2011-07-07

赦されているから。

今日2回目の更新。
昨日から書き始めた奥田牧師の「もう、ひとりにさせない」を読んで思わされたことを続けて書きたいと思って・・・。


自分は偉大な人が苦手です。
偉い人、立派な人、すごい人・・・みんな苦手です。
どうしてかというと、自分が情けなくなるから。


自分がその人のようにできないことが惨めに感じるから。


だから、奥田先生のようにホームレス支援活動をされている方は、私は苦手だと思っていました。それに、先生は1963年7月生まれ。同い年じゃん・・・。いったい自分は何をしているんだろうかと。(ま、こう感じること自体、自意識過剰気味、って思うのですが・・・)


でも、この本を読んで、そういう思いから解放されて、「ああ、会ってみたいなあ」と思うようになりました。


先生が「奥田さんのホームレス支援のキリスト教的背景には何があるのですか?」と聞かれた時のこと、先生は質問をされた方がこんな答えを期待しているのでは、と思われたそうだ。「キリストの教えられた愛は無償の愛。わたしはその無償の愛を実践しているのです」とか。


でも、それは事実ではない・・・と、先生は正直に告白される。


先生は、夜の公園や商店街で寝ているおやじさんたちに声をかけて回っておられる。本気で心配し、できるだけを声をかけて夜の街を歩いている。しかし、その数時間後、先生は彼らを路上に残したまま、暖かい部屋へと戻り、子供たちが眠るベッドに潜り込む。先生は「自分は何をしているんだろう」と思い。自分が無償の愛とはほど遠い存在であることを思い知らされる。


でも、そこで先生は、イエスの十字架のもとにたたずむのだ。「私は十字架において明らかにされた『神の愛』によって、なんとか生きているにすぎない。『アガペー(無償の愛)』は、私のような不完全で不徹底な者を赦し、結局は自己本位にしか生きていない私をとりなす『神の愛』を言う。」赦され、励まされ、キリストに従う道をあゆんでおられるのだという。


あ、それだったら、同じだ、と思いました。
私もそうだって。
不完全で不徹底な中で、いや、偽善的でさえあるのに、
赦されて、生かされて、いること、
その神の愛に突き動かされて歩んでいるのだと。


先生の場合は、でも、その中で、自己矛盾や不徹底さを感じながら、逃げないで歩んでおられるが、自分は自己矛盾や不徹底さの中で、それを感じるのが嫌で逃げているのではないかと思わされています。だから、先生の言葉で、ちょっと勇気が出てきています。


さて、今日の聖書。
今日は列王紀4:1−17。


「器がいっぱいになったので、彼女は子供に言った。『もっと器を持って来なさい。』子どもが彼女に『もう器はありません』と言うと、油は止まった」。6節。

神様が与えようとするのに、私たちの側で準備ができているだろうか?そのことを思わされた。ちょうど、前日のところで、神様の一方的な御業、ということを思わされたのだが、今日はその正反対のことだ。

神様はもっともっと豊かに満たそうとされているのに、
私たちは神様に対して、大きく期待しているだろうか?

もっと器を持ってきなさい。
その言葉を、神様からの言葉として聞いた。

大胆に主に期待して、主に求めて、満たしていただきたい。

主よ、
あなたが満たそうとしておられること、
与えようとしておられること、
それに対して、敏感に応える者とならせてください。
大胆に求めて、たくさん満たしていただけますように。

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