2006-10-21

神さまの導かれるところ

またまた、ホントは日付が変わってしまっています。
今日は夕方からユースの集まり、教会での祈り会、そして、その後、
NYへの送迎で、時間がバタバタ過ぎていって、
あっという間に12時を回ってしまいました。

でも、今ちょっとホッと一息です。
さっきまで、(家族-5歳の娘+泊まりに来ている17歳の男の子)で、
JOYJOYキャンプのビデオを見ながら、爆笑しておりました。
キャンプの参加者のご父兄とキャンプのスタッフの皆さんには
来週中くらいに、お渡しするかお送りします。

明日の日曜日、また皆さんにお会いできるのが楽しみです。
礼拝が豊かに祝福されますように。

今朝は予想よりも高くて6.5度Cありました。
でも、今夜はもう冷え込んできて、12時半で5.6度まで下がっています。
2度くらいまで下がるでしょう。

明日の夕方には一雨あって、
月曜日からもう一段寒くなるようです。

今日の聖書は、使徒の働き16章でした。
パウロが2回目の伝道旅行に出かけて今度はアドリア海を渡ってヨーロッパに福音を伝えていくところです。

今日心に留ったのは、6-7節のところです。
「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。」

福音を伝えようとするのに、
聖霊様がそれを許されなかったということはどういうことだったのだろうかと思います。
どうして、神さまはそんなことをなさったのだろうかと・・・。

そして、それはパウロがマケドニヤに進んでいくためだったことがこの後分かる訳ですが、

後にならなければわからないことですね。
その時には、「どうして、神さまのことを伝えようとしているのに・・・」という感じだと思います。

そして、ピリピに導かれた彼らは、ああ、このためだったんだ、と後になって分かるんですよね。

私たちもそういうことがある。
それでいいんだと思いました。
一つの道が閉ざされる時がある。
もう一つの道も閉ざされて、
何なんだろうか、って感じる様な時。

大体、今自分がここにいることだって、
最初は願ったことではなかったことを思い出します。
大学のカタログを見ながら、
「うーん、とりあえず送っておくけど・・・」
と思ったことを思い出しました。

でも、神さまは私をここに導かれたと、今ははっきり言うことができます。

道が閉ざされる時、

そこに神の御手を覚えることができるようにと祈ります。

主よ、
楽しいたくさんのことも、
あなたの御手の中にあることを信じます。

そして、願った道が閉ざされる時も、
あなたの御手がそこにあると信じます。

どうか、あなたの御手を見たり、感じたり、覚えたりすることのできる、
霊的な敏感さ、それを私に与えて下さい。

あなたの御手を信じ続ける信仰をお与えください。

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