2006-10-03

家族とされて

昨日は更新後、間もなく床について、
今朝までぐっすり休みました。

うーん、一日おきですねえ。

今日はお約束の野球を最後の方だけ見て、
その後、明日の朝の集まりの準備をしながら、一冊の本を読みふけって、
遅くなってしまいました。

明日の朝の集まりは、他の教会のプログラムなのですが、
どちらかというと「聖書を読む」ということが目的ではなくて、
文化クラスの最初の15分間、聖書の話をする、というプログラムなので、
いろいろ作戦を考えさせられます。

「ああ、15分遅れていくくらいがちょうどいい」なんて絶対に思われないようにと、
ちょっと意地になっているかも・・・。

なんか、「常識にくさびを打ち込む」みたいな話ができればいいなあ、と思います。
私たちは「これが常識だ」と思っていることがいろいろあります。
でも、こうやって、日本で育って30年くらい経って、アメリカに住んで14年くらい。
ん?足し算するとちょっと多すぎですねえ。でも、まあ、それくらい。
日本では「これ常識」というものが、アメリカではとんでもない話だったりしますよね。

最近一番戸惑うのが、
「つまらないものですが・・・」と贈り物をする日本の習慣。
こちらでは絶対変ですよね。
「何で私につまらないものなんかくれるの!?」ですよね。

逆に「すごいいいのなんだよ!開けて開けて!」って感じ。
自分の場合、完全にアメリカナイズされている訳ではないんですが、
日本式にもものすごい抵抗があります。
でも、やっぱり日本ではそう言っちゃうんですよね。
もちろん、タメ口の親友とかだったら別ですが・・・。

まあ、その手のことなら、「郷に入りては郷に従え」なんでしょうが、

「絶対」だと思っていたことが、異文化に触れることによって「絶対」じゃなくなっちゃうんですよね。

聖書に触れても、そんなことが起る、それをお話しできればと思います。

だから、もう少し作戦を考えてから休もうと思っています。

今日の聖書はヨハネによる福音書19章でした。
イエスが十字架にかけられる場面です。

その中で、今日心に留ったのは、26-27節の十字架の上からのイエスの言葉です。
ヨハネに対して言った「子よ、これがあなたの母です」
マリヤに対していった「おかあさん、これがあなたの息子です」
言葉です。

十字架の上で、イエスは弟子のヨハネに「お母さんを頼むよ」、母親に「これがあなたの息子だからね」と言われたのです。それは一見、「自分が死んでしまうから、お母さんを頼むよ」という言葉に見えますが、それ以上の意味を持っている言葉です。

私たちは十字架の下で、周りの人々を「この人を頼むよ」とイエスから言われているのです。

十字架の元で一つの家族にされて、
お互いの存在を任されているのです。

自分はどこまでそれを本気に受け止めているだろうか、
それをどこまで真剣に受け止めているだろうかと思います。

「個人主義」「プライバシー」・・・それは尊重したいと思います。
でも、その上で、お互いを「神さまから任された存在」として、
一つの家族とされた存在として、
受け止めているだろうかと思ったのです。

教会ではお互いのことを「兄弟姉妹」と呼びます。
○○兄弟、××姉妹と呼んだりします。
でも、それは単なる「夫の方か妻の方か」を言い分けるための便宜上の呼び方になったりすることもあります。
「田中さん」がご夫妻で教会に来られているとしましょう。
そのご主人の方を指す時に「田中兄が・・・」と言って、
奥さんの方を指す時に「田中さん、田中姉の方がさ・・・」
と言ったりします。

でも、本当にお互いを兄弟姉妹として、言葉だけではなくて、受け止めているだろうかと。

家族として、受け入れているだろうかと。

愛することを、敬うことを、尊敬することを、信頼することを
教えて頂きたいと思いました。

神さま、
あなたが私の人生に与えて下さった、
私に与えて下さった、兄弟姉妹を心から感謝します。
どうか、私がその兄弟姉妹を本当に主にある家族の1人1人として、
受け入れ、愛し、尊敬していくことができますように、
本当に、痛みを覚える人がおられたら、
その痛みを、自分の痛みとして感じることのできる者にして下さい。

明日の朝の集まりを祝福して下さい。


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