2011-07-06

神はどこにいるのか。

のんちが帰米する直前に、
ホームレス支援をしておられる奥田知志牧師の「もう、ひとりにはさせない」の出版記念講演が東京である、と、Twitter上で知って、そこに茂木健一郎さんも来られると知って、時間ができたら行ってきて!とお願いしておいた。


その場でののんちと茂木氏。普通のおっさんとおばちゃんって感じ。のんちはシャイなので、奥田先生とのツーショットは撮れなかったようだ。




横道にそれるが、茂木さんは高校の一年先輩で、その時は存じ上げなかったけど、自分が高校1年でオペラ「魔弾の射手」で、トロンボーンを吹いていたとき、照明をされていたんだそうだ。茂木さんもあちらこちらでそのことを書いておられるけど、この時の公演は本当に心震えるようなものだった。


講演会に話を戻すと、
今回出版された奥田先生の本「もう、ひとりにさせない」を買って、サインをいただいて来てくれたのだが、その本は、本当に多くのことを教えてくれるものだった。


何回かにわたって、そのことを分かち合いたいと思う。


まず第一は、


「神はどこにおられるんだ?」「神がおられるならば、どうしてこんなことが起こるんだ?」という問いに対して・・・。


このような問いは、9-11の時も、大震災の時にも、牧師である私の耳には何度も何度も聞こえてきた言葉だし、正直なところ、私自身の心にも去来した言葉だ。もちろん、私たちが苦しみの中でそのように感じなくなることはないかもしれない。叫ばないではいられないときもあるだろう。でも、奥田先生はこのように言う。


私たちは「宗教的思弁」つまり、神に関して人間が持つ宗教的な想定をもって、神を見いだそうとする。だから、苦難が私たちを襲うと「神はどこにおられるのか」と呟き、神の不在を嘆く。しかし、それは私たちの思弁と思惟において想定している場所に、これまた私たちが想定した神を見いだせないということにすぎない。「神がおられるのなら、なぜこのような悪が存在しているのか」、もしくは「このような悪が存在するのなら、神はおられない」という神義論の問いと答えは、すなわち私たちの「宗教的思弁」にすぎない。
そして、それに対照的なものとしてルターの「十字架の神学」をあげる。この「十字架の神学」とは「イエスが私たちの罪のために、身代わりになってくださって・・・」という「贖罪論」のことではない。神は「隠れたる神」としてご自身をあらわされる。という考えだ。「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神」(イザヤ45:15)という言葉にそれは示されている。神は人間が考えて最もおられなさそうなところにこそ、おられるのだ。そして、先生は次のようにその章を閉じる。


そして、牧師として教会に集う人々共に、また路上に生きる人々と共に、「ご自身を隠す神」を探し続けている。「わが神、何ゆえ私を捨てたのか」との叫び絶えぬ現場のただなかにこそ、十字架の神がおられることを信じて。
本当にそうだと思う。
こんな現実の中に「神はいる」「神はいない」と論じること自体、違うんだと思う。イエスは私たちの苦しみや痛みの真ん中に飛び込んでこられた。その神に出会うために、私たちができることは、同じように現実の中に飛び込んでいくことなのではないだろうか、と思わされた。

今日は暑かった。
今は夜の11時過ぎだが、まだ25度以上ある。
熱帯夜にはならないだろうけれども、
また明日は暑い一日になりそうだ。


さて、日曜日、7月3日の聖書から。
列王紀第2の2章でした。


「エリヤの神、主はどこにおられるのですか。」14節。

エリシャは恩師のエリヤが神の許に召されていったときに、
エリヤを頼っているところから、神から直接力をいただく必要を感じました。
私たちの信仰の歩みには、信頼できる人を頼っていく段階もあります。
でも、どこかで、人ではなくて、神様ご自身に触れていただくことの大切さも思わされます。

「エリヤの神」から「私の神」になるポイントと言うか。

主よ、
どうか、あなたご自身に出会わせてください。
私自身も、そして、私の家族も、教会の一人一人も。
あなたご自身の前にひれ伏し、従って行くことができますように。

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