2011-02-02

静まって。

今朝起きたらやっぱりfreezing rain。
バスが止まっていたので、もう今日の朝のNYでの祈り会はパスかな、と思ったのですが、「やっぱり車で行こう!」と決心して、朝の6時過ぎから、車の氷はがし。
気温が-1.6度Cまで上がって来ていたので、思っていたよりも簡単にはがせて、早速NYCへ。
途中、対向車線からシャーベットの山が飛んで来て、前が見えなくなってひやっとしましたが、その他は特に大きな問題もなく、7時半前にはNYに着いていました。


感謝、感謝。


昼間は暖かくなっていましたが、夜は風もでて気温も下がり、寒くなって来ています。
今は夜の11時45分ですが、まだプラスの0.7度C。
でも、この後冷えて、明日の朝は-5度くらいかな。


そして、次の天気イベントは、土曜日の雪。
うーん、降ることはほぼ確実ですが、
どこまで雨になるか、どれだけ積もるかですね。
大したことはないと思いますが・・・。


この同じ低気圧の影響で、
明日はHousetonでも雪だそうですよ。
積雪もあるかも。


昨日から、日曜日と祈り会以外のすべての集会を休んで、
教会のこれからの歩みのために祈っていますが、
この2日間でわかったことは、
これは私自身が主の前に整えられることが必要で、
御言葉によって取り扱われることが必要だと言うこと。


まさに「リトリート」です。
戦いのさなか、一度退却して、体勢を整えて次の戦いのために備える、
そんなときです。
NJでの牧会の歩みの中でどんどんスケジュールに振り回されるようになって来ているように感じています。
だから、今日、詩篇46:10の「静まって、私こそ神であることを知れ」という言葉のThe Messageという訳の言葉、


“Step out of the traffic! Take a long,
loving look at me, your High God,
above politics, above everything.”



に出会ったときには、ああ、私のためのメッセージだなと思いました。


trafficからstep outしなさいと。


この祈りのときを通して、焦点がしっかり合った働きをさせていただけるようになりたいと思います。


さて、今日の聖書。
今日は詩篇103:1-13。
「主の御計らいを何一つ忘れてはならない」2節。

私はこの3節の「主はすべての病を癒し」という言葉に引っかかってしまうんですよね。
すべてを癒すことはおできになるけれども、神様はしばしば癒しの御業をなされない。
今日も一人の方が召されたことをお伺いしました。

「主はすべての病を癒し・・・」ということはどういうことなんだろうかと思います。

いや、こう聖書に書いてあるのに、癒されない人もいることは何なんだろうかと思います。

だから、新改訳で「主の良くしてくださったこと」と訳されている言葉が、「主のお計らい」と訳されていることに、心が留ったのです。

すべては主の御計らいの中にある。
私たちがそれを「良きこと」と思えないようなことの中にも、
主の御計らいがある。

だから、それに心を向けているならば、受け入れられるのかな。

未だに納得いっていない「人の死」がいくつもある。
癒されなかった人たちがいる。

本当に栄光の中に、「主に召されたんだなあ」という場合もある。
すばらしいと思う。主をほめたたえたい。
でも、どうしても、どうしても、納得できない場合もやっぱりある。

ある人は信仰が強ければ癒されると言うかもしれない。
でも、そんなことはなかった、十分強かった、そう言える。
もっと祈れば・・・と言うかもしれない。
とんでもない、必死に祈った!

でも癒されなかった。
何年経っても納得いっていない。

でも、それは多分、一生「納得」がいかないんだろうな。
でもいい。私よりも大きな方の御計らいの中にあるのだから。
このちっぽけな頭で納得できなければおかしいなんて、それはとんでもない、傲慢なんだから。

主よ、
私のこれからの歩みの中でも、
たくさんの癒しの御業をなしてください。
どんな病をも癒すことのできるあなたを信頼します。
だから、癒さないであなたのもとに召されるとき、
それが私の納得いかないことであったとしても、
あなたを信頼することが、できますように。

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