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2014-08-01

18年目の始まり。

今日から新しい3年間の任期が始まる。
新しい任期のために思わされていることは、私自身が更に神様と共に歩むこと。神様の近く歩むこと。それによってあふれてくるものを大切にして行くこと。

今日は詩篇の8篇を読んだ。

「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」3-4節

先週はアトランタの教会のファミリーキャンプに行ってきました。
9年ぶりに講師として招かれて、懐かしい皆さんにもお会いしました。
皆さんの祈りに支えられて、神様の導きによって、大切な奉仕を全うさせていただきました。


こんな湖があって、ああ、そういえば、この湖の周りを散策したなあ、と思い出します。
この写真は二日目の朝、朝もやの中なのですが、
昼間は晴れて、夜は満天の星空になりました。

2014-01-09

原点に帰る。

先日、ある方と話していて、
自分がどのように神様の恵みを知ることになったのか、
そんな話に導かれました。

鎧なんで着なくていい。
その時その時のありのままで、歩むことの大切さ、
なんだか、最近そのことを忘れていたように思います。

自分を守ろうとしていたのかもしれない。
vulnerableであること、そのことの大切さを見失っていたのかもしれません。

もう7年くらい前に一度書いた証しを、読み返しました。

序1
序2
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第8章
第9章
第10章
第11章
第12章

本当に、神様が導いてくださったこと。
神様が与えてくださったことのすばらしさを思わされます。
話をしながら、感謝があふれてきました。

自分が何かをしたからではない、
ただ、神様の力が注がれる。
神様に愛されている感謝があふれてくる。
それが信仰の歩み。

その原点に帰ろうと思います。

さて、今日の「日々のみことば」。
創世記の9章でした。

「雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。」14-15節。

神様は虹を見て、
私たちを憐れまれる。

1年半ほど前のとある夕方に。

虹は雨が降る時に出る。
神様が憐れみを施されるのは、私たちに雨が降るとき。
私たちが戦いの中にある時にこそ、神様は私たちに憐れみを注がれる。

神様の憐れみを思わされる。
神様の憐れみを求める。
憐れみなしには生きていけない存在であることを忘れないようにしよう。

神様、
私にはあなたの憐れみが必要です。
あなたの憐れみを注いでください。

2013-07-24

ほっと。

ホットな日々が過ぎて、
今日はぐっと涼しくなってホッとしました。
今朝までは湿度も高かったのですが、
ほんとうにさわやかな夜を迎えています。

これは、夜9時前、暗くなって来たところ。



今は夜の11時半ですが、20.6度Cで、湿度49パーセント。
昨日までの暑さ、蒸し暑さがウソのようです。

2013-04-22

裏、取ろうよ。

一昨日あたりから寒い日が続いています。
昼間、車に乗ってたりすると、十分春なのですが、
外を歩いたり、朝夕だったりすると本当に冬みたいです。

昨日の朝、最低気温がウチの庭で0.1度C。
惜しい、って感じで氷点下になりませんでしたが、
今朝も1度まで下がって、車にはバッチリ霜が降りていました。


奥で咲いているのはレンギョウ。
もうちょっと前から満開です。
最近、チューリップが咲いてきましたね。

そして、本命、Oak Treeもホントスタンバっています。
おしべが降りて来たので、もう花粉が飛び始めるのも時間の問題です。


牧師をしていると、人前で話をする機会があって、その話の内容がホントかどうかって、かなり気になります。センセーショナルな話は人の心をとらえるのですが、それが間違いだったときのダメージはまた計り知れません。出所のはっきりしない話をして、それがあとで間違いだとわかって、自分の語っていることすべてが信用していただけなくなっては、聖書を私たちに託してくださった神様に申し訳なく思います。

先日もボストンの爆弾事件の時、亡くなった方の人数とか、犯人像とか、いろいろな報道がされていました。やはり混乱していたのだと思います。でも、報道に携わるならば、「裏を取る」ということの大切さは叩き込まれているのだと思いますが、ちょっと首をひねりたくなるようなことも最近はありますね。それが、FacebookやTwitterでみんなが互いに発信者になり得るこの時代、そして、情報が多くなって裏が取りやすくなったこの時代、裏を取ろうとする努力、もっとしなくては・・・と思います。

先日も鷲だったでしょうか、40歳くらいで自分のくちばしを壊して再生させるとか、自分の羽をむしってはえかわらせるとか、そういうことを通して、長く元気で生きられるのだ、私たちもそうだ、現状に甘えないで、今までの自分から脱皮することが大切なんだ、みたいな話が出回っていました。そりゃあ、それを読めばミッドライフクライシスを通っている(もうかなり出口に近いと思うけど)我らには「へえ」「オレもがんばろう」ってことになるのですが、これはかなり古典的なデマだそうで、検索をすると、すぐにそれについてのいろいろな情報がヒットします。(その「デマだ」という情報がデマじゃないかどうかも、また調べないといけないんですけどね・・・)

だれもが自分で発信する、発信できる時代、ホントに気をつけないといけないですね。でも、最初に発信する人はどんな意図で発信するんでしょうかね。勘違いなんでしょうか?それとも、やっぱり伝言ゲームみたいに途中で話が変わっちゃうんでしょうか・・・。

さて、また遅れてしまった「日々のみことば」。
今日は先週土曜日の分。

「ダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。」14節。

夫人が行っているように、王様は威厳のあるもの。
威厳が似合う。
でも、その王様がいたずらっ子のように踊った、
力一杯踊った。

人がどう思うかではない、
どう反応するかではない、
神様ご自身を見上げて、そこに目を注いで、賛美をしていく、
それでいいんだと思う。

人々の「こうあってほしい」っていう期待で自分を作ってしまいやすい私たち、
本当に真実に歩ませていただきたいと思う。
自分勝手じゃなくて、愛をもって、
でも、真実に歩ませていただきたいと思う。

主よ、
あなたを賛美します。
こころから賛美します。
あなたを賛美する喜びに満たしてください。
あなたとの時間を楽しみ、あなたと共に歩むことができますように。

2013-03-05

春の淡雪か、大暴れか?

今度のWinter Stormはサターン。
メインはワシントンDCの西の山みたいです。
アトランタに行く時に通るシャナンドウバレー方面。
そっちには50センチ級、ワシントンDCのあたりでも、
20-30センチくらいの可能性があるみたいです。

でも、ここら辺はもしかしたら、ホントにちょっとかもしれないし、
やっぱり20センチ級くらいになるかもしれないし、
予報が分かれています。
それくらいわからない・・・ということ。

天気予報泣かせのサターン君です。

でもわかっているのは、風が強いこと、
そして、しばらく居座ること。
なので、ニュージャージーの海岸部はまた高潮の危険があります。
サンディーの時のようにハドソン川を水が上がってくることはないと思いますが。

今夜、ある方とお話をしながら、
本当に教会のみなさんがどれほど大きな戦いの中で、
礼拝を命綱のようにして、
集っておられることを改めて思わされました。

どれほど厳しい戦いの中におられることか。

だから、本当に祈る責任を感じますし、
礼拝にもっともっとすべてをかけることが必要であることを感じさせられます。

さて、日曜日の「日々のみことば」。
日曜日は出エジプト記の12章でした。

「これは彼らをエジプトの国から導き出すために主が寝ずの番をされた夜であった。」42節。

もちろん、神様はいつも寝られることはないでしょうから、
擬人化された表現でしょうが、
でも、主がいつもいつも私たちのことを心に留め、
ここ一番という時に、特別に目を向けていてくださっている、

私の人生の危機、私の戦いの中で、
主はいつもにもまして、特別に心を向けてくださっていた。

そのことの恵みを感謝します。

主よ、
あなたが私に目を留めてくださっていることに感謝します。
これからの歩みの中にも神様の守りがありますように。

2013-01-03

砕かれた心。

今朝はやっぱり冷えましたね。
-7度くらい。昼間もやはり2度くらいだったでしょうか。

で、今夜こそ、ちょっと冷え込みはゆるみそうで、今、夜の11時過ぎで-0.3度C。明日の朝は-3〜-4度Cくらいかと思います。

でも、お天気的にはしばらく何もなさそうです。

今日は、ある方とお話をしていて、本当にこのために牧師をしているのかなあと思うような、幸いなひと時を持たせていただきました。心がふれあうのも感じましたし、砕かれた心で悔い改めて神様に従おうとされる姿勢に感動しました。

「神よ、あなたは砕かれた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:16)

人の弱さの中に、神様がその力を表してくださいますように!


さて、今日の聖書。
今日は創世記の第3章。罪の始まりのところです。

「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のようになることを、神は知っておられるのです。」創世記3:5

この聖書の箇所から、罪の始まりは「神を神としないで、自分が神になること」ということがわかる。神に従うのではなくて、自分で何でも決めて、自分で好きなことをしていこうということが罪だという。

今朝はこれを読みながら、本当のところ、私は神を神とする生き方、どこまでも神様に従って神様を第一としようとしているか、問われているように感じた。

神様を第一とする。人ではなく神を恐れ、神の前に歩む。
自分の思いではなく、神が私に何を求めておられるかを求めながら歩む。

そのことを具体的に生かせていただこうと思った。

主よ、
あなたのみ思いを教えてください。
そして、そのあなたの思いがわかった時にそれに従える従順さを与えてください。




2012-12-19

祈りと御言葉に:アドベント聖書日課12/18

今日は久しぶりに青空も見えた。
やっぱりうれしい。
雨も降ったし、夜になって冷え込んで来たけれども、
やはり、晴れるとうれしい。

今は真夜中の12時頃で5.9度C。思ったよりも高い。
明日の朝は0度くらいかな。

明日は一日晴れて、あさってはまた雨。(涙)

ここのところ、いろいろ大切な祈りの課題が寄せられて、祈らされています。
「祈っていますよ」とメッセージを書いて、直接話して、電話で話して、それだけにならないように、本当に祈ります。自分のことも「神様、どうしたらいいんでしょうかね。」「困っちゃいました」「わかりません」「なんとかしてください。信じています」と、祈るのですが、他の人のために祈る時には、もうちょっと集中して、手を合わせて、祈ります。いえ、聖書の中でイエスは「祈ることなんて見せるもんじゃない、戸を閉じて隠れたところを見ておられる神様に祈りなさい」と言われたので、「私はほんとに祈っているんですから」なんて言うのは違うんでしょうね。そりゃ自慢なんかするもんじゃない。

でも、なんで、そんなこと書くかというと、こんなことを感じたんですよ。
一つ一つ、丁寧に祈っていたら、すごい時間がかかるよなあ、でも、私はこのためにここにいるんだろうな、と。

牧師の働きも活動的な見える部分ではかられる時もあります。スケジュールが詰まっているとか、何件訪問したとか、何回集会があって、何人集まったかとか、何人洗礼を受けたかとか・・・。

でも、使徒行伝の中では伝道者の働きは「祈りと御言葉」なんだとあります。

だから、あんまり活動は見えないし、書斎に閉じこもっているかのように見えるかもしれないし、発信もちゃんとしていないように感じられるかもしれないけれども、もっともっと祈ることに、もっともっと聖書の御言葉に聞くことに時間を使っていく、それを大切にしていこうと思います。

明日は今のところ、3人の方に個別にお会いする予定がありますが、それも幸いな時となりますように。共に神様の前に出ることができますように。

さて、アドベントの聖書日課
ヨハネ2:1-11。

あんまりアドベントらしくないところですが、
イエスが私たちに与えてくださった喜び、ということを思う時に、真っ先に思い出すのがこの聖書の箇所です。

「それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」10節。


喜びの象徴としてのぶどう酒。
その最高のものを、神様はとっておかれた。
他のものによってはえられない喜び。
混ぜ物でごまかそうなんてのとは全然違うレベルの喜び。
それをイエスは与えてくださるのだとう。

イエスの喜び、もっともっと味わわせていただきたい。
イエスがくださると約束してくださっている喜びをもっと味わい、そして、まわりの人々にもそれを分かち合う者でありたい。

主よ、
あなたが私に与えてくださった祈るという使命に、もっともっと生かしてください。
あなたと共に歩む喜びに満たしてください。
そして、あなたのことを伝える者とならせてください。

2012-07-25

牧師のなすべきことは何?

暑い日と涼しい日が何日か交代でやってくるNJの夏らしい日が続いています。
いつもよりも暑く感じますが、今日などは、夜9時で24.5度ですから、快適です。


明日はまた暑くて午後からは雷雨がありそうです。






7月の初めに、アメリカに来て20年になりました。
そして、もうすぐ、NJの教会の牧師になって15年になります。
いつも祈りながら、主に聞きながら、牧師のなすべきことを求めています。


今年の春に「Emotionally Healthy Leadership Conference」というのに出席してきました。
ピーター・スキャゼロという人の「情緒的に健康な教会を目指して」という本を読んで、彼が主宰するセミナーに出たいと思ったのでした。


その中で学んだことの一つに、「応えられない期待は怒りになる」というものがありました。
・・・だから期待に応えましょう・・・という話ではなくて、「その期待は言葉にしていないことが多いので、伝わっていないことがある」「伝わっていないのに、その期待を『当然の期待』として押し付けるのは不当」(日本では「それ読むのがプロ」みたいな風潮がありますよね)「期待を伝えられた方は、それに応えられるかどうかを、はっきりと答えるべき」という話でした。


そんな学びをした後、役員会でみなさんに牧師に何を期待しているかを言葉にしていただきました。


本当に愛にあふれた皆さんの言葉をいただいたのですが、今度はその「期待」に対して、私がそれに応えられるかどうかをお答えすべき番で、それを反芻しながら、過ごしてきました。


その中で、ずっと心に留まっていて、また読み返そうと思っていたのが「牧会者の神学」という名前のユージン・ピーターソンの本。ずっとずっとここに戻らなければ、と思っていました。


久しぶりにその表紙を開いたら、その裏にこんなことが書かれていました。


「本書は牧師の本来の働きは『聞くこと』であり、また『神が聖書において、祈りにおいて、そして隣人たちにおいて語る時、人々がその御言葉を聞きとる援助をすること』であると定義することによって、牧師の召命を教会運営という宗教的事業経営のごときものに歪小化しようとする強い圧力に対する解毒剤を提供する。」


牧師の働きで本当に大切なのは教会運営ではなくて、自分が神に聞いて応えて行く、そして、人々が同じように神に聞いて応えて行くサポートをする働きなんだと、もう一度引き戻されたような気がします。


そして、原題はこのようにありました。



Working the Angles: The Shape of Pastoral Integrity




「Integrity」・・・日本語にはしにくい言葉ですね。首尾一貫していること、表裏がないこと、一つの人格として統一がとれていることを表す言葉です。


いろいろなすべきこと、そして、「このような必要がある」という声、でも、与えられた時間や能力は限られている、そんな中で、自分が引き裂かれてしまわないために、自分のなすべきことは何なのかを、しっかりともって歩ませていただくことの大切さを思います。


さて、「日々のみことば」から。
今日はコリント第一の手紙13章。
これは「愛の章」と言われるところです。


「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。・・・」4-7節


正直な反応は、自分には愛がないなあということであり、ではどうすればいいの?ということでした。その前には「こんなことをしても、こんなことができても、愛がなければ、すべてはむなしい」と書かれています。絶望的な気持ちになります。


12章の最後には「さらにまさる道を示してあげましょう」と書かれているのですから、この道を求めるべきなんでしょうね。


本当に祈るしかありません。「私に愛を与えてください。私に愛することを教えてください」と。


よくいわれることではありますが、この「愛」の部分に自分の名前を入れて読んでごらん、「・・・は寛容であり、・・・は親切です。またひとをねたみません。・・・は自慢せず、高慢になりません。」と読んでいると、恥ずかしくなって、すぐに詰まってしまう。でも、そこに「キリストは」とか「神は」と入れるならば、どうだろうか、と。


本当に愛の源である方に愛することを教えていただきたいと思います。


主よ、
私の中に愛のないことを感じます。
愛することを教えてください。
これはもうあなたに頼るしかありません。
愛のなんたるかを教え、愛することをさせてください。


PS. ちなみに、このブログの題の「日々の祈りと日々の遊び」という言葉もこのピーターソンの本からアイディアをもらっています。「祈りと遊びは、その深い部分において、互いに一致するものを持ち、広い内的関連性を持つものであって・・・」99ページ。

2012-05-25

労苦は無駄にならない。

なんだか、最近なかなか定期的にアップできないでいますが、元気しています。
ここのところ、NJは毎日雨続き。
昨日は何度も雷が鳴り、土砂降りがあり、
今日は朝のうち、霧雨。
でも、午後には晴れて、蒸し暑かったです。


このさきも、結構こんな天気みたいです。


先日、20年前、日本で私が牧師として駆け出しの時に、出会った、一人のご婦人から連絡をいただきました。ご主人が洗礼に導かれたと。


彼女の方は、日本でわたしたちが牧師として働きを始めたところに、集って来られて、いろいろ質問をして来られていました。そのあと、引っ越されて、アメリカに渡られて、NY州のロングアイランドの普通の英語の教会で洗礼を受けられました。
その後、ご一家はロスアンジェルスの南に引っ越されて、10年以上前、まだ、ウチのしたの娘も生まれる前だったと思いますが、一度お伺いしたことがあります。でも、その後、たまに連絡がある程度でした。


でも、今年になってから、息子さんが洗礼に導かれ、そして、今回、ご主人も洗礼を受けられたとのこと、本当にうれしいニュースでした。昨日、そのメールを読みながら、涙が止まりませんでした。


決して「洗礼」の数をカウントしてそれで成否を判断するのではないのですが、やはり、洗礼に導かれる方々が起こされないと、さびしいものです。「何か自分は間違っているのではないだろうか」と思うことさえあります。


そんな中で、このようなニュースを聞いて、ああ、20年前のあの働きも決して無駄ではなかった、そして、すぐに何かの結果が出なくても、忠実に語り続けること、伝え続けることの大切さを思わされます。


なまけ者は寒いときに耕さない、それゆえ刈入れのときになって、求めても何もない。」箴言20:4


主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」第一コリント15:58

2011-08-31

祈りとみことばの奉仕

今日もいい天気でした。
本当に助かります。
あの大雨の後、天気が悪いと本当につらいですが、
いい天気が続いてくれるのが救いです。


洪水が起こっているところはそれでも、
金曜日とか、土曜日にならないと・・・という報道がなされています。
最低、来週の前半くらいまでは、この天気が続いてくれるといいのですが。


そして、今、人々の目は、
大西洋に新しくできたハリケーン「Katia」(カティアかな、アメリカ人も迷うみたいです)移っています。
でも、ホントに心配なのは、メキシコ湾です。
ここに「Lee」がこの週末に発生します。
そして、メキシコ湾をウロウロします。


ここにには油田がたくさんあって、精製所もたくさんあって、
ハリケーンがここに来ると、ガソリンが高騰します。
カトリーナの時には、本当にびっくりするくらいガソリンが高くなりました。
1ガロン2ドル代前半から3ドル台にジャンプしたんじゃなかったかと思います。
今は3ドル半くらいですから、ジャンプすると5ドルくらいに行っちゃうんでしょうか。


そして、そのLeeからの湿った空気が北上して、
こちらに大雨を降らせる恐れがあります。


なんとかそれて欲しいものです。
テキサスの方は干ばつで大変なので、
なんとか、そちらの方にたくさん雨を降らして欲しいものです。


さて、最近の聖書から、
8月28日日曜日は使徒行伝6:1-15を読みました。


「そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」4節。

「祈りと御言葉の奉仕」に集中することの大切さを思わされるこの聖書箇所ですが、
今まで、ちゃんと読んでいなかったのですが、
「祈りとみことばの奉仕」の「みことば」って何だろうなあ、
御言葉を読んだり学んだりすることだと思われているけど、
語ることなのかなあ、とか、いろいろ考えさせられて、
原語では「ロゴス」かなあ、と思わされて、ギリシャ語を読んでみた。

そしたら、やっぱり「ロゴス」。
「神のことば」なんだろうな、と思いました。

でも、それ以上の発見。

「祈りと御言葉」の奉仕、だとばっかり思っていたのですが、
そうではなくて、
祈り、と「御言葉の奉仕」なんですね。

「祈り」が一つの働きで、それに対応するように、
「御言葉の奉仕」がある。

この御言葉に仕え、この御言葉を味わい、そして、生き、伝えて行く。
その使命をいただいたことの重さを感じさせられました。

神様、
私が、本当に御言葉に仕える働きをする事ができますように。
御言葉に聞き、味わい、そこに生きることができますように。
それをことばにして伝える時に、
あなたのみことばが一人一人の心に届くように、
私が本当にあなたの御言葉に仕える者でありますように。

2011-07-20

新しい任期に備えて。

今日も暑かったです。
そして、明日からいよいよ、警報ものの熱波です。
気温は36度くらい、体感気温は43度Cくらい、
だそうです。


無理はしないでください・・・ってことですね。
今夜はまだましなのかな、外の気温も9時半で27.2度C。
熱帯夜はどうにか免れる予報が出ています。


さて、実は、今の教会の牧師に就任したのが、
1997年の7月20日。
日本からホーリネス教団を代表して、ひとりの先生がおいで下さって、
按手礼という、正教師としての資格をいただくお祈りをしてくださいました。


それから14年。そんなに経ったんだ、早いな、という気持ちです。
牧師としてまだまだ駆け出しのような気持ちで、
少しずつ、大切なことがわかってきたかな、というところなので、
ちょっと数字の大きさに気持ちが焦ります。
でも、いつもいつも、私自身が聖書学院に入る時に平安をいただいた言葉、


「あなたの弱いところに、わたしの力は完全にあらわれる」


というイエスの言葉を信頼して、歩んで行こうと思わされます。


そして、今の任期は7月末まで。
8月1日からは新しい任期が始まります。


そんなことを考えながら、今日手にしたのが、


「牧会ジャーナル」


もう十数年前から発行されている小冊子ですが、
初めて、実物を手にしてみました。


存在は知っていたのですが、
どこに頼んだらいいのかわからず、
まあ調べればすぐにわかるのでしょうが、
また海外で購読するコストを考えると、
二の足を踏んでいました。


今年の春に、牧師としての働きのために、
教会のこれからの歩みのために、
祈っている時に、近所の教会の牧師が、バックナンバーを貸してくださったのでした。


その中にある牧師のこんな言葉が、心に留まりました。


「牧師会で、何となく比較されるようで出るのが億劫」


わたしは正直なところ、そこまでは感じたことはなくて、NY地区の日本語牧師会をいつも楽しみにしているのですが、
確かに、目に見える成果のようなことを披露し合うような場になりかけた時に「何か違うんじゃないの?」と思ったことはありました。


でも、ホントのところは、
自分が自分で比較しているんでしょうね。


もちろん、回りの人々に比較される場合もあります。


「あっちの教会のメッセージの方が恵まれる」といって去って行った方々もいました。
(逆のことを言われると愚かにもまた舞い上がったりするわけで・・・)


でも、どんなことがあっても、どんなことを言われていても、
結局のところ、自分がしっかりと立つべきところに立っていれば、
いいんですよね。人が比較する言葉にもびくともしなくなる。


そのことを本当にこの新しい任期の始まる時に、
改めて、確かにさせていただきたいと思いました。


あと、英語の本で「Unnecessary Pastor(必要とされない牧師)」(Marva J. Dawn, Peter Santucci, Eugene H. Peterson)という本のことが紹介されていて、すげー題!?と思って、アマゾンで中古の本を注文してしまいました。ちゃんと読んでみないといけないんでしょうが、「一般に『こんな牧師が必要とされている』という牧師になるなよ」「ホントの牧師というのは世が求めているものとは違うんだよ」という警告と、じゃあ、牧師はどうあるべきか、ということを書いてある本のようです。この著者のひとりのピーターソンの書いたものにはいろいろ教えられることが多く、今回も楽しみにしています。邦訳じゃなくて、原文というのがハードル高いですが。


いつもいつも主に聞いて、聖書に聞いて、
そこに答えをいただいて、立ち上がって行く、
そのようなものとならせていただきたいと思わされます。


でも、ちゃんと投資すべきところには投資しないといけないですね。
もしももっともっと早くこの「牧会ジャーナル」を購読していれば・・・という気持ちです。


反省。


でも、それでなくても、日本語/日本文化の中での研修の機会の限られている海外の牧師のためには電子図書版もあればいいなと思います。
ホントはそっちの方が皆さん助かるのだろうと思うのですが・・・。


さて、今日の聖書。
今日は列王記第二9章27-37節でした。

「エフーがイズレエルに来たとき、イゼベルはこれを聞いて、目の縁を塗り、髪を結い直し、窓から見下ろしていた。」30節。

聖書を読んでいて、
時々、「どうしてこんなことを丁寧に書いているんだろう?」と思うところがあります。
ここもそうです。

イゼベルがお化粧直して、髪を結い直したこと、
わざわざ書くことの意味は何?
と思って読みました。

飾ったということ?
そして、特に皇太后としての、
威厳を表そうとしたということ?

ああ、でも、自分もそういうことあるかなと思いました。
飾るとき、威厳を表したいとき、
結局は自信がないんですよね。
恐れている。

イゼベルも結局そうだったのかなと思います。
強い女性のように思われているのでしょうけれども、
ホントは自信のない、恐れに縛られていた人だったんじゃないかと。

低くなって出ること、
真実になって、裸になって出ること、
本当に大切だと思います。
主が受け入れて、支えてくださるのですから。

神様、
わたしも虚勢を張りたい時があります。
自信がないとき、恥ずかしい時です。
でも、そんなとき、ありのままを受け入れてくださる
あなたの存在を目に留めて、
真実であることができますように。
あなたから答えをいただいて歩むことができますように。


明日からの暑さの中で、
一人一人が守られますように。

2011-03-30

出発。

今日はちょっと寒さも緩んで、朝も氷点下にならず、
昼間は10度を超えた。
でも、今夜から雨・・・で、そのあと明日の夜は雪。
20センチくらい積もる可能性もあるらしい。
ありえない・・・。もう4月になるというのに。


夜11時前で7.4度。
どんどん下がってきました。
明日の朝には1度くらいまで下がって、みぞれになるかも。


のんちは東京に移って、
いろいろ手続きをして、携帯を設定して、
携帯メールの挑戦して・・・と悪戦苦闘中。
焦らず、神様が道を開いてくださることを信頼して、祈りながら。
もうちょっとこっちのiPhoneの海外でのデータ通信が安ければ、
携帯メールじゃなくてiPhoneでGmailでいいのですが・・・。
(あ、のんちに連絡される方、Gmailのアドレスで大丈夫ですよ、携帯メールに自動転送されますから・・・)


この後、東部時間の夜の12時から日本ホーリネス教団の任命派遣式です。
Ustreamで中継するらしいので、Ustream出席したいのですが、
夜の12時から、未明の3時まで、というのがきついです。
翌日の普通の歩みに支障がない範囲でと思います。
でも、とにかく新しい年度の出発、新しい派遣です。
新しい気持ちで主に仕え、教会に仕え、人に仕えさせていただきたいと思います。


さて、今日の「日々のみことば」。
民数記15:17-31。
「初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として供え・・・」20節。

新しい地に入って行って、
最初の作物、最初の産物から主に捧げものをする。
やはり、それは神様を第一とする姿勢だと思う。
やはり神様との関係が整えられることなのだと思う。

他のすべてにまさって、神様との関係を大切にする。
まず、自分がそのような歩みを確かにさせていただこう。

かみさま、
あなたとの関係をもっともっと太いものとすることができますように。
主が共にいてくださることを、味わいながら歩めますように。

2011-03-10

大雨だよ〜2。

大雨中。
夜になってからかなり降り始めました。
日曜日の夜にfloodになり、どの川も水位が高く、地面ももうたっぷり水を吸っているので、今度はちょっとした雨で、floodになる予報です。100mmの雨が降りそうで、場所によってはもっと。なので、注意が必要です。水たまりに車で入って行くのはキケン。途中でエンコするのも十分悲惨ですが、命の危険だってあります。くれぐれもご注意ください。


明日の夜から毎週金曜日の夜7時半からレント集会。
今年はイエスの十字架への道を「対決」をキーワードにたどっていきます。
また日曜日の説教計画も準備しました。
こちらは、イエスの十字架の意味を丁寧に見ていこうと思います。


でも、昨日もNYで4人の方に個人的にお会いして、
今日も何人かの方々と交わりの時が与えられて、
働きを始めているのですが、
そんな中でも、しっかりと自分の位置を、神様の導きを確認しながら歩むことの大切さを思わされています。


自分の動かされやすい弱さや、多くのことをしようとする欲張りなところ、忘れないで、気をつけて、また見張ってもらって、軸のずれない働きをさせていただきたいと思います。


早速明日は午前中と、夜と2回の集会があり、
日曜日の礼拝説教の原稿を仕上げなければいけません。
忙しさの中で、自分を見失ってしまうことがありませんように。
主が守ってくださいますように。


さて、昨日の聖書。
昨日は民数記5:11-31。


「ある人の妻が心迷い・・・」12節。(新共同訳)

不倫の話です。
聖書の中にはそういう話たくさん出てきます。
それは「心が迷うこと」なんですね。
本人にとっては「真実の愛」という感覚があるようですが、
神様の目から見たら、「心が迷っている」。

夫や妻との関係がぎくしゃくしているところに、
「なんでこんなにわかってくれる人がいるんだろう」なんて人に出会ったりする。
「ああ、この人こそが私の出会うべき人だった」と思う。
ソウルメートなんて言葉を利用して、
前世から繋がっていたとか、運命の人だったとか、
クリスチャンだったら「神様の導き」なんて言ったりする。

でも、神様は、それは「心が迷っているんだよ」と言われる。

そして、神様はそこに痛みを与えられると。
どんなに「私の妻が(夫が)わかってくれないところをわかってくれるこの人こそ、神様が与えてくださった人だ」と思っても、「この人とだったらうまくいく」と思っても、結婚を軽んじるような関係には神様は痛みを与えられる。

本当に心を守っていただきたいです。
主に心を守っていただきたいです。
教会の一人一人も守られますように。

主よ、
私たちの心は迷いやすいです。
どうか、守ってください。

2011-03-07

イエスから目を離さない。

昨日の夜は12度あった気温が、
今朝起きたら、1度になっていた。
春ってそういうものだ。


東京も雪が降ったそうだけど、
前の日は16度くらいまで上がったという。
春ってそういうものだ。


今夜はまた冷えている。
夜の10時前で0.5度C。
明日の朝は-7度Cくらいまで下がる予報が出ています。
でも、明日の朝が底。その後は朝晩は冷えるとしても、
昼間は、そこそこ暖かくなりそうです。


2月の初めのGroundhog Day。
天気が悪くて「影を見ていないので春が早い」というGroundhogの予言を、「ありえない〜」とみんな笑っていましたが、これ、本格的な春も、意外と早く来そうですね。


昨日の礼拝後のキックオフ。
今までの自分の持っていた問題について、
これからどのように歩んで行くべきかについて、
自分の中ではずいぶん見えてきたように思う。
それが、これからの歩みにどのように反映して行くのか、
まだまだこれからなのだと思うけど、
この1ヶ月の歩みを通して見えてきたものを見失うことがないように、歩ませていただきたいと思う。
神様が与えてくださった決断、神様が与えてくださった時間、神様が与えてくださった思い、神様が与えてくださった幻、神様が与えてくださった使命、本当に感謝。JCCNJの牧師になって14年、50歳近くになって・・・あまりに遅いという感じもあるけど、これも神様のご計画だったんだろう。


続けて祈ろう。イエスから目を離さないように。
嵐や逆風の中でも、イエスから目を離さないように。


さて、今日の聖書。
民数記4:34-49。


「30歳以上50歳までの者を・・・」35, 39, 43, 47節。

「日々のみことば」誌の記述を読んで、
もう一度読み直したときに、この言葉が「あ、ほんとにそうなんだ」と目を惹いた。

他の部族から「戦いに出られるもの」の数を数えたときに、それは20歳からだった。
でも、このレビ族の奉仕者は30歳から上が数えられた。
礼拝のための奉仕をする者たちにはより厳しい基準が課せられた。
それでも、民数記を読んでいると、その奉仕者の中から、問題を起こす人々が起こってきた。モーセのリーダシップにチャレンジする人々が出てきた。

だから、本当に整えられなければならないことを思わされる。
神様の御用に用いられるためには、整えられなければならないのだと。

主よ、
あなたの守りを与えてください。
わたしのたましいを守り、教会を守ってください。
本当に一人一人が主の前にへりくだって歩むことができますように。

2011-02-25

少しずつだな。

今日は午前中雨でした。
午後になって上がって、夕方には夕焼けも。


明日はぐっと寒くなりそうです。
明後日の明け方にはちょっと雪も降るかも。


そして、月曜日はまた雨です。


2月も後半は、一人で祈って主に求める段階を終えて、少しずつコミュニケーションを取って、思わされていることを分かち合う段階に入っています。


元々この段階があまり得意ではなかった自分。
多分、それは自分が語り合っている中で、「何が正しいかわからなくなる」ことがあったからですが、それは実際のところは、「自分の考えがわからなくなる」ことが多かったからだと思います。ですから、今回、日曜日の集会と祈り会以外をすべて休んで、祈る時を持って、自分の中の芯がはっきりする中で、コミュニケーションの楽しさやダイナミズムを感じています。かえって、いろんな方々と話をする中で、自分の考えがまとまって行くのです。そして、どのように伝えればいいのか、自分の内側にある思いをどのように伝えればいいのか、自分の伝える方法の中で、どこの部分が一番弱いのか、伝わらないのか、そこにもヒントが与えられます。この感覚は本当に新鮮で、エキサイティング。


だから、本当に自分の中に芯を持つことが、どれほど大切なことか、principleを持っていることがどれほど大切なことか、思わされています。


特に広がりを持った働きをするために、開かれた働きをするために、芯を持つことの大切さを思わされます。そして、「そのためにはやはり静かに祈る時間が必要、牧師の日常の中では無理」(キッパリ!)というのが、今回の経験で学んだこと!


ま、何事も焦ってはいけませんね。


さて、今日の聖書。
第一ヨハネ4章1-10節。


「愛する者たち、私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。」7節。

この愛する、ということも芯が必要なことですよね。
自分が大切。自分の中にあるものが大切。
「金銀は私にはない、しかしあるものをあげよう」とペテロが言った言葉を思い出します。
そして、それは神から出ている。
その芯は神から出ている。
神に愛されて、神に赦されて、生かされている、それが芯となるのだ。
それゆえに、愛することができる。
愛する力が与えられる。

だからやっぱり、神の愛に注目することが大切。
誰か他の人の愛に注目してばかりいると失望する。
芯を失って行く。
そして、そこにあるのは「恐れ」。
受け入れられるだろうか、喜んでもらえるだろうか、相手は自分をどう思っているか、どんな目で見ているのだろうかという恐れ。

「イエス・キリストから目を離さないでいなさい」ですね!

主よ、
あなたの愛に感謝します。
あなたの与えてくださっている豊かなものに感謝します。
あなたの愛に満たされ、
はっきりと芯を持った生き方に導かれ、
愛することができる者となりますように。

2011-02-03

天の賛美。

久しぶりに月と明けの明星のランデブー。
でも、実はこの写真は先週末。
今は月は夕方、木星と一緒に輝いています。



今朝は予想通り、-5度C。
昼間は0度をちょっと超えたようで、
太陽の熱もあり、ちょっと雪解けが進みました。


今夜は冷えています。
今11時で-6.8度C。
明日の朝は-10度C以下に下がるようです。


そして、焦点はあさって土曜日の雪。
明け方から降り始めて、昼頃に一度雨に変わって、
でも、また夕方から雪。


5−10センチくらいの積雪が予想されています。


まあ、今年の冬の天気に慣れている私たちにとっては「全然大丈夫」だと思います。


まだ3日目ですが、
集会をお休みにして、祈るときを持っていますが、
ホントに幸いを感じさせていただいています。
どうして、今までこれをして来なかったんだろうか?とまで思います。


本当に帰るべきところに帰って来たというか。
「なくてはならないものは多くはない」と言われたイエスの言葉を思い出させられた。


ここ何年か、25年前に通った自動車教習所でクランクやS字走行をさせられたときに、「お前は車を運転しているんじゃない、車に振り回されている!」と怒鳴られたことを思い出すくらい、自分の生活をコントロールできないでいました。
特に牧会について、また礼拝や他の集会の準備について、いつも何かに追われていたように思います。
そして、教会の方向性とか、大切な軸とか、そういうことについてしっかりと確信を持って進んで行くということができないでいました。


それは誰かがそのように要求したというよりも、
自分があえてそのようにしていたんでしょうね。
悔い改めます。


さて、今日の聖書。
今日は詩篇103:14-22。


「しかし、主の恵みはとこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にある。」17節。

神は賛美されるにふさわしい方。
永遠に恵みを注いでくださる方。

月から地球までは光が1.3秒で届くのですが、
金星と地球が今どんな関係にあるのかわかりませんが、
太陽の向こう側に行っているときなど最大で15分くらいかかるときもあるでしょうね。

でも、その光が何億年、何十億年、百億年以上も旅をして、地球に届くというものもある。その光が百億年ずっとずっと神様を賛美して来た、賛美していたと思うとすごいですよね。

その歴史の一番最後のほんのちょっとのところに人間が造られて、今、自分がそこに生きている。50年なのか、60年なのか、70年なのか、80、90年なのか、時が与えられて、その神への賛美をちょっとシェアさせていただいている。

私ももっともっと賛美したいと思う。
この月よりも、この金星よりも、
100億年かけて地球に届く光を放つ銀河よりも、
すべての光を飲み込んでしまうブラックホールよりも、
神様を賛美したいと思う。

神様、
あなたへの賛美をこの宇宙の星々とシェアできることを感謝します。
この歴史の一こまに、私の存在を置いてくださったことに感謝します。
どうか、私の使命を果たすことができますように。
あなたの願っておられるように生きることができますように。

2011-02-02

静まって。

今朝起きたらやっぱりfreezing rain。
バスが止まっていたので、もう今日の朝のNYでの祈り会はパスかな、と思ったのですが、「やっぱり車で行こう!」と決心して、朝の6時過ぎから、車の氷はがし。
気温が-1.6度Cまで上がって来ていたので、思っていたよりも簡単にはがせて、早速NYCへ。
途中、対向車線からシャーベットの山が飛んで来て、前が見えなくなってひやっとしましたが、その他は特に大きな問題もなく、7時半前にはNYに着いていました。


感謝、感謝。


昼間は暖かくなっていましたが、夜は風もでて気温も下がり、寒くなって来ています。
今は夜の11時45分ですが、まだプラスの0.7度C。
でも、この後冷えて、明日の朝は-5度くらいかな。


そして、次の天気イベントは、土曜日の雪。
うーん、降ることはほぼ確実ですが、
どこまで雨になるか、どれだけ積もるかですね。
大したことはないと思いますが・・・。


この同じ低気圧の影響で、
明日はHousetonでも雪だそうですよ。
積雪もあるかも。


昨日から、日曜日と祈り会以外のすべての集会を休んで、
教会のこれからの歩みのために祈っていますが、
この2日間でわかったことは、
これは私自身が主の前に整えられることが必要で、
御言葉によって取り扱われることが必要だと言うこと。


まさに「リトリート」です。
戦いのさなか、一度退却して、体勢を整えて次の戦いのために備える、
そんなときです。
NJでの牧会の歩みの中でどんどんスケジュールに振り回されるようになって来ているように感じています。
だから、今日、詩篇46:10の「静まって、私こそ神であることを知れ」という言葉のThe Messageという訳の言葉、


“Step out of the traffic! Take a long,
loving look at me, your High God,
above politics, above everything.”



に出会ったときには、ああ、私のためのメッセージだなと思いました。


trafficからstep outしなさいと。


この祈りのときを通して、焦点がしっかり合った働きをさせていただけるようになりたいと思います。


さて、今日の聖書。
今日は詩篇103:1-13。
「主の御計らいを何一つ忘れてはならない」2節。

私はこの3節の「主はすべての病を癒し」という言葉に引っかかってしまうんですよね。
すべてを癒すことはおできになるけれども、神様はしばしば癒しの御業をなされない。
今日も一人の方が召されたことをお伺いしました。

「主はすべての病を癒し・・・」ということはどういうことなんだろうかと思います。

いや、こう聖書に書いてあるのに、癒されない人もいることは何なんだろうかと思います。

だから、新改訳で「主の良くしてくださったこと」と訳されている言葉が、「主のお計らい」と訳されていることに、心が留ったのです。

すべては主の御計らいの中にある。
私たちがそれを「良きこと」と思えないようなことの中にも、
主の御計らいがある。

だから、それに心を向けているならば、受け入れられるのかな。

未だに納得いっていない「人の死」がいくつもある。
癒されなかった人たちがいる。

本当に栄光の中に、「主に召されたんだなあ」という場合もある。
すばらしいと思う。主をほめたたえたい。
でも、どうしても、どうしても、納得できない場合もやっぱりある。

ある人は信仰が強ければ癒されると言うかもしれない。
でも、そんなことはなかった、十分強かった、そう言える。
もっと祈れば・・・と言うかもしれない。
とんでもない、必死に祈った!

でも癒されなかった。
何年経っても納得いっていない。

でも、それは多分、一生「納得」がいかないんだろうな。
でもいい。私よりも大きな方の御計らいの中にあるのだから。
このちっぽけな頭で納得できなければおかしいなんて、それはとんでもない、傲慢なんだから。

主よ、
私のこれからの歩みの中でも、
たくさんの癒しの御業をなしてください。
どんな病をも癒すことのできるあなたを信頼します。
だから、癒さないであなたのもとに召されるとき、
それが私の納得いかないことであったとしても、
あなたを信頼することが、できますように。

2010-11-08

初sleet。

今朝は場所によっては雪も降り、
うっすら雪化粧したところもあったようですが、
こちらはほぼどんより曇り。
時々、雨が降ったり、時々「パチパチ」とsleetが降ったりしました。
このsleetというのは氷の粒で、雪よりも気温が高めでも降る場合が多いです。


明日からはしばらく暖かめの日が多いみたいです。
MY初雪はまだまだお預けのようです。


最近、こちらに滞在されて、教会に集っておられる方がおられるのですが、初めて来られたときに、「デンバーの修養会に先生が来たときに、私もそこに行っていたのです。」と言われて、「その時に初めてイエスの十字架の意味がわかったんです」と言われました。


それはうれしいですよねえ。今から9年前。まだサキがのんちのおなかの中にいた頃ですよ。
初めてJCFNに関わった修養会。
その時にお会いした方々の多くが日本に帰ったかな。
一緒にNYから行った人たちも誰が残っているだろう?
ん?もしかしたらみんな日本?
そして、天国に召されていった方もいる。


そこで時間を共有していたんですよね。
そして、一人の方がイエスの十字架の意味に目が開かれる。


それは確かに神さまのみ業。そう、人間業じゃあない。そこに関わることができたのは神様からのプレゼントだなあ、と思う。


これからも、たくさんの方々と「イエスの十字架の意味がはっきりと示された」という瞬間を共有させていただきたいと思う。


今夜はここで。

2010-11-06

神との関係に生きる。

今朝はギリギリ霜が降りるか降りないかという冷え込み。
車の窓の半分は凍って半分は大丈夫でした。


でも、明日の朝はバリバリに凍りそうです。


今は夜の10時半ですが、5.3度C。
明日の朝は0度くらいに下がりそうです。


それに今夜は一年で一回の、1時間長い夜。
明日の朝、ちょっとゆっくり休めるかと思うとホッとします。


そう、今朝はどういうわけか、目覚ましに使っているiPhoneのアラームが1時間早くなりました。朝の4時40分。「え〜!?」ともう一度寝ようかと思いましたが、予定の5時40分に鳴らなかったら、どうしようか、と気になって、もう眠れません。


そして、その運命の5時40分。


鳴りませんでした・・・。


これはコワイですね。


ヨーロッパとアメリカとでの夏時間の終わるタイミングが違うがゆえにプログラムミスでこうなってしまったのだとは思いますが、もしも、間違えて1日早く夏時間が終る設定だったら、1時間遅く鳴ってくれるはずだったのですが(これも困るが・・・)、どういうわけか、1時間早く鳴ったわけだ。多分、シロウトのわかるレベルのバグではないのだろう。
それに、午後3時前のアラームはバッチリ時間通り鳴っていた。


なんだか、訳がわからない。


ま、とりあえず、しばらく他の目覚ましで起きることにして、様子見だ。


さて、今日は、「日々のみことば」の方ではなくて、朝の祈祷会で開いた民数記の20章1−13節から。


「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから・・・」12節。

この部分、かなりナゾだ。
だって、モーセは人々に「水がない」と責められて、
神さまから「岩に命じなさい、そうすれば水が出るから」と言われて、
でも、もうイライラしていたのかもしれない。
「なんで、自分たちがこんなことをしなければいけないんだ!」と
岩を2回、バンバンと叩いたのだった。

それで、神さまからこのような叱責を受ける。
おそらく、「自分たちが・・・」という軽率な言葉と
命じなさい、と言われたのに、叩いたことが問題なんだと思う。

でも、それはちょっと厳しすぎるのでは・・・という声もあった。

ですよね。厳しいです。

でも、注意深く読んでいると、
6節では、不平を言うこの民の前を去って、
神の前に行ってひれ伏している。

この態度は正しい態度だと思う。

人々から責められて、でも、すぐに彼らは神に向かって、神からの解決を受けようとする。

ところが、彼らは形の上では神の前に行ったけれども、心のなかには人々に対する怒りや自分がこんなにやっているのに・・・という気持ちなどいろんな思いが渦を巻いていたのだと思う。

だから、「なんで自分たちがこんなことを・・・」という言葉が飛び出してきたのだと思う。

だから「命じなさい」と言われたのに「2度叩く」という行為になってしまったのだ思う。

それを神は責められた。
ホントは神が彼らをリーダーとして立てられたのに、
いつの間にか、民との関係だけでモノを見るようになっていた。

そこに落とし穴があった。

結局、この民とモーセとの関係には、
神さまが出てこない。
直に要求と答えがぶつかっている。

振り返って、自分の心を覗いてみた。
ほんとうに自分の話だと思った。

自分も「みんなが言うから」とか、
「皆さんがそう思うなら」とか、
そういうことに心が向いていることがある。

違うのだ。

神さまが命じられることに従うのだ。
神さまが立たせて下さり、
神さまが使命を与えてくださるからでていくのだ。

責任転嫁をしてはいけない。

神さまが与えようとしている使命をしっかりと見据えて、
人のせいにしないで、信仰者として決断して進んでいく。
その大切さを思わされた。

主よ、
どうか、私が、いつもあなたとの関係で答えをいただいて、
あなたの与えられた使命に立って、
歩んでいくことができますように。


平安を与えてください。

2010-10-06

自分がしてほしいことを、自分もしなさい。

今日は、ほんとに予報よりも良くなりましたね。
朝から青空が広がって、暖かくなりました。


2日どんよりが続くと、
青空が待ち遠しくなります。


明日も、晴れて暖かくなる予報が出ているのですが、
ほんとにそうなって欲しいところです。


今朝は、起きたときにはそれほど感じなかったのですが、
時間が経つにつれて、だんだん筋肉痛が出てきて、
どうしようかと思ったのですが、
さすがに、1日でギブアップはまずいだろうと、
今日は200Mほど長く、スピードもちょっとだけ上げて。
おかげで、体重も久しぶりに大台を割り込み、
BMIも肥満ラインの25.0まで下がってきました。


でも、走りながら、「高校生の頃は9kmを40分台前半で走っただろう」と思ったのですが、考えてみれば、それは、今の年齢の1/3の頃なんですね。体重も15-20キロくらい少なかった。やっぱり、自分の中で、高校時代なんてホンのさっき、って感じがしているんですが、自分はもうその後、それまでの2倍生きているんですね。無理がきかないわけです。ハイ。


ぼちぼちやろうと思います。


なんて言いながら、
今日もまた一つ、iPhoneアプリに出会ってしまいました。


Fit for Rhythm


筋肉痛と闘いながら、一通りプログラムをやると、
自分がいかにバランス感覚がないか、が分かります。
これでしょうね。自分の運痴な理由。


50歳での運痴脱出を目指して、ちょっと頑張ってみようっと。


今日の2つの集会で、分かち合ったこと。


「自分がしてほしいことを、人にしなさい」というイエスの言葉。


自分がしてほしいことはなんだろうなあ、と思ったら、
「わかってほしい」「理解してほしい」「共感してほしい」かな。


だったら、自分もそうしなさい、というのがイエスの言葉。
人を理解し、共感することを求められているのだろう。


「人を変えようと思わないで、分かろうとしなさい」


これはイエスの言葉ではありませんが、
時々、自分で自分を戒める言葉です。


自分が自分ではない者になることを要求されるのは辛いものです。
牧師の働きをしながら、「あの先生のようになってください」と言われるのは悲しいことです。そして、そのようなことを言われたあとには、しばらく、自分がどのようにしたらいいのか、混乱してしまいます。


でも、自分はどうなのか、
やはり、人を「変えようとしている」ことが多いのではないだろうか?


「自分がしてほしいことを、人にもしなさい。」
今まで、余り心に留めていなかった言葉だけれども、
今、本当に重みを持って、心に迫ってきている。


明日も我が家で集会がある。
新しい方々が何人も来られる。
人を分かろうとすること、
それを実践することができますように。


さて、今日の聖書の言葉。
列王記第一13章1−10節。


「たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにまいりません。」8節。

神の人に癒してもらって、
神の人をもてなしたいと思ったヤロブアム王。

でも、神の人はそれをキッパリ断った。
それは神の命令があったから。
神が「何も食べたり飲んだりしてはならない」と言われていたから。

王に対して失礼と思われる言葉と行動。
でも、神の人はそれを貫いた。(ここまでは・・・)
神が言われたことだから。

自分はどうだろうか。

主よ、
あなたに従います。
あなたの導きに単純に従うものとならせてください。
恐れにとらわれることがありませんように。
そして、明日の集会でも、
あなたの祝福を満たしてください。
あなたの素晴らしさを大胆に語ることができますように。
あなたが命じられたように、
自分が理解して欲しいように、
自分も人を理解できるものとなれますように。