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2017-01-24

「わが神、わが神、どうして」

先日、「沈黙」について感じたことを分かち合ってから、いろんなことを思わされてきた。一番感じているのは、「わたしはあのヨブの友人たちのようなこと言っていないか」ということ。ヨブは旧約聖書の中に出てくる、正しい人でありながら、苦しみの中を通る人です。彼は最初は「神が与え、神が取られるのだ、神は素晴らしい方だ!」と賛美をしているのですが、悲しみ、痛みの中で、「わたしは何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに苦しまなければならないのだろう」という思いが溢れてきます。その中で、友人たちは最初は黙って、彼に寄り添おうとするのですが、彼の余りの言葉に、因果応報の考えにとらわれていた友人たちは「神は何も悪くない、あなたがなにか悪いことをしたのじゃないか?」とヨブを責め始めるのです。

今痛みや悲しみの中にいて「どうして神は沈黙をしているのか?」と叫ばないでいられない人々に対して、わたしの書いたようなことはやかましい建前論になってしまっているのではないか。ヨブの友人たちのような間違ったことは言っていなかったとしても、単なる知的な議論が人を救えないことは何度も経験してきている。


そんな中で、私達の教会のウェブページに出てくる「証し」の一つをもう一度読む機会があった。


「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」という言葉。イエスはこの言葉を十字架の上で叫ばれた。新約聖書の中の福音書にはイエスは自分が十字架にかけられ、その後、三日目に復活することを知っていて、預言している言葉がある。イエスは自分の使命を知っていた。十字架で苦しむけれども、三日目によみがえることも知っていた。でも、それでも、イエスは「わが神、わが神、どうして・・・」と祈られたのだ。復活があるからOKではなく、「大丈夫、復活するんだから」というのでもなく、復活があっても、「どうして・・・」と叫ばれたのだ。

私たちもそのように叫ばないではいられないことがある。復活がある。神の勝利がある。それを信じている。それでも、私たちの歩みの中には「どうして・・・」と叫ばないで入られないことがある。つぶやかないで入られないことがある。それを人は不信仰というかも知れない。しかし、イエスはそれをわかってくださるのだ。共に行ってくださるのだ。いや、先に行ってくださっていたのだ。そのイエスと共に歩むのが、私たちの人生なのではないか、今日はそんなことを思わされている。

2016-05-09

神による勇気。

先週一週間はずっと肌寒い雨。
本当に土曜日の夕方まで、太陽を見ませんでした。
そして、昨日は眩しいほどの青空。

日曜日だったので、写真撮る余裕もありませんでしたが・・・。

今週は木曜日までは大丈夫みたいです。

先週末、私の人生に本当に大きな意味を持った一言を言ってくださった方が、天に召されていきました。

多分、その方ご本人は、ご自分の言葉が、その若者にどれほど大きなインパクトがあったのか、ご存じなかったのでは、と思います。直接、そのお話をさせていただいたことはないのでは・・・と思います。

もう何年も前にシリーズで書いたのですが、その時の原稿を、ちょっと長いですが、心からの感謝を込めて、まとめてここに紹介。

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20歳になりました。
いろいろ悩みながらではありましたが、
まあ、真面目に神様を信じて生きていました。

そしていつの間にか、自分の信仰の姿勢に誇りを持つようになっていました。
それが「傲慢」になっていったのです。

聖書も(ほぼ)毎日読んでいました。
お祈りもしていました。
教会も休みませんでした。
友達も誘いました。
献金も思いっきりささげていました。

そんな自分のクリスチャンとしての歩みが自慢でした。
そして、そうできない友人を見下げていました。

高校時代は桶に入っていた、ん?オケに入っていたのですが、
合宿とかが日曜日に重なると悩んでいましたねえ。
オケと合唱で合わせて音楽部(オペラとかやっていましたからねえ)だったのですが、
一回は合宿に行って、日曜日にその場で、人を集めて「日曜礼拝」までやっていましたねえ。
結構集まりましたよ。60人くらいのうち、20人か30人か・・・。

また大学受験の時は
意地でも日曜日にある模擬試験は受けませんでした。
今考えるとなんて嫌なヤツなんだろうと思うのですが、
日曜日に模擬試験に行っていた教会の友人には、
「そこまでして大学行きたいか?」とか毒づいていました。

20歳になった夏、そんな自分の傲慢な気持ちが打ち砕かれるときがやってきました。

私にとっての大きなターニングポイントです。

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それで、20歳の時。
夏でした。
私は時々伊豆大島にあるホーリネス教団のキャンプ場に
ワーカーとして奉仕に行っていました。
大島泉の家
私はここで育てられました。
船に乗っていかなければ行けないというところがまたいいんですよね。
一度行ったらもう終わるまで帰れないし、
他に周りに何もない、真っ暗なところ、
停電したときなんかなーんにも見えませんでした。
それから星がきれい、
海がきれい、
クワガタがたくさんいる・・・

まあいろいろあったのですが、
何よりも良かったのは、そこで持たれたキャンプが、毎回毎回良かった。
教会の規模は今のJCCNJと同じくらいなんですが、
中高生はうちの兄弟とちょこちょこ・・・。
で、このキャンプ場に来て、50人とか、100人とかの仲間の中に入って、
中高生向けのメッセージを聞いて、
共に歌って、共に祈って、
悔い改めに導かれたり、
友達のために祈ったり、
新しくされて帰ってきたものでした。

行き帰りの船の中では前の方に集まって、
みんなで賛美をしました。

そのキャンプ場で大学生になってからは
時々ワーカーをしていたわけです。

ワーカーをしているときには、
一生懸命陰の奉仕をします。
朝は5時半とか5時とかから朝ご飯の準備、
みんなが海に遊びに行っているときにはキャンプファイアーの準備とか、
夕食の準備とか、
汗だくになりながら、泥だらけになりながら、奉仕をしていました。

そんな陰の奉仕に気がついて、
声をかけて下さる方々もおられました。
「君のような人がいるからキャンプができるんだよ、ありがとう」

そして、キャンプが終わって家に帰ったとき、
自分が一人でいるときに、キャンプの裏方で奉仕をしていたときの自分と
まるで違う、心の中に醜いものがたくさん渦巻いている自分に気がついたのです。


その時、私は自分が「偽善者」だということに気がついてしまったのです・・・

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自分が偽善者だと気がついたとき、
ほんとうに落ち込みました。
自分をののしり、「おまえは偽善者だ!」と日記に書き殴りました。

子供の時から聖書を読んでいる中で、
こういうタイプの人間にはなりたくないと思っている種類の人々がいました。
それは「律法学者」であり、「パリサイ人」でした。
規則を細かく守りながら、
でも心の中は醜いものでいっぱい、
傲慢で、人を見下げている人々。
イエスも「おまえ達は白く塗った墓だ」と彼らを厳しく非難しました。

「ほんとうに嫌な連中だ!」と私は聖書を読むたびに思っていました。
でも、気がついたら自分がその偽善者になっていた。

すべてがバカらしくなりました。
聖書を読むことも、
お祈りをすることも、
奉仕をすること、
教会に行くこと、
伝道をすること
すべてがバカらしくなりました。
子供の頃から一生懸命やってきて、
それで自分が一番なりたくないような種類の人間になっていたわけですから。

そして、最後は生きていることさえもバカらしくなりました。
この後どうして生きていったらいいか?
「人間なんてみんな偽善者だ」と割り切って生きていくか、
このまま偽善を通して生きるか?

いろんな人に相談しました。
あまり相手にして頂けませんでした。
「若いっていいね」「そんなこと気にしていてはダメだよ」「君は立派だよ」

最後の期待を持って、
あの大島のキャンプ場で、自分の父親くらいの先生に話しました。
先生は私の話をしっかり聞いてくださいました。
そして、言われました。「君はほんとうに傲慢な人間だね」

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「君はほんとうに傲慢な人間だね」と言われて、
どういう意味か分りませんでした。
自分のような、自分の愚かさ、醜さ、偽善性に落ち込んでいる人間は
「傲慢」なんかじゃない、砕かれているんだ、
と思いました。

でも、そんな気持ちを知っておられたのかどうか分りませんが、
先生は続けました。
「君はまだ自分に期待しているのかね。君はもう、あのキリストの十字架に共につけられているんだよ」と。

その時に、私は初めて分りました。
自分が一生懸命がんばっても、
せいぜい偽善者止まり。
外側を繕うことくらいしかできないからこそ、
そんな人間だからこそ、
イエスは十字架にかからなければならなかった。

自分でがんばって立派な人間になれるなら、
イエスは十字架にかからなくてもよかった。

自分がそんな立派な人間ではないから、
イエスは自分を投げ出されたのだ。

そして、その時に、子供の頃から耳にたこができるくらい何度も何度も聞いていた、
「神の愛」「十字架の愛」が自分に注がれていることが頭ではなく心で分りました。
こんな偽善者にしかなれないような人間のために、
命を投げ出して下さった方がいる。
そこまでして下さった方がいた。
その事実に、ほんとうに愛されている喜びを感じました。

大げさではなくて、
今もその愛が自分を生かしている。自分を動かしている。
そう感じます。

それまでは、人がどう思うかが私を動かしていました。
人の期待に応えるのが自分にとって一番大切なことでした。
こう期待されているから、こうしたい、(逆に、したくない、と意固地になったこともありました)
そのように生きてきました。
でも、この時からは、「ありがたい」「私には何ができるだろうか」という思いが、
私を動かすようになりました。


ここから、「伝道」が楽しくなりました。

---------

証しはここまで。

今、自分がその時のその方の年齢に近づいてきています。
私が、今、20歳の若者に、同じような相談を受けたら、「君は本当に傲慢だね」なんて、そんなこと言えるだろうか?それが言えるほどの、神様との生きた関係に生きているだろうかと思わされています。

心からの感謝を込めて。


2014-01-09

原点に帰る。

先日、ある方と話していて、
自分がどのように神様の恵みを知ることになったのか、
そんな話に導かれました。

鎧なんで着なくていい。
その時その時のありのままで、歩むことの大切さ、
なんだか、最近そのことを忘れていたように思います。

自分を守ろうとしていたのかもしれない。
vulnerableであること、そのことの大切さを見失っていたのかもしれません。

もう7年くらい前に一度書いた証しを、読み返しました。

序1
序2
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
第8章
第9章
第10章
第11章
第12章

本当に、神様が導いてくださったこと。
神様が与えてくださったことのすばらしさを思わされます。
話をしながら、感謝があふれてきました。

自分が何かをしたからではない、
ただ、神様の力が注がれる。
神様に愛されている感謝があふれてくる。
それが信仰の歩み。

その原点に帰ろうと思います。

さて、今日の「日々のみことば」。
創世記の9章でした。

「雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。」14-15節。

神様は虹を見て、
私たちを憐れまれる。

1年半ほど前のとある夕方に。

虹は雨が降る時に出る。
神様が憐れみを施されるのは、私たちに雨が降るとき。
私たちが戦いの中にある時にこそ、神様は私たちに憐れみを注がれる。

神様の憐れみを思わされる。
神様の憐れみを求める。
憐れみなしには生きていけない存在であることを忘れないようにしよう。

神様、
私にはあなたの憐れみが必要です。
あなたの憐れみを注いでください。

2013-05-19

ペンテコステの朝、夢を見た。

今日は一日肌寒い雨でした。
しとしと。

明日はぐっと暖かくなって、
雨が降るとしてもにわか雨。
今日みたいなしとしとタイプではなく、
元気な雨でしょう。
それに、降らないかもしれないし。

って、ことで、1週間離れただけだったのに、
一気に春は進んでいました。

こんなのや、

いわゆるシャクナゲってヤツ?

2011-04-20

愛されていること。

今日は雷雨の予報が出ていたのですが、
来ませんでしたねえ。


日曜日にはfloodだったので、よかったです。


午後には暖かくなりましたが、
明日の夜にはまた0度近くまで下がるそうです。
ふう。


今夜はある方と話していて、
どうしても、自分の罪に目が開かれた時の話をしないではいられなかった。
自分の罪を知ることは、また、イエスの十字架による救いへの道。
その喜びの話もさせていただいた。


どのように伝わったかはわからないけれども、
それは神様の御手にゆだねて、私達はありのままを語る。


明日はシニアセンターに行く日。
やはり、そのことを分かち合いたいと思った。


神様が助けてくださいますように。


のんちの方は、木曜日、石巻から東京に一度戻るそうだ。
今電話したら、森郷に着いた・・・というところ。
今日中に東京へ。そして、また次の働きを探ることになりそう。
お祈りに感謝しつつ。


さて、今日の聖書。
今日はマルコ14:53-72です。


「わたしは、それです」62節。


昨日に続いて、イエスの思い。
イエスのまっすぐな態度。
ぶれない。うごかない。

このイエスの思いを、私達も与えられる。
聖霊様によって、私達は、
イエスが父なる神に対して持っておられた
信頼を自分のものとして与えられる。

それを私のうちに現実としてくださいますように。

主よ、
あなたの信頼を、
あなたの平安を、
私にも与えてください。
あなたの強さを、私のうちに与えてください。

2010-05-24

主の御手の中にあること。

昨夜はそれほど疲れを覚えていなかったのですが、
9時には睡魔に襲われて、そのまま寝てしまいました。
それで、今朝は3時起き。
すっかり朝モードです。


昨日の礼拝。特に「わたしは救われるためにはどうすればいいんですか?」という、ペンテコステの日に3000人の人々がしたようなレスポンスはいただいておりませんが、
でも、すべては主の御手の中にあることを思わされて、
平安の中にあります。
そう、昨日のメッセージの最初にも語らせていただきましたが、
聖霊様は自由な方。自由にお一人ひとりに触れて下さいますから。


もう十数年前のことですが、
アメリカから日本に一時帰国をしたときに、
一人の方をご訪問しました。


その方は、私達が日本で、大きな教会の副牧師をしていた頃、
私達の住んでいたところの近くで始まった小さな集会に集い始めいてた方でした。
お子さんをめぐる一つのトラブルのことで、心に痛みを覚えておられました。


その時に、いろいろお話をお伺いして、聖書を開いて、お祈りをしました。
帰り道、なんだか、心が通じきらない、もどかしさ、
聖書の言葉が届いているのか、どうか、わからない思いをもって、
電車に乗って帰りました。


でも、それから2週間後くらいでしょうか、
お便りをいただきました。
その日の夜に、祈りの中で、主が語ってくださったそうです。
そして、その方は、ご主人の仕事で、まもなくNYのLong Islandに引越され、
NJに引っ越してきた私達と、そのころ、Yaohanといっていた今のMitsuwaで再会。


そして、その後、現地の英語の教会で洗礼を受けられました。
今はCAで信仰生活を送っておられます。


だから、本当に人の心に触れてくださるのは主なのです。
それを信頼して歩んでいこうと思います。


さて、昨日までの「ひびみこ」から。
22日に読んだところですが、


「わたしはエラムの力の源であるその弓を砕く」49章36節。

またまた何度も出てくるテーマですが、
人々は神ではないものを「力の源」にしていました。
この場合は軍事力でしょうか。
それを主は砕かれる。

本当の力の源はどこにあるのか、それを教えるために。

わたしは、教会の牧師として何を頼りにしてきたんだろうかと思います。

正直なところ、ここでも何度も書いていると思いますが、
やはり人を頼りにしてしまうんだろうと思います。
マンパワー。

大学で社会学を学んでいる中で、
その重要性を何度も感じた、マンパワー。

牧師として奉仕をしている中でも、
最初に副牧師として任命を受けた、200人の方々が集う教会でも、
また今奉仕をしているNJの教会でも、
やはりマンパワーの大切さを感じさせられてきました。

そう、特に信仰的に筋の通った人々のマンパワー。

でも、結局のところ、どこまで行っても、
自分自身の最終的な力の源は主ご自身で、
自分自身が主によって力をいただいていかないといけない、
ということをあまり学ばないできのだと思います。

最近読んだある牧師さんの体験記も、
そのことを書いていました。
「一緒にやろう」という同労者が与えられて、張り切って新しい教会を始めたけれども、
ある時、彼が「やっぱりやめる」と言い出した。

その時に、自分はいつの間にか、
この同労者がいる、ということを頼りにしてしまったのではないだろうか、と書いておられました。そして、そこから、神様を頼りにして、神様だけを頼りにして再出発をされたと。

主が与えられた同労者に感謝しつつ、
しかし、主にこそ、力の源があることを、
いつもいつも大切にしつつ、歩みたいと思います。

主よ、
たくさんの信仰の友、
支えて下さる方々、
教会の同志としてのメンバーたち。
感謝します。
しかし、究極的な力の源があなたであること、
あなたご自身を頼りにして歩んでいくこと、
同労者たちも、互いを頼りにしてもたれ合うのではなくて、
共にあなたを頼り、共にあなたを見上げる仲間であることを、
忘れることがありませんように。


今日のひとりひとりの歩みを守って下さい。


わたしの月曜日も守って下さい。


明るくなってきました。目覚ましも鳴りました。
教会に行って祈ってきます。


今日はどんより、蒸し暑い一日となりそうです。

2010-04-26

神様のCalling。

今日は一日雨でしたね。
予報よりも雨が多くなったようです。


明日から少しずつ回復。


後半はかなり暖かな陽気になりそうです。


今日は地区の牧師会。
とてもいい集まりでした。


そのあと、ある牧師と個人的に話しをしながら、
自分が神様から与えられた、ひとつの経験を思い出していました。


もう3年も前に書いた証し。


第11章


第12章


今も、私の弱いところに、主が働いてくださる、という約束、有効なんだと、もう一度示されたように思いました。主がそのことをしてくださる、それを信頼して行こうと思います。


神様から御言葉を語られて、踏み出すこと、
私達の人生にとってどれほど大きなことでしょうか。
多くの方々が、この「御言葉が与えられる」という経験を与えられますように。


さて、今日の聖書。
今日はエレミヤ35章。


「 私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行ってきました。」10節。

神様のメッセージを単純に大胆に、忠実に守ってきたレカブびとたち。
預言者であるエレミヤの誘いも、神様が忠実さを試される目的でした。

時々、そういうことを感じる時があります。
私がどのように反応するか、神様から試されていると。

物事を正しく判断する賢さを与えていただきたいと思います。
そして、何よりも忠実に主に従う者でありたいと思います。


主よ、
あなたの御言葉による約束に感謝します。
それを信頼して、従って行く者とならせて下さい。

2010-02-22

イエスは光だからね。

今、夜の11時半ですが、
外は2.4度でみぞれが降っています。
今週はずっと、雨か雪。


こーんな感じで、ずっと天気が悪い予報です。


特に木曜日から金曜にかけては雪の可能性が高いです。


でも、きっときっと、この肌寒い日々を過ぎたら、
春がやってくる。そう思います。
これは天気予報の話じゃなくて、期待の話ですが・・・。


今日も、Imari Tones の皆さんといろいろお話をしました。
リーダーの方にクリスチャンになった経緯を伺ったところ、
こんな感じのお話をして下さいました。


自分は音楽をやっている中で、
自分がやりたい、ということ以上に、何かに動かされているような、
自分の意志を超えて、何かに、このことをやらされているような感じがあった。
それが、クリスチャンアーティストの方々と出会う中で、
その自分を動かしているものは、これだったんだ、
イエス・キリストだったんだ、そう思った。
真っ暗な部屋にもういろんなものがあったんだけれども、
それが見えなかった。イエスを信じたことは、その部屋で、電気をつけたら、
全部が見えるようになった、そんな感じです、と。


なるほど・・・。
アーティストはやはり感性が豊かです。


"Jesus is the answer!" ですね。


さて、2月15日月曜日の聖書。
マタイ16:1-12。


「そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか」3節。

これはお天気牧師にはきつーい一言です。
ノックアウトです。

まさに、わたしのために言われた言葉です。
霊的な感性、霊的なsensitivityを鋭く持たせていただきたいと思います。

人が心を開く瞬間、
聖霊様が触れてくださっている瞬間、
それを見逃すことがありませんように。

主が人々に語ろうとされていること、
主がわたしに語ろうとされていること、
それを見逃すことがありませんように。

本当に天気よりも、人の事に敏感になりますように。
単に人の気持ちというのではなくて、
本人の気持ちというのではなくて、
そんなものに振り回されるのではなくて、
その人に神様が何を望んでおられるのか、
神様の導きがどこにあるのか、
それを見極めることができますように。
主からのチャレンジです。

主よ、
何よりもあなたのメッセージに、
あなたがなそうとしておられることに、
あなたが導こうとされていることに、
敏感であることができますように。
それを見極める目を与えて下さい。
大切なものを見分ける目を与えて下さい。

2010-02-03

勇士。

(この文章は函館に向かう列車の中で文章を打ったのですが、アップロードは日本時間の2月4日朝、大阪からです)

2月2日函館に向かっている特急の中ですが、青森県に入ってからまた雪が降っています。

2月1日の夜は仙台で、NJの教会の方のお父様の前夜式(通夜)。
お父様もクリスチャンだったのですが、本当に素晴らしい式でした。

「生きるにしても、死ぬにしても、キリストがほめたたえられるため。」(ピリピ1:20)との御言葉通りの生涯であり、その最期だったことが、人々の口によって証されました。最後の10日間は神様に感謝、そして、出会いに感謝、皆さんへの感謝で溢れていたそうです。そして、最後の時、腕に着いていたセンサー類をすべて取りは外して、酸素マスクを自分でしっかりと取り外して、「私は主の御許に行くのだ」という気迫に、周りの人々は敬意を感じて何もできない、決して止めることなどできない瞬間だったそうです。そして、主の許に召されて行かれたそうです。異常に気がついた若い研修医が「どうして酸素マスクを外しているんですか?」と慌てていたそうですが、それが周りにいた人々にはとても場違いに聞こえていたということでした。聖なる瞬間だったんですね。「聖徒の死は主の目に尊い」(詩篇

たくさんたくさんのことを伺いました。

教会の次の時代を担う若い世代への思い、子どもたち、孫たちへの思い、愛と信仰にあふれた勇者でした。

このように生き、このように走り抜きたい、と思わされた夜でした。

129日金曜日の聖書。
マタイ12:1-13

「わたしが好むのはあわれみであって、いけにえではない」6節。

わたしは何を伝えてきただろうか?
神様が求められる献身よりも、
神様の愛を語ってきただろうか?

献身も神様の愛を土台にすることを語ってきただろうか?

そして、そのように生き、
そのように教会を形成してきただろうか。

語っているメッセージでは確かに、
いつでもいつでも、
「恵みは信仰に先立つ」
「献身は恵みの結果、救いの結果」
と語ってきたけれども、
そのように自分も生きてきただろうか?

言っていることとやっていることがぜんぜん違う、
言葉では恵みを語りながら、
態度では恵みのない献身を要求している、
そうなってしまってはいなかっただろうか?

神の恵み、神の憐れみを徹底的に語る者とならせていただきたい。
そして、そのように生きる者とならせていただきたい。

主よ、
あなたの恵みをもっともっと経験させてください。
そして、その恵みによって生きる者とならせてください。
恵みに徹底する者とならせてください。
献身もいつもいつも恵みへの感謝となりますように。

2009-11-12

まだまだ知らないNY。

いやあ、昨日はVeterans Dayで図書館が休みで、
別にいくらでも生き延びる方法はあるんでしょうが、
いつもと違うのが、こんなに戸惑うことなのか、と思いました。


意外と(?)柔軟性がないんだと思わされました。


昨日の写真にあったように、
図書館の前の通りはパレード。


仕事が休みだった方々は少なかったと思うのですが、
たくさんの方々が沿道で声援を送っていました。


そして、昨日ある方から伺った、
NYの楽しみ方、一つ。


NYのオペラと言えば、メット。
昔は、スカラ座とメット、そして、ウィーンの国立歌劇場が世界を代表するオペラハウスだったとおもいますが、今はどうなんでしょう。


日本で公演をすると何万円もするんでしょうが、
20ドルで、オーケストラ席(1階席)が買えるというのです。
rush-ticketというプログラム
篤志家のお金持ちの方が、月曜日から木曜日まで、
一部の例外の日があるようですが、
200枚20ドルで買えるようにしてくださっているそうです。


実は、というか、もう何回も書いていますが、
高校時代はオペラを毎年やってました。(オケの方)


ですから、オペラは好きなんですが、
メットはこの15年でまだ1回。
でも、20ドルだったらちょくちょく行けそうですね。
問題は早い時間から並ばなければいけないことですが、
それでも、年に1回か、2回かは何とかなるかも・・・。


さて、昨日もある方とお話ししながら思わされました。
自分がどれほど神様に愛されているか。
それを覚えること、思い出すことが、どれほど自分に力を与えるか?


教会の人はもう暗唱出来るくらい聞いておられると思いますが、
リンクを貼っておきます。


証の
第8章
第9章
第10章


さて、11月9日(月)の聖書。
ヤコブ4:13-5:6。


「主のみこころなら・・・」4章15節。

わたしたちはいろいろ自分の考えで、計画を立てます。
でも、わたしたちの人生は主の支配の中にある。
ある時には神様がわたしたちの生活に介入されて、
本当の主人は誰なのか、わかるようにして下さる。

礼拝でもお話ししました。

無理矢理でも十字架を背負わされることがある。

それと共に、自分から「神こそ、私の人生の主である」と宣言することもできる。
宣言した生き方をすることもできる。

「主のみこころなら・・・」ということは、
それを宣言すること。それを認めてスタートすることです。

主が主であることを宣言すること。
信頼しているが故に、主を主として生きることです。

主よ、
あなたを主として歩んでいきます。
言葉だけで終わるのではなく、
あなたが私の主であることを、宣言する生き方をさせてください。

2009-10-12

秋本番。

昨日の朝は4度。
そして今日の朝は3度。
昼間でも室内の気温が13度くらいだったので、
今夜また来客があるので、
とうとう暖房を入れました。


今夜は雨で、冷え込みはゆるみそうです。


さて、昨日のプリンストンの礼拝では
(こちらの教会は画像がアップされるんですね、いろんな癖が気になります・・・)、
途中から自分の証をさせていただきました。
証をしながら、「ああ、自分は本当にこのイエスの十字架の愛に捕らえられて、生かされているんだなあ、この渇くことのない命の水の泉は、イエスの十字架の愛なんだ。わたしは確かにこれをもらった。そして、これがわたしを今も生かしている」そのように言える幸いを感じていました。


ここがわたしの原点であり、力だと思います。


これからもそこに生きていきたいと思わされました。


さて、今日1個目の「日々のみことば」の更新。
土曜日からでしたね。
土曜日の聖書。


エレミヤ17:12-18。


「しかし、私は、あなたに従う牧者となることを、避けたことはありません。」16節。

どきっとしました。
わたしはこのように思って、このように考えて歩んできたかを思いめぐらされました。
一つは「神様に従う」ということ、
そして、「牧者として歩む」ということ。

神様に従うことにこだわるよりも、
人の声に動かされることが多かったのではないかと。
牧者として歩むよりも、
烏合の衆の一員になっていることが多かったのではないかと。

本当に主に従う者でありたいと思います。
恐れないで、主の示されること、
導かれることに従っていこうと思います。

この生涯を終える時に、
また主の前に立つ時に、
わたしもエレミヤのように言うことができるようにと思わされました。

主よ、
あなたに従います。
わたしがあなたではなく、人の声に迎合するようになった時には、
あなたが警告を与えてください。
いつもいつもあなたに聞き、あなたに従い、
そして、人々を導いていくことができますように、助けてください。

2009-08-01

晴れの8月スタート。

今日は気持ちよく晴れました。
気温もずいぶん上がったと思います。
でも、夜には涼しくなってきました。
さわやかな夏の日です。


朝はハドソン川沿いの公園で、
また月に1度の朝の祈祷会。


気持ちのいい天気の中で、共に主に祈りを捧げて、
8月をスタートしました。
貴重な週末の晴れとあって、
ご家族や友人と出かけた方も多かったのではないでしょうか。


でも、明日はまた雷雨。
そして、来週の後半にはもう秋の気配・・・でしょう。


きっと。


今日、JOYJOYキャンプのための準備の中で、
成功していたように見えていたけれども、
実際は本当にむなしかったのだ、Hungryだったのだ、
Emptyだったんだ、その中で、キリストに出会ったという証を見ました。


見ながら、涙が出てきました。
あ、私はモデルをやったことはありませんが・・・念のため。
あ、心配いらない?・・・あ、そう。








さて、8月に入って、第2コリントスタートです。
今日は第2コリントの1章1-11節。


「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」9節。

苦しみの中で、それが自分が自分の力ではなくて、
イエスを死者の中からよみがえらせた神の力に頼るために、
与えられたのだ、というパウロの信仰。

死者をよみがえらせた神の力というのは、
それはそれはすごいものですよね。

もう絶望の中で、それが絶望ではなくなる、ということですから。

その力が今も私に注がれている、
その力を信じるように招かれている。

主から力を頂ける。
復活の力を。
だから心配しないで、
だから恐れないで歩んでいこう。

神様、
どうか、わたしにあなたの復活の力を注いでください。
死者をよみがえらせるあなたの力を。
私を生かし、私を満たしてください。
明日の礼拝を祝福してください。


明日は午前中はコネチカットのグリニッチの日本語教会での礼拝説教。
午後はいつものようにNJの教会で2回の説教。
礼拝後は初心者クラスとJOYJOYキャンプの準備。
すべてが守られますようにお祈りください。

2009-06-06

ビデオ変わったねえ。

今日はいい天気で、ガレージセールをやっていたので、
ちょっと赤くなっているかも、
ちょっと顔がほてっているかも、
ちょっと腕がひりひりするかも。


昨日は集会の合間を縫って、
サキの学校のコンサートに行って来ました。


これはうたが終わって、「お父さん、お母さんたちのための写真ターイム!」ってやつ。
そんな気持ちを知って知らでか、子供たちはあっち向いたりこっち向いたり、
お父さん、お母さんたちは前の人の頭が入らないようにとカメラを高く持ち上げて撮っています。だから、どんなに自分が手をたかく上げても、誰か他の人の手が写真に入ってしまいます。


サキ、どこにいるかわかりますか?


サキは2年生だったのですが、
まあ、楽しかったのですが、
やっぱり1年生担当の先生がすばらしい。
JOYJOYシンガーズを始めようと思ったのも、
その先生の姿を見て影響を受けたのですが、
本当に子供たちが楽しそう。


サキに聞いても、その先生は楽しかったそうだ。


あと、今回目に付いたのは父兄のビデオの撮り方。
最近はコンパクトデジカメでも、立派なビデオが撮れる。


だから、コンデジをしっかりホールドしながら、
ビデオを撮っているお父さんお母さんがいっぱいでした。


その一方で、「ん?これは年代物だろう」という大きなビデオを使っているお父さんもいました。


そういえば、私がアメリカにきた17年前は日本ではもう「パスポートサイズ」の8mmビデオが主流でしたが、こちらでは、まだ肩に担いで撮る、VHSがそのまま入るビデオを使っている人がたくさんいました。それが、今や片手が当たり前、それにコンデジでビデオですからね。テープなんか使わないで、小さなカード1枚。そこにたくさんの情報が入って、頭出しも簡単。時代は変わりました。


さて、昨日、6月5日の聖書。
昨日は出エジプト記の28:15-43。


「主への聖なるもの」36節。

主への聖なるものとは、主のために取り分けられた、
特に主に使えるためにだけ、存在している者。

聖なる杯だったら、他のためには使わないで、
神様のためだけに使われる杯。

同じように、私たちも、神様のためだけに生きるようにと召されている。
私自身はどうだろうか?主のために生きているだろうか?
主のためだけに存在しているだろうか?
主のために、励んでいるだろうか?

主に対して、きよい、主に対して、真実な者とならせて頂きたい。

主よ、
どうか私の心をきよめ、
あなたに対して、聖なるものとならせてください。
人に対してではなく、あなたに対して、聖なるものでありますように。

2009-04-27

アシュリーのこと。

夜の10時です。
今日は結局家の庭では31.5度まで上がり、
結構暑かったです。
でも、昨日に比べると4度も下がりました。


明日はまた35度くらいいくんでしょう。


でも、この暑さも、明日までです。
そのあとは20度くらいの日が続くでしょう。
過ごしやすい季節です。


昨日、教会のある方から、
アシュリーちゃんが亡くなったんだそうですよ、
とお伺いしました。


以前、何回かフジテレビでとりあげられた難病を抱える女の子。
10代にして体はもう老人になっています。


お母さんが神様に出会って、クリスチャンになられた様子がウェブページに載っていて、
その日本語版がなかったので、「訳していいですか?」と伺って、
教会の月報でもご紹介しました 。


日本に行っている時に、たまたま、
彼女の町、カナダのレスブリッジで日本語教会をされている
牧師さんにお会いしたのですが、
「最近はペットショップのアルバイトもしておられないみたいだし、あまり状態は良くないのかもしれませんね。」とお伺いしていて、彼女ももう17歳。もう厳しい状況なんだろうと思っていました。


今日、検索をかけると、その町の地方紙の死亡広告欄 に21日に召天されたことが、
書かれていました。


また、彼女自身の証 が英語で、書かれています。
2005年に個人的に主を救い主として受け入れた、とあります。


母親のロリーさんと何度かメールのやりとりをしたことがありますが、
日本の普通のテレビ番組で、彼女の信仰の姿勢がちょっと違って報道されていることをお知らせして、彼女も一生懸命番組のスタッフとコミュニケーションを取られたのだと思います。そのあとに出された本にははっきりと、自分たちを支えているのは神様なんだと、明らかにされています。


その今や文庫本にもなっている本、「みじかい命を抱きしめて」 の最後のロリーさんの言葉、それは信仰の告白です。


プロジェリアという病気を解明することは、人の老化を解明することだとよく言われます。人類の永遠の課題である老化を解き明かすために、プロジェリアは神様が遣わされた病気だと言う人もいます。ただ、私にはこう思えてしかたがないのです。短い人生を一生懸命生きることの大切さを教えたい。そして、自らの死や生きる目的を考えてほしい。そうお望みになった神様が送り込んでくれた天使ーーそれがアシュリーなのだ。と。


主の慰めがご一家にありますように。


さて、昨日、日曜日の聖書。
昨日のところは本当に心に語られました。
今日も、何度もその言葉が心に響いてきました。
昨日はゼパニヤ書3章9-20節。


「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。」12節。


寄るべのない民・・・他に頼るもののない民、ということでしょう。
その時に、ただ神様を頼るしかない。
それこそが、神様の祝福の道なのだということですね。

私には他に神様以外に頼るものがあるだろうか、と思います。
お金も、能力も、・・・でも、やっぱり自分がすぐ頼ってしまうのは、
「人」なんじゃないか、と思います。

人に頼って、「あの人がいるから大丈夫」と思うこともたくさんあります。
でも、頼ると神様に取り去られてしまうんですよね。
ああ、それは困る。じゃあ、頼りにしないようにします。
ん、でも「それじゃ困る」と思うこと自体、頼りにしている証拠ですね。

頼りにして、寄りかかってしまうのではなくて、
互いに神様を頼りにする同労者として、
神様の前に恵みを受ける者として、
「主にあって」信頼して行こうと思います。

主よ、
あなた以外のもので、私が頼りにしているものはないでしょうか?
あなたを頼りにして、あなたに信頼して歩む者とならせてください。

2008-12-18

今も語っている。

遅くなりましたが、右のリンクに「アドベント聖書日課第3週」を追加しておきました。
クリスマスまであと1週間ですね。心の準備をさせて頂きたいです。


今朝、教会に行ったら、
「百万人の福音」という雑誌が届いていました。
日本のクリスチャンの月刊誌で、
とてもいい内容で、私も愛読している雑誌です。


でも、船便で送ってもらうので、
今月はまだいい方なんですが、
1ヶ月から2ヶ月かかってしまいます。


で、今日来ていたのは12月号。


そこに、去年の11月5日 と、2年前の9月13日 に2回紹介した、
若くして天に召されていったご婦人のことが書かれていました。
写真とイントロはこちら。 


またいろいろ思い出してしまいました。


クリスマスはいつも一番にカードをくれました。
写真を見ると、左右のカードで微妙に違いますよね。
一枚一枚手書きで、丁寧に書いて、作っていたんですね。


「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」ヘブル11章4節。


さて、今日の聖書。
今日は黙示録の14章14-20節。


「地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」15節。

ここで刈り取って頂くのは、
豊かに実を結んだ者たち。

喜びの収穫の時。
主が私たちのことを喜んでくださる時。

私たちは自分のことを見て、
こんなんでいいのだろうかと思う。
でも、主の目から見たらそうではない、
収穫を迎えている穀物。
実を結んでいる麦。

主が持っているものの見方を与えて頂きたいと思いました。
主が私たちを見ているように、私も自分や周りの人々を見ていきたい。
そのように思います。

主よ、
あなたが私たちを喜んでくださっていることに
感謝します。
どうか、私もあなたの見ておられる見方で自らを、
また周りの人々を見ていくことができますように。


日曜日の天気を守ってください。
たくさんの方々をお迎えしてクリスマスをお祝いできますように。

2008-11-16

御声に従う。

今日、礼拝や教師会で分かち合ったのですが、
金曜日の夜から、今朝にかけて、
「十字架と飛び出しナイフ」という本を読みました。
Times Square ChurchのDavid Wilkersonという有名な伝道者の、
NYでの働きの始まりについて書いた本です。


元々、ペンシルベニアの山間の小さな町の教会の牧師であった彼が、
どうしてNYでの働きを始めたのか、
今から50年も前の話ですが、
とても大きな感動を覚えながら読みました。


子どもの頃から親父の書斎の中にあった本で、
なんで今まで読まなかったんだろうかと思いますが、
金曜日の夜に読むきっかけが与えられたのは、
ほんとうに神さまの導きだと思います。


さすがに翻訳とか、ちょっと古くて、
またNY近郊に住んでいる者にとっては、
この地名の訳し方、何とかしてくれよ、と思うのですが、
閉口しながらも、その内容に圧倒されていました。


彼が神さまに従った時に、
最初は「どうしてこんなことになってしまったんだろうか」と、
自分の失敗に落ち込んだようですが、
それが神さまの御手の中で、決して失敗ではなくて、
彼がNYでギャング団の若者たちとのつながりを持っていくために、
用いられたことだったのだということに、
表面的な成功失敗ということにとらわれないで、
目的がよくわからなくても、
ただ、聖霊様が語ってくださることに、
忠実に従っていくこと、
その大切さを思わされました。


単純に、神さまが語ってくださることに、
従う者でありたいと思います。


理屈で考えすぎているかもしれません。
今の私たちは。


さて、今日の聖書。
今日はマラキ書の2:1-16でした。


「『なぜなのか』とあなたがたは言う。それは【主】が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。」14-15節。

心の純潔、ということを思わされました。
カラダの純潔ということはもちろんですが、
心の純潔も大切だと思いました。

心の思いの面でも、妻を裏切ることがないように、
守って頂きたいと思いました。

神さま、
どうか、私の心を守ってください。
純潔を守らせてください。
弱い、愚かな、危うい私を、あなたが守ってください。

2007-11-05

私たちの国籍は天にある

今日は、朝は2度くらいまで下がりましたが、
昼間は穏やかな一日でした。

でも、それも今日まで。
今、夜の10時ですが、もうすぐ雨が降ってきます。

そして、明日の朝には上がって、
それから寒くなるようです。

今朝は我が家で地区の牧師会だったのですが、
そんな、バタバタしていた朝早く、15年前、日本で副牧師をしていた時の、
若者仲間が長い闘病を終えて、天に召されていったニュースを聞きました。

あのころ成人式を迎えた頃だったかな、元気で、
でも、体の弱さを抱えたお母様が、倒れたり、
大変なことがたくさんあった、
そんな中でも、祈りながら、明るく歩んでいた、
スポーツの得意な女の子でした。

うちの息子が生まれた時にも、真っ先に会いに来てくれたのも彼女でした。

そんな彼女の病気がわかったのは、
僕らがアメリカに来てからだったと思います。
慢性的な病気だと知りつつ、
やっぱり同じ教会の仲間で一緒に歩んでいた若者と
結婚したのは7年前。


彼は、よく、月曜日の朝、寝坊している私たちの家に、
「よお、会社さぼって遊びに来ちゃった!」と、
話をしに来る、楽しいヤツでした。


とても、優しい夫になったみたいです。


結婚してからも、ほとんど入院生活のような中で、
仕事も変えて、彼女を支えていました。

毎年、一番にクリスマスカードをくれました。
それも、一つ一つ手作りの。




このサンタも、折り紙です。
この雲は脱脂綿。
画用紙を切って、シールを貼って・・・
毎年送ってくれていました。

去年も、私の一時帰国の時に、
病室で大喜びで迎えてくれました。

そして、どれだけ、ご主人が、周りの人たちが、
よくしてくれているか、いろいろ話してくれました。
「うれしいねえ」を連発していました。

夜、去年のクリスマスカードの山から
探し出しました。
このカードもう来ないんだな。
と何度も手にとってはテーブルに置いて・・・。

でも、「私たちの国籍は天にある」です。

天にお送りしたお一人一人を思い出しています。
天国がまたちょっと近くなった一日でした。

彼の上に神様の慰めがありますように祈ります。
そして、学院教会で一緒に歩んだ仲間たちにも・・・。


さて、今日の聖書です。
今日は使徒の働きの24章でした。

「数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。 しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言った。」
24-25節。

パウロのメッセージに恐れを感じて、
逃げたペリクス。

無理もないよなあと思います。
自分もそんなに得意な分野ではありません。
その話になったら、耳をふさぎたくなるのもわかります。
「もう、いいよ、その話は・・・」という感じだったのでしょうか。

でも、耳をふさがなくていい、
それが福音です。

耳をふさがなくていい、
イエスが十字架で私たちの罪を負われたから・・・。

耳をふさがなくていい、
神様は信じる者に、その力を与えるから・・・。

逃げなくてもいい。大丈夫。主は私たちを受け入れてくださるから。

福音のメッセンジャーであるとは何という幸いでしょうか。

主よ、
私たちは「正義」とか「やがて来る審判」とか、
苦手です。
自分で受け取ることも苦手です。
語ることも苦手です。

でも、恐れる必要がないことを感謝します。
イエスの十字架の故に、
「正義」も「最後の審判」も恐れる必要がないことを、
感謝します。

それについて語る時も、それが「十字架への道」ですから、
逃げないで語ることができますように。

2007-10-03

復旧・・・

今日はどんよりとした日で、
朝方ちょっと雨が降って、
また午後も降って、

でも、ほんの少しで、
晴れ間も出て、
湿度がぐーんと上がって、
なんだか、涼しいんだか暑いんだか、
よくわからないような一日でした。
でも、暑かったんだと思う。
朝は20度くらい。
昼間は25度を超えました。

今は夜の9時半ですが、
やっぱり20度以上あります。

明日はもっと暑くなるようです。
天気予報を見ると、日曜日くらいまでは80度、
つまり27度を超える日が続くようです。

そう、
今日、とうとうコンピューターが復旧しました。

なんとmotherboard交換。
いいですねえ、思いっきりがよくて、
と言うよりも、やっぱりそれしかなかったんでしょうね。

で、分解してくれているのを横で見ていたのですが、
意外と簡単そう。
手際よく、部品を外していって、
一番大きな部分であるmotherboardを交換して、
部品を一つ一つ元に戻していって、
合計15分。

自分でもできるんじゃないかなあ、と思いました。

見ていてびっくりしたこと。

ホコリがすごい!
途中の空気の通り道をふさいでしまっていました。
で、おじさん、「これ、熱くなったりしたでしょう」。

ビンゴ!です。

これじゃあ、しょうがないだろうなあ、
と言うくらいホコリがたまっていました。

あ、そうか、コンピューターが熱くなるかどうかは、
Dellか、Toshibaか、ということではなくて、
使い始めて1年か、3年近くか、ということか、
と思いました。
時間がたつとホコリがたまって、
ノートブックの場合は、
空気の通り道が限られているから、
熱くなる・・・。
そう納得しました。

そして、ここをきれいにしたら、快適だぁ! と思いました。

でも・・・なんだか、
直っても、やっぱり左手の手首あたりのハードディスクのへんが、
ものすごく熱くなるんですけど・・・。

ずっと使っていると、低温やけどするんじゃないかってくらい・・・。
だから、おじさん、正直に言ってほしかったなあ。
「このコンピューター、熱くなるでしょう」って。

まあ、でも、タダで直ってよかったです。

それほど大きな問題もなく、
4日間で復旧。感謝。感謝。

あ、それから、Dellの名誉のために言っておくと、
最近のモデルではこの熱の問題は解決されている、
という記述もウェブ上にはありましたので、
念のため・・・。

さてさて、
今日の聖書。

今日はヨハネによる福音書12章を読みました。
「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。」
26節の言葉が心にとまりました。

十字架を前にした、イエスの言葉です。
十字架に向かって進んでいこうとしている中で、
「私についてきなさい」とは、
どういうことか、考えさせられます。

他の福音書に書かれている、
「自分を捨て、自分の十字架を負うて私に従ってきなさい」
という言葉に通じるんだろうと思います。

イエスさまに仕えることは、
イエスさまの歩まれた道を歩むことです。
厳しいですねえ。
自己実現とかではなくて、
コケにされて、つばをかけられて、ののしられる歩みです。

自分を捨てる歩みです。
なんだか、悔い改めさせられます。
伝道をなんだと思ってきたのか、
悔い改めさせられます。

昔、肥をかけられるなかで、
誠実に福音を語っていった伝道者たちが日本にもいたことを、
本で読んだり、話で聞いたりします。

私たちは人々に取り入ろうとしすぎているのでしょうか?

イエスよ、
あなたの後をついて行かせてください。
あなたが歩んだように歩ませてください。
レベルが違うのは知っています。
でも、あなたが「わたしについてきなさい」とおっしゃるのですから、
あなたについていく力を与えてください。
あなたについて行く、ということがどういうことか、
もっともっと具体的に経験させてください。

2007-08-21

「神の子になりたい」

さて、今日6歳になった娘。

先日の日曜日に教会学校で
「神様の子供になる」という話がいたく心にとまったようで、
日曜日、寝る時に、もう眠くてもうろうとしながらも、
「神様の子供になりたい」と言っていたそうな。

で、のんちが聞いたら、
JOYJOYキャンプの時の話も心に残っていたようで、
先週か、その前か、一人で「神様ごめんなさい」とお祈りしたそうです。
何をごめんなさいかというと
「お姉ちゃんに意地悪をしたり、ウソをついたこと・・・」だったそうです。

月曜日の朝、5歳の最後の日に、
一緒にお祈りをして、
第2コリントの5章17節を読んで、
「もう大丈夫だよ、神様の子供なんだよ」とお話をしました。

教会学校の先生たちや、JOYJOYキャンプのスタッフの皆さんのご奉仕に心から感謝!

でも、これからが本番。
一歩一歩の彼女の歩みが神様に支えられて、
神様の愛に感動して歩む人生となりますように祈ります。

教会学校の先生方、これからもヨロシク!

息子ですが、
ま、相変わらず何も連絡はありません。
たぶん、何にも通じない村でワークをしているのでしょうから、
連絡がないのは元気でやっているということでしょう。
明日が折り返し点です。

さて、昨日の聖書。
昨日は詩篇の149篇を読みました。

「 主は、ご自分の民を愛し、  
救いをもって貧しい者を飾られる。」
4節の言葉です。

「貧しい」かどうかは別として、
自分が何で飾られているか、それが心にとまりました。

笑われるかもしれませんが、
私も「イケメン」であったらなあ、
と思わないわけではありません。やっぱり。

もう少し足が長かったり、
鼻が高かったらなあ、と思わないことはありません。
っていうか、思います。

でも、「救いで飾られている」かどうか、
それが大切だと思わされました。
そのことをもっともっと求めていきたいと思いました。

神様に救われている喜び、
それが私のセールスポイントになるような、
そのようなものでありたいと思います。
人が私を見るときに、
神様の救いのすばらしさを感じるような、
そんな者になりたいと思いました。

神様、

私の飾りがあなたの救いでありますように。
何よりも、私を見て、
神様のすばらしさを感じてくださる方々が与えられますように。
私自身、何よりも、それを求める者でありますように。

2007-05-24

衰え果てる時

お祈りありがとうございます。
娘もすっかり元気になりました。

今日のキッズクラブの帰りの車の中での父と娘の会話。

「ねえ、パパとママと、○○と、
○○と、○○と(家族の名前を全部言う)、
みんな一緒に死んだ方がいいね・・・」

「え?」

「だって、一人ずつはさびしいじゃん・・・」

「さびしいけどさ、でも、神様は助けてくれるんだよ」

「スーパーマンみたいに?」

「・・・・そうじゃなくって・・・、一人でも、神様のところに行くから大丈夫だよ」

「でもさ、神様は死なないの?」

「神様は死なないよ。」

「ずるいなあ神様。」

「・・・・いやあ、神様死んじゃったら天国はさびしくなっちゃうでしょ・・・」

いろいろ考えているんですね。
最近、時々口にするんですよね。「死」ということ。

4月のカミさんの誕生日には
「ママ、4×歳になったんだ。やだな、もうすぐ死んじゃうの・・・」
・・・オイオイ・・・ちょっと違うんですが・・・。

私も5歳くらいの時、
よく怖い夢を見ました。

だからいろいろ感じる頃なんだろうと思います。
でも、時期的なことだけですませないで、
神さまと共に歩む平安を知って欲しいと思います。

26歳の時、
2回目の交通事故に遭いました。

夜、教会の集会が終わった後、
坂道のてっぺんから後ろ向きで降りてきた車を誘導していました。
でも、愚かなことに、その車の真後ろで「オーライ」とか言っていたのです。

そして、運転しておられた方が、クラッチを切って、
そのまま、ブレーキが踏めないで、「スー」っと加速して降りてきたのです。
「ストップ、ストップ、ブレーキ!」と叫びながら、
車の後ろをたたいたのですが、
運転しておられた方もパニックを起こされて、
そのまま、車は塀に激突。
塀と車の間にはさまれそうだった私ですが、
間一髪、身をひらりとかわして、逃げたつもり。
でも、どこかで頭を打ったらしく、頭には血がべったりでした。

すぐ病院に連れて行かれました。
意識もはっきりしていましたし、
そんなに激しく打った訳ではないことはわかっていましたから、
そんなに心配していませんでした。
実際、レントゲンの結果も、「大丈夫」でした。

でも、帰りに一枚の紙を渡されました。
そこには「頭を打った時には、そのときは大丈夫でも、
あとになって、脳に障害が出たり、命にかかわることもありますので、
以下のような症状が出たら、すぐに病院に連絡して、救急においでください。
・・・・
手足のしびれ、頭の痛み、吐き気、・・・」

人間、弱いもので、それを読んだら、
急に手足がしびれてきたような気がして、
頭が痛くなってきたような気がして、
吐き気がするような気がして・・・。

その時、思いました。
もしも、本当に自分にこのような症状が出てきて、
もしものことがあったら、
その時、死の川波を渡っていくのは、
自分一人なのだ。
どんなに誰かが「大丈夫だよ」と言ってくれても、
「私がここにいるよ」と、手を握ってくれても、
この世を去っていくのは、私一人なのだ、
そう思ったら、怖くて、さびしくて、悲しくて仕方がありませんでした。

「今夜は一人で寝ないように」と言われた私は、
ある方にお世話になりました。
入眠剤までもらって、夜、ベッドに入って、天井の模様をながめていました。
しばらく、悶々としながら、時間を過ごした後、
一つの聖書の言葉が私の心に響いてきました。

「たとい、死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたが私と共におられるからです」
詩篇の23篇の言葉です。

大丈夫だ、もし何かがあっても、
私は一人ではない、私と共に死の向こう側にも共に行ってくださる方がおられる。

そう思った時に、心に大きな平安が与えられました。
そして、
入眠剤なしでも、いつの間にか、眠りについていました。

今日は32度くらいまで行きました。
明日も暑い日になりそうです。
というか、今日よりももう一段暑くなるようです。
夏、到来となるでしょうか?

さてさて、今日の聖書。
今日は詩篇の61篇を読みました。

「私の心が衰え果てるとき・・・」
2節の言葉です。

いつでも、「勝利です」と言いたい。
いつでも輝いていたい。
いつでもはつらつとしていたい。
そう思います。

でも、この詩篇を読んで、
この言葉に出会った時に、
「そういうこともあるよね」と思いました。
「心が衰え果てる時・・・」
でも、そんなときに、叫び声を上げることのできる方がおられるのは、
本当に慰めですし、励ましです。

自分の弱さや、「衰え果てる」ことを否定する必要もない、
でも、そんな中でも、私の希望であり、
私の力の源である方がおられる。

その主に今日も目を上げて、
今日も目を向けて歩みたいと思いました。

主よ、
今日の祈り会に感謝します。
共に祈る喜びを与えてくださったことに感謝します。
どうか、ペンテコステの日曜日に、
豊かな聖霊様の満たしを与えてください。
あなたが私の希望です。
どうかあなたの御業をなしてください。