2006-10-05

主の栄光をあらわす生き死に

今日、野球は昼間だったんですね。
負けちゃったみたいですね。

明日も集会中ですね。

まあ、いいか。

朝の集会はたくさんの方々が来られて、
また歌とお話もとてもよかったです。
その後も、皆さんゆっくり過ごされました。
感謝。

明日の朝は歌手の方は他の教会に行かれます。
私の方は自分の教会の集会です。
それもまた楽しみです。

今日はさっそく聖書の言葉。
ヨハネによる福音書21章を読みました。
ヨハネによる福音書の最後の章です。

そこに、ヨハネ自身の注釈がイエスの言葉に付けられています。
「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。」
19節の言葉です。

イエスが、ペテロがやがて手を縛られて、行きたくないところに連れて行かれるだろう、
とのイエスの言葉に対して、ヨハネが書いた言葉です。

「神の栄光を表す死に方」と言うことを考えさせられました。

今週の月曜日はペンシルベニア州のアーミッシュの村で、
学校に押し入った男に5人の女の子が殺されるという痛ましい事件が起りました。
手足を縛られて、黒板の前に並ばされて、
処刑をするように撃たれていった女の子達、
想像するだけで、本当に心が痛みます。

自分の子供がもしもそんな目にあったらと思うと、
また自分自身がもしもそんな目にあったらと思うと、
恐ろしくて、体が震えます。

でも、犠牲者の家族はアーミッシュの信仰の中で、
神の御手を信じました。
犯人への憎しみを口にしませんでした。
犯人の家族が弔問に来ることをも、拒みませんでした。

納棺の時に、遺体を前にして、犠牲者のおじいさんが、
「決して、これによって、犯人への憎しみに支配されてはいけない」と語ったそうです。

また、犯人、彼にも熱心なクリスチャンの妻がおりました。
3人の子ども達もいたと言います。
彼らはどんな思いで過ごしているでしょうか?
でも、そこにもサポーターが与えられて、共に祈る仲間や牧師が与えられているそうです。

昨日の夜のCNNのLarry King Liveで、
犠牲者、加害者を取り巻く多くの人々が、インタビューを受けていました。

当然憎しみを感じていいところで、
憎しみを感じても、誰にも非難されないところで、
あえて憎しみに支配されないで生きる彼らに、
心からの尊敬を覚えました。


私は「神の栄光を表す死に方」をできるだろうかと思いました。

私の死によって、人々の心が神さまに向くような、その様な死を経験したいと思いました。
もちろん、それは私自身が見ることはできないのですが・・・。
自分にはどうにもできないことですが・・・。

だから、神さまに助けて頂きたいと思いました。

主よ、
どうかわたしがあなたの守りによって、
あなたの助けによって、
「神の栄光を表す死に方」をすることができますように。
神さま、私を助けてください。

そして、生きている時にも、
もっと神さまの栄光を表すような生き方ができますように。

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