今日は朝起きたら雨。
気温も昨日までとは打って変わって、
15度くらい。
でも過ごしやすい一日でした。
今は夜の11時過ぎですが、8.9度まで下がっています。
明日の朝は5度を切ると思います。
そして、明日も一日15度止まり。
爽やかな一日となりそうです。
さて、Purpose Driven Lifeの24日目ですが、
この日は「聖書のみ言葉によって成長する」ということです。
(書いてから気がつきましたが、1日飛ばしてしまいました)
頭でっかちになってはいけませんが、
やっぱり私達が成長させられるのは、
聖書のみ言葉によるのです。
今度の日曜日に開く、ルカの24章の後半でも、
何度も、「復活のイエスが聖書から、解き明かされた」と出てきています。
自分の考えよりも、御言葉に権威を認めて、そこに従うことです。
ただ、知識として知っていくことだけではなくて、
それを実行していくことです。従っていくことです。
もっともっと御言葉の権威を認め、
御言葉を愛して、貪るようにして、読む者でありたいです。
そして、今日の聖書。
エレミヤ書27:12-22。
「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。」12節。
「日々のみことば」の解説に、
「降伏にも信仰が必要だった」とあるのを見て、
ああ、そうか、と思いました。
私の中で、「信仰」は「勝利」みたいな図式があって、
神を信じないネブカデネザル王に降伏するのは、
信仰的ではないのではないかと思う気持ちがあったのです。
どこまでも神様が勝たせてくださる、と信じて戦うことこそ、
信仰者の姿なんではないかと思っていたのです。
でも、実際、降伏することも、
信仰がないとできないことなんですよね。
大切なのはやはり「戦うか、降伏するか」ではなくて、
神に聞くか、他のものに聞くか、なんですよね。
私自身もいくつかの決断をすべきことについて、
本当に謙遜に主に聞いていきたいと思います。
また思い通りに、また「神様がこのように導いてくださっているのでは」という方に進んでいかないときにも、主を信頼して、忍耐をもって、従って行こうと思いました。
この世の力に降伏することも、信仰的な決断であり得る。
いつでもいつでも主に聞いていく、主に聞いて、それに従っていく者でありたいです。
主よ、
どうか、あなたに謙虚に聞いていく者でありますように。
原理原則ではなくて、あなたの導きを見極めることができますように。
あなたを信頼して、あなたの時を信頼して、信じていくことできますように。
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2010-04-09
2010-04-07
どこを目指して歩くか。
今日は予報通り、暑くなりました。
我が家の温度計での最高気温は34度。
モワッとしています。
明日は曇ってきますし、
気温も30度までいかないと思います。
そして、夜には雷雨。
そして、現実に戻ります。
「春らしい」三寒四温の日々が続くと思います。
イースターまでに終わる予定だった、
Purpose Driven Lifeですが、
細々と続いています。
25日まで進んでいますが、
今日は22日のところ。
「キリストのようになるために造られた」
「多くのクリスチャンは、主イエスが約束された『豊かな人生』を誤解しています。それは、いつも健康に恵まれ、快適に生活し、幸福感に満たされて、夢がすべて実現し、祈りと信仰によって問題は即座に解決するという誤解です。」
「主が最善をなされる」
「祈りが聞かれる」
ということを誤解している部分があったかと思います。
キリストのようになる、ためには、そんなにすべてが順調に行っていいわけではないですよね。
そして、もう一つ。
「力や確信が湧いてくるまで待っていてはいけません。恐れがあっても、感情が伴わなくても、正しいことを行ない、弱さを覚えながらでも、前進することです。」
うーん、考えさせられてしまいました。
やっぱり待っていることばかり多い自分。
「導かれる」のを待っていて、信仰を持って踏み出すことが少ないと思います。
「踏み出す時に開かれるヨルダン川」。
忘れないでいたいです。
さて、今日の聖書。
エレミヤ26:16-24。
「私たちの神、主の名によって、彼は私たちに語ったのだから。」16節。
一握りでも、伝わる人がいる。
真実に主の語りかけを伝えたときに、
伝わる人がいる。
かならずいる。
自分は時々、人々の反応を主に用いられたかどうかの物差しにすることがある。
でも、それは正反対のことだってある。
エレミヤは本当に人々に受け入れられなかった。
神のことばを語ったがゆえに受け入れられなかった。
本当に単純に、主に従っていきたい。
人の反応に振り回されるのではなく、
主のみことばに単純に従っていきたい。
主よ、
あなたに私の心の焦点がいつもあっていますように。
あなたのみ声を聞いて、語るものであり続けますように。
私の心をあなたの守り中に置いて下さい。
我が家の温度計での最高気温は34度。
モワッとしています。
明日は曇ってきますし、
気温も30度までいかないと思います。
そして、夜には雷雨。
そして、現実に戻ります。
「春らしい」三寒四温の日々が続くと思います。
イースターまでに終わる予定だった、
Purpose Driven Lifeですが、
細々と続いています。
25日まで進んでいますが、
今日は22日のところ。
「キリストのようになるために造られた」
「多くのクリスチャンは、主イエスが約束された『豊かな人生』を誤解しています。それは、いつも健康に恵まれ、快適に生活し、幸福感に満たされて、夢がすべて実現し、祈りと信仰によって問題は即座に解決するという誤解です。」
「主が最善をなされる」
「祈りが聞かれる」
ということを誤解している部分があったかと思います。
キリストのようになる、ためには、そんなにすべてが順調に行っていいわけではないですよね。
そして、もう一つ。
「力や確信が湧いてくるまで待っていてはいけません。恐れがあっても、感情が伴わなくても、正しいことを行ない、弱さを覚えながらでも、前進することです。」
うーん、考えさせられてしまいました。
やっぱり待っていることばかり多い自分。
「導かれる」のを待っていて、信仰を持って踏み出すことが少ないと思います。
「踏み出す時に開かれるヨルダン川」。
忘れないでいたいです。
さて、今日の聖書。
エレミヤ26:16-24。
「私たちの神、主の名によって、彼は私たちに語ったのだから。」16節。
一握りでも、伝わる人がいる。
真実に主の語りかけを伝えたときに、
伝わる人がいる。
かならずいる。
自分は時々、人々の反応を主に用いられたかどうかの物差しにすることがある。
でも、それは正反対のことだってある。
エレミヤは本当に人々に受け入れられなかった。
神のことばを語ったがゆえに受け入れられなかった。
本当に単純に、主に従っていきたい。
人の反応に振り回されるのではなく、
主のみことばに単純に従っていきたい。
主よ、
あなたに私の心の焦点がいつもあっていますように。
あなたのみ声を聞いて、語るものであり続けますように。
私の心をあなたの守り中に置いて下さい。
2010-03-23
寒くなるかなあ。
今日は雨もだいたいあがりましたが、
どんよりとしていて、肌寒い一日でした。
明日は晴れそうです。
でも、やっぱり先週の暖かさを経験した身には
ちょっと寒く感じそうです。
そして、JOYJOYイースターまであと4日ですが、
もうだいたい決まりましたね。
天気は大丈夫。
でも、一度25度を経験した身には
「めちゃくちゃ寒い」日になりそうです。
みんな暖かい格好でJOYJOYイースターに集合です!!
久しぶりのPurpose Driven Life。
21日目は「教会を守る」ということ。
ここも弱いですよね。
教会がMarket Placeと化している現代、
多くの人々が教会から教会へと渡り歩きます。
(もちろん、悩み抜いて祈り抜いて、どうしてもそのような決断に至ることもあるでしょう。)
集う人々は消費者になってしまう危険もあります。
教会を建て上げる者ではなく、
礼拝スタイルを評価し、メッセージを評価する者になってしまいます。
主の前にひれ伏す礼拝ではなくて、満足させてくれる礼拝になります。
そんなところで、
ちょっと人間的な問題が出てきたとき、ひとたまりもありません。
牧師の立場で、ここを強調すると誤解されるかもしれませんが、
本当に大切なことだと思うので、あえて書きます。
「あなたの牧師や指導者たちを支えること」
牧師も誰も同じ・・・ということが言われることも多いです。もちろん、同じ部分も多いでしょう。でも、主が与えられた使命と賜物はやはりあると思います。自分自身、甘えの気持ちで「みんな同じ」という気持ちがあったと思います。でも、主のCallingに本当に忠実であることが大切だと思わされます。
「教会の一致を守るというあなたの責任を真剣に受けとめてほしいのです。そのために全力を注いでください」
「私たちが教会の中に置かれている一つの理由は、私たちが自己中心とは逆のことを学ぶためなのです。共同体において私たちは『私』ではなく、『私たち』を、そして、『私の』ではなく、『私たちの』と言うことを学んでいきます。」
さて、昨日、3月22日の聖書。
マタイ25:31-46。
「わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え・・・」35-36節。
先日、「与えられた時間の十分の一を主に捧げる」ということを話された方がいて、
自分はどうだろうかと思わされていました。
牧師は「全部捧げているよ」と思っているかもしれません。
でも、そういう意味だったら、どんな仕事でも主への献身なんですよね。
だから、起きているときも寝ているときも、みんな主のための時間。
だから、本来クリスチャンはみんな十分の十、全部主に捧げている。
人生全体を主に捧げている。
でも、その象徴として、特別に取り分けて捧げ物をするのが十分の一ですよね。
そこには痛みがあるし、戦いもある。でも、もっと深いところにあるのは、感謝だし、喜び。
ある人は聖書を読んで祈る時間が2時間24分という方もおられます。
神様とだけ時間を過ごす。
まあ、そういう考えもあるでしょう。
でも、この聖書の箇所を読んだとき、「これかも・・・」と思わされました。
「これらの最も小さき者の一人にしたのは私にしたのである」と言われたイエスの言葉。
仕える者とならせていただきたいです。
空腹な者に食べさせ、
渇いた者に飲ませ、
旅人に宿を貸し、
裸の者に着せ、
病気の者を見舞い、
投獄されている者を訪ねる。
具体的な一歩・・・何だろう?
主よ、
あなたが私に与えてくださっている時間、
これはすべてあなたの時間です。
どうか、私のなすべきことを教えてください。
最後の投獄されている者を訪ねる、という言葉が心にとまっています。
どうか、主よ、あなたが出会いと導きを与えてください。
どんよりとしていて、肌寒い一日でした。
明日は晴れそうです。
でも、やっぱり先週の暖かさを経験した身には
ちょっと寒く感じそうです。
そして、JOYJOYイースターまであと4日ですが、
もうだいたい決まりましたね。
天気は大丈夫。
でも、一度25度を経験した身には
「めちゃくちゃ寒い」日になりそうです。
みんな暖かい格好でJOYJOYイースターに集合です!!
久しぶりのPurpose Driven Life。
21日目は「教会を守る」ということ。
ここも弱いですよね。
教会がMarket Placeと化している現代、
多くの人々が教会から教会へと渡り歩きます。
(もちろん、悩み抜いて祈り抜いて、どうしてもそのような決断に至ることもあるでしょう。)
集う人々は消費者になってしまう危険もあります。
教会を建て上げる者ではなく、
礼拝スタイルを評価し、メッセージを評価する者になってしまいます。
主の前にひれ伏す礼拝ではなくて、満足させてくれる礼拝になります。
そんなところで、
ちょっと人間的な問題が出てきたとき、ひとたまりもありません。
牧師の立場で、ここを強調すると誤解されるかもしれませんが、
本当に大切なことだと思うので、あえて書きます。
「あなたの牧師や指導者たちを支えること」
牧師も誰も同じ・・・ということが言われることも多いです。もちろん、同じ部分も多いでしょう。でも、主が与えられた使命と賜物はやはりあると思います。自分自身、甘えの気持ちで「みんな同じ」という気持ちがあったと思います。でも、主のCallingに本当に忠実であることが大切だと思わされます。
「教会の一致を守るというあなたの責任を真剣に受けとめてほしいのです。そのために全力を注いでください」
「私たちが教会の中に置かれている一つの理由は、私たちが自己中心とは逆のことを学ぶためなのです。共同体において私たちは『私』ではなく、『私たち』を、そして、『私の』ではなく、『私たちの』と言うことを学んでいきます。」
さて、昨日、3月22日の聖書。
マタイ25:31-46。
「わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え・・・」35-36節。
先日、「与えられた時間の十分の一を主に捧げる」ということを話された方がいて、
自分はどうだろうかと思わされていました。
牧師は「全部捧げているよ」と思っているかもしれません。
でも、そういう意味だったら、どんな仕事でも主への献身なんですよね。
だから、起きているときも寝ているときも、みんな主のための時間。
だから、本来クリスチャンはみんな十分の十、全部主に捧げている。
人生全体を主に捧げている。
でも、その象徴として、特別に取り分けて捧げ物をするのが十分の一ですよね。
そこには痛みがあるし、戦いもある。でも、もっと深いところにあるのは、感謝だし、喜び。
ある人は聖書を読んで祈る時間が2時間24分という方もおられます。
神様とだけ時間を過ごす。
まあ、そういう考えもあるでしょう。
でも、この聖書の箇所を読んだとき、「これかも・・・」と思わされました。
「これらの最も小さき者の一人にしたのは私にしたのである」と言われたイエスの言葉。
仕える者とならせていただきたいです。
空腹な者に食べさせ、
渇いた者に飲ませ、
旅人に宿を貸し、
裸の者に着せ、
病気の者を見舞い、
投獄されている者を訪ねる。
具体的な一歩・・・何だろう?
主よ、
あなたが私に与えてくださっている時間、
これはすべてあなたの時間です。
どうか、私のなすべきことを教えてください。
最後の投獄されている者を訪ねる、という言葉が心にとまっています。
どうか、主よ、あなたが出会いと導きを与えてください。
2010-03-20
自分のものとしての信仰。
日本では春分の日、アメリカでは春の初日。
今日も暖かかったです。
でも、ほとんど一日教会の中にいましたから、
あんまり感じませんでしたが・・・。
ただ、地下とか寒いんですね、こんな日は。
うちも、教会も、地下はひんやりです。
夏はいいのですが、春は着るものの調整が難しいです。
明日ももう一日暖かい日になりそうです。
でも、夜からは雨で、
火曜日からは寒いくらいになりそうです。
でも、もうこれからは夜の時間よりも昼間の時間の方が長い!
わくわくですね!
JOYJOYイースターまであと1週間!
一週間前時点での天気予報・・・雨か雪!ハハハ、どうなるか。
雪はともかくとして、とにかく金曜日からまた冷えてくるみたいです。
さて、Purpose Driven Lifeの20日目。
「壊れた関係を築きなおす」ということ。
これは本当に大きな課題です。
日本の文化の中では、アメリカにおけるよりも難しいのではないかと思います。
特に問題を指摘しても人格を否定しない、ということ。
頭でわかっていても、それが受け止められないケースがほんとにたくさんあると思います。
受け入れながら、問題を指摘する、
指摘している方は受け入れているから指摘しているわけで、
もう見捨てていたら指摘しないのでしょう。
でも、指摘されている方は、そんな風にはなかなか思えない。
問題と人格を分けてりかいするなんて、そんなできることではない。
んー、とうなりながら読んでしまいました。
一つでも、二つでも、そのような回復の御業を見ることができますようにと祈らされました。
さて、今日の聖書。
今日はマタイ25:1-13。
「油を少し私たちに分けてください」8節。
分けられるものと分けられないものがある。
分けたくても分けられないものがある。
人のふんどしで相撲が取れないものがある。
その厳粛さを語っているところだと思う。
一人一人が、神様の前に立って、神様の答えをもらって、
前に進んでいくこと。
誰も代わりはできない、
誰も代わりになることができない。
イエスは弟子たちに「あなたは私のことを何と呼ぶか?」と問いかけられた。
人の言葉ではなくて、
自分の言葉を求められた。
私も自分の答えを神様からもらおう。
神様が私をどのように導こうとされているのか、
主が私にどのようなことを使命として与えてくださっているのか。
主よ、
あなたに従う者とならせてください。
あなたとの関係の中に生かしてください。
借り物の信仰ではなくて、自分自身のあなたとの関係の中で、
答えを見いだして歩んでいくことができますように。
今日も暖かかったです。
でも、ほとんど一日教会の中にいましたから、
あんまり感じませんでしたが・・・。
ただ、地下とか寒いんですね、こんな日は。
うちも、教会も、地下はひんやりです。
夏はいいのですが、春は着るものの調整が難しいです。
明日ももう一日暖かい日になりそうです。
でも、夜からは雨で、
火曜日からは寒いくらいになりそうです。
でも、もうこれからは夜の時間よりも昼間の時間の方が長い!
わくわくですね!
JOYJOYイースターまであと1週間!
一週間前時点での天気予報・・・雨か雪!ハハハ、どうなるか。
雪はともかくとして、とにかく金曜日からまた冷えてくるみたいです。
さて、Purpose Driven Lifeの20日目。
「壊れた関係を築きなおす」ということ。
これは本当に大きな課題です。
日本の文化の中では、アメリカにおけるよりも難しいのではないかと思います。
特に問題を指摘しても人格を否定しない、ということ。
頭でわかっていても、それが受け止められないケースがほんとにたくさんあると思います。
受け入れながら、問題を指摘する、
指摘している方は受け入れているから指摘しているわけで、
もう見捨てていたら指摘しないのでしょう。
でも、指摘されている方は、そんな風にはなかなか思えない。
問題と人格を分けてりかいするなんて、そんなできることではない。
んー、とうなりながら読んでしまいました。
一つでも、二つでも、そのような回復の御業を見ることができますようにと祈らされました。
さて、今日の聖書。
今日はマタイ25:1-13。
「油を少し私たちに分けてください」8節。
分けられるものと分けられないものがある。
分けたくても分けられないものがある。
人のふんどしで相撲が取れないものがある。
その厳粛さを語っているところだと思う。
一人一人が、神様の前に立って、神様の答えをもらって、
前に進んでいくこと。
誰も代わりはできない、
誰も代わりになることができない。
イエスは弟子たちに「あなたは私のことを何と呼ぶか?」と問いかけられた。
人の言葉ではなくて、
自分の言葉を求められた。
私も自分の答えを神様からもらおう。
神様が私をどのように導こうとされているのか、
主が私にどのようなことを使命として与えてくださっているのか。
主よ、
あなたに従う者とならせてください。
あなたとの関係の中に生かしてください。
借り物の信仰ではなくて、自分自身のあなたとの関係の中で、
答えを見いだして歩んでいくことができますように。
2010-03-17
一気に春。
今朝は氷点下に下がって、
朝教会に行くときにはフロントガラスが凍っていたのですが、
昼間は暖かくなって、一気に春です。
昨日、1輪だけ咲いたクロッカスですが、
今日はこんなに咲きました。
ぜひ数えてみてください。
20輪以上咲いていますよね。
今、11時過ぎですが、6度くらいまで下がってきています。
明日も朝は2度くらいまで下がりますが、昼間は20度近くまであがる予想が出ています。
この春の陽気は日曜日くらいまで続くみたいです。
その後のことは何も言いませんが・・・ハイ。
日曜日くらいまで、です。
さて、Purpose Driven Lifeの19日目。
small groupの話の続きです。
最初の言葉大切だと思いました。
というか、この本は毎日のセクションの最初の言葉、
よく考えられていますね。
「共同体は、献身を要求します。」
一つ一つの必要なこと挙げていくと、
・正直さ
・謙遜さ
・思いやり
・秘密を守ること
・頻繁に集まること
最後の「頻繁に集まること」の大切さを思います。
たぶん、神様のリズムなんだと思います。
神様が私たちの魂に刻み込んだリズムがあるんだと思います。
さて、3月15日(月)の聖書。
マタイ24:1−14
「あわてないようにしなさい」6節
「そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです」8節
戦争が起こったり、
飢饉や地震が起こったり、
人々の愛が冷えてしまったり、
そんなことがあったら、本当に慌てるだろうと思います。
ふるわれるだろうと思います。
でも、主は「慌てるな」「始まったばかりだ」と言われるのです。
このような世の終わりについての記述を読むと、
何のために書かれているのかと思いますが、
やはり、私たちが慌てないためでしょう。
混乱しないため、だまされないため、
堅く立っていくためでしょう。
自分の歩みの中で、どれだけ慌てることがあるだろうかと思います。
どれだけ、あたふたしていることがあるだろうかと思います。
主のみ言葉を信頼して、
堅く立つ者でありたいです。
主よ、
あなたを信頼します。
動じない者とならせてください。
動じない強さを与えてください。
あなたを信頼して動かない強さを与えてください。
朝教会に行くときにはフロントガラスが凍っていたのですが、
昼間は暖かくなって、一気に春です。
昨日、1輪だけ咲いたクロッカスですが、
今日はこんなに咲きました。
ぜひ数えてみてください。
20輪以上咲いていますよね。
今、11時過ぎですが、6度くらいまで下がってきています。
明日も朝は2度くらいまで下がりますが、昼間は20度近くまであがる予想が出ています。
この春の陽気は日曜日くらいまで続くみたいです。
その後のことは何も言いませんが・・・ハイ。
日曜日くらいまで、です。
さて、Purpose Driven Lifeの19日目。
small groupの話の続きです。
最初の言葉大切だと思いました。
というか、この本は毎日のセクションの最初の言葉、
よく考えられていますね。
「共同体は、献身を要求します。」
一つ一つの必要なこと挙げていくと、
・正直さ
・謙遜さ
・思いやり
・秘密を守ること
・頻繁に集まること
最後の「頻繁に集まること」の大切さを思います。
たぶん、神様のリズムなんだと思います。
神様が私たちの魂に刻み込んだリズムがあるんだと思います。
さて、3月15日(月)の聖書。
マタイ24:1−14
「あわてないようにしなさい」6節
「そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです」8節
戦争が起こったり、
飢饉や地震が起こったり、
人々の愛が冷えてしまったり、
そんなことがあったら、本当に慌てるだろうと思います。
ふるわれるだろうと思います。
でも、主は「慌てるな」「始まったばかりだ」と言われるのです。
このような世の終わりについての記述を読むと、
何のために書かれているのかと思いますが、
やはり、私たちが慌てないためでしょう。
混乱しないため、だまされないため、
堅く立っていくためでしょう。
自分の歩みの中で、どれだけ慌てることがあるだろうかと思います。
どれだけ、あたふたしていることがあるだろうかと思います。
主のみ言葉を信頼して、
堅く立つ者でありたいです。
主よ、
あなたを信頼します。
動じない者とならせてください。
動じない強さを与えてください。
あなたを信頼して動かない強さを与えてください。
2010-03-16
久しぶりの晴れ!
まだまだ、電気が戻らない方もおられるようですし、
ウチも今日プチ停電(1時間ほど)があったのですが、
今日は久しぶりにすかっと晴れて、暖かくなりました。
やっぱり晴れるって、元気になるんですね。
そして、晴れて元気になるのは人間だけじゃありません。
はい、この日を待っていたかのように、今年初めてクロッカスの花が咲きました。
でも、今年はなんだか、今までに比べて花芽が少ないような気がします。
肥料も何も与えていないので、何も文句は言えないのですが、
満開で、どれくらい咲くのか、これからどんどんつぼみが出てきてほしいものです。
Purpose Driven Lifeの18日目。
18日目と19日目はSmall Groupについてです。
うわべだけの交わりではなく、心を開いた交わりの場。
ここ数年、そのことを思わされていますが、
いよいよ神様が私たちをそこに導こうと
情熱を持って、働いてくださっていることを、
このところ思わされています。
19日目のところにもっと詳しく出てきますが、
そこには勇気が必要だったり、
時間を捧げることが必要だったりします。
主がそれを求めておられるならば、
Rick Warrenが言うように、
単なる方法論ではなく、教会として本質的なことならば、
それが私たちが生かされている「目的」だとまで言うならば、
勇気と知恵と慎重さと愛を与えていただきたいです。
とにかく主に従って行けますように。
3月14日日曜日の聖書。
日曜日はマタイ23:29−39。
「『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。」30節。
これは、イエスが偽善者たちの愚かさを非難することばです。
自分たちだったら、そんな過ちを犯すわけがない、と言っている愚かさを指摘しているのです。
確かにそういう人たちいたなあ、と思います。
「自分が十字架の場面にいたら、自分は絶対にイエス様を守っていた」なんてことを言っていた人たちがいました。この偽善者たちと同じだったなあと。
そんなことを思い出しながら、気がつきました。
「自分は30節みたいな馬鹿なことは言わない」と思っているならば、
それはイエスに非難されていた人たちとどこが違うのか?と。
イエスを十字架にかけた人々を非難して、
自分はあんなことをしない、と言っている人々のことを、
「なんておろかなんだ」と言いながら、
「自分はそんなことをは言わない」なんて思っているならば、
やっぱり、同じ穴のムジナなんじゃないかと。
何て愚かなんでしょう。
救いようがないですね。
そんな者たちをも憐れんで救ってくださる主に目を向けて、
人のことをとやかく言うのではなくて、
主の憐れみによってやっと生かされている、受け入れられている、
そのことに目をとめて、感謝して歩んでいきたいです。
主よ、
自分は何て愚かなんだろうと思います。
気がつかせてくださってありがとうございます。
どうか、あなたの憐れみに、あなたの恵みに、目をとめて、
感謝しつつ歩む者としてください。
ウチも今日プチ停電(1時間ほど)があったのですが、
今日は久しぶりにすかっと晴れて、暖かくなりました。
やっぱり晴れるって、元気になるんですね。
そして、晴れて元気になるのは人間だけじゃありません。
はい、この日を待っていたかのように、今年初めてクロッカスの花が咲きました。
でも、今年はなんだか、今までに比べて花芽が少ないような気がします。
肥料も何も与えていないので、何も文句は言えないのですが、
満開で、どれくらい咲くのか、これからどんどんつぼみが出てきてほしいものです。
Purpose Driven Lifeの18日目。
18日目と19日目はSmall Groupについてです。
うわべだけの交わりではなく、心を開いた交わりの場。
ここ数年、そのことを思わされていますが、
いよいよ神様が私たちをそこに導こうと
情熱を持って、働いてくださっていることを、
このところ思わされています。
19日目のところにもっと詳しく出てきますが、
そこには勇気が必要だったり、
時間を捧げることが必要だったりします。
主がそれを求めておられるならば、
Rick Warrenが言うように、
単なる方法論ではなく、教会として本質的なことならば、
それが私たちが生かされている「目的」だとまで言うならば、
勇気と知恵と慎重さと愛を与えていただきたいです。
とにかく主に従って行けますように。
3月14日日曜日の聖書。
日曜日はマタイ23:29−39。
「『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。」30節。
これは、イエスが偽善者たちの愚かさを非難することばです。
自分たちだったら、そんな過ちを犯すわけがない、と言っている愚かさを指摘しているのです。
確かにそういう人たちいたなあ、と思います。
「自分が十字架の場面にいたら、自分は絶対にイエス様を守っていた」なんてことを言っていた人たちがいました。この偽善者たちと同じだったなあと。
そんなことを思い出しながら、気がつきました。
「自分は30節みたいな馬鹿なことは言わない」と思っているならば、
それはイエスに非難されていた人たちとどこが違うのか?と。
イエスを十字架にかけた人々を非難して、
自分はあんなことをしない、と言っている人々のことを、
「なんておろかなんだ」と言いながら、
「自分はそんなことをは言わない」なんて思っているならば、
やっぱり、同じ穴のムジナなんじゃないかと。
何て愚かなんでしょう。
救いようがないですね。
そんな者たちをも憐れんで救ってくださる主に目を向けて、
人のことをとやかく言うのではなくて、
主の憐れみによってやっと生かされている、受け入れられている、
そのことに目をとめて、感謝して歩んでいきたいです。
主よ、
自分は何て愚かなんだろうと思います。
気がつかせてくださってありがとうございます。
どうか、あなたの憐れみに、あなたの恵みに、目をとめて、
感謝しつつ歩む者としてください。
2010-03-15
大切なこと。
今日はまだまだ雨が時々降る、すっきりしない日でした。
そして、子供たちは休み、まだまだ電気がつかないところもあるみたいです。
水が出なかったり、ガスも出なかったり、ライフラインが全滅の地域もあるようです。
これはのんちの仕事場のあるショッピングセンターの駐車場。
一部、水没しています。
そして、よく見ると、左側の方に取り残された車があります。
手前のゴミのたまり方をみると、一番多かったときは今よりも数十センチ水位が高かったんだと思います。
話によると、土曜日、写真に写っていない左の方にあるテニスコートに来た人たちが、被害に遭ってしまったみたいです。
本当にすごい嵐だったんですね。
だんだん見えてきた被害の大きさです。
今日になって倒れたんじゃないか、という木が近所に何本もありました。
明日、サキは学校がありますが、ユキの高校はまだ停電中だそうで、
まだ明日あるか休みか決まっていないようです。
明日は天気は回復して、久しぶりに太陽が顔を出しそうです。
さて、久しぶりにPurpose Driven Lifeの話題ですが、
17日目。教会という家族が必要、という話です。
最初のポイントが大切だと思います。
「教会という家族は、あなたが自己中心的な孤立主義に陥るのを防ぐ」
教会は人の集まりですから、一人でいたら出会わないような、つらいことに出会うこともあります。もちろん、愛を感じたり、励まされたり、元気をもらったりするのですが、やはりそれだけではなくて、それと反対のこともあります。
教会に属していなかったら、経験しないですむような痛みを経験することがあります。
逃げ出したくなることもあります。投げ出したくなることもあります。
でも、それがまた私たちを整え、主を主とする信仰へと導いてくれるものなのです。
だから、そこで逃げてはいけない。
自分自身と向き合わないといけない。
人々の向き合わないといけない。
神様が与えてくださった家族だから。
さて、3月13日(土)の聖書。
土曜日はマタイ23:23−28。
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」23節。
子供の時から教会にいた自分にとっては、
十分の一を主に捧げるのはは当たり前以前の当たり前。
パリサイ人の気持ちわかっちゃいます。
スパイスみたいな細かいものでも、
きっちり十分の一を主に捧げないと気持ちが悪い。
だから、イエス様のこの言葉が本当に他人事には思えません。
だって、「正義とあわれみと誠実」をおろそかにしていないかというと、
そんなことはありません、なんて決して言えない。
最初の「正義」という言葉一つとっても、
口語訳では「公平」と訳されている。
(このとき、なぜか、2−3日、「日々のみことば」が見つからなくて、口語訳で読んでいました)
公平は単にみんなと同じように接することとは思えない。
そんなことは公平ではない。
イエスも十二弟子を選ばれた。
ほかにもたくさん弟子がいたのに、
その中の一部の弟子だけを特別扱いした。
それは一人一人への使命、賜物を見極めた上での決断。
自分はそこまでちゃんと考えて「正義」「公平」を行っているだろうか?
言い訳のように、「単純にみんな同じように」ということに逃げていることはないだろうか?
あわれみはどうだろうか、
誠実はどうだろうか。
本当に大切なことを大切にしていくこと。
今、それが自分の人生の中で問われていると思います。
主よ、
本当に大切なことを大切にさせてください。
本当に大切なことを見極め、
それが、たとえ人々に不評であっても、
大切なことを大切にしていくことができますように。
そして、子供たちは休み、まだまだ電気がつかないところもあるみたいです。
水が出なかったり、ガスも出なかったり、ライフラインが全滅の地域もあるようです。
これはのんちの仕事場のあるショッピングセンターの駐車場。
一部、水没しています。
そして、よく見ると、左側の方に取り残された車があります。
手前のゴミのたまり方をみると、一番多かったときは今よりも数十センチ水位が高かったんだと思います。
話によると、土曜日、写真に写っていない左の方にあるテニスコートに来た人たちが、被害に遭ってしまったみたいです。
本当にすごい嵐だったんですね。
だんだん見えてきた被害の大きさです。
今日になって倒れたんじゃないか、という木が近所に何本もありました。
明日、サキは学校がありますが、ユキの高校はまだ停電中だそうで、
まだ明日あるか休みか決まっていないようです。
明日は天気は回復して、久しぶりに太陽が顔を出しそうです。
さて、久しぶりにPurpose Driven Lifeの話題ですが、
17日目。教会という家族が必要、という話です。
最初のポイントが大切だと思います。
「教会という家族は、あなたが自己中心的な孤立主義に陥るのを防ぐ」
教会は人の集まりですから、一人でいたら出会わないような、つらいことに出会うこともあります。もちろん、愛を感じたり、励まされたり、元気をもらったりするのですが、やはりそれだけではなくて、それと反対のこともあります。
教会に属していなかったら、経験しないですむような痛みを経験することがあります。
逃げ出したくなることもあります。投げ出したくなることもあります。
でも、それがまた私たちを整え、主を主とする信仰へと導いてくれるものなのです。
だから、そこで逃げてはいけない。
自分自身と向き合わないといけない。
人々の向き合わないといけない。
神様が与えてくださった家族だから。
さて、3月13日(土)の聖書。
土曜日はマタイ23:23−28。
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」23節。
子供の時から教会にいた自分にとっては、
十分の一を主に捧げるのはは当たり前以前の当たり前。
パリサイ人の気持ちわかっちゃいます。
スパイスみたいな細かいものでも、
きっちり十分の一を主に捧げないと気持ちが悪い。
だから、イエス様のこの言葉が本当に他人事には思えません。
だって、「正義とあわれみと誠実」をおろそかにしていないかというと、
そんなことはありません、なんて決して言えない。
最初の「正義」という言葉一つとっても、
口語訳では「公平」と訳されている。
(このとき、なぜか、2−3日、「日々のみことば」が見つからなくて、口語訳で読んでいました)
公平は単にみんなと同じように接することとは思えない。
そんなことは公平ではない。
イエスも十二弟子を選ばれた。
ほかにもたくさん弟子がいたのに、
その中の一部の弟子だけを特別扱いした。
それは一人一人への使命、賜物を見極めた上での決断。
自分はそこまでちゃんと考えて「正義」「公平」を行っているだろうか?
言い訳のように、「単純にみんな同じように」ということに逃げていることはないだろうか?
あわれみはどうだろうか、
誠実はどうだろうか。
本当に大切なことを大切にしていくこと。
今、それが自分の人生の中で問われていると思います。
主よ、
本当に大切なことを大切にさせてください。
本当に大切なことを見極め、
それが、たとえ人々に不評であっても、
大切なことを大切にしていくことができますように。
2010-03-10
お腹をこわしやすい血液型?
まだ5時ですが、夜帰ってから更新するパワーが無いこともあり得るので、
ちょっと時間ができた、今のうちに・・・。
うちの夫婦ですが、私は割合お腹をこわしやすい方です。
2007年の新年は上へ下への大騒ぎの中で新年を迎えました。
そして、その年は5月までの間に3回もお腹をこわしました。
でも、のんちの方は「ちょっと調子が悪いかな・・・」くらいのもんです。
(その代わり喉は私が強くてのんちが弱い、とかありますが)
まあ、体質なんだろうなあ、と思っていました。
でも、先日、冬の腹下しの原因NO. 1の「ノロウィルス」のことを調べようと、Wikiを調べていたら、
「O型は罹患しやすくB型は罹患しにくい」だって。
えー?やっぱり?はい、私はO型で、のんちはB型。
他にも「あんまりお腹こわさない・・・」と言っておられたB型の方もおられたり、
「へえ、そうだったんだ!だからかあ。」と思い切り納得してしまいました。
「まあ、Wikiはよく不正確な情報があるからねえ」と思いつつ、
いろいろ調べてみましたら、要は、そんなセンセーショナルな調査報告があって、
いろんな研究がなされているようですが、
確かに小腸の腸壁にウィルスがとどまるための血液型抗原がある、というみたいですね。
つまり、ある特定の血液型の人にだけ感染するウィルスの型がある。
しかし、それはノロウィルスの主要な型の一つの話で、沢山ある型の中にはいろんなパターンがあるので、一概に言えない、ということみたいです。
沢山ある資料の中でわかりやすいのはこれかな。ラジオ用の原稿のようです。
でも、その資料とか読むと、研究のために、ボランティアの人たちにノロウィルスを飲んでもらう、ってすごいですよね。研究者の方々には申し訳ないですが、これだけは私はかんべんして欲しいです。とてもじゃないけどできません。研究のため、人々が助かるため、と言われても、できません。その苦しさをほんとに嫌というほど知っていますから。
同じレベルではないですが、イエスが十字架にかかったとき、
それはどんなに痛みであるか、どんなに苦しいことであるか、
どんなに深い孤独であるか、イエスは知っておられたことでしょう。
イエスはその苦しみを「杯を飲む」という言葉で表しています。
どんな思いをされたんだろうか、
そして、その杯を私達のために飲み干されたイエスの愛を思わされます。
さて、日、月と休んで、昨日、火曜日に読んだPurpose Driven Life。
16日目は「神の家族として愛しあうこと」がテーマでした。
心に残ったのは、「愛することは時間を使うこと、時間を共有すること」。
本当にそうだなあと思います。
与えられた限らた時間、どのようにそのために使うのか、
そのために犠牲にすべきものはなにか、
「広く薄く」か「狭く深く」か、
いろんなことを思わされます。
でも、時間を共有し、言葉に耳をかたむけること、
本当に大切な事だと思います。
さて、今日の聖書。
今日はマタイ22:34−46。
「ダビデはキリストを主と呼んでいる。」45節。
人々はキリストを「ダビデの子」と読んでいました。
ダビデのような救い主、ダビデのような力ある王、
彼らはそれを待ち望んでいました。
でも、イエスはダビデの子であるとともに、ダビデの主なのです。
ダビデのイメージに縛られることがない、
大きなお方なのです。自由なお方なのです。
イエスはいつもいつも私達の考えるイメージを超えておられる方です。
わたしを驚かせてくださる方です。
本当に自分がイエスを一つの型の中に、枠の中に
閉じ込めてしまうことがないように、
本当にイエスを主として、主と崇めて、
主として、従って歩んで行きたいと思います。
主よ、
あなたの力に感謝します。
あなたの見せてくださる奇蹟に感謝します。
あなたのことをわたしのちっぽけな頭の中の
イメージに閉じ込めてしまうことがありませんように。
えー?やっぱり?はい、私はO型で、のんちはB型。
他にも「あんまりお腹こわさない・・・」と言っておられたB型の方もおられたり、
「へえ、そうだったんだ!だからかあ。」と思い切り納得してしまいました。
「まあ、Wikiはよく不正確な情報があるからねえ」と思いつつ、
いろいろ調べてみましたら、要は、そんなセンセーショナルな調査報告があって、
いろんな研究がなされているようですが、
確かに小腸の腸壁にウィルスがとどまるための血液型抗原がある、というみたいですね。
つまり、ある特定の血液型の人にだけ感染するウィルスの型がある。
しかし、それはノロウィルスの主要な型の一つの話で、沢山ある型の中にはいろんなパターンがあるので、一概に言えない、ということみたいです。
沢山ある資料の中でわかりやすいのはこれかな。ラジオ用の原稿のようです。
でも、その資料とか読むと、研究のために、ボランティアの人たちにノロウィルスを飲んでもらう、ってすごいですよね。研究者の方々には申し訳ないですが、これだけは私はかんべんして欲しいです。とてもじゃないけどできません。研究のため、人々が助かるため、と言われても、できません。その苦しさをほんとに嫌というほど知っていますから。
同じレベルではないですが、イエスが十字架にかかったとき、
それはどんなに痛みであるか、どんなに苦しいことであるか、
どんなに深い孤独であるか、イエスは知っておられたことでしょう。
イエスはその苦しみを「杯を飲む」という言葉で表しています。
どんな思いをされたんだろうか、
そして、その杯を私達のために飲み干されたイエスの愛を思わされます。
さて、日、月と休んで、昨日、火曜日に読んだPurpose Driven Life。
16日目は「神の家族として愛しあうこと」がテーマでした。
心に残ったのは、「愛することは時間を使うこと、時間を共有すること」。
本当にそうだなあと思います。
与えられた限らた時間、どのようにそのために使うのか、
そのために犠牲にすべきものはなにか、
「広く薄く」か「狭く深く」か、
いろんなことを思わされます。
でも、時間を共有し、言葉に耳をかたむけること、
本当に大切な事だと思います。
さて、今日の聖書。
今日はマタイ22:34−46。
「ダビデはキリストを主と呼んでいる。」45節。
人々はキリストを「ダビデの子」と読んでいました。
ダビデのような救い主、ダビデのような力ある王、
彼らはそれを待ち望んでいました。
でも、イエスはダビデの子であるとともに、ダビデの主なのです。
ダビデのイメージに縛られることがない、
大きなお方なのです。自由なお方なのです。
イエスはいつもいつも私達の考えるイメージを超えておられる方です。
わたしを驚かせてくださる方です。
本当に自分がイエスを一つの型の中に、枠の中に
閉じ込めてしまうことがないように、
本当にイエスを主として、主と崇めて、
主として、従って歩んで行きたいと思います。
主よ、
あなたの力に感謝します。
あなたの見せてくださる奇蹟に感謝します。
あなたのことをわたしのちっぽけな頭の中の
イメージに閉じ込めてしまうことがありませんように。
マクドナルドの無線。
アイスは機械が壊れていたり、高かったり(ま、1ドルでも十分安いですが)、
いろんなトラブルのある、最近のマクドナルドですが、
NYにオフィスを持たない私にとって、ここでの無線LANがタダになったのはものすごいgood newsでした。
確か、今年の1月からですが、全米のマクドナルドで、今まで有料だった無線LAN接続が無料になりました。
今まで、図書館で無料で無線LANにつないでいましたが、
そこでは静かにしていなければならない(携帯に電話がかかってきたら、階段に出て話す)、昼寝ができない(うとっとしてただけで注意されたこともあり)、など、いろいろ不自由がありました。
あと、何よりも接続が不安定で、スピードも遅かったです。
もちろん、マクドナルドでも昼寝や携帯での通話がOKだとは思わないのですが、余り神経質になる必要はありません。
そして、接続もずっと安定しています。
これも、マクドナルドで祈祷会を持った後、そのままそこでつないでいます。
これからはJCCNJのNYOfficeはLex. Aveの45th Stにあるマクドナルド2Fになります。ヨロシク。
さて、ちょっと休んでいたPurpose Driven Lifeですが、先週の土曜日は15日目、「神の家族」について読みました。そう、2週目は神の家族であるクリスチャン同士の関係や教会のことがテーマになります。
「血縁関係の家族よりも、神の家族のほうが大切」
これはかなりセンセーショナル、というか、衝撃的な言葉ですね。
聖書の中でも、家族よりも神様を第一に、とイエスは言われています。
でも、また家族も大切。
でも、どちらかと言うと、私自身、「神の家族」の大切さをどれくらい伝えてきたか、
そのように生きてきたか、問われているように感じました。
そこら辺のこと、これからすこしずつ学んでいければと思います。
さて、昨日の聖書。
昨日はマタイ22:23−33。
「聖書も神も力も知らないからです。」29節。
自分は知っているだろうか?
聖書も神の力も。
教会の人々に伝えているだろうか、
聖書を知ることの大切さ、
そして、神の力を知ることの大切さ。
神の力を知る。
これは本当に尊いことだと思います。
また、本当に謙虚にさせられることだと思います。
「神の力を知った」と言いながら傲慢な香りを放っている方がおられます。
正直、そのような言葉は信じられません。
神の力の前に、私たちは謙虚にならないではいられないのです。
砕かれないではいられないのです。
もっともっと聖書を知らせていただきたい、
そして、もっともっと神の力を知らせていただきたい、
そのように思わされました。
主よ、
どうか、あなたの力を教えてください。
どうか、あなたのみ言葉を教えてください。
そして、その前に砕かれた者となりますように。
いろんなトラブルのある、最近のマクドナルドですが、
NYにオフィスを持たない私にとって、ここでの無線LANがタダになったのはものすごいgood newsでした。
確か、今年の1月からですが、全米のマクドナルドで、今まで有料だった無線LAN接続が無料になりました。
今まで、図書館で無料で無線LANにつないでいましたが、
そこでは静かにしていなければならない(携帯に電話がかかってきたら、階段に出て話す)、昼寝ができない(うとっとしてただけで注意されたこともあり)、など、いろいろ不自由がありました。
あと、何よりも接続が不安定で、スピードも遅かったです。
もちろん、マクドナルドでも昼寝や携帯での通話がOKだとは思わないのですが、余り神経質になる必要はありません。
そして、接続もずっと安定しています。
これも、マクドナルドで祈祷会を持った後、そのままそこでつないでいます。
これからはJCCNJのNYOfficeはLex. Aveの45th Stにあるマクドナルド2Fになります。ヨロシク。
さて、ちょっと休んでいたPurpose Driven Lifeですが、先週の土曜日は15日目、「神の家族」について読みました。そう、2週目は神の家族であるクリスチャン同士の関係や教会のことがテーマになります。
「血縁関係の家族よりも、神の家族のほうが大切」
これはかなりセンセーショナル、というか、衝撃的な言葉ですね。
聖書の中でも、家族よりも神様を第一に、とイエスは言われています。
でも、また家族も大切。
でも、どちらかと言うと、私自身、「神の家族」の大切さをどれくらい伝えてきたか、
そのように生きてきたか、問われているように感じました。
そこら辺のこと、これからすこしずつ学んでいければと思います。
さて、昨日の聖書。
昨日はマタイ22:23−33。
「聖書も神も力も知らないからです。」29節。
自分は知っているだろうか?
聖書も神の力も。
教会の人々に伝えているだろうか、
聖書を知ることの大切さ、
そして、神の力を知ることの大切さ。
神の力を知る。
これは本当に尊いことだと思います。
また、本当に謙虚にさせられることだと思います。
「神の力を知った」と言いながら傲慢な香りを放っている方がおられます。
正直、そのような言葉は信じられません。
神の力の前に、私たちは謙虚にならないではいられないのです。
砕かれないではいられないのです。
もっともっと聖書を知らせていただきたい、
そして、もっともっと神の力を知らせていただきたい、
そのように思わされました。
主よ、
どうか、あなたの力を教えてください。
どうか、あなたのみ言葉を教えてください。
そして、その前に砕かれた者となりますように。
2010-03-05
感じることよりも信頼すること。
今日のPurpose Driven Life。
14日目「神が遠く感じられる時」。
これはほんと、キモですね。
聖書の言葉、イザヤ書8章17節。
「主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。」
Rick Warrenは言います。
「神はあなたが神を感じることよりも、信頼することの方に関心を持っておられます。神を喜ばせるものは感情ではなく、信仰なのです。」
「あなたが信仰を持ってまだ間もない頃には、神はあなたに多くの確証を与えて下さったり、非常に未熟で自己中心的な祈りにも答えてくださることがあります。しかし、あなたの信仰が成長するにつれて、神はあなたをこうした依存状態から自立へ向けて乳離れさせられます。」
14日目「神が遠く感じられる時」。
これはほんと、キモですね。
聖書の言葉、イザヤ書8章17節。
「主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。」
Rick Warrenは言います。
「神はあなたが神を感じることよりも、信頼することの方に関心を持っておられます。神を喜ばせるものは感情ではなく、信仰なのです。」
「あなたが信仰を持ってまだ間もない頃には、神はあなたに多くの確証を与えて下さったり、非常に未熟で自己中心的な祈りにも答えてくださることがあります。しかし、あなたの信仰が成長するにつれて、神はあなたをこうした依存状態から自立へ向けて乳離れさせられます。」
感じ、感覚に振り回されるのではなく、
み言葉を信頼すること、み言葉に立つこと。
その大切さを思わされます。
今日の夜の集会で、一人の高校生が証をして下さいましたが、
本当に心を開いて、大切なことを分かち合って下さいました。
そこに、世代を超えて、通じるものを感じていました。
真実な証しは、心に触れます。
主の素晴らしさをあらわします。
さて、昨日、3月4日の聖書。
マタイ21:12−22。
「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」13節。
主は私たちに祈りを求めておられる。
つまり、それは、私たちと語り合おうとしておられるのだ。
だいたい、祈りがお勤めや義務になってしまったら、
つまらない。つまらないというか、苦痛だ。
でも、本当は、それは恋人たちが語り合うようなものなんだ。
私たちが主との時を過ごすのは、楽しい一時、甘美な時間なのだ。
だから、一生懸命になるんじゃなくて、
主と共に時間を過ごすことを楽しみたい。
主と共に時間を過ごすことを喜びとしたい。
そこに私たちは招かれている。
主よ、
祈りの時を喜んでくださること、
あなたが祈りに招いていてくださることに感謝します。
明日の祈り会も、そのような楽しいひとときとして下さい。
あなたと時を過ごすこと、あなたの元でやすらぐこと、
それを味わうことが出きますように。
2010-03-04
The Heart of Worship
たぶん、これが今日の最後の更新。
今日のPurpose Driven Life.
今日のもパワフルでした。
最初からいきなり先制パンチ。
英語だと、
God wants all of you.
God doesn't want part of your life.
...
God is not interested in... the leftovers of your time and money.
最後のleftoverって「食べ残し」って感じですよね。
ま、「残りもの」の方がいいかな。
私たちはどこかで、時間やお金の、残り物を主に持ってくる、そんな気持ちのところがあるかもしれません。
違うんですよね。私たちの人生のすべてが神様のもの。
そして、極めつけが、最後の、The Heart of Worshipという歌が作られた、その由来について。
英語では、ここに詳しく書かれています。英語の分かる人は是非、読んでください。
http://www.crosswalk.com/1253122/
日本語で説明しているサイトを探したのですが、
見つからないので、ちょっと説明しますが、
ある時、この曲の作者であるMatt Redmanの属していたイギリスの教会のMike Pilavachiという牧師が、礼拝の行き詰まりを感じて、自分たちの方法をすべて止めて、礼拝の本質に戻ろうと一時期、バンドや音響システムをすべてストップして、礼拝を守る、と宣言したそうです。(Rick Warrenは歌うこともすべてやめたと書いていますが、実際はアカペラの歌が始まったようです)
教会の人々に対して、あなたがたは、礼拝の「消費者」ではなくて、「作り上げる者」です、そして、みなさんがどんな捧げ物を神様に持って来るか、よく考えてきて下さい。とお願いしたそうです。
最初は戸惑いと、沈黙があったそうですが、人々は心からの礼拝を捧げるようになってきました。そして、その中でMattの心の中に生まれたのが、この歌だったというのです。
すごい勇気ですね。そして、この名曲はそんな中から生まれたんだと知って、すごい納得です。
いつの間にか、音楽に酔いしれてしまったり、歌っている自分に満足していることはないだろうか、本当に礼拝をしているだろうか、本当の礼拝を捧げさせていただきたい、そんなふうに思わされました。
さて、3月2日(火)の聖書。
マタイ20:17-34。
「わたしが飲もうとしてる杯を飲むことはできますか。」22節。
主が負われた苦しみ。
自分は苦しみを敢えて自分で負うことがあるだろうか。
主に従って、苦しみを負うことをしているだろうか?
祝福はいただいている。
祝福に満たされている。
でも、主の苦しみと同じ苦しみを負うことをしてきているだろうか、
それを願っているだろうか?
それを逃げないで負ってきただろうか?
まっすぐな気持ちと、
まっすぐな態度を与えていただきたいです。
主よ、
どうか、あなたの通られたみ苦しみを、
私も通ることがあったときには、
どうか、あなたのみ苦しみを覚えて、まっすぐに逃げないで、進んで行く者とならせて下さい。あなたの助けを与えて下さい。
今日のPurpose Driven Life.
今日のもパワフルでした。
最初からいきなり先制パンチ。
英語だと、
God wants all of you.
God doesn't want part of your life.
...
God is not interested in... the leftovers of your time and money.
最後のleftoverって「食べ残し」って感じですよね。
ま、「残りもの」の方がいいかな。
私たちはどこかで、時間やお金の、残り物を主に持ってくる、そんな気持ちのところがあるかもしれません。
違うんですよね。私たちの人生のすべてが神様のもの。
そして、極めつけが、最後の、The Heart of Worshipという歌が作られた、その由来について。
英語では、ここに詳しく書かれています。英語の分かる人は是非、読んでください。
http://www.crosswalk.com/1253122/
日本語で説明しているサイトを探したのですが、
見つからないので、ちょっと説明しますが、
ある時、この曲の作者であるMatt Redmanの属していたイギリスの教会のMike Pilavachiという牧師が、礼拝の行き詰まりを感じて、自分たちの方法をすべて止めて、礼拝の本質に戻ろうと一時期、バンドや音響システムをすべてストップして、礼拝を守る、と宣言したそうです。(Rick Warrenは歌うこともすべてやめたと書いていますが、実際はアカペラの歌が始まったようです)
教会の人々に対して、あなたがたは、礼拝の「消費者」ではなくて、「作り上げる者」です、そして、みなさんがどんな捧げ物を神様に持って来るか、よく考えてきて下さい。とお願いしたそうです。
最初は戸惑いと、沈黙があったそうですが、人々は心からの礼拝を捧げるようになってきました。そして、その中でMattの心の中に生まれたのが、この歌だったというのです。
すごい勇気ですね。そして、この名曲はそんな中から生まれたんだと知って、すごい納得です。
いつの間にか、音楽に酔いしれてしまったり、歌っている自分に満足していることはないだろうか、本当に礼拝をしているだろうか、本当の礼拝を捧げさせていただきたい、そんなふうに思わされました。
さて、3月2日(火)の聖書。
マタイ20:17-34。
「わたしが飲もうとしてる杯を飲むことはできますか。」22節。
主が負われた苦しみ。
自分は苦しみを敢えて自分で負うことがあるだろうか。
主に従って、苦しみを負うことをしているだろうか?
祝福はいただいている。
祝福に満たされている。
でも、主の苦しみと同じ苦しみを負うことをしてきているだろうか、
それを願っているだろうか?
それを逃げないで負ってきただろうか?
まっすぐな気持ちと、
まっすぐな態度を与えていただきたいです。
主よ、
どうか、あなたの通られたみ苦しみを、
私も通ることがあったときには、
どうか、あなたのみ苦しみを覚えて、まっすぐに逃げないで、進んで行く者とならせて下さい。あなたの助けを与えて下さい。
2010-03-03
苦々しさを感じたとき。
もう一つ行きます。
昨日は帰ってきて、バダンキューだったので、
Purpose Driven Lifeはお休みしました。
今日もきつかったですが、何とか、読みました。
12日目「神との友情を育む」というテーマです。
4つの秘訣が出てきます。
「正直になること」「従うこと」「神が大切にしているものを大切にすること」「神と親しくなることを求めること」
だそうです。
最初の神に対して正直になること、の中に、
「苦々しい思いを抱いたとき」というのがありました。
神への不信感を持ってしまうことがあるというのです。
そのようなときに、正直にその気持をもっていくこと、
ありのままを申し上げること、が大切だそうです。
自分はそうなりましたね。
元々は良い子でしたが・・・。
ありのままの気持ちを主に持っていく、
他の誰かになってしまうのではなくて、
自分のまま、主の前に出る。
人は「あなたはあなたのままであってはならない」というメッセージを送ってくることがあります。そういうメッセージばかりを受けていると、そして、それに応えようとしていると、それは本当に疲れます。ちょっとはがんばれるのですが、そのうち本当に疲れてしまいます。
でも、主は正直であるように、わたしのまま行くようにと招いていてくださるのです。
本当にありのまま、主の前に出る者でありたいと思います。
さて、2月26日(金)の聖書。
詩篇85:1−13。
わっ、急に詩篇、と思いました。
なんだったんでしょう?
イースターに向けた調整でしょうか?
「あなたはいつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。」5節。
ちょうど、今日のPDLとシンクしていますが、
神様に対してもストレートに気持ちをぶつけることができるって、すごいですよね。
それはやはり信頼しているから。
納得いかないときに、納得いかない、と言える。
それは、いつの日か、納得させていただけると信じているから。
主に対して、ストレートに語ろう。
主に対して、何でも祈ろう。
主はわたしの思いをわかってくださるから。
主よ、
あなたに求めます。
あなたがわたしの祈りを聞き、答え、納得させてくださることと信じて求めます。
また、あなたは最善の御業をなしてくださる方であると信じます。
どうか、わたしの目が開かれて、そのことがハッキリと分かりますように。
昨日は帰ってきて、バダンキューだったので、
Purpose Driven Lifeはお休みしました。
今日もきつかったですが、何とか、読みました。
12日目「神との友情を育む」というテーマです。
4つの秘訣が出てきます。
「正直になること」「従うこと」「神が大切にしているものを大切にすること」「神と親しくなることを求めること」
だそうです。
最初の神に対して正直になること、の中に、
「苦々しい思いを抱いたとき」というのがありました。
神への不信感を持ってしまうことがあるというのです。
そのようなときに、正直にその気持をもっていくこと、
ありのままを申し上げること、が大切だそうです。
自分はそうなりましたね。
元々は良い子でしたが・・・。
ありのままの気持ちを主に持っていく、
他の誰かになってしまうのではなくて、
自分のまま、主の前に出る。
人は「あなたはあなたのままであってはならない」というメッセージを送ってくることがあります。そういうメッセージばかりを受けていると、そして、それに応えようとしていると、それは本当に疲れます。ちょっとはがんばれるのですが、そのうち本当に疲れてしまいます。
でも、主は正直であるように、わたしのまま行くようにと招いていてくださるのです。
本当にありのまま、主の前に出る者でありたいと思います。
さて、2月26日(金)の聖書。
詩篇85:1−13。
わっ、急に詩篇、と思いました。
なんだったんでしょう?
イースターに向けた調整でしょうか?
「あなたはいつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。」5節。
ちょうど、今日のPDLとシンクしていますが、
神様に対してもストレートに気持ちをぶつけることができるって、すごいですよね。
それはやはり信頼しているから。
納得いかないときに、納得いかない、と言える。
それは、いつの日か、納得させていただけると信じているから。
主に対して、ストレートに語ろう。
主に対して、何でも祈ろう。
主はわたしの思いをわかってくださるから。
主よ、
あなたに求めます。
あなたがわたしの祈りを聞き、答え、納得させてくださることと信じて求めます。
また、あなたは最善の御業をなしてくださる方であると信じます。
どうか、わたしの目が開かれて、そのことがハッキリと分かりますように。
2010-03-02
あれえ、また雪?
今日も昼間は10度くらいまで上がって
昨日は東にそれる、って言っていたのに、
暖かかったのですが、
夜になってちょっと冷えて、今11時過ぎですが、
3.6度。さっき、車で帰ってきたのですが、
雨もパラパラふってきました。
そして、天気予報は以下の通り。
昨日は東にそれる、って言っていたのに、
「雪の心配は殆どない」とここで宣言してしまったのに、
今日は一転、やっぱり雪、だって。
まあそれほど積もる雪ではないようですが、
それだってどうなることか。
これで大雪なんかになったら、もう誰も信じられません!
10年くらい前のことでしたが、
「夜の間に雪が降るけど、大したことない」と言っていたイースターの朝、
起きたら15センチくらい積もっていたことがありました。
ですから、まだまだ何があるか分かりません。
さて、日曜日は休んだので、
昨日のPurpose Driven Life。
11日目。「神の親友となる」というテーマでした。
これは、御言葉と祈りの生活を勧めているところです。
この間の日曜日あたりに気がついたのですが、
この本って結局「信仰生活の心得」みたいな本ですね。
でも、それじゃあ、一部の人しか買ってくれないから、
人生の目的、というキーワードで信仰生活の心得をまとめてみた、
ということなのでしょうか。
でも、私などは、「信仰生活の心得」って言ってもらった方が、
すごく、すとんときますね。
「なんだ、この本は『信仰生活の心得』じゃないか」と思ったら、
いろんなことが「ストン」「ストン」と心に入ってきます。
でも、「ということは、自分の中で、『信仰生活を送る』ということが、『すべての人の存在の目的』と一つのことだ、ということが、ちゃんと消化されていないのかもしれない。」と思わされています。
これは、ちょっと課題です。
で、昨日のところなんですが、
座って、時間を決めて、祈っている、聖書を読んでいる時だけが、「祈りの時」ではない、ということ、これまた大切なことだと思わされました。
一瞬一瞬が御言葉を思いめぐらし、神に祈る、神とつながっているその時、そして、それは友達と時間を過ごすようなことだと。
本当にそのような一瞬一瞬となりますように。
特にパニックを起こすような出来事の中で、
神といつもつながっている者でありますように。
さて、2月24日(水)の聖書。
マタイ19:13-22。
「財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」21節。
手放すことですよね。
私も自分の教会のためには、思い切って捧げるけれども、
それはどこかでやはり自分の働きの一部、みたいなところがある。
でも、ここでは、「貧しい人に与えなさい」と言われている。
だから、本当に手放してしまうこと。
もちろん、自分が捧げたものが、正しく使われているかどうか、
それを確認したい、見ていたい、という気持ちもわかる。
でも、それでも、どこまでも手放してしまうことが大切なのだ。
自分の手の届かないところにも、喜んで捧げることが出来るか、
自分がその恩恵を受けないところにも、喜んで捧げることが出来るか、
私自身、まだまだ訓練を受けていないような気がする。
もちろん、今、自分が属している教会のために捧げるのが、
今のわたしの使命だと思う。
でも、その中でも、自分が大切にしているものを、
自分の手の届かないところに捧げてしまう、
そういうことを経験して、その中で、本当に恵みに感謝をして、
ひとつひとつのことを手放して行くことを学ばせていただきたい。
主よ、
私の人生はあなたのものです。
どうか、わたしのこだわりをきよめ、
あなたの自由な導きに従っていく者とならせて下さい。
2010-03-01
降伏する礼拝。
今日は久しぶりに昼間の気温が10度くらいにまで上がりました。
まだまだ一面の銀世界なのですが、もう3月、春ですね。
一気に雪が融けたようです。
明後日の雪は殆ど心配ないので、
この勢いで行くと、週末にはもう雪がなくなっているかもしれません。
さて、土曜日というか、土曜日は二人で話をしないで、寝てしまったので、
日曜日にもう一度読んで話をしたところですが、
40日のPurpose Driven Lifeの10日目。
この日のポイントは、礼拝は「降伏」である、ということ。
2日前のポイントと似ているのですが、
自分の考え、自分のこだわりではなくて、
すべてを主の前に投げ出して、主を主とすること、
それが、礼拝の本質。
今、教会の礼拝について時間やプログラムを変えようとしている最中なので、いろいろ反省させられました。
そして、日曜日は降伏の礼拝を守りました。
そこに主の祝福がありました。
感謝。
さて、3月23日の聖書。
マタイ19:1-12。
「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しない方がましです。」しかし、イエスは言われた。「そのことばは誰でも受け入れることができるわけではありません。」10-11節。
結婚って何だろう?
特にクリスチャンにとって結婚て何だろう?
体の関係を結婚の中だけに厳しく制限している聖書の鉄則に従って生きている中で、
「体の関係を持つために結婚する」という感覚に陥っていることに気がついた。
でも、それは結婚のすべてではない。
あまりに「結婚までは待つ」を大切にし、強調する中で、
(それは今でも間違いではないと思いますし、これからも次の世代に伝えて行くメッセージだと思っていますが)
特にクリスチャン男性にとって、
結婚の目的が「正々堂々と体の関係を持つ」事になってしまっているのではないかと。
だから、女性の気持ちが分からない。
妻を愛することがどういう事か、
結婚して何年も経ってから学ぶことが多い。
このイエスと話をしている弟子たちの感覚を笑うことなんかできない。
この時代はなんてひどい時代だったんだろう、ということなんかできない。
共に生きていく、神が結びあわせて下さった存在と共に生きていく、
それがどういう事なのか、もっともっと学ばせていただきたいと思いました。
主よ、
どうか、あなたが与えて下さった伴侶と、共に歩むことの意味を教えてください。
あなたの与えて下さった使命に生かして下さい。
まだまだ一面の銀世界なのですが、もう3月、春ですね。
一気に雪が融けたようです。
明後日の雪は殆ど心配ないので、
この勢いで行くと、週末にはもう雪がなくなっているかもしれません。
さて、土曜日というか、土曜日は二人で話をしないで、寝てしまったので、
日曜日にもう一度読んで話をしたところですが、
40日のPurpose Driven Lifeの10日目。
この日のポイントは、礼拝は「降伏」である、ということ。
2日前のポイントと似ているのですが、
自分の考え、自分のこだわりではなくて、
すべてを主の前に投げ出して、主を主とすること、
それが、礼拝の本質。
今、教会の礼拝について時間やプログラムを変えようとしている最中なので、いろいろ反省させられました。
そして、日曜日は降伏の礼拝を守りました。
そこに主の祝福がありました。
感謝。
さて、3月23日の聖書。
マタイ19:1-12。
「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しない方がましです。」しかし、イエスは言われた。「そのことばは誰でも受け入れることができるわけではありません。」10-11節。
結婚って何だろう?
特にクリスチャンにとって結婚て何だろう?
体の関係を結婚の中だけに厳しく制限している聖書の鉄則に従って生きている中で、
「体の関係を持つために結婚する」という感覚に陥っていることに気がついた。
でも、それは結婚のすべてではない。
あまりに「結婚までは待つ」を大切にし、強調する中で、
(それは今でも間違いではないと思いますし、これからも次の世代に伝えて行くメッセージだと思っていますが)
特にクリスチャン男性にとって、
結婚の目的が「正々堂々と体の関係を持つ」事になってしまっているのではないかと。
だから、女性の気持ちが分からない。
妻を愛することがどういう事か、
結婚して何年も経ってから学ぶことが多い。
このイエスと話をしている弟子たちの感覚を笑うことなんかできない。
この時代はなんてひどい時代だったんだろう、ということなんかできない。
共に生きていく、神が結びあわせて下さった存在と共に生きていく、
それがどういう事なのか、もっともっと学ばせていただきたいと思いました。
主よ、
どうか、あなたが与えて下さった伴侶と、共に歩むことの意味を教えてください。
あなたの与えて下さった使命に生かして下さい。
2010-02-28
眠るのも礼拝。
結局、その後余り雪はふらず、
毎日、すこしずつ減ってきています。
でも、さすがに50センチ近く降ると、
時間がかかるだろうなあと思います。
春はまだ、もうちょっと先かな、と思います。
水曜日にまた雪の可能性もありますが、
今回は東海上にそれて行く、ということで終わりそうです。
えっと、一昨日のPurpose Driven Lifeは、9日目。
礼拝ということについて、もうちょっと掘り下げていました。
その中で、目が開かれたというか、
知っていたけれども、いつの間にか忘れてしまっていたこと。
「眠っている私たちも神様は喜んでくださる」
そう、遊んでいる時も、趣味に興じている時も、
オリンピックやフットボール、野球を見ている時も、
すべてが神への礼拝の時であって、
神様は、私たちが教会に座っていたり、
家族や友人に、聖書の話をしている時だけではなくて、
どんな時にも、喜んでいてくださる、ということ。
ちょっと最近、眠ることをちゃんと心から喜んでいませんでしたね。
神様が与えられた体、神様が与えられた時間、
喜んで、感謝して、歩ませていただきたいと思います。
さて、2月22日月曜日の聖書。
マタイ18:21-35
「7度を70倍にするまで」22節。
おお、2月22日に22節。
そんなことはどうでもいいですが、
イエスは「どこまでも赦しなさい」と言われたんですよね。
損だなあと思わないわけでもないですし、
反省しないじゃないか・・・と思わないわけでもないです。
そして、自分はどこまでも赦すことはできないなあと思います。
赦されたことを忘れているからでしょうか?
たぶん、自分のほうがましな人間だと思っているんでしょうね。
自分だったら、そんなことはしないと。
でも、結構やっているのかもしれない。
自分のことが見えていないのかもしれない。
自分がどれだけ主に赦されたのか、
それを忘れないでいたいです。
世の中の最悪のタイプの罪人だったのに、
赦されたことを、忘れないで感謝して歩んで行きたいと思います。
自分が傷付いたことさえ忘れてしまうほど、
主の素晴らしさを、主の愛を、主の恵みを、
味わいながら、歩んで行きたいと思います。
主よ、
あなたが赦して下さったことに感謝します。
人の事が見えなくなるくらい、
自分の傷に気がつかなくなるくらい、
あなたの愛に満たして下さい。
毎日、すこしずつ減ってきています。
でも、さすがに50センチ近く降ると、
時間がかかるだろうなあと思います。
春はまだ、もうちょっと先かな、と思います。
水曜日にまた雪の可能性もありますが、
今回は東海上にそれて行く、ということで終わりそうです。
えっと、一昨日のPurpose Driven Lifeは、9日目。
礼拝ということについて、もうちょっと掘り下げていました。
その中で、目が開かれたというか、
知っていたけれども、いつの間にか忘れてしまっていたこと。
「眠っている私たちも神様は喜んでくださる」
そう、遊んでいる時も、趣味に興じている時も、
オリンピックやフットボール、野球を見ている時も、
すべてが神への礼拝の時であって、
神様は、私たちが教会に座っていたり、
家族や友人に、聖書の話をしている時だけではなくて、
どんな時にも、喜んでいてくださる、ということ。
ちょっと最近、眠ることをちゃんと心から喜んでいませんでしたね。
神様が与えられた体、神様が与えられた時間、
喜んで、感謝して、歩ませていただきたいと思います。
さて、2月22日月曜日の聖書。
マタイ18:21-35
「7度を70倍にするまで」22節。
おお、2月22日に22節。
そんなことはどうでもいいですが、
イエスは「どこまでも赦しなさい」と言われたんですよね。
損だなあと思わないわけでもないですし、
反省しないじゃないか・・・と思わないわけでもないです。
そして、自分はどこまでも赦すことはできないなあと思います。
赦されたことを忘れているからでしょうか?
たぶん、自分のほうがましな人間だと思っているんでしょうね。
自分だったら、そんなことはしないと。
でも、結構やっているのかもしれない。
自分のことが見えていないのかもしれない。
自分がどれだけ主に赦されたのか、
それを忘れないでいたいです。
世の中の最悪のタイプの罪人だったのに、
赦されたことを、忘れないで感謝して歩んで行きたいと思います。
自分が傷付いたことさえ忘れてしまうほど、
主の素晴らしさを、主の愛を、主の恵みを、
味わいながら、歩んで行きたいと思います。
主よ、
あなたが赦して下さったことに感謝します。
人の事が見えなくなるくらい、
自分の傷に気がつかなくなるくらい、
あなたの愛に満たして下さい。
2010-02-26
誰のための礼拝?
今日は一日雪が降ったりやんだり。
でも、それほど積もるような雪はありませんでした。
明日も同じように雪が降ったりやんだりみたいですが、
もう、積もることはないと思います。
でも、今、夜の11時前ですが、-2度くらい。
路面は凍っていますから、注意が必要です。
昨日のPurpose Driven Lifeから。
昨日は8日目。
礼拝についてのところです。
礼拝こそが、私たちの喜びであり、
神の喜びだという話です。
その中のこの一文には考えさせられました。
今日は英語で行きますが、
If you have ever said, "I didn't get anything out of worship today," you worshiped for the wrong reason. Worship isn't for you. It's for God.
礼拝が自分中心になってしまっている、
自分が何かを得ることが中心になってしまっている。
高揚感とか、「恵まれる話を聞いた」とか。
礼拝を何だと思うかが問われていると思います。
礼拝は主を崇めること。
牧師のすべきことは、神の前に人々をお連れすること。
自分が何かを語ろうとか、思ってはいけないんですよね。
礼拝について考えさせられているところでしたので、
主が大切なことを教えて下さったように感じます。
さて、2月21日、日曜日の聖書。
マタイ18:11−20。
「行って、ふたりだけのところで責めなさい。」15節。
これが本当に難しいんですよね。
これができるかできないかが、
教会として正しく機能しているかどうかの分かれ目だという話を聞いたことがある。
確かに、これは教会のことだ。
教会が問題を持っている人とちゃんと向きあって、
悔い改めに導いたり、
悔い改めようとしない人を除名したりすることができるかどうか、
それは愛の問題だと思う。
愛はごまかしたり、逃げたりしない。
自分にはもっともっと愛が必要だと思った。
愛によって、ちゃんと人と向き合うことのできる者でありたいし、
教会としても、そのような愛を持って行きたい。
主よ、
逃げる者ではなくて、
愛する者とならせて下さい。
それが一時的には悲しませることだったり、
機嫌を損なうことであったとしても、
逃げることがありませんように。
でも、それほど積もるような雪はありませんでした。
明日も同じように雪が降ったりやんだりみたいですが、
もう、積もることはないと思います。
でも、今、夜の11時前ですが、-2度くらい。
路面は凍っていますから、注意が必要です。
昨日のPurpose Driven Lifeから。
昨日は8日目。
礼拝についてのところです。
礼拝こそが、私たちの喜びであり、
神の喜びだという話です。
その中のこの一文には考えさせられました。
今日は英語で行きますが、
If you have ever said, "I didn't get anything out of worship today," you worshiped for the wrong reason. Worship isn't for you. It's for God.
礼拝が自分中心になってしまっている、
自分が何かを得ることが中心になってしまっている。
高揚感とか、「恵まれる話を聞いた」とか。
礼拝を何だと思うかが問われていると思います。
礼拝は主を崇めること。
牧師のすべきことは、神の前に人々をお連れすること。
自分が何かを語ろうとか、思ってはいけないんですよね。
礼拝について考えさせられているところでしたので、
主が大切なことを教えて下さったように感じます。
さて、2月21日、日曜日の聖書。
マタイ18:11−20。
「行って、ふたりだけのところで責めなさい。」15節。
これが本当に難しいんですよね。
これができるかできないかが、
教会として正しく機能しているかどうかの分かれ目だという話を聞いたことがある。
確かに、これは教会のことだ。
教会が問題を持っている人とちゃんと向きあって、
悔い改めに導いたり、
悔い改めようとしない人を除名したりすることができるかどうか、
それは愛の問題だと思う。
愛はごまかしたり、逃げたりしない。
自分にはもっともっと愛が必要だと思った。
愛によって、ちゃんと人と向き合うことのできる者でありたいし、
教会としても、そのような愛を持って行きたい。
主よ、
逃げる者ではなくて、
愛する者とならせて下さい。
それが一時的には悲しませることだったり、
機嫌を損なうことであったとしても、
逃げることがありませんように。
2010-02-23
注目するもの。
もう一日分行きます。
今日のPurpose Driven Lifeは、第6日目。
「人生は一時的な務めである」
これはもうすでに出てきたテーマであるように思うのですが、
私たちがこの世でどのような評価を受けるか、ということに
目が行くのではなくて、主の目からどう見えるか、魂のふるさとでどのように受けいれられるか、それに目が行くように、ということが言われていると思います。
何を見るかですよね。
何に心がとらわれ、何に支配されているかです。
永遠の世界を見据えて歩むものでありたいと思います。
さて、2月17日水曜日の聖書。
マタイ16:21−28。
「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」23節。
これもドキッとしますね。
あなたは人の事を思っている、と。
本当に神の声を聞こうとしているか、
そこに集中しているか、
問われていると思いました。
いつもいつも主に聞きながら、
歩ませていただきたいと思います。
人の言葉に動かされない、
自分の主義にこだわらない、
自分のプライドにとらわれない、
主のみ声に従順に歩む者でありたいです。
主よ、
どうか、私が人の事を考えるのではなくて、
あなたのことを考える者でありますように。
あなたに聞きながら歩む者でありますように。
今日のPurpose Driven Lifeは、第6日目。
「人生は一時的な務めである」
これはもうすでに出てきたテーマであるように思うのですが、
私たちがこの世でどのような評価を受けるか、ということに
目が行くのではなくて、主の目からどう見えるか、魂のふるさとでどのように受けいれられるか、それに目が行くように、ということが言われていると思います。
何を見るかですよね。
何に心がとらわれ、何に支配されているかです。
永遠の世界を見据えて歩むものでありたいと思います。
さて、2月17日水曜日の聖書。
マタイ16:21−28。
「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」23節。
これもドキッとしますね。
あなたは人の事を思っている、と。
本当に神の声を聞こうとしているか、
そこに集中しているか、
問われていると思いました。
いつもいつも主に聞きながら、
歩ませていただきたいと思います。
人の言葉に動かされない、
自分の主義にこだわらない、
自分のプライドにとらわれない、
主のみ声に従順に歩む者でありたいです。
主よ、
どうか、私が人の事を考えるのではなくて、
あなたのことを考える者でありますように。
あなたに聞きながら歩む者でありますように。
Historic or Not?
今日は一日中、雨やSleetが降っていました。
氷点下にはなりませんでしたが、とても寒く感じる一日でした。
でも、問題はこれからです。
明日は小康状態ですが、
明後日、木曜日は、
積雪60センチレベルの歴史に残る猛吹雪になるか、
それとも、風雨が強い一日なるか、
紙一重です。
昨日の御言葉に支えられて、
天気よりも大切な主のみ声を聞こうと思っていますが、
本当に注意が必要です。
明日は天気予報を聞いて、
必要ならば、薪や電池、懐中電灯、ろうそく、その他、
停電対策や2日間外に出られないことの備えも必要かもしれません。
昨日のPurpose Driven Lifeですが、
「神の視点から人生を見る」というテーマで、
3つのポイントの中の最初の二つ。
「人生はテスト」「人生は預かりもの」
最初の方の「人生はテストである」ということの中に、
このようなことが書いてあって、心に留まりました。
「数あるテストの中でも特に大切なテストがあります。それは、人生において神の臨在が感じられなくなったとき、どうするかというテストです。」
神様が感じられないときに、それでも、神様を信頼すること、
なるほど・・・と思いました。
確かにきついテストですよね。
どんな中にも神様がおられると思うから、
乗り越えられるわけで、
それが実感できないときにどうするか、
確かに自分も弱いところだと思います。
でも、大切なのは、自分の感覚を信じることではなくて、
神様の約束を信じることですよね。
あてにならない、自分の実感よりも、
確かな、神様の約束を信頼することですよね。
ものすごく、目が開かれたように感じました。
自分もいつの間にか、聖書の言葉よりも
自分の実感の方をあてにしているのかもしれない、
そう思いました。
さて、2月16日火曜日の聖書。
マタイ16:13−20。
「私はこの岩の上に私の教会を建てます。」18節。
イエスは私たちの信仰告白の上に教会を建てると言われました。
他のものではなくて、私たちが「イエスは神の子です、救い主です」と告白するところに建てられるのです。
私たちがいろいろなことを考えている中で、
いつの間にか、組織だとか、やり方だとか、
そこに活路を見出そうとしている時があります。
でも、主はいつもこの原点に帰るように求めておられるように感じました。
ハッキリとイエスを主として告白する群れ、
それを主は求めておられる。
それも、そこに、「私が私の教会を建てる」と言われるのです。
その主の御業を信頼して歩んで行こうと思います。
主よ、
あなたの教会を建てて下さい。
あなたの方法で、あなたのみ力で。
人の力ではなくて、あなたの導きの中で、御業をなして下さい。
氷点下にはなりませんでしたが、とても寒く感じる一日でした。
でも、問題はこれからです。
明日は小康状態ですが、
明後日、木曜日は、
積雪60センチレベルの歴史に残る猛吹雪になるか、
それとも、風雨が強い一日なるか、
紙一重です。
昨日の御言葉に支えられて、
天気よりも大切な主のみ声を聞こうと思っていますが、
本当に注意が必要です。
明日は天気予報を聞いて、
必要ならば、薪や電池、懐中電灯、ろうそく、その他、
停電対策や2日間外に出られないことの備えも必要かもしれません。
昨日のPurpose Driven Lifeですが、
「神の視点から人生を見る」というテーマで、
3つのポイントの中の最初の二つ。
「人生はテスト」「人生は預かりもの」
最初の方の「人生はテストである」ということの中に、
このようなことが書いてあって、心に留まりました。
「数あるテストの中でも特に大切なテストがあります。それは、人生において神の臨在が感じられなくなったとき、どうするかというテストです。」
神様が感じられないときに、それでも、神様を信頼すること、
なるほど・・・と思いました。
確かにきついテストですよね。
どんな中にも神様がおられると思うから、
乗り越えられるわけで、
それが実感できないときにどうするか、
確かに自分も弱いところだと思います。
でも、大切なのは、自分の感覚を信じることではなくて、
神様の約束を信じることですよね。
あてにならない、自分の実感よりも、
確かな、神様の約束を信頼することですよね。
ものすごく、目が開かれたように感じました。
自分もいつの間にか、聖書の言葉よりも
自分の実感の方をあてにしているのかもしれない、
そう思いました。
さて、2月16日火曜日の聖書。
マタイ16:13−20。
「私はこの岩の上に私の教会を建てます。」18節。
イエスは私たちの信仰告白の上に教会を建てると言われました。
他のものではなくて、私たちが「イエスは神の子です、救い主です」と告白するところに建てられるのです。
私たちがいろいろなことを考えている中で、
いつの間にか、組織だとか、やり方だとか、
そこに活路を見出そうとしている時があります。
でも、主はいつもこの原点に帰るように求めておられるように感じました。
ハッキリとイエスを主として告白する群れ、
それを主は求めておられる。
それも、そこに、「私が私の教会を建てる」と言われるのです。
その主の御業を信頼して歩んで行こうと思います。
主よ、
あなたの教会を建てて下さい。
あなたの方法で、あなたのみ力で。
人の力ではなくて、あなたの導きの中で、御業をなして下さい。
2010-02-21
テントから大邸宅へ
来週の月曜日から水曜日にかけての天気、
雨か雪か、どれくらい降るか、全くわかりません。
でも、たぶん、雨や雪がたっぷり降るんだと思います。
天気予報の奥の深さを思わされます。
でも、その深みにはまって抜けれなくなってしまわないように、
気をつけようと思います。
さて、Purpose Driven Life の4日目「永遠に生きる存在として造られた」。
私たちの目的はこの世ではなくて、
永遠の世界なのだというところです。
心に留まったことばは、
「私たちが今住んでいるテント、私たちのこの地上の体、が壊れても、神は私たちの住む家、永遠に続く、神ご自身が造られた天国の家、を用意してくださっているのです。」
テントなんだ。
この地上での体は。
この地上での生命は、テントの中に住んでいるようなものなんだ。
そして、天国の家は、
他の聖書の箇所では、マンションという英語が使われています。
英語でいうマンションです。
日本語のマンションではなくて・・・。
英語のマンションは日本語では邸宅。
邸宅が準備されている。
この地上の歩みはテント生活。
だとすると、この地上の生涯にしがみつくのは、
滑稽なくらいだ。
そのことが、本当に単に頭の知識ではなくて、
本当なんだなあ、と、思わされたのが、今回、日本で出席した葬儀。
ハッキリと、主のところに迎え入れられたことを思わされました。
テントから邸宅へ。
そう思ったら、この世での歩みも変わってきますね。
さて、2月14日日曜日の聖書。
マタイ15:29-39
「こんなへんぴな所で、こんな大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょうか。」33節。
1回目ではない。
前にも同じことが起こっている。
でも、弟子たちは、やっぱり、「無理だ」と感じないではいられなかった。
「無理ですよ」とイエスに言わないではいられなかった。
不信仰だと責めるのは簡単だ。
でも、自分はどうだろうか?
主の御業を何回見ても、
毎回毎回、信仰が問われる。
「信じます、不信仰な私をお赦し下さい」と言わないではいられない。
主の「わたしを信頼しなさい」との語りかけをいただかないと、
堅く立っていけない。
オートマチックじゃない。
いつもいつも主に語っていただいて、
いつもいつもみ言葉に支えられて歩んで行く、
それしかないんだな、と思う。
主よ、
あなたのみ言葉を与えて下さい。
あなたのみ言葉によって生かして下さい。
不信仰なわたしにはあなたのみ言葉しかありません。
雨か雪か、どれくらい降るか、全くわかりません。
でも、たぶん、雨や雪がたっぷり降るんだと思います。
天気予報の奥の深さを思わされます。
でも、その深みにはまって抜けれなくなってしまわないように、
気をつけようと思います。
さて、Purpose Driven Life の4日目「永遠に生きる存在として造られた」。
私たちの目的はこの世ではなくて、
永遠の世界なのだというところです。
心に留まったことばは、
「私たちが今住んでいるテント、私たちのこの地上の体、が壊れても、神は私たちの住む家、永遠に続く、神ご自身が造られた天国の家、を用意してくださっているのです。」
テントなんだ。
この地上での体は。
この地上での生命は、テントの中に住んでいるようなものなんだ。
そして、天国の家は、
他の聖書の箇所では、マンションという英語が使われています。
英語でいうマンションです。
日本語のマンションではなくて・・・。
英語のマンションは日本語では邸宅。
邸宅が準備されている。
この地上の歩みはテント生活。
だとすると、この地上の生涯にしがみつくのは、
滑稽なくらいだ。
そのことが、本当に単に頭の知識ではなくて、
本当なんだなあ、と、思わされたのが、今回、日本で出席した葬儀。
ハッキリと、主のところに迎え入れられたことを思わされました。
テントから邸宅へ。
そう思ったら、この世での歩みも変わってきますね。
さて、2月14日日曜日の聖書。
マタイ15:29-39
「こんなへんぴな所で、こんな大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょうか。」33節。
1回目ではない。
前にも同じことが起こっている。
でも、弟子たちは、やっぱり、「無理だ」と感じないではいられなかった。
「無理ですよ」とイエスに言わないではいられなかった。
不信仰だと責めるのは簡単だ。
でも、自分はどうだろうか?
主の御業を何回見ても、
毎回毎回、信仰が問われる。
「信じます、不信仰な私をお赦し下さい」と言わないではいられない。
主の「わたしを信頼しなさい」との語りかけをいただかないと、
堅く立っていけない。
オートマチックじゃない。
いつもいつも主に語っていただいて、
いつもいつもみ言葉に支えられて歩んで行く、
それしかないんだな、と思う。
主よ、
あなたのみ言葉を与えて下さい。
あなたのみ言葉によって生かして下さい。
不信仰なわたしにはあなたのみ言葉しかありません。
2010-02-19
何によって動かされているか?
夜です。
昨日は今回では始めてオリンピックを一生懸命見てしまいました。
男子のフィギュアを一生懸命見るなんて初めてですよね。
でも、とても面白かったです。
安全策をとって確実な線を狙うか、
失敗してもいい、と大胆にチャレンジするか?
見てて気持がいいのは後者ですが、
自分はどちらを取るか、と言われると、
後者で行きたいと思いながら、
結局は前者のようなことをして、
自己嫌悪になる・・・かな。(いやあ、しょうもないですねえ)
さて、Purpose Driven Life の3日目。
「あなたを動かしているのは何か?」です。
この何に動かされているか・・・で、Purpose Drivenというのが、
この本の立場ですが、私の場合はどうしてもこの表現に引っかかります。
Gospel Driven であるべきなんじゃないかと・・・。
そう、福音に押し出されるように動かされる、
それが、本当だと思うんですが・・・
でも、今日のところで、本当に心がドキッとする言葉がありました。
「人の期待に応えていたら、きりがありません。あなたには、神のみ心を行うのに十分なだけの時間が与えられています。」
そう、彼がいう、目的がハッキリしないと、
いろんなことをやって、収拾がつかなくなってしまう。
それは時々感じます。
だから、Purpose Drivenという言葉が適当かどうかは別として、
目的意識をハッキリ持つことは、大切なんだと思いました。
そして、与えられた時間の中で、本当に自分がなすべきことをちゃんと見極めること、
それが本当に自分には必要なことだと思わされました。
さて、2月13日土ようびの聖書。
マタイ15章21-28節。
「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」27節。
この女の人は、
パンくずでも、パンくずでも、
それでも、自分の娘は癒されると、信じていた。
それくらい、イエスの力を信じていた。
そうだ、パンくずでも大丈夫。
ほんの少しでも、主が私たちに恵みを注いでくださったら
それだけでも、本当に満たされる。
それくらい主は豊かな方だ。
だから、大切なのは素直さ、
ストレートであること。
本当に単純であること。
いろいろ考えすぎるのかな。
毎日書いているように思うけど、
バカのように単純に、
神様を信頼して歩んで行きたい。
主よ、
あなたの大きさを信頼します。
あなたの好意を信頼します。
だから、大丈夫です。
安心してあなたに従って行きます。
どうか、すべてを導き、与え、満たして下さい。
昨日は今回では始めてオリンピックを一生懸命見てしまいました。
男子のフィギュアを一生懸命見るなんて初めてですよね。
でも、とても面白かったです。
安全策をとって確実な線を狙うか、
失敗してもいい、と大胆にチャレンジするか?
見てて気持がいいのは後者ですが、
自分はどちらを取るか、と言われると、
後者で行きたいと思いながら、
結局は前者のようなことをして、
自己嫌悪になる・・・かな。(いやあ、しょうもないですねえ)
さて、Purpose Driven Life の3日目。
「あなたを動かしているのは何か?」です。
この何に動かされているか・・・で、Purpose Drivenというのが、
この本の立場ですが、私の場合はどうしてもこの表現に引っかかります。
Gospel Driven であるべきなんじゃないかと・・・。
そう、福音に押し出されるように動かされる、
それが、本当だと思うんですが・・・
でも、今日のところで、本当に心がドキッとする言葉がありました。
「人の期待に応えていたら、きりがありません。あなたには、神のみ心を行うのに十分なだけの時間が与えられています。」
そう、彼がいう、目的がハッキリしないと、
いろんなことをやって、収拾がつかなくなってしまう。
それは時々感じます。
だから、Purpose Drivenという言葉が適当かどうかは別として、
目的意識をハッキリ持つことは、大切なんだと思いました。
そして、与えられた時間の中で、本当に自分がなすべきことをちゃんと見極めること、
それが本当に自分には必要なことだと思わされました。
さて、2月13日土ようびの聖書。
マタイ15章21-28節。
「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」27節。
この女の人は、
パンくずでも、パンくずでも、
それでも、自分の娘は癒されると、信じていた。
それくらい、イエスの力を信じていた。
そうだ、パンくずでも大丈夫。
ほんの少しでも、主が私たちに恵みを注いでくださったら
それだけでも、本当に満たされる。
それくらい主は豊かな方だ。
だから、大切なのは素直さ、
ストレートであること。
本当に単純であること。
いろいろ考えすぎるのかな。
毎日書いているように思うけど、
バカのように単純に、
神様を信頼して歩んで行きたい。
主よ、
あなたの大きさを信頼します。
あなたの好意を信頼します。
だから、大丈夫です。
安心してあなたに従って行きます。
どうか、すべてを導き、与え、満たして下さい。
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