回されやすい人間かと思います。
いいことがあると、喜びが湧いてきます。
つらいことや悲しいこと、悔しいこと、納得がいかないこと、
そんなことが起った時には、つらくなります。
喜びはどこへ行ってしまったんだろうかと思います。

喜びと聖霊に満たされていた、と人に言われるような、
その様に形容されるような、歩みをさせて頂きたいと思います。

主よ、
私を喜びで満たしてください。
あなたの喜びを私の内側に与えて下さい。
状況に左右されるような歩みではなくて、
いつもいつも心の内側から喜びがあふれてくるような、
どんな状況も喜んで受け取ることができるような、
そんな者とならせてください。

主よ、
明日のキッズクラブもあなたから頂いた喜びを持って、
出ていくことができますように。
たくさんの子ども達を送って下さい。

2006-10-17

祈りと答え

今日は一日雨。
でもその雨が降り出す前、
朝の祈り会は、とてもいい時を持ちました。

牧師として、
やはり1人1人に声をかけて、
その心の声を聞くことの大切さを思わされました。

やはりこのことのために召されている、
このことのために生かされていることを感じました。

たくさんの人の前に立つこともあります。
人々の気持ちを一つにしなければ・・・と走り回ることもあります。
子ども達の前に立ってゲームをしたりするのも大好きです。
事務的な仕事をしたり、
地味な作業をしたりすることも苦にはなりません。

でも、個人的に、または2、3人と語り合い、
心が触れ合うような時を持つ時に、
それを通して、その人の心が神さまに向いていく時に、
いつも、
「ああ、自分はこのために生かされているのかな」と思います。

そして、何よりも、それによって心にパワーをもらっています。

今日の聖書。
今日は使徒の働き12章でした。

その中で心に留ったのが、
「そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。」という12節の言葉。

でも、別に「祈っていたのか、すごいなあ、自分も祈らなければなぁ」とは
今日は思いませんでした。

その後の、人々は祈っていたんだけれども、
いざ、解放を祈っていたペテロが、
戸口に立っていたら、驚き、
「そんなことがある訳がない」と言ったり、
取り次いだ女中さんに「あなたは気が狂ってる」と言い出したり・・・。

思い出した言葉がありました。

「天が地よりも高いように、
私の思いはあなたの思いとは異なっている」
というイザヤ書55章の言葉。

私たちは祈っているんだけれども、
神さまはその私たちの期待を超えて応えてくださる方。

私たちの考えよりも、ずっとずっと大きなことをしてくださるお方。

自分たちの頭ってちっちゃいからね。
自分たちの考えって本当に浅はかだからね。

神さまのしてくださる大きなこと、
楽しみにしていきたいと思いました。

神さま、
今朝の祈り会を感謝します。
どうか、もっともっと私が出ていって、
人々の声に耳を傾けることができますように。

もっともっと心の叫びに聞くことができますように。

そして、あなたの大きな御業を待ち望みます。
私たちの祈り、
私たちの願い、
私たちの考えを遙かに超えて、
すばらしいことをしてくださいますように。


2006-10-16

神のなさること

今朝は1.5度C。
でも昼間はずいぶん暖かくなりました。
明日からずっと冷え込みはゆるむみたいです。

寝る時、ちょっと足が冷えて寝付きが悪い時があります。

そんな冷え性オヤジは、
「湯たんぽ」が欲しくなります。

今から40年前(正確には37年くらい前かな)の子供時代はしっかり使っていました。

8時になると、お湯を入れて、2段ベッドの中に入れてました。
親父とかは、「あんか」を使っていたと思います。
まだあのころ30代だっただろうけどなあ、両親。

そのころは「ゆたんぽ」は確かブリキか何かの金属製でした。
「あんか」は豆炭のヤツだったんじゃないかなあ。
そのうち、電気あんかになったけど。



そして、湯たんぽは今から20年前の聖書学院時代も使っていました。

でも、この時はプラスチックの容器でした。
聖書学院は10時にストーブを消しますので、
すぐ寝ればいいのですが、
ちょっと11時頃まで起きていると、
寒いです。

で、湯たんぽ大活躍です。


そのストーブの上のやかんに入っていた熱湯を入れて使っていました。


何か日本でも2-3年前はやっていましたよね。

テレビかネットかで見たことのあるような・・・。


そこで、アメリカでも売っているか、捜してみました。


今日のところはよくわかりませんでした。


"hot water bottle"というのはあります。


でも、何か子供が抱いて寝るため、

または関節が痛い人がそこを暖めるため、

ぬるいお湯を入れるヤツみたいですね。


でも、きっとあるでしょう。にほんのゆたんぽ。


ボチボチ捜します。


さて、今日の聖書。

使徒の働きの11章です。


「どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」

17節の言葉です。


主がなさることならば私たちはそれを妨げてはならない。


大切なことです。

11章の最初の方には、ペテロが人々に責められていることが書かれています。
10章を知っている私たちは、どうして?と思います。
でも、10章を知らない人々にとっては、
「どうして!?」でしょう。

で、責めてしまうのです。

その時、ペテロは丁寧に、順序立てて話しました。

そして、何よりもペテロの信仰を明らかにしました。
「神さまがして下さっているんだから、私は妨げてはいけないと思う」と。

その時、人々が一転、主をほめたたえるようになりました。

主がなさっておられることを説明すること、
そして、主がなさっておられることを妨げないこと、
主のして下さったことを証しすることです。
大切なことです。

主が何をなそうとしておられるのか、
楽しみです。
待ち望んでいきたいと思います。

それと共に主がどんなことをして下さっているのか、
証をする責任があると思いました。

主よ、
あなたの御名をほめたたえます。
あなたのなさること、
私たちはそれを見たいのです。
それを妨げることがありませんように。

そして、そのあなたの御業を、
証しする者としてくださいますように。
人びとに伝わるように、
証しする者としてくださいますように。


2006-10-15

聖霊様の働き

今朝の最低気温は1.1度C。
朝にはヒーターが回っていました。
冬はこのヒーターはありがたいのですが、
空気が乾くのには閉口します。

冬に書いたと思いますが、
0度Cの空気が含むことができる水蒸気量は1立方メートルあたり、4.8g。
その空気を20度Cまで暖めると、1立方メートルあたり17.2g水蒸気を含むことができます。
ですから、0度Cで湿度100パーセントの湿った空気はそのまま20度まで暖めると
湿度28パーセントの乾いた空気になってしまうのです。

乾燥はのどに悪いし、インフルエンザウィルスなどは乾燥が好きといいます。

昔はよくストーブの上にやかんを置いて、
お湯を沸かすのと、乾燥を防ぐのの一石二鳥をやっていましたよね。
今はヒーターなので、火事にはなりにくいですが、
その一石二鳥ができないのが残念です。

洗濯物を干すのがせいぜい。でも、それではあんまり湿度が上がるって感じはしません。
確かに洗濯物は乾くのですが・・・。

この間、水道直すのにHome Depotへ行った時に、売ってましたね、

昔ながらのストーブ。

ちょっと興味が出てきています。

結構使っている人いるのかな?

今日も多くの皆さんと一緒に礼拝できたこと、
心から感謝します。

今日の聖書。
今日は使徒の働き10章を読みました。
ペテロが異邦人伝道に導かれていくところです。

心に留ったのが、
「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。」
という44節の言葉。

人々に聖霊様が注がれて、はっきりとその様子が分かった時に、
懐疑的な人々も、神さまが異邦人(ユダヤ人以外の人々)にも救いをお与えになることを、
確信することができた。

聖霊様が注がれる時に、
人々にもそのことが分かったという。

その様なはっきりとした神さまの御業を見たいと思った。
もちろん現象面に捕らわれる必要はないと思う。
けれども、確かに人々が変えられて、新しくされて、
輝いて新しい一週間の歩みのために遣わされていく、
その御業を見せて頂きたいと思った。

「みことばによってこのように力を頂きました」
「解決が与えられました」
「悔い改めに導かれました」
その様な主を証しする言葉があちらこちらから聞こえてくるような教会になったらいいなと思います。

聖霊様を求めて祈りたいと思いました。

主よ、
私たちに必要なのは、
何よりも聖霊様が注がれることです。
お金でも、
会堂でも、
立派な人たちでもなく、
聖霊様が注がれることが一番必要なこと、
一番大切なことです。
他のものは「おまけ」です。

あなたを求めます。
あなた自身を与えて下さい。
聖霊様があふれて、聖霊様に満たされて歩んでいく者たちでありますように。
私自身が聖霊様に満たされて、歩んでいくことができますように。

2006-10-14

器と中身

今朝はまた寒かったですねえ。
って、昨日深夜祈祷会だったので、
今朝は寝坊したから、知りませんでしたが、
うちの温度計の最低気温は0.9度Cでしたよ。

霜とか降りたんでしょうかねえ。
西のWyckoffとか、北のMahwahとか、氷点下だったんでしょうかねえ。

今夜も冷え込むようです。
予想はまた2度C。
今は11時半を回ったところで、5.9度Cです。

秋はあっという間に過ぎていって、
もう冬支度ですね。
今年は日本に行っていたので、よけい短いです。

今日は、近所にある韓国の教会を訪問して、そこの教会の方とちょっとお話ししました。
オフィスビルを教会に変えて、使っているところです。
5年前に300人くらいで、300万ドルで2階建てのビルを買って、
今は1000人位の方々が集まっているそうです。
いい買い物したなあ、と思います。

オフィスビル街の教会なので、
日曜日には周りのオフィスにお願いして、
車を停めることを許してもらっているそうです。

Zoningの問題もなく、
何の困難もなかったそうです。

神さまに祈っていきたいと思いました。
本当に大きく主に期待して行きたいと思います。

「神様は私たちを助けることがおできになるだけでなく、
助けたいとしきりに願っておられる。」
ビル・ハイベルズ

今日読んだのは使徒の働きの9章でした。
ここは迫害の先頭に立っていたサウロ(のちのパウロ)がキリストを信じる者とされたところです。

その中で2つの聖書の言葉が心に留りました。

神さまがアナニヤにパウロのことを語った、
「あの人は・・・わたしの選びの器です。」

そして、そのアナニヤがパウロに語った
「あなたが・・・聖霊に満たされるためです。」

パウロは神の器だった。
そこに神は聖霊を満たした。

神の器だったパウロに、

聖霊が満たされなければならなかった。

私たちは土の器。
弱く小さな、もろい、価値もない存在。

でも、その内側に宝がある。
キリストという宝。

そして、そこにいのちが注ぎ込まれている。
聖霊様が満たされる。

私を満たして頂きたいと思いました。
私も聖霊様に満たされて、歩みたいと思いました。

パウロをパウロたらしめた聖霊様を、
同じ聖霊様を、
私のうちにも満たして頂きたいと思いました。

主よ、
聖霊様を私のうちに満たしてください。
私を御霊で満たし、喜びを与え、力を与えて下さい。
あのペンテコステの弟子たちのように、
神さまの大きな御業をほめたたえて歌う者としてください。
人々が「ここではいったい何が起っているんだろう?」と驚いて集まってくるような、
そんな御業をなしてください。

2006-10-13

神の導きに従って

今日は深夜祈祷会の日なので、
帰ってきてからではしんどいので、
今のうちに更新。

今朝の我が家の最低気温は2度C。
冷えましたねえ。
今夜は「霜注意報」が出ています。
早くも初霜でしょうか?

そして、驚いたのはBuffalo, NY。
55センチも雪が積ったそうです。
昼過ぎで30万戸が停電。
びっくりです。
雪の多いところではありますが、
もちろん10月としては記録破り、だそうです。

今日の午前中は新しいところでの聖書を読む会。
この集会は前に場所を提供しておられた方が帰国されて、こちらに変わりました。
でも、その前はまた他の方が場所を提供されていて、その方が帰国されたので、
次の方になったんですよね。

ですから3箇所目。
このチェーンがずっと続いたらいいですね、という話をしていました。
そうですね。最初に始められた方の思いが受け継がれて、受け継がれて、
うれしく思いました。

今日の聖書は使徒の働きの8章です。
ステパノの殉教をきっかけにして起った迫害によって
散らされ行った人々、特にその中でピリポの働きが記されています。

その中で今日心に留ったのは、
「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」という神の御使いの言葉です。
26節にあります。

ピリポは伝道の成功していたサマリヤを去って、
寂しい道に行くようにと導かれました。
そして、そこではエチオピアの女王の宦官にキリストを伝えるのです。

ただそれだけのために、

この1人のために、

神さまはピリポをこの道に導かれました。

そして、その1人が救われた時に、
また神さまは違う道へとピリポを導かれました。

そこに従ったピリポもすごいと思います。

私たちはどうだろうか?
いや、私自身はどうだろうかと思いました。

神さまが示されるところ、導かれるところに、
いつでも喜んで従っていくことのできる覚悟はできているだろうかと。

もちろん、まだ、ここに使命があると思っています。

でも、いつ主が新しい道を示されても、
それに従っていくことができるか?

その神さまの御声を聞く敏感な耳と、
それに応答する素直な心とを与えて欲しいと思いました。

神さま
私たちの幸せは、
いつもいつもあなたの導かれる道に行くことです。
どうか教えて下さい。
どうか導いて下さい。
いつも従うことができますように。
従っていくことができますように。

2006-10-12

キッズクラブin Maywood

今日のJOYJOYキッズクラブは盛会でした。
9月休んだから、JOYJOYキャンプの勢いそのままに・・・というわけにはいかない、
と思っていたのですが、
4時をちょっと過ぎるあたりからたくさんの仲間が集まってきました。
全部で30人くらいかな。

4ヶ月ぶりの懐かしい顔、
キャンプ以来の顔、
いつも教会でみる顔、
そして初めての顔、

いやあ、止められません。

みんな期待して来てくれるので、
その期待を裏切らないような、
思いっきり楽しくて、
絶対また来る!っていうプログラムをしよう!と、
また燃えてきてしまいました。

会場的にはあと50人は大丈夫でしょうから、
まだまだこれからが楽しみです。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。
止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです。」(マルコ10:14)

子ども達に大切なメッセージをとにかく伝えていって、
10年後にそのメッセージを胸に旅立つ若者に育って欲しい、そう願います。

天を見上げて

今日の聖書は使徒の働き7章。
ステパノが説教をするのですが、
それが人々の怒りを買い、彼は最初の殉教者となるのです。

心に留ったのは、
ステパノの言葉。

「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」56節。

この「見なさい」という言葉が今日は特に心に留りました。

いつも読んでいる口語訳聖書では、「ああ」、新共同訳では訳出されていません。
でも、新改訳とNIVでは「見なさい」「Look!」です。

天を見上げなさい、といわれたように感じました。
そして、彼には見えた。
人々には見えなかったけれども、
彼には見えた。

私は見ているだろうか?
天を見上げて歩んでいるだろうか?
そして、見るべきモノを見ているだろうか?

心の目を、
霊的な目を開いて頂きたいと思いました。

神さま、
今日の一日を、
教会の1人1人の一日を守って下さい。
私が、
私たちが、
あなたを見上げていくことができますように。
あなたのことを見つめていくことができますように。
あなたから目をそらせようとする、
すべての力から
私を、
私たちを守って下さい。

今日のキッズクラブに神さまの守りと、祝福がありますように。
子ども達に最高のものを手渡しすることができますように。

2006-10-11

祈りに励む

これ日本語でももちろん大丈夫だよね。
Google Docs。

こうやって、便利なモノをどんどん作っていって、
世界を支配していくんだろうなあ。
だって、この文章だって、Googleのサーバーの中に入っているんだもんねえ。

ちょっと恐いような、でも、とても便利。
出先のコンピューターでも日本語が使えるようになってさえいれば、
編集できちゃうんだもんねえ。

こうやってメモを作っておいて、
また後で、ブログに上げたり、することもできるんだろうなあ。
と思う。

でも、印刷した時の体裁とかは?

んんん、分からない。
どうやってやるんだろう。
Word形式で保存してからワードで開くしかないのかな。

何かなあ。

でもこれ、他の人とチャットしながら編集する人とかいいのかもね。


自分はちょっとそこまでやるかどうかは分からないけど・・・。

ワードのソフトが必要なくなる訳でもないみたいだし・・・。

というのが、今日の昼間、Google Docs & Spreadsheetsを使っての感想。
そのまま、それを使って文章を最後まで書いてみます。

で、今日のニュースにはどきっとしました。
夕方出かけるために車のラジオをつけたら、
アッパーイーストでビルに飛行機が突っ込んだと・・・。

夜になってテレビをつけたら、ものすごい炎と煙だったんですね。
犠牲になったのが乗っておられた方々だけだったということが不思議なくらい。

NYの安全を祈りつつ。

今、JOYJOYキャンプのビデオのDVDを鋭意コピー中。
今年初めての試みですが、
お話が入って、テーマソングが入って、子ども達の様子が入って、
1時間半たっぷり。

今まで、スタッフの中には出回っていたのですが、
今年はご家族にもどんな話だったのか、もっと知って頂きたい。
+子ども達が何回も見ることで、聖書の話に親しんで頂きたい。
ということで、参加者には配布することになりました。

楽しいですよ。

もう、こうやって、JOYJOY後遺症から抜け出れなくなっちゃうんですよお。
明日からキッズクラブ始まるし・・・。

今日の聖書は使徒の働きの6章。
教会のなかで問題が起って、
執事が選ばれるところ。
その中で、やはり使徒達が言った次の言葉が心に留りました。

「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

祈りとみことばの奉仕に励もうと思いました。
もっともっと祈りたいと思いました。

祈らなければ・・・みたいな義務感も、感じましたが、
それ以上に、祈りたいなあ、と思いました。

今日は早く休んで明日は早く起きようと思います。

もう時差がどうだなんて言ってられないですから・・・。

神さま、
またあなたが、私を祈りに招いてくださったことに感謝します。
どうか、祈ることのすばらしさ、
その味わいを、経験させてください。

明日のキッズクラブを守り、導いてください。
たくさんの元気な子ども達を送って下さい。
楽しい、そして、とっても、心に残る1時間として下さい。

2006-10-10

誰を欺くのか

数日ひいていた風邪も治って、体調もほぼ戻って、
日常生活に帰ってきたという感じです。
やはり帰米後10日くらいかかりました。

今日、3ヶ月ぶりに再開された集会もありました。
そして、いよいよあさってから、
JOYJOYキッズクラブが再開されます。

わくわくしてきます。

明日から金曜日の朝まで、雨模様になりそうです。
それで金曜日の夜は3度くらいまで下がります。

いよいよ秋が深まっていきますね。

でも、下の表を見ると、決して特別なことではないんですね。

これは、weather.comのこの地域の10月の平均、最高最低記録を表にしたモノです。

一番左の数字が日付。2番目が日の出時刻、3番目が日の入り時刻
4番目が平均最高気温、5番目が平均最低気温、6番目がその真ん中。
右から2番目が歴代最高気温、一番右が歴代最低気温です。


たとえば、明日の最低気温の記録、それは-2度Cです。
30度以上行った日も歴史のなかにはあるのですが。

今年は秋の深まりが早いような気がするんですが、決して特別ではないんですね。
いつも10月半ばになると、冷え込む日が増えてくるんですね。

月末には平均の最低気温が3度まで下がってしまいます。
このころには初霜とか初氷とかになるんでしょう。

今日の聖書。
今日は使徒の働き5章でした。
アナニヤとサッピラという夫婦が人々をだまし、
お金をごまかして、見栄を張った献金をするところです。

その中のペテロが彼らを責める言葉が心に留りました。

あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」4節。

実際は人をだましたのです。
神さまはだまされるような方ではありません。
すべてをお見通しです。

なのに、ペテロはそれを「神を欺くことだ」と言いました。

やはり、私のうちにも、「神さまは赦してくださるから・・・」という甘えがあるように思います。

人はなかなか赦してくれません。

でも、神さまは赦してくださる、と甘えた心を抱いているところがないだろうかと思います。

そして、人には何も分からないからいいだろう、
でも、すべてをお見通しの神さまには分かっているから、
ちゃんと悔い改めのお祈りをしておかなければ・・・。

でも、それは人を欺いているのではなくて、
神を欺いているのだというのです。

神さまが私を赦すためにはどれほどの大きな犠牲が払われているか、
どれほどの大きな犠牲によって、私が神さまに受け入れられているか、
忘れないでいたいと思います。

神さま、
私の心を探ってください。
神さま、
私の心を守ってください。
あなたがどんなに大きな愛を注いでおられるか、
忘れないようにしてください。思い出させてください。
いろいろな出来事のなかで、
私に気がつかせてください。
あなたを欺くことがありませんように。
それに気がついた時に、すぐにあなたの元に帰ってくることができますように。

2006-10-09

大胆に

とうとう北朝鮮は核実験をしました。
アメリカやロシアや中国、フランス、イギリス、インド、パキスタンそして、イスラエル、
これらの国が持っているモノを、北朝鮮は持ってはいけない、という理由がどこにあるか、
という素朴な疑問に対する答えは、何なのか、ということはありますが、

とりあえず、直近の問題としては、
これほどの国際世論の風当たりのなかで、
それを決行したことはどういうことなのかということですね。

日本では警察官や自衛隊の人
、狩猟のために登録した人以外は銃を持ってはいけない、
というかんじでしょうか?

そうする理由はいろいろあるでしょうが、
その理由に納得しようと納得しまいと、
そう決まっていることを守らないでいることの結果は引き受けなければいけません。

国際社会には、「国家」ほどの決まりはないでしょうが、
今は、ひとまず国連があり、国際世論があります。
それはあの国の指導者には関係ない、ことなんでしょうか?
それとも単なる自分たちの自由を縛る圧力なのでしょうか?

政治のことはよくわからないんですが、
何をしでかしてくれるか、かなりコワイです。
日本に生きることもまた勇気のいる時代になったということでしょうか?

よく、朝日新聞のBe on Sturdayを読むのですが、
特にその「フロントランナー」にははっとさせられる言葉が時々あります。

リンクは貼りませんが、
10月7日号の松崎さんという自費出版で本を出す出版社の社長さんの言葉に、
はっとさせられました。

それは
「『一発当ててやろう』なんて気持ちで書いた人の思いは濁っているような気がします。」
という言葉です。

牧師が語るメッセージはある意味、コミュニケーションです。
伝わらない言葉なら意味がない。
伝わる言葉で伝えたい。
自分のなかだけで分かる言葉ではなく、
また、クリスチャンの間だけで分かる言葉ではなく、
人々に伝わる言葉で話したい。

でも、その気持ちが強すぎて、
時に、それこそ「うけをねらう」こともあるでしょう。

そこに濁りが生まれる。

とてもきつい一言だと思います。

メッセージでも月報でも週報でも、そしてこのページでも、
とにかく神さまが自分に語ってくださったこと、
そこに集中していきたいと思いました。
その思いを一番大切にしていきたいと思いました。

今日の聖書。
今日は使徒の働きの4章でした。

今日心に留った言葉は、
29節の使徒達の祈りの言葉です。

「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」

これ、すごいですよね。

いえ、皆さんが同意しなくても、私はすごいと思いました。

脅かされて、「もうキリストの名で語ってはならない」と言われたのに、
「もっと大胆に語らせてください」って言うんだから。

祈りだったら、普通、
「彼らを黙らせてください」とか、
「困難がなくなりますように」とかじゃないのか?

ああ、自分は何年聖書読んでいるんだろう。
何年読んだら、この聖書のように考えられるようになるんだろう。

どこかの迫害されていたクリスチャンがこのような祈りの課題を挙げられた、
という話を聞いたか、読んだか、そういう記憶がある。
「迫害がなくなるように祈らないでください。迫害のなかで信仰に堅く立つことができるように祈ってください」と。
それは何てことはない、聖書の世界観なんだな。
それがクリスチャンにとって「常識」でなければいけないのに、

「すごいな」と思うのは、
やはり自分たちが甘やかされているからではないだろうか?

生ぬるい信仰でいるなら吐き出されてしまう。

主よ、
私も、大胆に語る者としてください。
どんな反対があっても、
どんな迫害がこれからの人生のなかに起っても、
大胆に語らせてください。
試練を取り去るよりも、
信仰を増してください。

2006-10-08

さんび

今日はまたたくさんの方々が教会に来られました。
とてもにぎやかでした。
子ども達もたくさんで、うれしいですね。

そして、とても幸いな礼拝となりました。
歌手の方も心からの賛美をしてくださり、
教会のみんなも心を合わせて賛美をしました。

























こんなことをしたらいけないのかもしれませんが、これは、weather.comのこの地域の今週の予報です。


金曜日の最高気温が11度C。
最低気温が3度C。

東京だったらもう12月ですよね。

冬支度を急がなければ・・・。

わくわく、ぞくぞくしてきます。

自分は寒いのは大の苦手で、
足元が冷えるのが堪えるのですが、
何でか、冬の天気には興奮します。

雪が好きなんでしょう。

水、木あたり、ミネソタ、ウィスコンシン、そしてシカゴからインディアナの北の方くらいまで
雨が雪に変わる予報が出ていますね。

これからお天気ネタが増えることでしょう。

今日の聖書。
今日は使徒の働きの第3章でした。

足の不自由な男の人がペテロによって癒やされて、
歩き出すところですが、
その中で、彼が賛美を捧げている様子が書かれているところに目が留りました。

「人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の『美しの門』にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。」(9-10)

人々を驚かせるような賛美。
その様な賛美を自分は捧げているだろうか、
神さまにふさわしい賛美を捧げているだろうか?

ただ、自己満足のために、
自分が大きい声を出して気持ちがいい、というためだけに、
歌を歌っていないだろうか?

歌はいい。

でも、賛美は神さまにささげるもの。

カラオケで発散させるのはいい。

でも、いつだったかな。とても虚しいものを感じたことがある。
日本で高校生の付き添いをねだられて、行った時かな。
カラオケボックスで歌いながら、
なんだろうなあ、と思ったことを思い出した。
歌詞と心が一つになっていなかったんだね。
好きな歌だったのに、どうしてか、自分の気持ちとぴったり行かなかった。

やっぱり賛美はいい。

心から捧げられるからいい。

心から溢れる賛美を捧げたい。

そう思いました。

神さま、
今日の一日を感謝します。
あなたと共に歩んだ一日に感謝します。
教会で過ごした一日に感謝します。
これからの歩みの中で、
日々、心に賛美がわき上がってくるような、
人々が驚くような、
その様な賛美をさせてください。
必要な休息を与えて下さい。


2006-10-07

聖霊が注がれる

あっという間に夜です。
でも、今日は何か気分がいいです。

というのは、日本から帰ってきてからずっと気になっていた、
バスルームの蛇口からポタポタと流れ出るお湯。
どんなに締めても止らなかったんです。
そして、自分で直そうと思っても、ねじ山が潰れたり、
中の構造がどうなっているか今ひとつ分からなかったりで、
時間がかかっていたのですが、
今日、ねじ山が壊れたヤツを何とか壊して、
分解して、元に戻してみたら、何と水漏れが止ったではありませんか。

うーん、不思議。

どうしてか分かりません。

どうして水漏れしていたのか、
どうしてそれが止ったのか、
分かりません。

でも、とにかくよかった。


いろんなモノ分解するのは好きですが、
分解して、元に戻らなかったら、どうするんだろうと思いますよね、

特に水回り。

だって、
分解して元通りにならなかったら、元栓開けられないし、

元栓を止めたら家中の水が出ないし、

お客さんもいるのにどうしよおおおお!

と恐る恐るでした。

めでたしめでたし。

今朝の祈り会、よかったですよ、人数は少なかったですが・・・。

教会堂が与えられるように祈りました。

天の窓が開かれて、すべての必要が満たされますように。

私たちの神さまは全能の神さまですから・・・。


ということで、今日の聖書箇所。
今日は使徒の働きの2章を読みました。
ペンテコステのところ、聖霊様が教会に注がれたところです。

その中で、

18節の言葉が心に留りました。

「その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」

聖霊様が私たちに注がれている。
私たちには聖霊様が与えられていることは確か。

でも、本当に「注がれている」ということができるんだろうか。
満たされていると言うことができるのだろうか。

もっともっと求めることを主は望んでおられるのではないだろうか?

「注がれているんだからいいんだよ」という態度は違うのではないだろうかと思った。
もっともっと主よ、注いでください、と思わされた。
ただ、このペンテコステの時に起ったようなすばらしい神の業が起るようにと願った。

主よ、
どうか聖霊様を与えて下さい。
注いで下さい。
満たして下さい。
そしてあなたのことを語らないでいられない者としてください。
今夜の休みを祝福し、
明日、喜びに満たして、礼拝を守らせてください。



祈りに専念する

昨日からぐーんと涼しくなりました。
この週末から来週前半くらいはまあ、
こんな感じか、もうちょっと暖かいようですが、
来週後半からぐーんと寒くなるみたいです。

まあ、もう再来週は10月後半ですから・・・。

今から13年前かな。93年の10月はアトランタにいましたが、
そのハローウィンにはアトランタで小雪が舞っていましたから・・・。

昨日の午前中の集会のあと、
何でか熊の話になって、
北海道に行った時の「熊に注意」の看板のことを思い出しました。

今から15年前。
日本の教会で副牧師をしていた時。
主任牧師の先生に許可をもらって、
若者達を連れて車で北海道の教会を回る旅に行きました。
観光と「伝道」をかねて・・・と思ったのですが、
実際のところ、北海道の教会の皆さんに励まされる旅でした。

熊の看板があったのは支笏湖のそばの「苔の洞門」
写真がどっかにあると思うのですが・・・
家の中を捜すよりwebを捜した方が早いので・・・
これです。

これ、下の方の「それでも熊に出会ったら・・・」っての、
けっこうインパクトありました。
だって、「これはダメです」「これをすると襲われる」って感じで、
じゃあ、いったいどうしたらいいの?と思いますよね。
「死んだふり」も「木に登る」ってのもダメなんですよね。

まあ、総合的に読むと、
「目を離さないで、背中を見せないで、熊が興味を持ちそうなモノを落としながら後ずさりする」
ってことでしょうか?
でも、最後の文章を読んでも、「時間が稼げます」で終わっているところがコワイ。


昨日は「蜂蜜持っていったらいいんじゃない?」という話もありましたが、
熊に出会ってから、カバンの中を捜して、蜂蜜を見つけて、そのふたを開けて・・・ってやってられるかなあ、と思います。


まあ、熊に出会うって、大変なことなんですよね。やっぱり。


お気をつけください。


NJで出る熊はヒグマほどこわくはないんでしょうが・・・。


金曜日の聖書。
「使徒の働き」に入って第1章。
口語訳では「使徒行伝」、新共同訳では「使徒言行録」
でも、今回は新改訳で読んでいるので、「使徒の働き」です。

1章の14節の言葉が心に留りました。

「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、
みな心を合わせ、祈りに専念していた。」

「祈りに専念する」
ってすごいですよね。

そのことだけやっていた。
自分はやったことあるだろうかと、振り返らされた。
いろんなことに追われて、
祈る時がまた貧しくなっていないだろうかと。

今読んでいる本のように、
「祈れないほど急がしい?」
ってか。

今日は明日の礼拝のために祈りながら、説教の準備をしていますが、
そういうことを抜きにして、祈る時、必要だと思います。

「祈りに専念する時」必要だと思います。

神さま、
また祈りに招いてくださってありがとうございます。
祈ることに専念する時が自分には必要だと思います。
どうか今晩の祈りを、
明日の朝の祈りを豊かな一時としてください。
あなたにお会いした喜びと感謝に溢れて、
明日の礼拝で皆さんにお会いすることができますように。

終わっちゃいましたね

なんか、あっけなくおわっちゃいましたねえ。
ものすごいメンバーだったんですがね。
2戦目で逆転されてから、全然打てなくて。
勝負の世界はわからないもんです。
でも、勝ち負けだけではなくて、
エキサイトする瞬間が全然なかったのが、残念だったかな。

まあ、寝不足とかにならなくていいんですが・・・。

あとで、昨日の分と今日の分、更新します。(^_^)

2006-10-06

今日はお休み

今日は遅くまで集会でしたし、
明日は早朝祈祷会ですので、
今日の更新はお休みです。

また明日。

また負けましたね。

もう後がありません。
明日はしっかり勝って欲しいな。

2006-10-05

主の栄光をあらわす生き死に

今日、野球は昼間だったんですね。
負けちゃったみたいですね。

明日も集会中ですね。

まあ、いいか。

朝の集会はたくさんの方々が来られて、
また歌とお話もとてもよかったです。
その後も、皆さんゆっくり過ごされました。
感謝。

明日の朝は歌手の方は他の教会に行かれます。
私の方は自分の教会の集会です。
それもまた楽しみです。

今日はさっそく聖書の言葉。
ヨハネによる福音書21章を読みました。
ヨハネによる福音書の最後の章です。

そこに、ヨハネ自身の注釈がイエスの言葉に付けられています。
「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。」
19節の言葉です。

イエスが、ペテロがやがて手を縛られて、行きたくないところに連れて行かれるだろう、
とのイエスの言葉に対して、ヨハネが書いた言葉です。

「神の栄光を表す死に方」と言うことを考えさせられました。

今週の月曜日はペンシルベニア州のアーミッシュの村で、
学校に押し入った男に5人の女の子が殺されるという痛ましい事件が起りました。
手足を縛られて、黒板の前に並ばされて、
処刑をするように撃たれていった女の子達、
想像するだけで、本当に心が痛みます。

自分の子供がもしもそんな目にあったらと思うと、
また自分自身がもしもそんな目にあったらと思うと、
恐ろしくて、体が震えます。

でも、犠牲者の家族はアーミッシュの信仰の中で、
神の御手を信じました。
犯人への憎しみを口にしませんでした。
犯人の家族が弔問に来ることをも、拒みませんでした。

納棺の時に、遺体を前にして、犠牲者のおじいさんが、
「決して、これによって、犯人への憎しみに支配されてはいけない」と語ったそうです。

また、犯人、彼にも熱心なクリスチャンの妻がおりました。
3人の子ども達もいたと言います。
彼らはどんな思いで過ごしているでしょうか?
でも、そこにもサポーターが与えられて、共に祈る仲間や牧師が与えられているそうです。

昨日の夜のCNNのLarry King Liveで、
犠牲者、加害者を取り巻く多くの人々が、インタビューを受けていました。

当然憎しみを感じていいところで、
憎しみを感じても、誰にも非難されないところで、
あえて憎しみに支配されないで生きる彼らに、
心からの尊敬を覚えました。


私は「神の栄光を表す死に方」をできるだろうかと思いました。

私の死によって、人々の心が神さまに向くような、その様な死を経験したいと思いました。
もちろん、それは私自身が見ることはできないのですが・・・。
自分にはどうにもできないことですが・・・。

だから、神さまに助けて頂きたいと思いました。

主よ、
どうかわたしがあなたの守りによって、
あなたの助けによって、
「神の栄光を表す死に方」をすることができますように。
神さま、私を助けてください。

そして、生きている時にも、
もっと神さまの栄光を表すような生き方ができますように。

2006-10-04

なぜ泣いているのか

中止になっちゃいましたね。野球。
まあ、お天気牧師的に言えば、正解。
今11時ですが、我が家の方では雷が鳴って、激しく雨が降っています。
やってたら、終わるのは夜の2時とかになっていたことでしょう。

明日の夜の方がゆっくり見れるし・・・(自己中心)・・・
いや、待て、Back to School Night、最後の1人のが残ってた!帰るの10時前だ・・・。
でも、まあ、10時から見るくらいがちょうどいいか。

今日の夜はゴスペルシンガーの方が、NYの日系人会のホールで歌って下さいました。
声の調子は悪いようでしたが、
その歌と語りの中にとても力強いメッセージが込められていて、
集われた方は一握りだったのですが、後で伺うと、お1人1人にとってタイムリーな集まりだったようです。
感謝。

だから、結局人数ではないんですよね。
もちろん、いつもいつもたくさんの方々に来て頂きたいけれども、
おいでになれた1人1人にとってそれがいい時になれば、それがいいことなんですよね。
神さまがその様にして下さったんだと思いました。

朝の集まりにはたくさんの方が来られていましたが、
出かけにいろいろ作業をしていたので、遅刻。失礼しました。
次回からは「パンクチュアルかきごおり」をめざしてがんばります。

今日の聖書。
ヨハネによる福音書20章です。

今日、心に留ったのは、泣いていたマグダラのマリヤに、天使達と、復活したイエスが語った言葉、
「なぜ泣いているのですか」という13節と15節の言葉です。

私たちは、いかに「泣かなくていい」場面なのに、目がふさがれているがゆえに、泣いていることがあるでしょうか?

本当は神さまの御手が、広げられて、私たちが守られているのに、
不安を感じて、慌てていることがないでしょうか?

泣かなくていい。主はその様に言われます。
大丈夫だよ、と言われます。

でも、私たちの目はふさがれている。
私たちの耳は鈍感になっている。

神さまの存在が見えない、
神さまのみ声が聞こえないんですね。

「なぜ泣いているのか」

今も、私たちに語られていると思いました。
私自身に語られていると思いました。

神さま、
あなたが今も共にいて、
「なぜ泣いているのか」と聞いて下さる方であり、
「泣かなくてもいいんだよ」と語ってくださる方であることに感謝します。

私の心の目を開いて、物事の本質が見えるようにしてください。
私の心の耳を開いて、あなたのみことばが分かる者にしてください。

明日の集会の上にも、祝福をいっぱい満たしてください。


2006-10-03

家族とされて

昨日は更新後、間もなく床について、
今朝までぐっすり休みました。

うーん、一日おきですねえ。

今日はお約束の野球を最後の方だけ見て、
その後、明日の朝の集まりの準備をしながら、一冊の本を読みふけって、
遅くなってしまいました。

明日の朝の集まりは、他の教会のプログラムなのですが、
どちらかというと「聖書を読む」ということが目的ではなくて、
文化クラスの最初の15分間、聖書の話をする、というプログラムなので、
いろいろ作戦を考えさせられます。

「ああ、15分遅れていくくらいがちょうどいい」なんて絶対に思われないようにと、
ちょっと意地になっているかも・・・。

なんか、「常識にくさびを打ち込む」みたいな話ができればいいなあ、と思います。
私たちは「これが常識だ」と思っていることがいろいろあります。
でも、こうやって、日本で育って30年くらい経って、アメリカに住んで14年くらい。
ん?足し算するとちょっと多すぎですねえ。でも、まあ、それくらい。
日本では「これ常識」というものが、アメリカではとんでもない話だったりしますよね。

最近一番戸惑うのが、
「つまらないものですが・・・」と贈り物をする日本の習慣。
こちらでは絶対変ですよね。
「何で私につまらないものなんかくれるの!?」ですよね。

逆に「すごいいいのなんだよ!開けて開けて!」って感じ。
自分の場合、完全にアメリカナイズされている訳ではないんですが、
日本式にもものすごい抵抗があります。
でも、やっぱり日本ではそう言っちゃうんですよね。
もちろん、タメ口の親友とかだったら別ですが・・・。

まあ、その手のことなら、「郷に入りては郷に従え」なんでしょうが、

「絶対」だと思っていたことが、異文化に触れることによって「絶対」じゃなくなっちゃうんですよね。

聖書に触れても、そんなことが起る、それをお話しできればと思います。

だから、もう少し作戦を考えてから休もうと思っています。

今日の聖書はヨハネによる福音書19章でした。
イエスが十字架にかけられる場面です。

その中で、今日心に留ったのは、26-27節の十字架の上からのイエスの言葉です。
ヨハネに対して言った「子よ、これがあなたの母です」
マリヤに対していった「おかあさん、これがあなたの息子です」
言葉です。

十字架の上で、イエスは弟子のヨハネに「お母さんを頼むよ」、母親に「これがあなたの息子だからね」と言われたのです。それは一見、「自分が死んでしまうから、お母さんを頼むよ」という言葉に見えますが、それ以上の意味を持っている言葉です。

私たちは十字架の下で、周りの人々を「この人を頼むよ」とイエスから言われているのです。

十字架の元で一つの家族にされて、
お互いの存在を任されているのです。

自分はどこまでそれを本気に受け止めているだろうか、
それをどこまで真剣に受け止めているだろうかと思います。

「個人主義」「プライバシー」・・・それは尊重したいと思います。
でも、その上で、お互いを「神さまから任された存在」として、
一つの家族とされた存在として、
受け止めているだろうかと思ったのです。

教会ではお互いのことを「兄弟姉妹」と呼びます。
○○兄弟、××姉妹と呼んだりします。
でも、それは単なる「夫の方か妻の方か」を言い分けるための便宜上の呼び方になったりすることもあります。
「田中さん」がご夫妻で教会に来られているとしましょう。
そのご主人の方を指す時に「田中兄が・・・」と言って、
奥さんの方を指す時に「田中さん、田中姉の方がさ・・・」
と言ったりします。

でも、本当にお互いを兄弟姉妹として、言葉だけではなくて、受け止めているだろうかと。

家族として、受け入れているだろうかと。

愛することを、敬うことを、尊敬することを、信頼することを
教えて頂きたいと思いました。

神さま、
あなたが私の人生に与えて下さった、
私に与えて下さった、兄弟姉妹を心から感謝します。
どうか、私がその兄弟姉妹を本当に主にある家族の1人1人として、
受け入れ、愛し、尊敬していくことができますように、
本当に、痛みを覚える人がおられたら、
その痛みを、自分の痛みとして感じることのできる者にして下さい。

明日の朝の集まりを祝福して下さい。


2006-10-02

イエスは私たちの王

今朝はまた朝3時に目が覚めました。
一日おきに「よく眠れた!」「ああ、起きちゃった・・・」が繰り返されています。

でも、今日3時に起きたのは、
何か神さまの目的があるんだろうと思って、
ガバッと起き出したら、やっぱり意味がありました。
詳しくは申し上げられませんが・・・。

いつも「夜中に目が覚めるのは、神さまが『起きなさい』と私たちに誰かのために祈らせるために起こしているんですよ」と言っていますが(本当にそう信じています。不眠症の方には不評ですが、それでも、そう信じています)、今朝は「ああ、本当にそうなんだな」と思いました。

神さま、ありがとう。
起こしてくれて・・・。

でも、今日は夜8時にして、もう眠いです。
午後3時頃からずっと・・・。

朝2時間、夕方2時間のドライブだったのですが、
帰りは30分くらいでギブアップ。カミさんに交代しました。

ですから、今日は更新、いつもより早め。
たぶんまた早めに夢の国に旅立ちます。

今日読んだのはヨハネによる福音書18章でした。
イエスが逮捕されて、裁判を受けるところです。
その中で、イエスが、ローマ帝国から派遣されていた総督ピラトに、
「おまえは王なのだな」と聞かれて、
「そのとおり、わたしは王です」と答えたくだりが、心に留りました。

イエスは王になるためにこの世に来られました。
それは武力で人々を治めるためでもなく、
経済力で人々をまとめるためでもありませんでした。

自分を私たちの罪の身代わりとして与えて、
私たちの罪を赦し、愛によって支配するために、
愛によって私たちを支配するために来られたのです。

今、私はこのイエス・キリストを王としているだろうか、と問われているように感じました。

本当に王にしているだろうかと。

生活の中心をこの方にしているだろうか?

この方を第一にしているだろうか?

昨日の礼拝の中で、献金の感謝の祈りを捧げた方がお祈りされていたように、
お金も、健康も、才能も、時間も、すべて神様のもの、
その様に生きているだろうか?

この方を「王」とすることの意味を、具体的に、
一つ一つ教えて頂きたいと思いました。

一つ一つの場面で、「ああ、私はイエスを王としているだろうか」「この決断は、イエスを王としていることと矛盾しないだろうか」と問うて歩んでいきたいと思いました。

忘れやすい、私です。

一瞬一瞬、イエスさまが王であることを覚えていたいと思いました。

神さま、
イエスさまが私の王でいてくださることを感謝します。
具体的に、私の生活の中で、
何が、「イエスを王とする」ことなのかを、
教えてください。
一つ一つの決断の場面で、
「イエスを王である」という前提で、決断をしていくことができますように。
傀儡の王ではなくて、形だけの王ではなくて、
「王」の権威を語ってわがままをするのではなくて、
あなたを本当の王としてあがめていけますように。

2006-10-01

一つになる

3週間ぶりのJCCNJでの礼拝。
やはり「帰ってきた!」という感じです。
心から主を賛美しました。

今日のメインイベントは、

洗礼式。

1人のご婦人が洗礼を受けられました。

祈られてきた、1人のクリスチャンの方のお母様。

喜びの中での受洗となりました。

その前の一つの集まりで数年前に洗礼を受けられたある方がおっしゃってたこと。
「私が洗礼を受けて変わったことが一つあります。それは次に洗礼を受ける方が起った時に、
それがとてもうれしかったことです。それは私にとって、驚きでした。」
感動しながら、その一つ一つ言葉を選んでお話になる言葉を聞いていました。

神さまのなさる奇跡ですね。

今日、洗礼を受けられた方は、
住んでおられるところがちょっと遠いので、
いつもいつもご一緒に聖書を読んだり、
礼拝を守ったりできないことが、
ちょっと残念+心配でもありますが、
「主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。」(使徒29:32)の思いで、
祈っていきたいと思います。

みことばが守り、導き、支えて下さいますように。

今日の聖書は、ヨハネによる福音書17章です。
最後の晩餐の中で、イエスが祈られた祈りです。
神に弟子たちの守りを祈られた言葉が書かれています。

その中で、今日、私の心に響いてきたのは、
20節の言葉です。

「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」

ここで、イエスが祈られたのは、弟子たちのためだけではなくて、
私たちのためでもありました。
いつも聖書を読む時には、弟子たちへの言葉は私たちへの言葉として受け取ります。
でも、このイエスの言葉は、直接的に、私たちのために祈られた言葉なのです。
感動を覚えました。

イエスさまが私たちのことも心にかけて祈って下さった。
私たちのことも心にかけておられる、ことが本当によくわかりました。
そして、その祈りは「彼らが一つになることです」という祈りです。

「一つになる」

そして、私たちが一つになった時に、周りの人々にたいする影響を持つことができるというのです。

どうすれば一つになれるのでしょうか?

それを思いめぐらしました。

それは誰かが大きな声を出して、
他の人がその人を恐れて黙ってしまうことによる一致ではないはずです。
余りお互い言いたいことを言わないで、「いいでしょう」という一致でもないはずです。

神さまの前にへりくだる一致。
神さまの前にひれ伏す一致。
それを求めていきたいと思いました。

自分の願い、自分の夢、自分のビジョンがすべて砕かれて、
神さまの御心を求めていく中での一致。

主がそれを与えて下さることを祈っていきたいと思いました。

主よ、
あなたが私のことを、私たちのことを心にかけて下さっていることに感謝します。
どうか、あなたが祈られた一致を、私たちに与えて下さい。
あなたの前にへりくだった一致を与えて下さい。

2006-09-30

勇敢でありなさい

9月最後の日ですね。
ものすごい勢いで9月が駆け抜けていきました。
このまま、気がついたら、「ああ、もうクリスマスか!」なんてことになっているかと思って、
恐くなります。

ちなみに今年は「クリスマス・イブ」が日曜日。
さて、どんなプログラムになるのでしょう・・・。早く英語の先生と打ち合わせしとかなきゃ。

昨日の夜は、「時差ぼけなんて関係ない!」と豪語していたのですが、
その後夜の1時半にに寝たのに、目が覚めたのは午前3時。
そして、午後やたら眠い。

うーん、完璧昼夜逆転ではありませんか・・・。

今朝はとても寒くなりました。
予想の7度Cをさらに下回って、家の温度計では5.5度Cまで下がりました。

どんよりと曇って途中から小雨も降る一日でした。

うーん、雨男かな。

明日の日曜日も雨の予報が出ています。
それもかなり本降りのようです。

昨日、かなり気合いが入って長くなってしまったので、
今日はあっさりと・・・

今日の聖書はヨハネによる福音書16章でした。
「最後の晩餐」でのイエスの話のまとめの部分です。

「私が去っていっても、別の助け主、すなわち、聖霊を送るから、心配するな」という話です。

その中で、今日一番心に響いたのが、
最後の聖書の言葉です。
「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」33節。

この「勇敢でありなさい」という言葉に励まされました。
私は本当に小心者だと思います。
臆病だと思います。
だから、このような言葉が必要なんだろうと思います。

「勇敢でありなさい」

恐れなくていい。
おもいわずらわなくていい。
勇敢に進んで行きなさい。
その様に語られたように感じました。

いろんな苦しいことや、
悩むこともあるかもしれない、
でも、そんな中でも、「私はもう勝っているから」という方がおられるから、
そうなんだよね。
もう勝負はついている。
だから、心配しなくていい。

大胆に進んでいこうと思います。

主よ、
あなたと共に過ごす時の幸いを感じます。
いろんなことで心が乱れます。
あなたの御声をいつもいつも聞きながら、
進んでいくことができますように。
他の雑音に捕らわれてしまうことがありませんように。
みことばにいつもいつも聞いていくことができますように。

2006-09-29

友と呼ばれて

NJに戻ってきてから30時間くらい経ちました。

昨日は12時に寝て気がついたら9時でした。ちょっと寝坊。
でも、おかげで時差ぼけは軽くて済みそうです。

日本にいた時には、「NJに帰るのかぁ」って感じでしたが、
今は、もう2週間あまりの日本での滞在の現実感が薄れ始めています。
「2日前には日本にいたんだよねえ・・・」という感じです。

日本では、コンビニだけじゃなくて、100円ショップも行きなよ・・・と言われたのですが、
一歩も足を踏み入れられずに終わってしまいました。

ちょっとだけ、残念。

コンビニは初日に行ってから、なかなか行く用事もチャンスもなかったのですが、
最終日の前の日、ちょっとだけ立ち寄りました。

そしてちょっと捜したのが、男物のパンツ。

そう、パンツ。

英語のpantsではなくて、日本語の「パンツ」。

やっぱりちゃんとありましたよ。

そう、確か日本のコンビニにはあるよなあ、と思っていました。

実は・・・

9月2-4日のファミリーキャンプ、1日早く行っていたのですが、着く前に気がついたことがありました。

英語のpants、日本語の「ズボン」の替えを持ってこなかったことに・・・。
ヤバイ、3泊だもんなあ・・・すぐ食べ物こぼすしなあと思いつつ、ホテルに向かいました。

そして、カバンを開けて、「やっぱりないよなあ・・・」と思いつつ調べて、
もっとすごいことに気がつきました。
日本語の「パンツ」の替えを忘れたのです!

これはヤバイ!

話には、「2日目には裏返して、3日目には前後ろを逆さまにして、4日目には・・・」と言いますが、
さすがにそれは無理でしょう・・・。

・・・

うーん、やっぱり、さすがにね。(おい、考えるな!)


救いは何もない砂漠のど真ん中、ではなかったことです。
車で10分走れば、ショッピングモールがある。
でも、2日の午後のプログラムが始まってしまったら、もう買い物になんか出る暇がない。
でも午前中も牧師の研修会があるし・・・

と思って思いついたのが、

普通のグローサリーストア(スーパーマーケット)にも、
ちょっとは置いてあるだろう・・・。
大体7時頃から開くだろうから・・・。

と朝早く行ってみました。

でも、ない。

靴下止まりです。

靴下はあるんだけどなあ・・・。

下着も、お店によっては、なぜか、女ものならあります。

・・・・

でも、それもヤバイよなあ・・・。
(だから、考えるな!って)
てゆうか、それは「履かない」よりももっとヤバイでしょう。

帰り道に目に留ったのは「7イレブン」。
開いてる。一応アメリカでも7時には開くみたいです。ハイ。

ちょっと期待して、入る。・・・だって、確か日本の「7イレブン」にはあったから・・・「パンツ」。

入ってすぐ、「あ、こりゃダメだ」と気がつく。

典型的なアメリカの「7イレブン」より、さらにモノがない。
なぜか軍手はあるが、「パンツ」はない。
ソーダマシンはでかいのがどーんとあるのですが、
肝心の「パンツ」はないんですねえ。

ちょっとでも期待した自分の愚かさを感じました。

結局、牧師研修会をちょっと中座して、10時から開く店で買ってきました。「パンツ」と「pants」。

うーん、最近、ちょっと忘れ物がひどすぎるかな。

でも、そんな時、日本のコンビニがこっちにあったら・・・とマジ思います。

今度近所に「日本のコンビニがオープン!」とかあったから、
今度調べてみよう。ちゃんと「パンツ」があるかどうか・・・。

今日の聖書はヨハネによる福音書15章でした。
最後の晩餐の中のイエスの言葉が続きます。
今日のところは「私はまことのぶどうの木、あなたがたはその枝です」というところです。

その中で、イエスの次の言葉が心に留り、祈らされました。

「わたしはあなたがたを友と呼びました。」
15節の言葉です。

イエスさまが私のことを「友」と呼んでいてくださる。
友と呼んで親しく過ごそうとしておられる。
それなのに、私は神さまとの時をどれくらい楽しみにして毎日を送っているだろうか?

祈りの生活がもっともっと豊かなモノになるようにという熱い思いが与えられた。
もっともっと親しく神さまと時を過ごしたい。
もっともっと豊かな時を過ごしたい。
その様に思いました。

そして祈りました。
あなたとの交わりの時を、
あなたに祈る時を、もっとゆっくり、もっと豊かに持たせてください、と。

日本で教会図書用に買ってきた、
「祈れないほど忙しい?」という本、
まず、皆さんに回す前に最初に自分から読みたいと思い、読み始めました。
自分にこそ、本当にそれが必要だと思いました。

主よ、
私を祈りに導いてください。
あなたがせっかく「友」と呼んでくださったのですから、
あなたと共に時間を過ごさせてください。
あなたと共に歩む喜びに溢れさせてください。
霊的なものに、あなたの愛に、あなたの導きに私の焦点を合わせていくことができますように。

2006-09-28

ほんの一握りの人にでも

その3

半分くらいまで来ました。
NJ時間で木曜日の朝の9時半頃です。
今日は祈り会の日ですね。
皆さんが集まって祈って下さっていることに心から感謝します。

木場深川教会でも木曜日の朝に祈り会をしてから出てきました。
TCATまで車で10分くらいのところに実家(=教会)があるので、
4時過ぎの飛行機に乗るためには、11時半頃出ればいいのです。
そこで、「10時からの祈り会でメッセージをして行きなさい」ということになった訳です。

10人くらいのご婦人方が集まっておられました。共に祈りました。
その輪に加えて頂けることはうれしいことです。
またご奉仕をさせて頂くこともうれしいことです。

教会の原動力は祈り。
何度も語ってきました。
でも、自分の祈りの生活はまだまだ貧しいなあと思います。

今回も日本に来て、皆さんにお会いしたり、お電話でお話しする中で、
「祈っていますよ」「祈りますからね」と言わないではいられない、
決して単なるご挨拶ではなくて、祈りたいと思わされる状況があります。
日々の祈りの中で、お一人ひとりのことを祈り続けたい。おぼえ続けたい、そのように思います。

今日のNJでの祈り会の祝福を祈りつつ。

やっと追いつきました。
木曜日、今日の聖書箇所。
ヨハネによる福音書14章です。
ここも最後の晩餐でのイエスの言葉が書かれているところです

その中で、弟子のひとりが言った言葉が目に留りました。
22節です。

「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」

どうしてなんだろう?と思いました。
イエスはたくさんの人々に語られました。

でも、弟子たちには特別に語られました。
特別にご自身の深い思いを分ち合われました。

それがイエスの方法だったのだと思います。

私もそのようにさせて頂きたいなあ、と思いました。

一度にたくさんの方々に語ることも大切な働きだと思います。
たくさんの方々が神の愛を知り、イエスを「主」として従っていく歩みに導かれたらいいと思います。

でも、それと共に、ホンの一握りの人々だけかもしれない、でも、本当に深い深い神さまの愛を分ち合っていく、
そのような伝え方ができて、その聞いた人々がまたホンの一握りの人々かもしれない、でも、本当に深く深く、神さまの愛を分ち合っていく、
それが広がっていったらいいなあ、と思います。

有名な話です。

王様が3人の娘に何でも欲しいものを言いなさい、と言われました。
上の2人はたくさん求めました。何だったか忘れました。

でも、一番下の娘は1日目にはコインを1枚、2日目には2枚、3日目には4枚と毎日倍々に増やしていって、それを1ヶ月間続けて欲しいと言いました。
王様は、「何だそんなんでいいのか?」と思いました。
でも、1ヶ月経った時に、姫はコインを何枚もらっていたんでしょう?ちょっとエクセルで計算してみますね。

1073741823枚
10億7374万1823枚です!

すごい!

そのコインが1円玉でも10億円ですよ。
10円玉だったら100億円。
100円玉だったら1000億円です。

ネズミ講が禁止されているのは当然。
チェーンメールをやってはいけないのも当然ですね。

でも、すごいですね。
だから、一遍にたくさんの方々に語れなくてもいい。
確実に何人かの方々に伝えていけば・・・。そう思います。
そしてその何人かの方々が同じように、何人かの方々に語りたい!と思うように導かれていく。それが大切なんだなあ、と思います。

主よ、
どうかわたしを用いて下さい。
派手な働きはできなくてもいいです。
ホンの幾人かでも、確かに福音を伝えることができますように。
そしてそのひとりひとりが確かに福音を伝える器に整えられていきますように。

愛すること

飛行機の中その2。

今アラスカ上空にさしかかったところです。

アラスカと言えば思い出すことがあります。

今から11年前かな。
学生でNJに住んでいました。
このころはほとんど毎年、日本に帰ってアルバイトをして学費と生活費を稼いでいました。
といっても、国家資格を持っているカミさんの方がすぐ決まって、
私の方は日曜日の新聞に折り込まれる求人情報から短期バイトを探したり、
お中元バイトをしたりしていました。
翻訳の仕事もちょっと・・・。

そんなんだったので、
一度、なるたけ安く帰ろうと、Korean Airのソウル経由便というのを使いました。

直行便より、ひとり100ドルくらい安くて、4人で400ドルくらい。バカにできません。

でも、1歳と4歳を連れて、さすがにきつかったですね。
九州の方とか、成田経由もソウル経由も変わらないでしょうが、
どうせ成田に行くのに、何でソウル経由?って感じでした。

行きは、JFK→ソウル→成田だったのですが、
帰りは、成田→ソウル→アンカレッジ→JFKだったんです。

それで、アンカレッジの空港内でぶらぶらした、それが唯一のアラスカ経験です。

これからはオーロラの季節でいいんでしょうが・・・いつか見てみたいです。オーロラ。

本題はこれから・・・

この時、チケットを買ったのが、
新聞に載っていた無名の旅行会社。
それもクレジットカードは取り扱わない、と言います。
あやしい。
そんなの絶対にやめたほうがいい・・・と今では思います。
でも、このころ、やっぱり400ドルに目がくらんでしまったんですね。
3000ドルか2600ドルかって感じなんですが、2600ドルを取ってしまったんです。

チェックを送ったのですが、
チケットが待てど暮らせど送ってこない。
電話をすると、「明日送るから・・・」
3日経っても送ってこないから、もう一度電話すると「明日送るから・・・」
そば屋の出前状態・・・(おそば屋さんゴメンナサイ、本気ではないですよ。慣用句です。)
もうそれからは毎日電話しましたよ。「今日送ったか?」「明日送る・・・」「今日は送っただろうねえ」「明日送るから・・・」
これ以上待ったらヤバイ、というか、もう飛行機まで何日もない・・・
とうとう、「いいから、取りに行くから・・・」とNorth Bruinswickのオフィスまで取りに行きましたヨ。

ところが受け取ったチケットは見たこともない、「手書きのチケット」。
「ホントに大丈夫かい?」と飛行機に乗るまでハラハラしました。
無事に乗れた時、どんなにうれしかったことか。

でも、話はそれでは終わりませんでした。

8月の終わりにNJに帰ってきたのですが、
10月か11月か、警察から手紙が来ました。

「North Buinswickの××旅行会社を営業していた○○は、詐欺容疑で摘発された。オフィスを捜索したところ、あなたの名前が顧客リストにあったけれども、あなたは被害に遭わなかったか?」

ぞっとしましたねえ。

そして、しつこく「まだか」と電話し続けてよかったと思います。

それから、新聞広告は信じません。どんなに安いチケットが出ていても、信じません。
「クレジットカードは取り扱わない」という旅行社は決して使いません。ってゆうか、今は日系しか使っていません。

長くなりました。

水曜日の聖書。
ヨハネによる福音書13章を読みました。
最後の晩餐に入りました。
イエスが弟子たちの足を洗って、そして語られるところです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

この34-35節のイエスの言葉が心に留りました。

愛し合うこと。
それがイエスの弟子のしるし。
まず、夫婦のことを考えました。
愛することを教えてください。と主に祈りました。

そして、教会の皆さんのことを考えました。
自分のことで精一杯になりやすい自分。
本当に人を愛することを教えてください、と主に祈りました。

そして、NJに住む日本語を使う方々のことを思いました。
もっともっと神さまの愛を伝えたい、出会いの場を与えて欲しいと祈りました。
日本の方々のことを思いました。
祈ること、声をかけること、お便りをすること、お電話をすること、
具体的に何かをすることの大切さを思わされます。

主よ、
愛することを教えてください。
あなたが私を愛してくださったその愛で、
人を愛することができますように。
あなたが愛してくださったような愛し方を私にもさせてください。
自己中心な者です。
自分を与える愛を与えて下さい。

神の御心を求めて

日本での2週間を終えて、
飛行機の中です。

更新はNJに着いてからですが、
できる限り追いついていたい+例によって飛行機の中ではほとんど眠れないので、
今のうちに書いておきます。

今日の成田は混んでました。
今まで経験のない様な混み方。
特に乗った飛行機会社が、10分間隔で、ヒューストン便、グアム便、ニューアーク便と連続していたからでしょうか。

チェックインまでに1時間はたっぷりかかりました。

今回ばかりは「3時間前までに空港へ」というPRはまんざらでたらめでもないなあ、と思いました。

火曜日の聖書。
ヨハネによる福音書12章です。

イエスがいよいよ十字架に向かって進んでいくところです。

その中で心に留ったのはこの言葉。

「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」

これは、イエスを心では信じたのに、周りの人々を恐れてそれを公に言い表すことのできなかった役人達のことを指してヨハネが記した言葉です。

神からどう思われるかよりも、人からどう思われるかを第一に考えてしまう私たちの弱さ。甘え。
神さまは目に見える訳でもなく、耳に語りかける訳でもない。
でも、人の言葉は耳に響く、人の顔色はよくわかる。

だから、

「神さまは赦してくださるよ」と勝手に考えて、言い訳をして、
人にどう思われるかの方を優先していないだろうかと思わされた。

神さまを求めながら、
神さまがどう思われているかを聖書に求めながら、
歩んでいきたいと思う。

神様の喜ばれることを求めていきたいと思う。
それも、また「自分勝手」になりやすいことも思わされる。

自分の願いを神さまの御思いに押しつけて、
人の声を聞こうとしない。

ああ、自分はどこまで身勝手で、どこまで人を恐れる人間かと思う。

本当に純粋な気持ちを与えて欲しい。
人を恐れない勇気を。
そして、自分のわがままに陥らない謙虚さを。

主よ、
助けてください。
私はいつも「自分勝手」と「人の顔色を恐れる」ことの狭間に揺れていないでしょうか?
「人のことを考える」と思っている時も、結局人のことを考えているのではなくて、
「自分がどう思われるか」を第一に考えて、逃げている時があります。
どうか、あなたの御心を純粋に求めるものとしてください。
あなたのみ声を聞かせてください。

2006-09-27

「死」への勝利

いよいよ今日、NJに戻ります。
24時間後にはNJの地を踏んでる訳です。
今回の日本、2週間余りでしたが、
かなり短く感じました。

お会いできた関係者は60人くらい。
お会いできなかった方々もたくさんおられるので、もっともっと長い期間いたいとも思わされます。
でも、今は電話もメールもいろいろあって、
もっともっと日常的に、日本の方々といつも連絡を取っていたい、
いつも励まし合っていきたいと思わされる2週間でした。


その一方で、日本に来る前に、NJでは、
「最近NJ(NY)に引っ越してきました」という方々が何人かおられました。
そして、私がこちらにいる間にもそういう方々がおられたと連絡が入っています。

帰ったらどんなことが待っているかと思うと、ちょっとこわく、また楽しみ。
書きながら、今、私が与えられているフィールドはNJなんだなあということを、もう一度思わされています。

今日の東京は最高気温の予想が28度C。
NJに着いた日はまだいいようですが、金曜日の夜の気温は7度Cまで下がるようですね。
ガソリンも下がっているようですが、温度も下がっていますね。
さ、覚悟していこうっと!

では、月曜日の聖書箇所。
ヨハネによる福音書11章でした。

「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて・・・」
と33節にあります。

この章は、わたしたちにとっての「死」の絶対性、その絶望感、
それに対してイエスが、チャレンジをなさって、
死を打ち破る方としてそこに立っておられることを示しています。

そして、イエスは周りの人たちの「もっと早く来て下さったら・・・」という思いに反して、
「あえて、ゆっくりしていた」と語られます。
そして、人々が嘆き悲しんでいる姿に怒りと動揺をおぼえられるのです。

「罪」が人に対して与えた悲劇、
「死」が人に与えた悲劇、を目の当たりにして、
怒りをおぼえられたのです。

そして死を打ち破る方として、ご自分を表されました。

先日も、キリストを信じる者たちが持っている特権として、
「死への恐れからの解放」ということを感じさせられました。

主が共にいて下さる。
主が迎えて下さる。
その希望のゆえに感謝します。

主よ、
2週間を感謝します。
どうか、あなたが、私と共にいて下さるのと同じように、
日本におられる多くの兄弟姉妹と共にいて下さい。
そして、ひとりひとりを縛っているものから、解放してくださいますように。

私を知っている方

すっかり秋になった東京。
でも、まだ私は半袖で十分です。
歩き回っていると、汗ばむくらいです。

そんな東京ですが、もう、ブーツを履いているご婦人方が時々おられます。

ずっと気になっていたのですが、
今日は雨だったせいもあるのか、
地下鉄に乗った時に、車両の中に3人ものブーツを履いたうら若き女性が・・・。

今年の秋のトレンドは「ブーツ」なのでしょうか?

それとも、東京は「9月になったら、とにかくブーツ!」なんでしょうか?
近所の「イトー○ーカドー」の靴売り場でも、ブーツをtryしている方々が何人もおられました。

それだけではなく、日本の方々、とってもファッショナブルだと思いました。

あ、もちろん、NJの皆さんもとってもすてきですよ。ハイ。

日曜日の聖書箇所。
ヨハネによる福音書10章でした。

イエスが「わたしはよい羊飼いである」と言われたところです。

その中の一番心に留った言葉、

「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」

すごくうれしく思います。
わたしのことを知っていて下さる。
困ったなあ、と思ったこともありましたが、
今は、本当にそうか、知っていて下さるのか、と思うと、
ほっとしますし、勇気が出ます。

わたしの弱さを、わたしの愚かさを、知っていて下さる。

知っておられるのに、赦し、生かしてくださっている。

赦されて、許されて、今あるんだなあ、と思います。

そして、私たちもイエスを知る。と。

もっと知りたいと思いました。
もっと近くありたいと思いました。
もっと深く深く、主のことを知りたいと思いました。

主よ、
あなたがわたしのことを知っていてくださることに心から感謝します。
わたしももっともっとあなたのことを知りたいと思います。
主よ、あのアブラハムに、モーセに、ご自分の思いを分ち合われたように、
わたしにも分ち合ってください。
あなたの思いをわたしにも、「腹を割って話す」ように、教えてください。


2006-09-26

見える?

月曜日は初仙台。
東北の他の地のもお伺いしたくて、いろいろ方法を探ったのですが、
日曜日の夕方と火曜日の朝の集会に挟まれた隙間を使っての訪問だったので、今回は断念。

ご訪問と交わりの一時を持たせて頂きました。

そして、ちょっと街中も案内して頂きました。

そしてこの石碑。


広瀬川にかかる橋のたもとにある殉教者の碑です。
江戸時代のキリシタン弾圧の中で、
2月の川で水責めにあって殉教した信仰の先輩達を記念して建てられたものだそうです。
真ん中がポルトガル人の宣教師、右が農民、左がお侍さんです。
十数名の方々が殉教したそうです。

ちょうど前の晩、横浜での小さな集まりの中で、
「殉教者って私たちは長崎とか、九州の方を想像するけど、江戸でもたくさんの方々が殉教したんですよね。そういうところを巡るツアーに参加してきたんですよ」という話をお伺いしたばかりだったので、かなり感動。

自分だったらどうするかなあ、ということを考えさせられます。
一本筋の通った信仰者でありたいと思いました。

土曜日の聖書箇所。
ヨハネによる福音書9章でした。

心に留ったのはその最後のところ、41節の
「しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」というイエスの言葉でした。

「もうわかっている」という思い、
「自分は大丈夫だ」という思い、
それが問題だとイエスは言われるのです。

自分はどうだろうかと思いました。
自分はわかったつもりになっていないだろうかと思いました。

いつもいつも主に求めて、
いつもいつも主に聞いて、
語って頂いて、感動して、感謝して、
その上で語る者となりたいと思います。

主よ、
あなたの語りかけを求めます。
あなたが私の目を開いて下さることを求めます。
どうかわたしの目を開き、あなたの言葉を語ってください。
私の心にあなたの満たしを与え、
感謝に満たしてお用い下さい。

2006-09-24

自由

今気がついたのですが、
これって、日付とか調整できるんですね。
知りませんでした。

今までずっと、投稿を書き始めた時間で、日付が付くと思って、
一生懸命その日のうちにコンピューターに向かっていました。
まあ、これからもそれでいいと思うのですが、
ちょっと時間が過ぎてしまっても、前の日の日付で出るようになるんですね。
9ヶ月も知らないで来ていました。

木曜日の朝には、
奈良に帰国されたご婦人とご一緒に、
明石に帰国されたご婦人をご訪問しました。
奈良と明石は関西でも西から東へとちょっと離れていますが、
大きーく考えると、やはり同じ文化圏。

いやあ、関西のご婦人方が言葉を掛け合うのって、
いいですよね。ほほえましいというか。
NJにおられた頃は、かなり押さえていたんでしょうか。
優しい、暖かい、そして、調子のいい関西弁がコロコロ転がるってかんじ。
テレビで見る芸人さんの関西弁とは違って、
本当にここちよいものでした。

電車に乗っていても、
ご婦人方がお話ししている言葉は、とってもきれい+暖かい、と感じました。

関東の人間(・・・ある関西人には「先生は結構関西のにおいがする・・・」と言われましたが・・・それって、ほめ言葉ですよネ?それとも歓迎のご挨拶?)にとって、
テレビで見たり、聞いたりするアクの強い芸人さんのイメージが強すぎで、
ちょっと誤解している部分もあったかなあ、と思います。

私が関西に行っている間、東京も天気がよかったようですが、
こちらに帰ってきたとたんに、
今夜からまた雨だそうで・・・。

帰る木曜日には晴れるそうで・・・。

やっぱり雨男?

金曜日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書8章でした。
32節の言葉が心に留りました。

「真理はあなたがたを自由にします。」

自由っていい言葉です。

でも、難しいことです。
「わがままが通る」ということとはき違えてしまうことになりかねない。
自分も本当に気をつけなければいけないと思っています。

でも、主が与えて下さる自由、それはやはり「解放」ということだと思います。

苦しんでいること、
こだわっていること、
恐れていること、
わかっちゃいるけど止められない罪。

そのようなものから解放されて生きること、
それを主は約束されるのです。

私も自由を与えて欲しいと思います。

主よ、
あなたの自由をお与え下さい。
生き生きとした解放された自由をお与え下さい。
自由の中で生きることができますように、
私を縛っているすべてのものを明らかにして、
それからの解放をお与え下さいますように。

東京到着

火曜日に出発して関西に行っておりましたが、
日曜日の夜にようやく東京帰還です。

ほっとするような、「ああ、帰ってきちゃったなあ」という感じがするような、です


火曜日、関西に着いた日、

泊めて頂いた先生に、昔ながらの銭湯に連れて行って頂きました。
近頃はやりのスーパー銭湯ではなく、
単純な「銭湯」です。



こんな感じの銭湯です。
懐かしいですよね。
番台は入り口の方向いているし、
コーヒー牛乳やジュースを売っているケースは
「自動販売機」に変わってしまっていましたが、

その他は昔ながらの銭湯です。


ほーら、中はこんな感じですよー。

そしてこのお湯と水が出てくる蛇口。


余り鮮明に写ってはおりませんが、左の上の方がお湯。右下の方が水でございます。

上から押すとお湯や水が出ます。

使いながら思い出しました。
決してお湯を先に出してはいけない、ということ。

お湯を先に出すと、結構熱湯っぽいので、
後から水を足す時に、桶にたまっていたお湯が飛び散って、思いっきり熱いです。

だから、必ず水を先に桶に十分張ってから、お湯を足す方がいいのです。

それだけとっても、懐かしさに心がジーンとする銭湯でした。

ジーンとするのは、銭湯の熱いお湯だけではなく、
聖書のみことばもです。

今回は木曜日の聖書。
ヨハネによる福音書7章でした。

心に留ったのは、私の好きな言葉ですが、
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
37節から38節のイエスの言葉です。

心から生ける川の水が流れ出る。

単純に心から、そのような心の状態を求めています。
私の心から、喜びの川の流れ、いのちの川の流れが、流れ出て、
周りの人々のことを満たしていく、潤していく、
そのような歩みをさせて頂きたいと思います。

そのためには、主からいのちを頂いていくこと、
主から見たしを頂いていくことの大切さを思わされます。

主に満たして頂きたい、
主にいのちの泉を頂きたい、
そのように思います。

自分のうちの泉が枯れる時に、
人々にも通じるのものです。

満たされている時に、
人々にも通じるものです。

いつもいつも主によって満たして頂きたいです。

主よ、
どうかあなたの泉を下さい。
あなたのいのちの水を下さい。
私のうちから水が流れ出て、
周りの人々のことを潤すような、
そのような者にしてください。


2006-09-23

関東に帰っています

今日の昼頃、
名古屋駅で一人の方にお会いした後、
夕方からは関東。

なんだか、関西の方が、電車に乗っていても、
エキサイティングでしたねえ。
関東の方がみんなおとなしいのか、とも思いましたが、
私が関西に行くと旅行気分になるンでしょうねえ。
電車に乗っていても、
エスカレーターに乗っていても、
見るもの聞くものが新鮮ですから。

明日は朝7時からの礼拝に出席してみます。
あと6時間半?
11時からの普通の礼拝の時間は子供プログラムの見学です。
たのしみたのしみ・・・。

ゆっくり更新は日本時間の日曜日の夜か、月曜日の朝になりそうです。

ではでは。


2006-09-21

いのちのパン

大阪は金曜日の朝です。

今日は昨日よりもワンランク涼しくなって過ごしやすい日になりそうです。

今年は関西に今までで最長の4泊。
なにを隠そう、大阪生まれで4歳までこちらにいた自分、楽しく過ごしています。

エスカレーターに乗る時に、
「立つ」人は右側、
「歩く」人は左側、
というのもずいぶん慣れました。

東京は逆ですよね。
ついつい左側に立ってしまって、
周りの邪魔になっていることもあります。

時間帯によるのかもしれませんが、
東京よりもエスカレーターで歩く人が少なく感じます。

「関西の人の方がガンガン歩く」と思っておりましたが、
意外とそうでもないですね。
まあ元々「江戸っ子」はせっかちでしたから、東京の方がセカセカしているのでしょうか?

あと、高校の修学旅行の時の経験から、
「関西の人は電車に乗る時に、降りる人を待たない」
というイメージができあがっていたのですが、
どうしてどうして、そんなことはありません。
「△印1?8番のところで2列になってお待ち下さい」とアナウンスが入って、
みんなそこで待っています。
まあ、電車がホームに入ってくると微妙にその列が乱れるのは否定できませんが・・・。(^_^)
そして、みんなが降りるのを待ってから乗ります。
25年くらい前の記憶でイメージを作り上げてしまっていた自分に反省。

水曜日の聖書。
あと一歩で追いつくのですが・・・。

水曜日はヨハネによる福音書6章でした。
イエスが5000人の人々を5つのパンと2つの魚で養われたところです。

その後にイエスは「私はいのちのパンである」と言われました。

そしてこう言われました。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」
54節の言葉です。

その言葉でつまずいた人々がたくさんいた、と書かれていますが、
まあ、確かにそうだろうなあ、と思います。

この言葉の意味を知らされている私たちは恵まれていると思います。

イエスの十字架の意味を知り、それを信じて、
それを自分の生きる糧として歩んでいる者は、
永遠のいのちを持っている、ということです。

聖餐式でもイエスのみからだであるパンを食べ、イエスの血潮であるぶどうジュースを頂きます。

でも、それだけではなくて、
その十字架の恵みを自分のものとして、
自分に与えられたものとして、
歩んでいくことの大切さを思わされます。
それを自分のうちで消化して、
それによって生きていく。感謝して生きていく。
その力であると思います。

何かをやりとげた達成感や、
目的意識よりも、
イエスの十字架の愛の大きさに感動して、歩んでいく、
それがイエスの肉を食べ、血を飲む、ということの意味です。

自分はどうだろうかと思いました。
やはりどこかで「達成感」で生きていたり、
「使命感」で生きていないだろうかと。

もちろん、それらも主が与えて下さることだろうけれども、
何よりも愛されている喜びに生かされていきたいと思います。

主よ、
あなたに愛されている恵みを感謝します。
イエスさまの十字架の恵みを感謝します。
何よりもそれを生きる糧に歩んでいくことができますように。

今日の一日の一つ一つの出会いを祝福して下さい。


起きて、床を取り上げて歩きなさい。

また「おおかみがきたぞー」少年の危機です。
結構眠いです。でも一言だけ更新。

今日は昼から神戸、明石方面を訪問しました。

明日、もう一度明石です。

関西最終日です。

とてもいい3日間でした。

何か、今まで「何か成果を」みたいな気負いがありましたが、
平常心で、いつものように主の恵みを楽しみ、
主の恵みを伝えたいと思いました。
いつの間にか成果主義になりかけていたように思います。

あと1週間足らず。
一つ一つの出会いが幸いなものとなりますように。

おっ、深夜の1時45分、テレビをつけると、
教育テレビで母校の制服。
理科の研究発表をしています。
僕らの頃はこんなのなかったなあ。
「パイナップルとトタン板と銅版とで電池を作る」ってやつです。

なかなかおもしろくて、寝るのを忘れて見てしまいました。
制服を着た高校生と、肩まる出しの司会者とがかなりミスマッチです。
でも楽しそうですね。
こういう授業をどんどんやって欲しいものです。

火曜日の聖書。
火曜日はヨハネによる福音書5章でした。

「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
8節のイエスの言葉です。

これは「直りたいのか」というイエスの質問に対して、
「私を水に入れてくれる人がいません。自分で入ろうとすると他の人が入ってしまうのです」
(池の水が動いた時にそこにはいると癒やされるという言い伝えがあった)
と泣き言を言ったこの人へのイエスの言葉です。

「さあ、立って歩きなさい」とイエスは言われたのです。

私たちも泣き言を言います。
泣き言を言わせて欲しい、場面もあります。

でも、イエスはそんな私たちに、
さあ。立ち上がりなさい、と言われるのです。

いろいろ事情はあるでしょう。
言い訳をしたくなるときもあります。

でも、それらを全部ご存じで、
「さあ、立って歩きなさい」
と言われるのです。

私にも言われているように思いました。
「さあ、立って歩きなさい」と。

主よ、
私もいろいろ言い訳をしたくなる時があります。
あなたのみことばに感謝します。
立って歩きなさい、と言われた時に、
「いや、神さまできません」なとど言わないで、
従っていくことのできる者としてください。

2006-09-20

霊とまこととをもって

「おおかみがきたぞー」の少年にならないように、
ここで更新しておきます。

NJは寒いくらいの夜になるようですね。
10度を切るようです。
今日の大阪は28度だそうです。
半袖でちょうどいい感じですね。
昨年まで3年連続で7月に日本を訪問しておりましたが、
今年は、体力的には9月で正解です。

いろいろ書きたいことはあるのですが、
また今夜ゆっくり・・・ということで。

月曜日の聖書。
ヨハネによる福音書4章を読みました。

「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。」

23節のイエスの言葉です。

自分が神さまの前に出る時の姿勢を考えさせられる一節でした。
「霊とまこと」って何だろうなあ、と思います。
解釈でいろいろ問題があるかとも思いますが、
私は読みながら、自分の心がほんとうに主に向かっているだろうかと言うことだけを考えていました。

「礼拝」

牧師である私にとって、
礼拝は「説教を語る場」でもあります。

その中で、私は心から、真剣に、真実に、
主を礼拝しているだろうかと問われるような気がしました。

会衆の皆さんにとっては
「説教を聞く」ということが、礼拝の中の大切な要素ですが、
それが、「主への礼拝」となっているでしょうか?

今度の日曜日、
私は久しぶりに、メッセージもなく、何の責任もなく、
ただ、ひとりの参加者として礼拝に出席する幸いを経験します。

本当に久しぶりだと思います。
ゲストスピーカーが来られても、
9月3日のように、ファミリーキャンプで、司会や説教に当たっていなくても、
やはり何かの責任を持っていました。

だから、たぶん、8年ぶりくらいの経験だと思います。

本当に心から主を礼拝することを経験させて頂きたいと思います。
その中で、説教のご奉仕をしながら、でも、「礼拝者」としてそこに立つ、ことの
意味を考えてみたいと思います。

こころからの礼拝を主にささげる、
そのような説教者でありたいと思いました。

そして、その姿勢が教会全体に広がっていく、
そのような礼拝を守っていきたいと思います。

主よ、
礼拝の中心はあなたです。
いつもいつもそのように祈ってきました。
でも、今も本当にそうでしょうか?
私はそのように礼拝を守ってきたでしょうか?

どうか、私を「霊とまこととを持って礼拝する真の礼拝者」として下さい。

関西滞在中・・・

17日に追いついたのですが、
18日、19日と更新することができなかったので、
またちょっとたまってしまいました。

こちらは水曜日の夜。

木曜日の午前中は原稿書きの予定です。

午後から神戸、明石方面出動。

明日の朝、こちらもちょっと更新できるでしょう。

きっと。

ではでは。

2006-09-17

霊から生まれる者

月曜日の朝ですが、
一日一章追いつくために、昨日の夜に続いて更新。

心配されていた台風、確かに大きな被害が出ましたが、
九州以外は直撃を免れました。

土曜日の集会、
帰国後半年、1年半、2年半と3つのレベルの方々がおられて、
帰国後の心の動き、なるほど・・・と思わされました。

第1段階
日本のコンビニやスーパーや100円ショップに感動する。
帰国後の立ち上げのために100円ショップに50回くらい買い物に行ったという例もあり。
興奮して毎日のように買い物に行ってしまう。
24時間営業のスーパーなどもあり、
夜な夜な食品売り場を徘徊してしまう。
300円の社員食堂のランチだって感動する。
こんなに安く、こんなにおいしいものが食べられるなんてと、日本への帰国がうれしい。

第2段階
コンビニ、100円ショップなどに行くことに飽きる。
アメリカの天井の高さ、
空間の広さ、
人間関係のおおらかさなどが妙に懐かしくなる。
一番きつい頃。

第3段階
社宅に住めるのも、あと2,3年、ということもあり、
日本がどうとか、アメリカがどうとか、ということを超えて、
マンションを買わなきゃなあ、とか、
何だかとっても現実的な問題に取り組むようになってくる。

帰国されたたくさんの方々が、
このようなところを通って、
それと共に新しい教会に入っていくために闘いをおぼえて、
歩んでおられることを思うと、
どれほど祈りのサポートが必要かと思わされます。

日曜日の聖書。
ヨハネ3章でした。

6節の言葉が心に留りました。
「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

「肉」は自己中心的な生き方、ということがよく言われます。
じゃあ、「霊」とは何だろうか?
正反対だとすると「悔い砕かれた魂」ということができるのでしょうか?

確かに聖霊様の働きは、
「罪を示し、キリストを証しする」ことですから、
その聖霊様によって生まれた者、というのは、
砕かれた、整えられた者、と言うことができるでしょう。

自分はどうだろうか?
自分は自己中心的な歩みをしていないだろうか?
自分中心的な歩みで、人々を傷つけていないだろうか?

人がそのように歩んでいると気になります。
人がそのように傍若無人の歩みをしていると頭にきます。

でも、自分は本当のところどうなんだろうか?と問われました。

聖霊様によって歩みたい。
聖霊様によって砕かれた、御霊の実を結ぶ、
品性のきよめられた、
そのような者となりたいと思いました。

主よ、
私をきよめ、
霊によって生まれた者としてください。
聖霊によって私を取り扱い、
キリストの御姿を映す者としてください。
聖霊によって歩ませてください。

最高のものをとっておかれる主

日曜日の夜です。

今までで一番ゆっくりと過ごす夜です。

疲れもとれて、明日からの日々に備えられそうです。
感謝。

自分が4歳の頃から育った木場深川キリスト教会での礼拝でした。

例年、この木場深川キリスト教会での礼拝で、たくさんのNJの関係の方々にもお会いできるのですが、
今年は3連休の中日ということもあるのでしょうか、
ほとんどの方がご都合が悪かったようです。

それでも、ひとりの方がお母様と一緒にご出席下さいました。
お会いするのは4年ぶりくらいでしょうか?

幸いな再会でした。

また夕方にはもう一人の方が面談に来られて、共に祈りました。

今回の訪日のテーマは1週間ほど前の一日一章の言葉、

「私が来たのは、失われた者を捜しだして救うためである」

です。

いつもよりも少なくても、
ひとりでも、
神さまのところに導かれることを祈っています。

明日の夕方はまた東京での集会です。
そして、火曜日の朝出て、関西に向かいます。

土曜日の聖書。
ヨハネによる福音書の2章です。

心に留ったのは、
10節の料理長の言葉です。

「あなたは今まで良いものをとっておかれました」

神さまが準備してくださっているものは最高のものです。
世の常では、最初がいいもので、酔いが回った頃に、悪いものを出していたそうですが、
神さまは最後に最高のものを準備しておられるのです。

何だかわくわくしてきますね。

これから、神さまがどんなにすばらしいものを準備して下さっているかと思うと・・・。

考えてみると、私の人生ももう後半戦。
常識的に考えて、「今までの延長上」にこれからのものがあるのでしょうが、
神さまのなさることはそれを超えている、
最高のものをこれから準備しておられる。

それを大胆に求めて、歩んでいきたいと思いました。
楽しみに歩んでいきたいと思いました。

主よ、
どうかあなたの準備してくださっている最高のものを与えて下さい。
それを楽しみに歩んでいきます。

感謝します。

これから始まろうとしているNJの礼拝の上に、
あなたの祝福をいっぱいに満たして下さい。

2006-09-16

今度こそ、「来て、そして、見なさい」

何か、今朝は、中途半端な終わり方をしましたが、
土曜日の夜、書いています。

NJから来た目で見た東京ウォッチ。

1.電車の中で、携帯メールをプチプチやっている人の数は激減。
・・・去年の7月の来日時は半分以上、6割くらいの皆さんがやっていました。でも、今回はがくんと減って、2割くらい。もっと少ないかもしれません。


2.白いイヤホンがすごい勢い。
・・・これも去年の7月に比べての話ですが、NYでもそうなんでしょうが、白いイヤホンをしている人がホントに多いです。愛ぽっどのせいでしょう。でも、ここまで「みんながしている」とちょっと個性を主張したい人がいるようで、でかいヘッドフォンが復活です。ノイズキャンセレーションの機能がついているヤツでしょうか?とにかく1日歩き回っていると、ちょくちょく見ます。でかいヘッドフォン。

3.地下鉄至れり尽くせり。
・・・地下鉄を使うことが多いのですが、「ここまでやるか」と思うのが、このポスター。

今年初めて見る訳ではないのですが、NYで地下鉄では考えられないことだよなあ、と思い、紹介します。

はっきりと写っていませんが、このポスターの場合、地下鉄東西線の駅の名前が全部左側に書かれていて、それぞれの駅で降りる場合、何両目に乗れば、「乗り換え口」や「出口」にちょうどいいか、書かれているんですね。

特に日本橋駅とかは複雑なので、これは助かります。

でも、その一方で、「そんなの下りてから捜せばいいじゃん」と思ったりもします。

毎日使っている人はそんなのは知っているでしょうし・・・。







さて、土曜日の午後、渋谷で人と会う約束をしました。

渋谷で待ち合わせと言ったら、もちろん、




















「ハチ公」


でも、うっかり今回は「ハチ公」とだけ伝えました。

そして着いて、たくさんの人々を前にして気がつきました。

高校時代、「ハチ公」で待ち合わせをする時には、

「ハチ公のしっぽ」とか
「ハチ公の頭」とか、

指定していたことを。

慌てて電話しました。

でも、考えてみたら、

「頭」とか「しっぽ」とか指定していたのは、
この「携帯電話」というものがない時代でしたね。

携帯があれば、大体の約束をしておけば大丈夫ですね。
携帯文化の恩恵に感謝した1日でした。

そして、その後、ハチ公前広場は大変な状況に・・・





犯人は晋三さんでした!

携帯で写真を撮っている人が結構いました。

自分も・・・。





夜は集会。
6人の方々が集まり、楽しい一時を送りました。

さて、金曜日の聖書。
ヨハネによる福音書にはいって、1章。

最後の方の、イエスに出会った人の言葉が心に留りました。

「来て、そして、見なさい。」

私もそれをいいたいと思いました。

とにかく来てご覧よ、と。

ひとりの人が神さまに出会うのは、説明ではなくて、説得ではなくて、
神さまが触れて下さることしかないのだと思います。

とにかく、イエスさまのところに、
教会に来てご覧よ、

そしたらわかるから・・・。

胸を張って教会のみんながそう言えるような、教会となりますように、と祈ります。

明日の日曜日もそのような1日となりますように。

主よ、
あなたのもとに、人々を連れて参ります。
人々をお招きします。
どうか、あなたご自身がひとりひとりに触れて下さいますように。
教会に「とにかく来てご覧よ」と言えるような、
霊的な雰囲気を与えて下さい。

明日の日曜日も、
そのような1日として下さい。

2006-09-15

来て、そして、見なさい

これを書いているのは土曜日の朝です。
でも、NJ時間ではまだ金曜日ですね。
NJゼロの時間ですね。
みんな楽しくやっているのかなあ、と思いつつ、お祈りしています。

NJにいるとわからない、テレビやインターネットでもわからない今の日本、
ちょっとだけ、ご紹介。

1.電車の中で、・・・

と思いましたが、もう出る時間になってしまいました。
今日はお二人の方にお会いした後、
夕方は家庭集会です。

次の更新のチャンスは今晩遅くです。

ではでは。

2006-09-14

イエスご自身が近づいて

こちらの金曜日の朝ですが、
このHPはNJ時間なので赦してもらいましょう。

木曜日、昼頃、やっと雨が上がりました。
でも、まだまだ寒いです。

台風が沖縄の南にあって、
北に向かって来るみたいです。
来週の火曜日、関西に向かう頃にはもう通り過ぎているかと思いますが、
大きな被害が出ないようにと願います。


台風なんて10年ぶりくらいでしょうか?

木曜日、一番の用事は、
ファミリーキャンプで販売した書籍の売れ残りと代金を持って、
販売を委託してくださったところに持っていくことでした。

そこはJR信濃町から徒歩五分。
東京シテーボーイの私も、この駅で降りるのは初めて。

ちょっと「おのぼりさん」状態でした。


煉瓦館と書いてありましたが、
この裏にはKO大学病院があったり、
明治神宮があったり、
神宮球場があったりするところです。
ヤクルトファンの方はここら辺はもうばっちりなんでしょうね。

現在、阪神が中日を猛追撃中。
元近鉄ファンで、今や応援するチームのない私としては、
やっぱ阪神応援しちゃいます。
来週関西行くし・・・。

今回、その信濃町の用件のあるところに行くと、
何と、ちょうどその時間、「横田早紀江さんを囲んで祈る会」やっているではありませんか。

横田早紀江さんは、北朝鮮に拉致されためぐみさんのお母さんですが、
娘が行方不明になって、まだ、拉致だとわからない、
何がどうなったのかわからない中で、キリストに出会って、
今も敬虔なクリスチャンです。

少なからず関心があり、またちょうど時間も空いていたので、
祈り会に出席して参りました。

今度の日曜日は金正日が拉致を認めてちょうど4年になるそうです。
拉致被害者家族会が発足してから9年。
最初の5年間は、家族会の方から、「問題をわかって欲しい」と講演や記者会見を開いてください、
とお願いして回ったそうです。
でも、北朝鮮が拉致を認めてからの4年間で横田さん達だけで1000回の講演依頼を受けて、
なさってきたそうです。

もう、体力的にも限界、だそうです。

今から30年近く前、13歳だった娘が急に行方不明になって、
「家出じゃないの」なんて言われたりもして、
・・・それが10年前に北朝鮮に拉致されたとわかって、
でも、それから、「亡くなった」と言われたり、
偽の「遺骨」を出されたり、
孫から「北朝鮮に来て」と言われたり、
いろんなことで揺さぶられて・・・。

想像ができません。

どんなに苦しい、悲しい、不安な、年月を過ごしてこられたかと思います。

祈りのサポートの必要を感じました。

何よりも、1日も早く、無事に解放されますように。

神さまがこの時間にこの場所に導かれたことに心から感謝します。

木曜日の聖書。
ルカによる福音書24章。最後の章。復活の章です。

「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」

15節の言葉です。

エマオへの道を歩いていた2人、
エルサレムを後ろに、
とぼとぼと歩いていた2人。

希望に溢れて、
やる気に満ちていた訳ではありませんでした。

どちらかというと、
失望して、困惑して、肩を落として歩いていたのでした。

イエスはそんな彼らを叱咤激励したのではありませんでした。

共に歩いて行かれたのです。

その中で、彼らの目が開かれて、
彼らが走り出すまで、
ずっと一緒に歩まれたのです。

ありがたいなあ、と思いました。
この方は「成功者」の神ではない。
調子に乗っている者たちの救い主ではない。

落ち込んでとぼとぼと道を歩む者と共に歩み、
でも、どこかで彼らの目を開いて、力を与えて、
走り出すようにしてくださる。

今の私とも、共に歩んでくださる。

それが感謝。

主よ、

あなたが共に歩んでくださること、
元気な時だけではなくて、
確信に溢れた時だけではなくて、
とぼとぼと歩む時にも、
共に歩んでくださることに感謝します。

どうか、私の目も開き、走り出すことができますように。

今日の1日もお守り下さい。

2006-09-13

きょう!

今日はまた昨日よりももう一歩肌寒い日になりました。
日曜日には34度くらいあったそうです。
それが今日は19度。雨がしとしと降っています。

今日は、東村山にある私の出身母体の教団の本部にご挨拶に行って、
お世話になった先生にお会いしてきました。
父の世代の先生で、2年前にはNJにもおいでいただきましたが、
楽しくお話をして、あっという間に2時間がたってしまいました。
昨日連絡して今日お会いできないかとずうずうしいお願いにもかかわらず、
温かく迎えてくださった先生に感謝。

そのあと、ちょっと予定が空いたので、
日本で副牧師をしていたときの若者で、
今は奥さんになった方ですが、ずっと寝たきりの生活をしておられる方を、
ご主人に連れて行っていただいて、病院に訪問しました。

とても喜んで迎えてくださって、
語り合い、お祈りしてきました。

どんなに大きな闘いがあるか、私の知らない部分がたくさんあると思います。
でも、彼女は笑顔を絶やさず、「うれしいねえ」と何度も繰り返しながら、
話をしていました。
日本に着いてまだ24時間。
でも、とてもいいときを過ごさせていただいています。

あと、マツイ君は、12日の復帰戦で4打数4安打だったそうですね。
今日の7時からのNHKニュースでも、
トップはさすがに「ひさひとちゃま」にゆずりましたが、
2番目のニュースでした。
NYではどれくらい騒がれてるんだろうなあ、と思いながら、
日本でのフィーバーぶりにはちょっと驚き。
でも、マツイファンの我が家にとってはちょっといいニュース。

今日の聖書はルカによる福音書23章でした。
イエスの十字架のところです。
今日心に留まったのは34節の

「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

というイエスの十字架上の言葉でした。

「あなたが御国の権威を持ってこられるときには・・・」といっていた、
イエスと一緒に十字架にかけられていた強盗のひとりに対して、
イエスは「あなたはきょう・・・」と言われました。

「いつの日にか」ではなく、「やがての日に」でもなく、

「今日」と言われた。

今までは、「御国の権威を持ってこられるとき」ではなくて、「今日」だと思っていました。

でも、今日は思わされました。

「御国の権威を持ってこられるとき」=「今日」なのではないかと。

イエス様が十字架にかかられたとき、
それこそがイエスが御国の権威を持ってこられるときであり、
パラダイスの門が開かれたときなのではないだろうかと。

主の恵みの注がれる日は「いつか」「やがて」ではなくて、
「今日」なんだ、と思わされました。

与えられている恵みを感謝して、
今すでに与えられているパラダイスのあゆみをこの地上でさせていただきたい、
とそのように思いました。

主よ、
あなたの天国の門が大きく開かれていることに感謝します。
イエス様の十字架によって開かれていることに感謝します。

どうか、あなたの与えてくださっている天国の歩みをこの地上でもすることが出来ますように。

今日の一つ一つの出会いに感謝しつつ。
明日の一日の祝福を大きく期待しつつ。

2006-09-12

勇気

あれから、5年。

月曜日の朝のその時間はNewarkの空港のロビーで
CNNを見ながら、黙祷に心を合わせながら、一つ一つ読み上げられる名前を聞きながら、
過ごしました。

名前を読み上げるだけで3時間。
そして、その名前の一つ一つに特別な、他の人とは違った、人生があった。
そのことを考えるともう私の頭の中がいっぱいいっぱいになります。

そして、生きている私たちの中でもあの出来事のストーリーはひとりひとり特別なもの。

まだ、そのストーリーをここに書けるほどにはなっていない自分があります。
個人的に聞いて下さる方、がおられたら、お話しできるかも、です。

今回、飛行機が上昇していく中で、
5年前のある飛行機の中では、
ほんとうに恐ろしい出来事が起っていたのだ、
ということをも考えていました。

私も「まさか自分の乗った飛行機で・・・」と
思って、乗っていました。
数え切れないほどの飛行機が飛び交う中で、
自分が乗っている飛行機がそんなことにあう確率はものすごく低いものです。

でも、
人生は確率で生きていくモノではありません。

99%大丈夫です、と言われても、
自分がその1%になることもあります。

私たちの人生、いつもいつも危険や困難と隣り合わせであることを、
いつもいつも忘れないでいたいと思います。

普通はそんなこと考えて生きていったら、重くて、暗い歩みになってしまう、でしょう。
でも、神さまがそんな中でも共にいて下さるから、
どんなに大きな試練が襲ってきても、
この方がおられるから大丈夫、と思います。

今日の1日も与えられた特別な1日。
今日本時間で朝の3時ですから、
ちょっと長い1日になりそうですが、
それも神さまの祝福。

感謝して過ごしたいと思います。

火曜日の聖書。
ルカによる福音書22章です。
イエスが逮捕されて裁判を受けます。
その中で、イエスは堂々と自分が神の子であることを語ります。
それが「死」を意味しているのに・・・。
イエスは十字架に向かって進んでいたのです。

その一方で、ペテロは自分がイエスの弟子であることを、
否定してしまいます。

この対比が心に留りました。

イエスの大胆さ、イエスの勇気に心から感謝しました。
それがなかったら、私たちの救いはなかったと。

しかし自分はどうかというと、
やはりペテロかと思います。
逃げる。
失敗したペテロに自分が重なり合います。

でも、そのペテロのためにイエスは祈って下さった。

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ペテロは失敗して終わらなかった。
失敗で終わることはなかった。

イエスもゲッセマネの園でお祈りになってから、十字架に進んで行かれた。

私も祈りが与えられていることに感謝。
祈りによって力を与えられて進んでいきたい。

神さま、
あなたに祈れることを感謝します。
祈りによって力を頂いて歩んでいくことができますように。
あなたの力によって歩んでいくことができますように。

今日も、祈ることを教えてください。

わたしがあなた方に与える

日本です。

NJは寒いくらいの朝だったようですが、
こちらもちょっとひんやりする夜です。雨がしとしと降っています。
やっぱり雨男かな。

今火曜日の夜になりました。
NJ時間だと火曜日の朝ですね。

すぽっと月曜日の夜が抜けた感じですね。

今回のフライトは、

映画のストーリーがわからなくなるくらい、
ウトウトしたり、目が覚めたり・・・でした。

いつもはばっちりで、寝ても1時間とか2時間とかで、
機内の映画をぜーんぶ見て、
訳のわからない番組まで見て・・・
(以前、コンチネンタルで、「風雲○○○城」やっていましたね。そこまで見てました。今は変な編集したものをアメリカでもやっていますが・・・)
それでも、時間が余っていたのですが、

今回はさすがに眠くなって、ウトウト。
でも、熟睡はできないので、結構退屈感はありました。

「だ・びんち・コード」もやってたので、見てしまいました。寝てしまいました。

うーん、ちょっと論理の展開が「ずるいっ!」って感じでしたね。
「そういう説もある・・・」「こういうことも考えられる」とか言いながら、
結局はイエスには子供がいたとか、教会は大切な秘密を歴史の中で隠蔽してきたとか、
まあ、しょっちゅう耳にするような珍説ですが、それを「えー、ほんとはそうだったの?」みたいに感じさせるように出してくるんですよね。


サスペンスとしても、何だか、いろいろ複雑に絡み合いすぎてよくわかりませんでした。
ま、いいか。でも、もうちょっといい映画はなかったんでしょうか?

そして日本といえば、「コンビニ」でしょう、やっぱり。


日本に来た!って感じはします。
宿泊先(実家)の徒歩圏内に何軒もあります。
ちょっと用事があって寄ったんですが、
いろんなもの売っています。
あんまりゆっくりは見てなかったんですが、
たとえば、カップ麻婆豆腐とか・・・。
そう、カップ麻婆豆腐・・・調べてみたら、カップ春雨の麻婆豆腐味と言ったらいいのか、
「ロングセラー」と書かれていますが、初めて見ました。

ま、そんな話ばかりで盛り上がってもしょうがないので、

月曜日の聖書。
ルカによる福音書21章を読みました。
その中の15節のこの言葉にものすごい力強さを感じました。

「どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。」

私たちが一生懸命心配して考える言葉よりも、
神さまが与えて下さる、
イエスが与えて下さるその言葉に信頼したらいい、
そのように感じました。

自分の歩み、いつもそうだったと思います。
一生懸命考えて、立派に整えて、お話しすることよりも、

自分が「この御言葉によって語って頂いた」と感じるところ、
主によって自分自身が取り扱われるところ、
そこに力の源を感じます。

そのような語り手でありたい、あり続けたいと思います。

主よ、
どうか、あなたのみことばを語ってください。
私に語ってください。
あなたが語ってくださったことを、
私自身が教えられたことを
分ち合っていくような、

みことばを料理するのではなく、
みことばに料理されるような
語り手でありたいと思いました。

どうかみことばを与えて下さい。

これからの17日間の日本での歩みを祝福して下さい。

一つ一つの出会いを祝福して下さい。


2006-09-11

誰の肖像が刻まれているか

今日もすばらしい日曜日でした。
新しい方々もたくさん来られて、

子ども達もたくさん来て、
JOYJOYキャンプの子達も何人か来て、
とてもにぎやかでした。

いよいよ明日から日本です。
楽しみになってきました。

でも、こちらを3週間近く離れるのはまた心配。
心配以上に、机の周りの整理もできてなくて、
やるべきこともやってなくて、
あとで「あー!」と思うのではないかとかなり心配。
帰ってきた時に、「あー!」と気がついて
その時にはもう遅くなってしまっていることがあるのではないかと、
かなり心配。

でも、出発しちゃったらもうしょうがないから、
ちょっと机の周りを、人に見られても恥ずかしくないくらいにしておこうっと。

今日の聖書の箇所は、
ルカによる福音書20章でした。
24節のイエスの問いかけが、私に対する問いかけになりました。

「これはだれの肖像ですか。」

これが私に対して、
「あなたは誰の肖像を頂いていると思うのですか?」と主が問いかけておられるように感じました。

「神さま、あなたの肖像です」とお答えしました。

神さまの肖像を頂いていることがどれほど光栄なことかと思いました。

だから、次の節に「神のものは神に返しなさい」という言葉も感謝を持って受け取りました。

主よ、
わたしはあなたのものです。
あなたが私の主であって下さることに感謝します。

あなたに私の存在をお返しします。
あなたのご用のためにどうにでも使ってください。

今回の日本訪問にも、あなたが先立っていってくださって、
用いてくださいますように、
あなたの思いのままに用いてくださいますように。

あと少しでDVDの作業がやっと完了。
感謝!