外は・・・今日も雨・・・って感じです。
別に雪には変わりませんが、
3日連続の雨、そして、今日は日本の梅雨のような、
しとしと冷たい雨です。
よく降りますね。
昨日のようなfloodの心配はないようですが・・・。
暑いのが好きな野菜、
涼しくて雨が降るのが好きな野菜、
いろいろあるでしょうが、
レタスとかは、本当に元気です。
柔らかい葉っぱがピンと立ち上がっています。
カメラが帰ってきたので、
ちょっと写真を撮りました。
ずっと芽が出てこなかったミツバが芽を出して、
やっと本葉が開いて、
「ミツバ」だとわかるようになりました。
そしてこちらは赤じそ。
昨年、苗をいただいて種を取って、
それを蒔いたのですが、
ちょっと青じその遺伝子も混じっているようで、
青い部分も残っています。
できる限り、青い部分が少ないものを残していけば、
来年あたりは、かなり純度の高い赤じそになるのでは・・・と思っています。
どうかな。
今日は朝の祈り会、
そして、一日電話をしたり、
書類を作ったり、
たまっていた仕事をしたりしていました。
そして、もう一つ、JOYJOYキャンプのための工作のサンプル作りをしました。
JOYJOYキャンプのモットーは、
上級生の子でも、元気な男の子でも、
楽しめるキャンプです。
教会のキャンプはどうしても、
おとなしくお話を聞いているようにさせたり、
工作も聖書の御言葉が入った写真入れを作ったり、
おとなしめの子でなければいられないようなプログラムが多いように思います。
私が自分自身教会で育ってきて、
そのように思いました。
そして、友達を誘いたいとは思えない・・・。
それを打ち砕いて、
教会のキャンプはとってもエネルギッシュで、
とっても楽しくて、キャンプが終わったら、疲れて寝てしまう、
みたいな印象を持って頂けたらいいなあ、と思っています。
でもやっぱり、一番大切なのは、
その中で神様の愛を伝えること。
私たちの力を超えた神様の力が注がれますように。
明日もミーティングあり。
今日はルカによる福音書1-5章を読みました。
その中にあった言葉。
「しかし、お言葉ですから・・・」
ペテロがイエスから、「沖に出て網を下ろしてみなさい」という言葉を言われたときの返事の一部です。
「しかし」の前にはペテロの常識がありました。
ペテロの「一晩がんばったけど、ダメだった」という経験がありました。
「私たちは漁師ですよ」という漁師としてのプライドがありました。
でも、イエスに言葉を語られて、「しかし・・・」と続けて、
従いました。
そこに「大漁」がありました。
私もこの大漁を見たい、と思いました。
私の常識も、
私の経験も、
私のプライドも、
御言葉の前に、
神様の御思いの前に、
投げ出して、
神様の御思いに従っていきたいと思いました。
神様、
「大漁」を見せてください。
あなたの御言葉に従って参ります。
あなたの「大漁」を見ることができますように。
明日の礼拝も「大漁」の時としてください。
今日はまたすごい雨でした。
昨日は「雨が降って助かった」という感じでしたが、
今日は「大丈夫かな」という雨でした。
NYでは交通機関や道路が大混乱のようです。
そして明日の昼頃まで大雨に注意が必要なようです。
そして、今日までは蒸し暑かったのですが、
明日は涼しい雨になるようです。
今日は朝と夜に集会、
午後は日曜日の礼拝の準備です。
日曜日の礼拝の説教は英語への通訳が入ります。
今回は息子が通訳をしてくれます。
まだ完全原稿が必要なので、
完全原稿を準備しています。
今日の午後はそれをしていました。
今回日本からカミさんが持ってきてくれた荷物の中に、
親父さんの本があります。
自叙伝とでも言うもの。
親父さんも牧師でした。
身内のことをこんな風に言うのは日本ではタブーなのかもしれないけど、
苦労した様子、でもその中でも真剣に神の前に出て祈り、
そして解決をいただいたこと、
ながーい時間のあと解決をいただいたことなどが、
書かれています。
読みながら、自分はこのように真剣に伝道しているだろうか、
真剣に人に接しているだろうか、
真剣に神に向かっているだろうか、
と思わされました。
親父はカリスマ性があるわけでもなく、
器用な方でもない、と思いますが(ゴメン、親父・・・)
よく、朝とか、土曜日の夜とか祈っていたよな、
と思い出します。
派手な牧師ではないけど、尊敬しております。
同じ牧師として働かせて頂いて、
初めてわかります、やっぱ、ただもんじゃなかったよな、・・・って、現役だけど。
今日はマルコによる福音書11-16章を読みました。
心に留ったのは11章の実のならないイチジクが枯らされてしまうところです。
実のならないものは枯らされてしまう、
ちょっと怖いような、襟を正させられるような、そんな思いがしました。
本当に自分は実を結んでいるだろうかと、思いました。
そして、ガラテヤ5章22-23節をもう一度思い出しました。
「御霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。」
聖霊様が実らせてくださる。
それを待ち望みたいと思いました。
そして、私の日々の歩みが聖霊様に導かれ、守られていきますようにと祈りました。
実を結ぶ木となりたいと思いました。
神様、
私が実を結ぶ働きができますように。
聖霊の実を結ばせてください。
愛を与えてください、喜びを与えてください。
一つ一つ、実を結ばせてください。
あなたの御手の中で歩ませてください。
あなたが私のような者をも喜んでくださることに感謝します。
今日は久しぶりに雨が降りました。
ちょうどJFKから帰ってくる途中、
ラガーディアの前を通っているあたりが一番すごい降りでした。
芝生も大喜びのことでしょう。
今朝、イチゴ第1号が実りました、が、
食べるとのどがかゆくなってしまうので、
ためて、ジャムを作りたいと思っています。
問題は、冷蔵庫にためている間に、誰かに食べられないかです。
食べられてしまうかも・・・。
何を隠そう、JFKに迎えに行ったのは、
カミさんと一番下の娘でした。
10日間だけ帰省しておりました。
日系の航空会社のマイレージは一定期間を過ぎると
チャラになっちゃいますよね。
で、去年の末に義母を呼び寄せようと思ったのですが、
飛行機になれてない義母がこの年になってNYまで来るのはさすがに難しく、
無駄になる前にこちらから里帰りをするチケットに換えたというわけです。
何はともあれ、無事に帰ってきてくれて、何よりです。
飛行機が着いたのが午後7時20分頃、
出てきたのが、8時頃、
家に着いたのが9時10分頃、
カミさんが、「レーナ・マリヤさんのコンサート行きたいなあ・・・」と申しましたので、
じゃあ、と車に飛び乗り、安全運転でとばして着いたのが9時50分。
レーナさんの最後の曲の直前でした。
一曲だけでも聴けてよかったです。
でも、感想を申し上げることができるほどは聞いていません。
残念でした。
どちらかというならば、新しく建てたという教会堂を拝見し、
韓国語教会なのですが、日本語礼拝をしている牧師チョー先生にお会い出来たことが、
収穫でした。
今日読んだのはマルコによる福音書9-10章です。
心に留ったのは、9章23節のイエスの言葉。
「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」というイエスの言葉です。
子供が悪霊にとりつかれていて、苦しんでいるお父さん、
子供を何とか解放して欲しいとイエスのところに連れてくるのですが、
その中で、彼は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい。」
と願う。その時にイエスが答えて言われた言葉です。
「できれば・・・」ということは神にとってはあり得ない。
何でもできる。
「御心ならば・・・」が正しいのだろう。
でも、実際の私たちの歩みの中で、
「御心ならば」よりも「できれば」という思いの時もあるのではないだろうか?
本気で神様にとっては不可能なことはないと信じているだろうか?
「信じます。信仰のない私をお助け下さい」と私も祈りたいと思った。
信じよう。そして、主にとっては不可能なことはない、と信じて歩もう。
主よ、
あなたには何も不可能なことはないと信じます。
信仰のない私を助けてください。
明日の集会の一つ一つ、
そして、明日出会う方々との会話の一つ一つをお守り下さい。
今日は昨日よりずっと涼しかったです。
特に午後からはぐんと温度が下がりました。
今、夜の10時半ですが、外は19.3度。最高も30度止まりでした。
日曜日から昨日までの暑さはさすがにきつかったです。
夏ってもっとすごいんですよね。
夜でも30度くらいあったりする時がありますから。
昨日のねぎ作戦も、
今朝見たら、もうねぎが根元からほじくられているものもあるし、
28本で始まったトウモロコシも20本くらいにまで減ってきて、
いよいよやばくなってきました。
時間ができたら、杭を買ってきて、ネットを張ってとやるのですが、いつになることやら・・・。
ま、あまり熱くならないように、落ち着いて、落ち着いて。
夕方、延び延びになっていた芝刈り。
前だけ。うしろの分は時間とガソリンが足りなくて、また今度。
ウサギが芝を食べてくれるといいのですが・・・。
明日は雨の予報が出ています。
30-50%くらい。たぶん雨です。
あさってはもっと雨の確率が高くて、
きっと雨です。水やりがサボれそうです。助かります。
今日は午前中と夜、人にお会いして個人的に話をしました。
それぞれ楽しい一時です。
「楽しい」は単に楽しいお話をするのではなくて、
何て言ったらいいのでしょうか、普通の会話の中ではできないような、
神様のこととか、心のこととか、話ができるのが、
とても楽しいときです。元気が出ます。
明日の朝は集会があります。
そこでお会いする人たちとも、
ただ「楽しい話」だけではなくて、
互いの心の琴線に触れるようなお話ができればと願っています。
今日はマルコによる福音書1-8章を読みました。
その中で心に留った言葉は、
「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
というバプテスマのヨハネの言葉。1:8。
「聖霊のバプテスマ」この言葉は特別なグループの中で使われるようになってしまっているけれども、
正真正銘、聖書の言葉なんですね。
水による洗礼は、罪を洗い流し、古い自分に死んで新しい自分に生きる、
ということを表している。
では、聖霊による洗礼、は何だろうか?
使徒行伝の2章の出来事を見ると、
勇気が与えられ、言葉が与えられ、力が与えられること。
本当に欲しいと思いました。
私も聖霊によってバプテスマを受けて、
勇気と、力と、言葉が与えられて、歩んでいく、そのような歩みをさせて頂きたいと思いました。
神様、
今日の一日をありがとうございます。
一つ一つの出会いを感謝します。
どうか明日の集会のためにもあなたの力を下さい。
あなたの祝福を満たしてください。
そして、とても幸いな一時となりますように。
聖霊の洗礼を与えてください。
力と勇気と、言葉とを与えてください。
今朝、庭に出たら、
一匹のやせたウサギと一匹のまるまる太ったウサギとが、
朝ご飯の最中でした。
それで気がつきました。
うちの裏庭は、野菜を育てたいので、
雑草を枯らすような薬は一切使っていません。
それで、芝生と雑草が共生しています。
その雑草がウサギ君達の格好のえさなんですね。
そう、うちの裏庭は、動物たちのえさ場になっているのです。
それで、「人がいる気配」がする日は、そうでもないのですが、
日曜日のように、人のいる気配があまりなくなってしまうと、
奴らは、我が物顔で、庭で葉っぱ食べてるんですね。
それで、野菜を見つけて、「あれ、こんなところにこんなものがある・・・」となって、
もしかしたら、情報交換してるのかなあと思うくらいです。
冷蔵庫の中でしなび始めたねぎを植えておきました。
いつもだったら、食べて、残った根っこだけを植えるのですが、
まあ、十分しなびてるので、あんまり食べるところないだろう、
とそのまま植えてしまいました。
それから、今日は、アブラムシ退治にも本格的に乗り出そうと、
気になっていた、「テントウムシ」を購入。
庭に放しました。
ちょっと容器を開けたら、出てくる出てくる。
手にも頭にも上ってきます。
ちょっと開けて、また閉めようと思ったのですが、
とんでもない。
閉める隙がないくらい、うようよと出てきます。
虫の苦手な人は、絶対に無理です。
でも、きっとむしゃむしゃ食べてくれます。ありがたいことです。
それから、雨。
どうして降らないんでしょうか?
昨日は東側で降って、今日は西。
昨日も、そして、今日も水まきをしなくていいと思ったのですが、
見事に二日連続ではずれました。
暑かったです。33度。
明日の朝は水まきです。
でも、ちっぽけなことで文句言っていますよね。
人生にはもっと大切なことがある。そう。こんなことで文句言ってはならない。
ですよね。
今日、明日と集会はありませんが、
個人的にお会いする方々が何人か。
これが本当に大切な時だと思っています。
明日お会いする方々ともよい学びの時が持てますように。
今日はマタイによる福音書22-28章を読みました。
一気にマタイによる福音書を読み終えました。
あまりの展開の早さに、また、ゆっくり読む時を持ちたいと思いました。
そんな中で、今日、心に留ったのはイエスのゲッセマネの祈りの言葉です。
「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」26:42の言葉です。
イエスは祈りの中で、ただ、父なる神の御心を求めた。
自分の模範とさせて頂きたいと思いました。
自分の願いではなく、自分の思いではなく、
神様の御心を求めていきたいと思いました。
昨日も書いたけれども、
自分の夢を持ち込むのではなくて、
神様の御心を待ち望んで、
従って歩んでいきたいと思いました。
時々、「そうは言ってもなぁ」という思いになるのですが、
今日はなぜか不思議と、素直に「御心を求めよう」とそのまま思いました。
神様、
あなたの御心はどこにあるのでしょうか?
何を私に求めておられるのでしょうか?
自分の願い、自分の夢、自分のこだわり、ではなくて、
あなたの御心を行う者でありますように。
今日は、また暑かったですねえ。
いやー、夏ですよ。
我が家の温度計での最高気温、35.5度!
場所によっては雷雨もあったようですが、
うちの方は素通りしました。
今も11時ですが、24度もあります。
熱帯夜の季節がやってくるのでしょうか?
天気予報では「暑い」のは明日までで、その後は
「平年並み」の気温に戻るみたいですが・・・つまり、最高が25度くらい。
まあ、それだったら、いいですがね。
土曜日に植え付けた、コーンですが、
毎日いたずらをするやつがおります。
犯人はわかりません。
根元を掘り返す奴。毎日、何本か、掘り返されていて、
ダメもとで、もう一回植え付け直しています。
あと、芽を食べる奴。
これはもう許し難いです。
コーンはイネ科ですから、また真ん中から生えてきそうな気もするのですが、
ダメかもしれません。
今日、まるまる太った野ウサギがおりましたので、
追っかけ回して、追いだしてやりました。これに懲りて、寄りつかなくなればいいのですが・・・。
近所で、「全然動物の心配はいらない」という方もおられるのですが、
うちはこれから、グランドホッグ、チップモンク、野ウサギ、そしてリスとの闘いの季節です。
去年はそれがストレスで(たぶん)不整脈まで出てしまいましたからねえ。
今年は、「ケ・セラ・セラ」スピリットで、熱くならないように、なるようになれ、と大きく構えたいと思います。
あと、今日、小かぶが2-3センチくらいになって、
ちょっと窮屈そうなので、7-8本間引きをしました。
漬け物にしています。食べるのが楽しみ。
で、今日の聖書。
マタイ15-21章を読みました。
心に留ったのは、
16:24の「私に従ってきたい者は、自分を捨て・・・」という言葉です。
「信仰はがんばることではない」と日曜日に礼拝で語りました。
でも、「好きなことをすればいい」ということでもありません。
反対に、「自分を捨てる」ことなんですね。
でも、また「がんばる」ことは、
「自分を捨てる」ことと正反対のような感じがします。
先日、そうだなあ、と思った文章を「百万人の福音」という
クリスチャンの雑誌の中で見つけました。
「コミュニティーに対する自分の夢を愛する者は、コミュニティーを壊し、
兄弟(仲間)を愛する者は、コミュニティーを生きる」
ボンヘッファーの言葉だそうです。
9年前、私がJCCNJの牧師になるときに、
「自分の野望をこの教会で実現しようとしていないか」と疑う方々がおられました。
その時に、私はそんなことはない、と反発をしましたし、そんな気持ちもなかったと思っていました。
神様が尻込みする私を励まして、立たせてくださったと今でも思っています。
でも、「コミュニティーに対する自分の夢を愛する者」という言葉にはどきっとします。
今でもその危険をはらんでいると思います。
そして、それを別の言葉では「野望」というのでしょう。
だとすると、9年前のあの方々の言葉は正しかったのかもしれません。
ですから、「自分を捨て・・・」ということは、自分の「教会はこうあるべきだ」というこだわりのようなものも、捨てることなのか、と思わされています。
そして、イエスが「私が、私の教会を建てる」と言われた、教会に仕えていく者でありたいと思います。
主よ、
私はあなたに従います。
ですから、私は、
「自分を捨てる」ことにします。
それがどういうことなのか、日々の歩みの中で、
教会の歩みの中で教えてください。
あなたの与えられる十字架を喜んで背負う者としてください。
今日は暑かったですね。
32度まで行きました。
でも助かるのは、夜になると涼しくなること。
今は9時半ですが、21.6度です。
明日も暑くなるようです。
明日はアメリカはメモリアルデーでお休み。
牧師は大体月曜日お休みをいただいているので、
何かちょっと損をしたような気分なんですが、
まあ、子ども達と休みが一緒になるだけで、いいですよね。
庭の芝刈りとか、買い物とか、いろいろたまっております。
今日の礼拝は補習校の運動会のせいもあって、
また連休ということもあって、
また日本に行っている人たちもちょっといて、
いつもよりも少なかったですが、
それでも、とてもいい「礼拝」でした。
神様の前に「礼拝」をしている、という感じの礼拝でした。
今、シカゴではJCFN(Japanese Christian Fellowship Network)の
中西部地区の集まりを二泊三日でやっています。
昨年、講師としてお招き頂き、お伺いしました。
とても、幸いな、一時でした。
特に中西部の皆さんがその集まりを本当に楽しみにしておられる姿に、
励まされました。
今、やっているんだなあ、と一年前のことを思い出しています。
そして、今やっている集会の祝福を祈っています。
今晩はちょっと久しぶりに早く寝ることができそうです。
さっき、7時頃に、テレビを見ながら、ウトウトしていました。
まあ、あまり早く寝てしまうと、「早く目が覚める」という危険性もあるのですが・・・。
今日はマタイ10-14章を読みました。
心に残った言葉は、
10:20の言葉です。
「実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」という言葉です。
自分が語るのではなく、主が語ってくださる、そのように信じています。
実感としては、「話しているのは自分なんだけれども、それを通して、一人一人の心に語りかけてくださるのは神様」という感じです。
その経験をまたさせて頂きたいと思いました。
自分が語っているんだけれども、その人に届かせてくださるのは神様。
だって、自分の言葉が人の心に届くなんて、それはわからないから。
それは信じられないから。
神様が語ってくださっているんだと思う。
そうでなければいけないんだと思う。
主よ、
私のうちにおいで下さい。
そして、私が語るときに、
あなたが語らせてくださって、
あなたが、語ってくださいますように。
あなたが人の心に触れてくださいますように。
「あなたのことをずっと考えていました。」
そんな毎日となりますように。