2011-07-26

あと2年あるけど・・・。

暑ーい日が続きましたが、
日曜日あたりからマシになって、
昨日は雨も降って、楽になりました。
今日は33度くらいまで上がりましたが、
一度40度を経験しているので、
「ま、普通はこうだよね・・・」位の感覚です。


夜になって雷雨があり、気温ももう22度くらいまで下がってきています。


湿度があるので、ちょっと蒸し暑い感じもしますが・・・。


明日はスッキリ晴れそうです。


さて、おとといは、元ヤクザで今は牧師をしている井上先生ご夫妻をお迎えしてとても幸いな時を持ちました。特に、礼拝のあと、夜、BBQをしながら、時間と体力のある皆さん、うちに来ていただいて、楽しく話をしていたのですが、この時間に先生の人柄とイエスさまのことばかり考えておられる姿にみんな励まされていました。


私はというと・・・もちろん、野菜や肉を焼いていたりしたわけですが、
あと、夜、暗くなった頃に、こどもたちがセミの幼虫を発見。




で、観察してしまいました・・・。




背中がぱくっと割れて・・・




見る見る割れ目が大きくなって、




パコッと出てきました。



そして、全身出てきたかと思うと、



だんだん羽が伸びてきました。



あ、でも観察はここで終わり。
そのうちにちゃんと羽が伸びて、
飛んで行ってしまったみたいですよ。


セミの羽化・・・久しぶりに見ました。
そう、久しぶり。


実は今から15年前。1996年6月。
それはそれはたくさんたくさんセミが発生。
夕方になると、幼虫が列をなして羽化する場所を探しに行きます。
踏みつけないように歩くのが大変なくらい。


そして、あちらこちらで羽化を始めます。
中には適当な木が見つからないで、芝生の中や、歩道の上で羽化を始めるヤツもあらわれます。


ですから、最初は「すげえ」と感動していたセミの羽化も、
もう、あっちでもこっちでもですから、珍しくも何ともないわけです。


そして、数日のうちに、木の根元には積もるくらいのセミの抜け殻。


これは何でかわかりませんが、
日本にはない現象ですね。


その名も17年ゼミ。17年に1回大発生します。
つまり、17年間幼虫で地下で過ごし、
地上にあらわれてきます。
ですから、大発生は2年後です。
乞うご期待。


あ、それはウチの近所の場合です。
場所によって大発生の年は変わります。


こちらには年によってどこの地域で大発生するか、地図を見ることができます。
ちなみに今年は17年ゼミではなく、13年ゼミだそうです。南部が中心。
来年はバージニア州の山の中、
再来年が、ここら辺からずっと東海岸NCくらいまでです。


さて、最近の聖書から。
ここのところ、列王記第二を続けて読んでいます。
日曜日に読んだ12章からの言葉。


「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、主の目にかなうことを行なった。」2節。

ヨアシュがエホヤダがいなくなったら、もう主に従わなくなったその信仰の中途半端さを非難するのか、それとも、私たちにとって、このヨアシュにとってのエホヤダのように、信仰を支えてくれる人の存在の大切さを覚えるのか・・・。

私は特に後者の方、信仰を支えてくれる人の存在の大切さを思わされています。

もちろん、自分も誰かにとってそのような存在になりたいと思います。

でも、それとともに、自分にもそのような存在がどれほど必要か思わされます。

昨日の牧師会にはハワイに長くおられた黒田先生ご夫妻がおいで下さり、若い(?)私たちに大切なアドバイスをたくさんくださいました。

先生のブログはこちら。

本当に明るく楽しい先生方でした。
そして、先生方のお話を伺いながら、
本当に私も楽しく伝道したいと思わされました。

最近、自分にちょっと欠けてしまっているものを、
先生のうちに感じました。

先生は昨日の牧師会を「励まし会」と書いておられますが、本当に励まされました!

そのように励まし手が自分にとってどれほど大切かと思います。

主よ、
あなたが私に励まし手を与えてくださっていることに感謝します。
信仰の目をしっかり主に向けて行くために、必要な助けを与えてくださっていることに感謝します。
これからも、助けてください。必要な支え手を与えてください。
私も誰かにとって、励ましとなる者となれますように。

2011-07-23

悲しいこと。

昨日は朝から28度。夕方には40度を超えました。
ホントにあつくて、多分体力を吸い取られていたんでしょう、
おかげで夜10時には睡魔に襲われ、11時には沈没していました。
今朝、5時半に起きたのですが、疲れはイマイチ取れず。


今朝の最低は26度。
ちょっとマシでしたが、2晩続けての熱帯夜。
昼間は37度止まり。


昨日より、ずいぶん楽でした。
夜の11時で29度。・・・うーん、どうなるでしょうか?3晩続けての熱帯夜・・・。


明日からはちょっと楽になるようです。
期待しつつ。


昨日はノルウェーでのテロには本当にびっくりしました。
首都での爆弾もそうですが、その後の虐殺。


犯人は・・・例によってイスラム過激派か?と多くの人が思ったかもしれませんが、今朝あたりの報道では「キリスト教原理主義者か」という文字が踊っていました。その後、そちらもトーンダウンしているようですが、いろいろ考えさせられてしまいました。


原理主義とはfundamentalism。
根本主義という訳を使われることもありますね。


9-11の後、イスラム原理主義が取りざたされたので、「こわい」「ひどい」というイメージが強いですが、元々、過激派でもなく、暴力主義でもありません。それは近代主義/世俗化/既得権を持った「宗教組織」へのアンチテーゼとして、根本に帰ろう、原理に帰ろう、という運動です。


近代主義へのアンチテーゼとして原理主義があるならば、そして、それが「原点に戻れ」「原典に戻れ」ということを標榜していると考えるならば、私自身も原理主義的な考えを持っていると言っていいでしょう。「徹底的にイエスに従う」「聖書をそのまま神のことばとして受け入れる」「世俗化による堕落を捨てて、最初の教会のように生きる」ということを大切に思っています。


9-11のときもそうでしたが、今回も恐らく、多くの人々が「私たちはあの人とは違う」「あのグループのような極端なことはしない」と、自分はそのような人々は関係ないと言って自分を守ろうとするだろうな、と思います。それが、私はとても悲しく思うのです。


もちろん、自分の信条のために人を殺してでも・・・ということを肯定しようとは思いません。そんなことは考えることもできません。


でも、人間である以上「彼らとは全然関係ない」とは言い切れない、自己中心性や、罪深さを持っていると思うのです。まして、信仰者として、宗教は皆同じ・・・なんて決して思いませんが、一つの信仰を持つ者として、自分自身、それによって自分を絶対化し、他人を否定する危うさを持っていると思うのです。


神の前にひざまずくこと。
ひとりの罪深い者として、迷いやすい、自分を絶対化しやすい存在として、神の前にひざまずくこと。それが、本当に大切だと思うのです。


宗教はコワイ。
オウムが事件を起こした時に、多くの日本の人は思いました。それから今も、ずっとその風潮は続いていると思います。


クリスチャンの多くの人々は「私は宗教を信じているのではない、イエスとの関係に生きているのだ!」と言われます。すばらしいです。本当にそう思います。


でも、やはり、外側から客観的に見ると、社会学的にキリスト教は宗教ですし、やっぱり「コワイ」と思われても仕方がない、危うさを持っているのです。信仰者たちが、それを自覚しないことこそが、ほんとうに「コワイ」ことなんじゃないかと、私は思うのです。


ある牧師は言いました。
「宗教はコワイ、と言われる。コワイです。変なのに引っかかったら大変、だから、ちゃんと調べてください。調べてもらっても全然大丈夫なものだと、わたしは信じているから、そう言えます。そして、納得して信じてください。」と。


そうだな、と思います。


・・・そして、どこかで「納得」だけではなくて、「自分が砕かれる」「神に身をゆだねる」ことが必要なんだとも思いますし、その「大丈夫」の危うさをも自覚しながら、信じることの大切さも感じるのです。


また、誤解を恐れないで言うと、
社会で「あいつらヤバいんじゃない?」と思われるものが全くないものでいいのかな?とも思います。新約聖書の使徒行伝では最初の教会の人々が「疫病のような奴ら」「社会をひっくり返している」と呼ばれていたことが書かれています。


愚直に聖書のメッセージに生きる者となれますように。


明日は元ヤクザの伝道者/井上薫先生と奥様の比呂子さんが礼拝で神様からのメッセージを取り次いでくださいます。これもすごいですね。ヤクザやっていた人が、覚せい剤で廃人になりかけた、自殺未遂を繰り返していた人が、今は世界中を回って、神様の話をしているんだから。幸いな礼拝となりますように。

2011-07-21

熱波真っ最中。

はい、暑いです。
今日の最高気温は38.4度Cでした。
華氏だと101度。しっかり3桁行きました。


で、もっときついのは、夜になっても外の気温が下がらないこと。
今は、夜の11時20分ですが、外はまだ32度Cあります。


これはほぼ確実に熱帯夜でしょう。


そして、明日、あさってと3桁の日が続いて、
日曜日からちょっと落ち着くようです。


今日、父が来た時に日本から持ってきてくれた
桃井和馬さんの「妻と最期の十日間」を一気に読みました。


氏の奥様ヘの深い愛情に感動するとともに、
理屈を超えた心の痛みの中で、起こることを、自分はわかっていなかったな、と思わされています。


そして、もう一つ。
奇跡に対する氏の態度。
奥様がくも膜下出血に倒れて1週間あまり。
人々がメッセージを送ってきてくださる中には「奇跡を祈る」「祈りに応えて神は奇跡をしてくださるだろう」という励ましもあったそうだ。


でも・・・、


「祈れば神は必ず応えてくださる」というのは「神を矮小化することだ」という。それは、神を自動販売機にしてしまうことであり、人間の思考の中に閉じ込めてしまうことだという。神は本当はもっと大きい方なのだと言う。


そして、絶対に「奇跡」など求めない、とまで言い切られるのだ。


自分はどうかなあと思いました。


多分、やはり奇跡も祈るのではないだろうか。
教会に病を負う方が起こる時に、
私たちの健康をも支配しておられる神に祈るのではないだろうか。


でも、その一方で、氏の言われるように、
「祈った通りになる」と言うならば、それは神をふりまわすことであり、
神を自動販売機にする事であり、神を自分の頭で完全に理解できる存在に引き下げることだと思う。
神を自分の頭に閉じ込めることだ。


そして、氏の究極的な祈りに心を合わせたいと思わされた。


「あなたの判断のすべてを受け入れさせてください。それを受け入れるだけの力を自分に与えてください」


主よ、
私にあなたが備えていることを、
受け入れることをさせてください。
その中には「受け入れるのがむずかしい」こともあるでしょう。
ただ、奇跡を求めたくなることもあるでしょう。
もしも、あなたのみこころならば、奇跡をなしてください。
でも、あなたを私の人生の王として迎え、
あなたに従って行く者とならせてください。

2011-07-20

新しい任期に備えて。

今日も暑かったです。
そして、明日からいよいよ、警報ものの熱波です。
気温は36度くらい、体感気温は43度Cくらい、
だそうです。


無理はしないでください・・・ってことですね。
今夜はまだましなのかな、外の気温も9時半で27.2度C。
熱帯夜はどうにか免れる予報が出ています。


さて、実は、今の教会の牧師に就任したのが、
1997年の7月20日。
日本からホーリネス教団を代表して、ひとりの先生がおいで下さって、
按手礼という、正教師としての資格をいただくお祈りをしてくださいました。


それから14年。そんなに経ったんだ、早いな、という気持ちです。
牧師としてまだまだ駆け出しのような気持ちで、
少しずつ、大切なことがわかってきたかな、というところなので、
ちょっと数字の大きさに気持ちが焦ります。
でも、いつもいつも、私自身が聖書学院に入る時に平安をいただいた言葉、


「あなたの弱いところに、わたしの力は完全にあらわれる」


というイエスの言葉を信頼して、歩んで行こうと思わされます。


そして、今の任期は7月末まで。
8月1日からは新しい任期が始まります。


そんなことを考えながら、今日手にしたのが、


「牧会ジャーナル」


もう十数年前から発行されている小冊子ですが、
初めて、実物を手にしてみました。


存在は知っていたのですが、
どこに頼んだらいいのかわからず、
まあ調べればすぐにわかるのでしょうが、
また海外で購読するコストを考えると、
二の足を踏んでいました。


今年の春に、牧師としての働きのために、
教会のこれからの歩みのために、
祈っている時に、近所の教会の牧師が、バックナンバーを貸してくださったのでした。


その中にある牧師のこんな言葉が、心に留まりました。


「牧師会で、何となく比較されるようで出るのが億劫」


わたしは正直なところ、そこまでは感じたことはなくて、NY地区の日本語牧師会をいつも楽しみにしているのですが、
確かに、目に見える成果のようなことを披露し合うような場になりかけた時に「何か違うんじゃないの?」と思ったことはありました。


でも、ホントのところは、
自分が自分で比較しているんでしょうね。


もちろん、回りの人々に比較される場合もあります。


「あっちの教会のメッセージの方が恵まれる」といって去って行った方々もいました。
(逆のことを言われると愚かにもまた舞い上がったりするわけで・・・)


でも、どんなことがあっても、どんなことを言われていても、
結局のところ、自分がしっかりと立つべきところに立っていれば、
いいんですよね。人が比較する言葉にもびくともしなくなる。


そのことを本当にこの新しい任期の始まる時に、
改めて、確かにさせていただきたいと思いました。


あと、英語の本で「Unnecessary Pastor(必要とされない牧師)」(Marva J. Dawn, Peter Santucci, Eugene H. Peterson)という本のことが紹介されていて、すげー題!?と思って、アマゾンで中古の本を注文してしまいました。ちゃんと読んでみないといけないんでしょうが、「一般に『こんな牧師が必要とされている』という牧師になるなよ」「ホントの牧師というのは世が求めているものとは違うんだよ」という警告と、じゃあ、牧師はどうあるべきか、ということを書いてある本のようです。この著者のひとりのピーターソンの書いたものにはいろいろ教えられることが多く、今回も楽しみにしています。邦訳じゃなくて、原文というのがハードル高いですが。


いつもいつも主に聞いて、聖書に聞いて、
そこに答えをいただいて、立ち上がって行く、
そのようなものとならせていただきたいと思わされます。


でも、ちゃんと投資すべきところには投資しないといけないですね。
もしももっともっと早くこの「牧会ジャーナル」を購読していれば・・・という気持ちです。


反省。


でも、それでなくても、日本語/日本文化の中での研修の機会の限られている海外の牧師のためには電子図書版もあればいいなと思います。
ホントはそっちの方が皆さん助かるのだろうと思うのですが・・・。


さて、今日の聖書。
今日は列王記第二9章27-37節でした。

「エフーがイズレエルに来たとき、イゼベルはこれを聞いて、目の縁を塗り、髪を結い直し、窓から見下ろしていた。」30節。

聖書を読んでいて、
時々、「どうしてこんなことを丁寧に書いているんだろう?」と思うところがあります。
ここもそうです。

イゼベルがお化粧直して、髪を結い直したこと、
わざわざ書くことの意味は何?
と思って読みました。

飾ったということ?
そして、特に皇太后としての、
威厳を表そうとしたということ?

ああ、でも、自分もそういうことあるかなと思いました。
飾るとき、威厳を表したいとき、
結局は自信がないんですよね。
恐れている。

イゼベルも結局そうだったのかなと思います。
強い女性のように思われているのでしょうけれども、
ホントは自信のない、恐れに縛られていた人だったんじゃないかと。

低くなって出ること、
真実になって、裸になって出ること、
本当に大切だと思います。
主が受け入れて、支えてくださるのですから。

神様、
わたしも虚勢を張りたい時があります。
自信がないとき、恥ずかしい時です。
でも、そんなとき、ありのままを受け入れてくださる
あなたの存在を目に留めて、
真実であることができますように。
あなたから答えをいただいて歩むことができますように。


明日からの暑さの中で、
一人一人が守られますように。

2011-07-19

熱波来るよ。

今日も暑かったです。
34度くらい。
でも、夜、12時前ですが、ちょっと外からの風が涼しいかな。
外は25.8度C、湿度も61パーセント。
それほどでもない・・・暑さに慣れてきたのかな。


でも・・・明日からは、夜も暑い、昼も暑い、
熱波が来ます。


週末にはちょっと落ち着くようですが、
明日の夜から金曜日にかけて、暑さに注意です。


日本の台風。
少し弱くなったみたいですが、
まだまだ注意が必要です。


でも、今日の朝(日本では夜)、
気象庁が「四国ヘの上陸はなくなった」と発表しましたが、
それあらわずか数時間後、
こちらのランチタイムに日本時間の午前1時頃のデータを見た時に、
「あれ、これ四国に上陸してるんじゃないの?」と思って、
Tweetしました。
まだニュースや気象庁の発表もない頃。


日本では真夜中だったこともあり、
注目している人たちも少なかったんでしょうね。
同じように感じている人もほとんどいませんでした。


で、1時間くらい後に、「徳島に上陸」とのニュースが流れました。


ちょっと、自慢したい気分でした。
「言ったでしょ」という感じ。


夏台風は秋のように進路がはっきりしていません。
迷走することもあります。


この時も、四国の南でほぼ直角に東に進路を変えた台風が、
室戸岬の南で、またほぼ真北に進路を戻して、
徳島県に上陸、ちょっと内陸まで入った後、
ほとんど停滞、その後、南東に動き始めて、
紀伊半島に向かいました。


ちょっとした迷走だったみたいですね。


今は順調に東進しているようですが、
もうちょっと迷走するかもしれません。


関東はまだまだゲリラ豪雨の危険があります。


お気をつけて。


今日はお天気ネタのみで失礼!

2011-07-18

神が導いたことなら。

今日は本当に暑かったです。
36度くらいまで上がっていました。
夜になってちょっと雨が降っています。
ここのところ雨が降らずに芝生が茶色くなり始めているので、少しまとまった量が降って欲しいところです。


明日も蒸し暑い日になりそうです。


そして、今週後半は熱波です。
101度F・・・38度Cまでいくようです。


さて、ちょっと前ですが、土曜日の聖書から。
土曜日は列王記第二8:1-15でした。


「彼女の物は全部返してやりなさい。」6節。

神様が命じられて、この女性は出て行った。
そして、7年の後に帰ってきた時に、
すべてを返してもらった。
そして、それだけではなくて、
エキストラで、その不在の期間の収穫さえも与えられた。

命じられたことに従って、出て行く。
心配するな、
そうすれば、帰ってきた時に、主はすべてを返してくださる。

なんだか、信頼しなさいって語られた気がしました。

のんちが日本に行く時に、仕事を辞めて行きました。
帰ってきてから、まあ、JOYJOYキャンプもあるし、
また、その後も、見つからなかったらそれはそれでいいから、
と言っているのですが、
まあ、心配するなよ、と主がcomfirmしてくださったことを感じます。

主よ、
あなたの御言葉に感謝します。
あなたに信頼して歩んでいく時に、
主がすべてを元に戻してくださること、
一切を返してくださることを信頼します。
あなたを信頼することができたことに、感謝します。
どうか、守ってください。

2011-07-16

天のFloodgate!

今日はまた暑かったです。
そこそこ湿度は低いんですが、
33度くらいまで上がりました。


でも、湿度が低いということは夜になるとそこそこ冷える、
ということで、今は夜の10時前ですが、
28度くらい。
まだまだ下がってくれないと・・・。


明日はもっと蒸し暑くなるようです。


さて、今日の聖書箇所ではないのですが、
おとといの聖書箇所、昨日のところで紹介した、
「神が天の窓を開いても・・・」という言葉ですが、


今日、マラキ書の3章の十分の一献金について書いてあるところを
英語で読むチャンスがありました。


日本語では「天の窓を開き」と訳されているところが、英語では「天のfloodgatesを開いて・・・」と訳されています。窓でもいいですが、floodgateはすごいですね。水をせき止めている水門を開いて、ああ「水門」だと違うんですよね、感じが。「floodgate」です。神様の祝福が「どおーっ」と流れてくる感じがしますよね。


今日は、そこを読みながら、
悔い改めさせられました。
本気で、神様をそこまで信じているんだろうか?
一生懸命計算をして、節約をして、なんとかやらせていただいている・・・みたいに考えていないだろうか?神様はfloodgateを開いて「どおーっ」と経済的にも祝福しようとしているのに・・・。


大胆にささげ、大胆に求める者であろうと思いました。


主よ、floodgateを大きく開いてください!

2011-07-15

大きく期待する。

前回更新したのが火曜日ですが、
翌日の水曜日に夕立があって、
そのあと、きれいな虹が出て、
そのあと、ぐっと湿度が下がって、
昨日、今日と、そこそこ暑いのですが、
朝晩涼しい、という夏らしくもあり、
寝苦しくはない、という「いいとこ取り」的な夏の日です。


でも、それも今日まで、
明日からはちょっとした熱波のようです。
熱波の中心はテキサスからノースダコタのあたり。
40度位の日が続きそうです。
(もう既に1週間以上続いているようです)


さて、昨日から今日にかけての聖書。
列王記第二の6章後半から7章を読みました。


「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」7:2

最近、他のところでも語られているのですが、
神様に大きく期待しなさい、と言われているように思います。

想定外・・・それは悪い方ばかりではなく、
神様が私たちに与えようとしてくださっていることにも、
同じように、私たちが限定することを警告しているように思います。

神様はもっと与えようとしているのに、
自分の方で、神様の力を、神様の豊かさを、
神様の気前よさを、制限してしまって、
ここまでは、さすがに与えてくださらないだろう、
と思っていることはないだろうかと思うのです。

この人も、敵の兵糧攻めの中で、食べるものが何もなくて、
自分の子供に手を下す人さえも出てくる状況で、
エリシャが「明日には食べ物が有り余っている」と語る預言を信じられずに、
「神だって、そんなことはできやしない」と口走った。
そんな彼にエリシャは「あなたはそれを見るが、その恩恵を受けることはできない」と宣告する。
そしてその通りになるのだ。

本当に厳粛な思いにさせられる。

主を信じよう。

そう思いながら祈った一日だけれども、
朝の祈りが一つ聞かれた、という連絡が夜に入った。

感謝。

主よ、
あなたの力を信じます。
あなたの豊かさを、あなたの全能を信じます。
どうか、あなたを信頼して歩むことができますように。
もっと祈り、祈りが聞かれる経験が与えられますように。



2011-07-12

主の導きが線につながる。

今日は本当に暑かったです。
36度か、37度か、ちょっと温度計が日が当たるところになってしまって、正確な最高気温が測れないのですが、とにかく暑かったです。
夜になって、気温も下がって、空気も乾燥してきて、だんだん過ごしやすくなってきています。夜の12時前ですが、25.7度。今夜は熱帯夜は免れそうです。


今日は早速聖書のことばから。
今日は列王記第二の6章1-14節。


「ひとりが材木を倒しているとき、斧の頭を水の中に落としてしまった。」5節。

水の中に斧を落とした人はどう思っただろうか?
自分の失敗だ。落ち込んだだろうなと。
それも借りたもの、人に迷惑をかけるのはつらかっただろう。

でも、今日の「日々のみことば」には
「主は人の失敗をも主の奇跡へと変えてくださるお方です。」と書かれている。

今回の修養会で、
「遠回りにも神様にとっては意味がある」
と語られた時にも、
自分の失敗とか、自分の足りなさ、未熟さで招いたことには、
なんだか、逃げ場を作っているように思えて、
あの経験にはどんな意味があるんだろう・・・そう思いながら、
なかなか納得できない自分がいました。

でも、今朝、思わされたのは、
私の弱いことは主が知っておられる、
そして、私の失敗も弱さも、主は奇跡へと変えてくださる。
主の力を表すポイントとして用いてくださる。

確かに、主は痛みの経験の中で、私を鍛えてくださり、
傲慢にならないようにと、守ってくださった。
そして、教会が教会となるために、
教会を整えてくださった。

でも、剪定を受けるブドウの木のように、
私たちは悲鳴を上げた。
あまりの痛みに、「やめてください!」と言いたいくらいだった。

これからもそういうこともあるだろう。
そして、その一部は、牧師である私が責任を感じないではいられないこともあるだろう。

でも、恐れない。

主はそこにも働いて、奇跡を起こしてくださるから。

主よ、
あなたが今朝語ってくださったことに感謝します。
あなたの約束に感謝します。
今までの歩みが、あなたの祝福の元に、
一つの線につながっていることに感謝します。
これからの歩みも、あなたに信頼します。
どうか、この線の延長に守り導いてください。

2011-07-11

4ヶ月。

4ヶ月が経ちましたね。
ということは、のんちを日本に送っていたのが、
これからは、あの震災から半分以下になっていくんですね。
ますます日本で起こっていることで知らないことが増えていくのかな。


今日はマンハッタンの教会で、
のんちの日本での活動の報告の時がありました。
15分バージョンから1時間バージョンまで、
今まで何回聞いてきたでしょうか?
(もちろん、いろいろ注文も付けてきましたが)
でも、毎回毎回、新しい話が飛び出してきます。


・・・あ、その話、初めて聞く・・・と思うような部分があります。


考えてみたら、2ヶ月いたんだからそうだよね、と思います。


だから、4ヶ月そこに歩んでいる皆さんのストーリーはどんなになるんだろうかと。


今も、twitter上の検索語は「山元町」のまま。
だから、時々そこを覗くと、山元町の情報が入ってきます。


そんな中で、今日、目に留まったのは「スコップ団」の働き。
どうせ地球のチリだからな

牧師的には「チリじゃねえよ、俺たちは神が一番情熱かけて造った作品なんだよ」とツッコミを入れたくなるのですが(実は昨日の礼拝説教のテーマ)、でも脱帽。


そしてこの動画。







でもね、ほんと、すごいな、と思う。
自分の神からの使命はここで生きて、ここで仕えることだと思っているけど、
やっぱり、なんだかんだ言って、痛みを負っている人たちと一緒に汗を流して、
涙流している人たちは、すごいなと。


いろいろ考える人も必要だろうけど、
やっぱり動いて、ホントに家の中ぐじゃぐじゃで、
どこから手を付けていいかわからない人の励ましになっちゃう人って、
すごいなと。


はちこさんも書いておられるけど、
やっぱり、まだまだ、まだまだ、やることがあるんだなと。
心を向けて、祈りを向けて、行動を起こしていくことなんだなと。


のんちも、今朝5時まで、日本に電話していたみたいです。
自分が活動してきた避難所とか・・・。


そして、いろいろ話をしていたみたいで、
一番の問題はハエと悪臭。
本当にひどいと言っておられたそうです。
既に梅雨も開けて、暑い日が続いているようです。


助けが送られますように。
そして、私たちにもなすべきことが示されますように。


今日は暑かったですね〜。
今、真夜中12時前で、28度もあります。
もしかしたら熱帯夜になるかも・・・。
この2時間でほとんど下がっていません。
明日も暑いみたいです。


さて、今日の聖書。
今日は列王記第二の5章の15−27節。


「今は銀を受け、着物を受け、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか」26節。

ナアマン将軍、エリシャ先生の言う通り、
ヨルダン川に身を7回沈めたら、
完全に病が癒された。

うれしくて、うれしくて、
エリシャ先生のところにたくさんの贈り物を持ってきた。
エリシャ先生は、それを受け取ろうとしなかった。
でもしもべのゲハジはそれを見て、「受け取ればいいのに」と思った。
そして、自分が受け取ろうと思った。

そして嘘までついて受け取った。
そしたら、ナアマンが癒された病までついてきた。
ゲハジはその病を負うことになった。

自分ってゲハジっぽいな、と思うことがある。
ああ、欲しいなあ、もらいたいなあと。

くれる、というのをなんで辞退するんだろう。
相手もがっかりすると思うけど・・・。

で、今日は自分の物欲を掘り下げることにしました。
自分は何でものが欲しいんだろうか?
注目されるため。楽しいことをするため。

そうやって、一つ一つはぎ取っていった時に、
何が残るかと言うと、やっぱり神様の御言葉に立つ信仰かな。

でも、やっぱり神様に物欲を取り扱っていただきたい。
思いっきり与えることを喜びとならせいただきたい。

主よ、
どうか、私の物欲を清めてください、
本当に必要なものをわきまえることができますように。
使えるお金をコントローする力も与えてください。



2011-07-10

御言葉に聞く!

今日はまたいい天気でした。
すかっと晴れて、でも夜はちょっと蒸し暑かったかな。
11時になって、24度まで下がって、楽になってきました。


明日、あさって、とだんだん蒸し暑くなっていくようです。
明日は34度くらい。あさっては、35度くらいの予報が出ています。


今日の午前中は牧師が先月末で異動されて、
次の牧師を捜している教会に招かれて、
礼拝のメッセージをさせていただきました。


朝、家を出るのも遅れて、昼、NJの教会への間も時間がなくて、
両方ヒヤヒヤしましたが、共に守られました。


そして、その午前中の教会、
牧師不在の中で、真実に忠実に礼拝を守っておられる皆さんに、
励まされました。


礼拝は、神様の前にひざまずくひととき。
神の前にひれふすひととき。
私はどんなに「新しい方々にとってのハードルを低く」ということを考えても、
その一線は守らなければいけないと思っています。
ときどきまるでテレビのトークショーを見ているかのような、
また、エンターテインメントを楽しんでいるかのような、
「礼拝」を見ることがありますが、
確かに、その努力や真剣さは尊敬しますが、
礼拝じゃないなあ、ショーだな、と思います。


もちろん、そういう集会があっていい、
そういう集まりがあっていい。
でも、「礼拝」は、集った一人一人が主の前に引き出される、
それが本当に大切だと思わされます。


2つの教会の礼拝で、そんなことを思わされていました。
そして、そのような経験をさせていただいて感謝します。


さて、今日の聖書。
今日は列王記第2の5章1−14節。


「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」13節。

今日はこれを読む前に、
いろんなことを思いめぐらしていた。
そして、どこかで、自分の直感とか、
ひらめきとかを当てにしている自分を感じた。

でも、その時に、先週の修養会のテーマ聖句が心に響いてきた。
「私の思いはあなたの思いとは異なる。天と地ほどに離れている。でも、その天から地に雨が降って、実を結ばせるように、私の言葉もあなたのうちに実を結ばせる。」という言葉。

違うから、ちゃんと聖書を読め、と言われたように感じた。
自分の直感とか、ひらめきとか、
そんなものではなくて、御言葉に聞け、と。

そして、開いたらこの言葉が目に留まった。
プライド故に、エリシャの言葉を受け入れられなかったナアマン。
謙虚に水の中に身を沈めるようにと勧められた。

私も謙遜な者とならせていただきたいと思う。

主よ、
あなたの言葉にいつも聞いていくことができますように。
自分の考えや、直感的に思うこと、ひらめきとか、
それを頼りにするのではなくて、
あなたの介入である御言葉に語りかけに聞いていくことができますように。

2011-07-07

赦されているから。

今日2回目の更新。
昨日から書き始めた奥田牧師の「もう、ひとりにさせない」を読んで思わされたことを続けて書きたいと思って・・・。


自分は偉大な人が苦手です。
偉い人、立派な人、すごい人・・・みんな苦手です。
どうしてかというと、自分が情けなくなるから。


自分がその人のようにできないことが惨めに感じるから。


だから、奥田先生のようにホームレス支援活動をされている方は、私は苦手だと思っていました。それに、先生は1963年7月生まれ。同い年じゃん・・・。いったい自分は何をしているんだろうかと。(ま、こう感じること自体、自意識過剰気味、って思うのですが・・・)


でも、この本を読んで、そういう思いから解放されて、「ああ、会ってみたいなあ」と思うようになりました。


先生が「奥田さんのホームレス支援のキリスト教的背景には何があるのですか?」と聞かれた時のこと、先生は質問をされた方がこんな答えを期待しているのでは、と思われたそうだ。「キリストの教えられた愛は無償の愛。わたしはその無償の愛を実践しているのです」とか。


でも、それは事実ではない・・・と、先生は正直に告白される。


先生は、夜の公園や商店街で寝ているおやじさんたちに声をかけて回っておられる。本気で心配し、できるだけを声をかけて夜の街を歩いている。しかし、その数時間後、先生は彼らを路上に残したまま、暖かい部屋へと戻り、子供たちが眠るベッドに潜り込む。先生は「自分は何をしているんだろう」と思い。自分が無償の愛とはほど遠い存在であることを思い知らされる。


でも、そこで先生は、イエスの十字架のもとにたたずむのだ。「私は十字架において明らかにされた『神の愛』によって、なんとか生きているにすぎない。『アガペー(無償の愛)』は、私のような不完全で不徹底な者を赦し、結局は自己本位にしか生きていない私をとりなす『神の愛』を言う。」赦され、励まされ、キリストに従う道をあゆんでおられるのだという。


あ、それだったら、同じだ、と思いました。
私もそうだって。
不完全で不徹底な中で、いや、偽善的でさえあるのに、
赦されて、生かされて、いること、
その神の愛に突き動かされて歩んでいるのだと。


先生の場合は、でも、その中で、自己矛盾や不徹底さを感じながら、逃げないで歩んでおられるが、自分は自己矛盾や不徹底さの中で、それを感じるのが嫌で逃げているのではないかと思わされています。だから、先生の言葉で、ちょっと勇気が出てきています。


さて、今日の聖書。
今日は列王紀4:1−17。


「器がいっぱいになったので、彼女は子供に言った。『もっと器を持って来なさい。』子どもが彼女に『もう器はありません』と言うと、油は止まった」。6節。

神様が与えようとするのに、私たちの側で準備ができているだろうか?そのことを思わされた。ちょうど、前日のところで、神様の一方的な御業、ということを思わされたのだが、今日はその正反対のことだ。

神様はもっともっと豊かに満たそうとされているのに、
私たちは神様に対して、大きく期待しているだろうか?

もっと器を持ってきなさい。
その言葉を、神様からの言葉として聞いた。

大胆に主に期待して、主に求めて、満たしていただきたい。

主よ、
あなたが満たそうとしておられること、
与えようとしておられること、
それに対して、敏感に応える者とならせてください。
大胆に求めて、たくさん満たしていただけますように。

「flip flop」が「ビーサン」で、「ビーサン」が「運動靴」

暑い日が続いています。
今日はまた蒸し暑い。
まあ、日本のことを考えたら、ずっとましなんでしょうが、
今夜も9時で27度。
これから明日にかけて、雷雨の予報が出ています。

昨日はアメリカに上陸して19周年の記念日。
何にもしませんでしたけどね。
とりあえず、空港到着時の記念写真。

・・・

と思ったけど、実際、はめ込んでみたら、かなり恥ずかしくなったのでやめた。
もう過去にアップしたことがあったかもしれないけど。

で、昨日の夜は、暑さしのぎとちょっと運動(?)のために、
サキを連れて近くのショッピングモールに。

そしたら、以前、「準備中」だった、「極度乾燥(しなさい)」ブランド、
開店していました。

この、意味不明のあやし〜いブランド、おフランスにも進出しているんですね。

Tシャツとか、しわになっていて、見にくかったので、
延ばして「何だこの日本語?」とサキと楽しんでいたら、
店員さんがすかさず、シワを造り直していました。
商品にシワを作って陳列するのがこの店の売りみたいです。
ジーンズに穴を開けたり、ペンキで汚したり、して売る店もあるしね。
もう、おじさんはついていけません。

そんな不思議なお店で売っていたビーサン。















なぜか「運動靴」って書かれています。
ちょっと違うけどねえ。

でも、サキに言わせると「ビーチサンダル」という英語もあまり使わないみたいですね。
普通にはflip-flopだそうで。

さて、火水の聖書から。
列王紀第2の3章でした。

「これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。」18節。

この勝利はがんばったり、
作戦を練ったりすることによって与えられたわけではなかった。
ただ、彼らは主に聞いた。
主の御業がなされただけ。

彼らは何かをしたわけでもなかった。
それほど信仰があったわけでもなかった。

自分の中にもなんだか「自分の信仰深さ」が勝利を与えたり、敗北に至ったり、という結果を導く、という感覚がある。いや、勝利のための信仰の必要を説く部分もある。でも、究極的には神様のなさることなんだろうと思う。その中に神の御業を見ていくんだと思う。

主よ、
自分が何かをしたかのような勘違いをしないように、
いつもいつも守ってください。
主がなさることを見せていただいているのだ、という、
「本当のこと」から目を離すことがありませんように。

2011-07-06

神はどこにいるのか。

のんちが帰米する直前に、
ホームレス支援をしておられる奥田知志牧師の「もう、ひとりにはさせない」の出版記念講演が東京である、と、Twitter上で知って、そこに茂木健一郎さんも来られると知って、時間ができたら行ってきて!とお願いしておいた。


その場でののんちと茂木氏。普通のおっさんとおばちゃんって感じ。のんちはシャイなので、奥田先生とのツーショットは撮れなかったようだ。




横道にそれるが、茂木さんは高校の一年先輩で、その時は存じ上げなかったけど、自分が高校1年でオペラ「魔弾の射手」で、トロンボーンを吹いていたとき、照明をされていたんだそうだ。茂木さんもあちらこちらでそのことを書いておられるけど、この時の公演は本当に心震えるようなものだった。


講演会に話を戻すと、
今回出版された奥田先生の本「もう、ひとりにさせない」を買って、サインをいただいて来てくれたのだが、その本は、本当に多くのことを教えてくれるものだった。


何回かにわたって、そのことを分かち合いたいと思う。


まず第一は、


「神はどこにおられるんだ?」「神がおられるならば、どうしてこんなことが起こるんだ?」という問いに対して・・・。


このような問いは、9-11の時も、大震災の時にも、牧師である私の耳には何度も何度も聞こえてきた言葉だし、正直なところ、私自身の心にも去来した言葉だ。もちろん、私たちが苦しみの中でそのように感じなくなることはないかもしれない。叫ばないではいられないときもあるだろう。でも、奥田先生はこのように言う。


私たちは「宗教的思弁」つまり、神に関して人間が持つ宗教的な想定をもって、神を見いだそうとする。だから、苦難が私たちを襲うと「神はどこにおられるのか」と呟き、神の不在を嘆く。しかし、それは私たちの思弁と思惟において想定している場所に、これまた私たちが想定した神を見いだせないということにすぎない。「神がおられるのなら、なぜこのような悪が存在しているのか」、もしくは「このような悪が存在するのなら、神はおられない」という神義論の問いと答えは、すなわち私たちの「宗教的思弁」にすぎない。
そして、それに対照的なものとしてルターの「十字架の神学」をあげる。この「十字架の神学」とは「イエスが私たちの罪のために、身代わりになってくださって・・・」という「贖罪論」のことではない。神は「隠れたる神」としてご自身をあらわされる。という考えだ。「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神」(イザヤ45:15)という言葉にそれは示されている。神は人間が考えて最もおられなさそうなところにこそ、おられるのだ。そして、先生は次のようにその章を閉じる。


そして、牧師として教会に集う人々共に、また路上に生きる人々と共に、「ご自身を隠す神」を探し続けている。「わが神、何ゆえ私を捨てたのか」との叫び絶えぬ現場のただなかにこそ、十字架の神がおられることを信じて。
本当にそうだと思う。
こんな現実の中に「神はいる」「神はいない」と論じること自体、違うんだと思う。イエスは私たちの苦しみや痛みの真ん中に飛び込んでこられた。その神に出会うために、私たちができることは、同じように現実の中に飛び込んでいくことなのではないだろうか、と思わされた。

今日は暑かった。
今は夜の11時過ぎだが、まだ25度以上ある。
熱帯夜にはならないだろうけれども、
また明日は暑い一日になりそうだ。


さて、日曜日、7月3日の聖書から。
列王紀第2の2章でした。


「エリヤの神、主はどこにおられるのですか。」14節。

エリシャは恩師のエリヤが神の許に召されていったときに、
エリヤを頼っているところから、神から直接力をいただく必要を感じました。
私たちの信仰の歩みには、信頼できる人を頼っていく段階もあります。
でも、どこかで、人ではなくて、神様ご自身に触れていただくことの大切さも思わされます。

「エリヤの神」から「私の神」になるポイントと言うか。

主よ、
どうか、あなたご自身に出会わせてください。
私自身も、そして、私の家族も、教会の一人一人も。
あなたご自身の前にひれ伏し、従って行くことができますように。

2011-07-05

主の導いてこられた道。

今回の修養会の講師は、パスターマック。
自分的には不本意なところでも、
納得いかない道でも、
遠回りに思えるところでも、
神様の視点で見ると、それが一本の線につながって見える。


いろんなこと考えさせられて、
自分の歩んで来た道は、今もまだ一本の線にはつながっていなくて、
ちょっとゆっくり時間をかけて、消化させていただこうかと思っています。


今から15年くらい前、大学院の学びの中で、
一回、そのような実習をしたことがありました。
そして、自分の人生を肯定する経験もしました。
それからだいぶ経って、またいろいろ失敗もして、
もう、子供の時のように何でも親や環境のせいにできるわけがなく、
何かが起こったら、すべては自分の責任、という立場で、
その結果をどう受け取っていいのだろうか、という思いでいます。


ホントは修養会中に、そんな時も持てればよかったのですが、
修養会中は楽しくて、エキサイティングで、
皆さんと話をしていたら、あっという間に時間がなくなって・・・。


でも、今日もパスターマックと話をしていましたが、
牧師自身が、自分の時間を作って、自分の問題に向き合っていくって、
教会にとって、とても大切なことだろうな、と思っています。


なんだか最近、「またゆっくり考えてみます」的な問題が多すぎて、
消化不良っぽい感じもするので、ちゃんと集中しないと。


さて、先週金土の聖書から。
先週の金/土で、列王紀第2の1章を読みました。


「あなたが人をやって、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。」6節。

修養会の開会礼拝で、お話しさせていただいたのですが、
私はこの言葉を金曜日に読んだ時に、
「神様は自分の思いを伝えたいと思っておられる」と感じました。

神様はご自分の思いをシェアしたいと思っているのに、
私は神に求めているだろうか?
神に聞いているだろうか?

解決を神以外のものから得ようとしていないだろうか?

私たちが神以外のものに答えを求める時に、
神は悲しまれる、怒られる。

求めよう。神様がシェアしてくださる思いを聞こう。

主よ、
あなたの情熱を感謝します。
あなたの言葉を聞かせてください。
日々、あなたに聞いていくことができますように。

とりあえず、ご報告。

火曜日の朝です。
昨日までの三連休にもたれた修養会。
英語ではretreat。
他のことをやめて、時間を取り分けて、
賛美と祈りとみ言葉に聞くことに集中して、
語り合い、ゆっくり過ごした3日間でした。

またいろいろ書きたいことはあるのですが、
とりあえず一つ報告・・・。

私は写真撮らなかったのですが、

自タイ来ました。
去年の6月にとてつもなく怪しい登場をしてから1年で4回目か?

もしかしたら、うちは自タイに一番愛されている教会かも。
もちろん、このパスターマックのTシャツ着て。

実は、土曜日の朝、パスターマックとプリンストンの牧師(実はこの2人は同学年と判明!あ、私はちょっと違いますけど・・・)と3人で自タイの噂していたんですよね。

子供たちがたくさん遊んでもらいました。

2011-07-02

修養会に行ってきます。

下の書き込みにもありますが、
今日から修養会です。
明日のMaywoodでの礼拝はありません。

場所はこちら。
http://www.eddyfarm.com/
明日の礼拝の時間は午前10時からです。

昨日の夜、サンディエゴからパスターマックが到着。
語り合う中にあっという間に時間が過ぎて、
日付が変わっていました。

今書きかけのこともあり、たーくさん書きたいこともあるのですが、
たぶん、帰ってきてから。

2011-06-30

忘れるなよ。


今日は「ひがきゃん」最終日。
迎えに行ってきました。

すごーくよかったようで、
みんな大興奮、特に、初めて「ひがきゃん」に参加した子たちが大喜びしていました。
迎えにいって、その後、しばらく我が家で休んでいたんだけど、
賛美大会になっていました。(笑)


自分もむかーし、よくやっていました。
うれしかったです。

そんな彼らとも話したのですが、
今朝Twitterで書きながら思い出していたこと。

自分が牧師になるための訓練を受けるために聖書学院で学んでいたとき、
同級生に目の不自由な方がおられました。
彼は奥さんと二人三脚で勉強をされていました。
ホントにおしどり夫婦って感じでした。

いつもは、ご主人が奥様の肩に手を置いて、
奥さんは一歩前を、ご主人は一歩後ろを、一緒に歩いておられました。

そんなご夫妻ですが、クラスによっては、夫婦別々なので、
私がその奥様の代わりに、ご主人と一緒に歩く時がありました。

私が彼の一歩前を、彼は私の肩に手を載せて一歩後ろを歩きました。
なんだか人の役に立っている・・・という満足感もちょっと心に持ちがながら・・・。

でも、そんなある日、一歩後ろを歩いていたはずの彼が、ゴツンと柱にぶつかったじゃあないですか。

そう、いつの間にか、彼の存在を忘れていたんじゃないんですが、
自分のことしか考えていなくて、柱に彼がぶつからないように注意していなかったんですね。

これは、自分が、夫として、牧師として、自らを省みる原点となっています。
忘れているわけではないんだけど、自分は自分のことばかり考える傾向がある。
だから、みんな柱にぶつかっていないか、と立ち止まって回りを見る必要があるんですよね。

はい、もっともっと人のことを大切にする者となれますように。

さて、今日の聖書。
今日は詩篇の112篇。


「彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。」7節。


この言葉は4月の11日の日記でも触れたのですが、
多くの訳で「悪い知らせ」と訳されている。
英語の訳を見ても、ほとんどが同じように訳されている。

でも、共同訳では「悪評を立てられても」と訳されている。
英語ではThe Messageがそうだ。

そんな時にも恐れない。

そんな強いものを自分は持っているだろうか。

それは「神を信頼しているから」なんだ。
やはりどこを見ているか、誰を見ているのか、それが問われているのだと思う。

主をしっかりと見て歩ませていただきたい。
主を見上げて歩んでいきたい。

主よ、
あなたのことをしっかりと見上げて歩めますように。
人のことばかり見ることがありませんように。
悪評をも恐れない強さを与えてください。

2011-06-29

中高生キャンプ最後の夜。

どうなっているんでしょうね。
土曜日から明日までの東海岸の中高生キャンプ(通称ひがきゃん)。
今夜は最後の夜なので、まだまだ、みんな起きているんでしょうね。


うちの上の二人は大学生のスタッフと、キャンパーとして滞在しています。
ウチの教会のイベントとしてやる時には、私も参加するのが基本でしたが、
最近は他の教会と合同でやるので、子弟のいる私はしばらく、「おまかせ」モードです。


おかげで、ウチが静かなこと。
本音を言うと、もうちょっと行っていて欲しい・・・。(笑)


でも、自分も小学生時代から、大学生まで、ずっと教会のキャンプで育ててもらいました。
楽しかったし、本音トークも、大声賛美もいっぱいした。


毎年課題は違ったけど、
なかなか、日頃、向き合えないことにも向き合った。
涙と鼻水で悔い改めの祈りをしたり、
仲間のために本気で祈ったりもした。


だから、ホントに、今夜も尊い夜となりますように。


で、上の二人がいないと、牛乳が減らない。
こちらではガロンサイズ(3.8L)のを買っていますが、
いつもは2日もつかどうか、のが、
何日も冷蔵庫に入っています。


でも、これは最初はびっくりしましたが、
今では、日本に行くたびに、「なんでこんなに小さいの」と思います。


そんなものがいっぱいありますが、
今回、のんちが日本に行く時に、
「物が足りない、と困るから・・・」といろんなものを持っていきました。
JALに電話して、「援助に行くんだけど、荷物をもう1つ持っていってもいい?」と聞くほど、いろんなものを詰め込んでいきました。


その中には、もちろん、「なんだ、日本で調達すればいいじゃん」というものもたくさんあったのですが、その一つがラップ。


でかいの持っていったら、そんなの持って歩けない。
日本のやつはこんなにちっちゃいんです。




すごいですね。
私的には「大は小を兼ねる」という気持ちなんですが、
幅が小さい方がムダが少ないんでしょうね。


さて、今日の聖書。
今日は詩篇111篇。


「主を恐れることは、知恵の初め」10節。

ホントに神様の前に謙虚になる、
それは大切なことだと思う。

そして・・・
自分は知恵をどこに求めているんだろうか?
いろんな知恵を与えてくれる書籍はたくさんある。
でも、その中で、まず、聖書に聞いているだろうか?

そこに知恵の源があると思って読んでいるだろうか?

まず、主の前にへりくだり、
主に聞いて、それに従っていく者でありたい。

主よ、
バカみたいに単純に、
あなたに聞いて、あなたに従っていく者でありますように。
それが一番の知恵であることを忘れることがありませんように。
気の利いたことを言うことを求めるのではなく、
あなたの御言葉に愚直に従う者であらせてください。

2011-06-28

自分はちっちぇえけど。

今日は蒸し暑かったですね。
でも、どうにかエアコンなしでしのげる一日。
30度くらいまで行きましたが、
ウチの中は28度止まり。
夕方には外も温度が下がって、
ギリギリセーフという感じでした。


そして、今(火曜日の夜10時半)、25度ですが、
雷雲が西の方から近づいてきています。
このまま、消滅しないで進んでくると、夜12時頃にここにも到着かな、です。


明日からはまたカラッと晴れそうです。
何より朝晩が涼しいのが助かります。


今日は「今日しかない!」思い立って、
2ヶ月近くお預けになっていた結婚記念日の「ランチ」に行ってきました。


当日はのんちは山元町にいたので、
電話で一言だけだったので、
帰ったらお祝いしようと言っていたのですが、
それなりにバタバタしていて、
今週、この後もちょっと難しいので、
今日行ってきました。


ちょうど、「奥さんとランチでも・・・」とギフトをいただいていたので、
それを活用させていただいて・・・感謝。


レストランで祈りながら思わされたのですが、
ここでこのように生かされて、共に21回目の記念日を祝うことができるのは当たり前のことじゃない。特別なことなんだと。


だから、その共有するようにと与えられた時間を、
共に歩んでいくようにと与えられている使命を大切にしていこうと思わされました。
二人になると自然と、会話は被災地のことになります。
ぽつりぽつりですが、新しい話が出てきます。


そして、今、蒸し暑い季節を迎えて、
虫の発生や、熱中症など、
新しい困難に出会っている方々のために祈らされます。


今日の聖書。
今日は詩篇の110篇。
これは、イエスについての預言となった詩です。


「あなたの敵の真中で治めよ」2節。

昨日は自分のちっちゃさを思い知らされた日でしたが、
今日は朝から、「そんなの当たり前だ、そうじゃなくて、私が世に勝っていることに目を留めるんだよ」と言われたような気がしました。

そう、イエスは世に勝っている。

敵の攻め寄せる中で、イエスは「恐れることはない、私は既に世に勝っている」と言われるのです。

その方に身を寄せながら歩んでいくことがどれだけ大切かと思わされます。

教会の皆さんは、昨日の私なんかお話しにならないくらい、「持っていきどころのない思い」にとらわれる、状況に置かれているかと思います。

祈らされます。

お一人一人が、イエスによって勝利と平安をいただくことができますように。

主よ、
あなたの勝利を感謝します。
あなたの勝利の許に身を寄せます。
どうか、私にも勝利を味わわせてください。
あなたがおられるから大丈夫、ということを知ることができますように。





2011-06-27

ちいさいな。

一番の失敗は先週の金曜日に、
「月曜日の朝に修理に行っていいですか?」という電話に、
「Sure.」と答えてしまったことだった。


実は1ヶ月前からコピー機が、2つあるトレーのうち、
1つからの紙を上手にfeedできなくなってしまっていたのだった。
1回見に来て、「これは部品が必要だ」と言われ、
「来週の初めに電話するから・・・」と言っていたので、
待っていたのだが、全然電話が来ない。
こっちもそんなに時間が取れないので、
コピー自体はその残った1つのトレーから給紙して取れるもんだから、
こちらから電話もしていなかったのだけれども、
さすがに1ヶ月近くたって、「どうしたの?」と電話した。


「電話したんだけど通じなくて・・・」と見え透いた嘘をつかれたのですが、
まあ、それは笑って赦して、で、「月曜日に修理に行っていいか?」となったわけです。


ま、いいか、と思って、今日、休日にも関わらず、
ちゃんと休まずに、教会オフィスでコピー機の修理屋さんを待った。
「なかなか来ないなあ」と思いつつ待つこと1時間半。
そして、それから昼を挟んで、作業が終わったのが3時間半後。
それで、ろくな説明もなく「部品変えたんだけど、ダメだった」と帰っていった。


9時から2時まで・・・、気持ち的には休みモードなんで、
ぼーっとしていたのですが、寝ることもできず・・・。


直さないで帰られた折には、さすがに行き場のない思いを持て余しておりました。別に彼が悪かったわけでもなく、エアコンもない部屋で汗びっしょりになって作業してくださったわけで、責める気持ちにもなれないんですね。


帰って、一人で「スタ丼」作って食べました。


なんだか、そんなことでイライラしたり、腹を立てたり、時間を有効に使えなかったり、なんだか、もう自分の小ささを思いっきり感じさせられる休日でありました。


さて、今日の聖書。
そんな一日、朝一番には何を思わされていたかと言うと・・・。
聖書の詩篇の109篇を読んでいました。


「祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。」17節。


朝にはこの聖書の箇所を読んで、
「ああ、人を祝福しない人は、自分も祝福を失っていくんだな」と思わされていたのです。

自分は人を祝福する歩みをしているだろうか?
人に出会った時に、その人を祝福する祈りを心の中でしているだろうか?
その人を祝福する言葉をかけているだろうか?

そして、周りの人一人一人に、教会の一人一人に祝福を祈っているだろうか?

そう思って、「祝福を与える人、祈る人になろう」と思ったところだったのでした。

御言葉を読んでいるのに、
そして、語られているのに、
そのように生きられない、小ささを思い知らされたのでした。

神様、
祝福を祈るものとならせてください。
祝福を与えるものとならせてください。
教会の一人一人、出会う一人一人の祝福を祈ります。

2011-06-26

諸行無常を思う。

今日は気温は上がりませんでしたが、
湿度は一日85パーセント以上。
梅雨のような一日でした。
でも、明日から少しずつよくなるようです。

日曜日はカラッと行くみたいです。

・・・とここまで書いたのが、金曜日の夜。
その後、バタバタしていて、更新ができないでいました。

金曜日の夜は実は、ボストンの方に引っ越されるご一家と一緒に、
ゆっくり楽しく過ごしておりました。

で、思ったんですが、今まで、大体、お別れになる皆さんは
なんとか、できる限りお招きして、個人的にお話をするチャンスを持っているのですが、
なんだか、お別れになるよりもずっと前から、こうやってもっともっとお話をするチャンスを持っていれば、どんなによかったかな、と思ったわけです。

もっともっと皆さんと一緒に時間を過ごすことを大切にしたいな、
と思わされた、日でした。

今日はまた気持ちのよい夜を迎えています。
火曜日だけはちょっと蒸し暑く、雷雨もありますが、
その他はカラッとしたいい天気になりそうです。

今日発送作業をした月報ですが、
のんちが日本で経験したこと、感じたこと、書いてくれました。
おかげで、昨日、土曜日は夜遅くまで、夫婦で原稿書き+推敲。

その現実の重さ、痛みの大きさを思うと、
文章にする事の難しさを感じながら、二人で産みの苦しみを経験していました。

祈らされます。

先週読んでいたナホム書から。
「彼らは安らかで、数が多くても、
刈り取られて消えうせる。」1章12節。

このナホム書に出てくるのは、
当時の世界の中心であったニネベに対する神の裁き。

大きな町、滅びるなどは考えられない、その町が滅ぼされることが預言されている。

諸行無常・・・。
どんなに強いもの、大きなものも、
いつまでもその力を持ち続けることはない。

ニネベを首都としたアッシリアも、
バビロンも、
ペルシャも、
ギリシャも、
ローマ帝国も、
衰えていった。

今、自分はアメリカがいつまでも栄えると思っているかもしれない。
でも、それもわからないことを忘れないでいたい。

自分自身が与えられているものも、
いつ取り去られるかもしれないことを、忘れないで、
一瞬一瞬を大切に歩んでいきたい。

主よ、
あなたの大きさの前に、
謙虚に歩んでいくものでありますように。