2011-07-12

主の導きが線につながる。

今日は本当に暑かったです。
36度か、37度か、ちょっと温度計が日が当たるところになってしまって、正確な最高気温が測れないのですが、とにかく暑かったです。
夜になって、気温も下がって、空気も乾燥してきて、だんだん過ごしやすくなってきています。夜の12時前ですが、25.7度。今夜は熱帯夜は免れそうです。


今日は早速聖書のことばから。
今日は列王記第二の6章1-14節。


「ひとりが材木を倒しているとき、斧の頭を水の中に落としてしまった。」5節。

水の中に斧を落とした人はどう思っただろうか?
自分の失敗だ。落ち込んだだろうなと。
それも借りたもの、人に迷惑をかけるのはつらかっただろう。

でも、今日の「日々のみことば」には
「主は人の失敗をも主の奇跡へと変えてくださるお方です。」と書かれている。

今回の修養会で、
「遠回りにも神様にとっては意味がある」
と語られた時にも、
自分の失敗とか、自分の足りなさ、未熟さで招いたことには、
なんだか、逃げ場を作っているように思えて、
あの経験にはどんな意味があるんだろう・・・そう思いながら、
なかなか納得できない自分がいました。

でも、今朝、思わされたのは、
私の弱いことは主が知っておられる、
そして、私の失敗も弱さも、主は奇跡へと変えてくださる。
主の力を表すポイントとして用いてくださる。

確かに、主は痛みの経験の中で、私を鍛えてくださり、
傲慢にならないようにと、守ってくださった。
そして、教会が教会となるために、
教会を整えてくださった。

でも、剪定を受けるブドウの木のように、
私たちは悲鳴を上げた。
あまりの痛みに、「やめてください!」と言いたいくらいだった。

これからもそういうこともあるだろう。
そして、その一部は、牧師である私が責任を感じないではいられないこともあるだろう。

でも、恐れない。

主はそこにも働いて、奇跡を起こしてくださるから。

主よ、
あなたが今朝語ってくださったことに感謝します。
あなたの約束に感謝します。
今までの歩みが、あなたの祝福の元に、
一つの線につながっていることに感謝します。
これからの歩みも、あなたに信頼します。
どうか、この線の延長に守り導いてください。

2011-07-11

4ヶ月。

4ヶ月が経ちましたね。
ということは、のんちを日本に送っていたのが、
これからは、あの震災から半分以下になっていくんですね。
ますます日本で起こっていることで知らないことが増えていくのかな。


今日はマンハッタンの教会で、
のんちの日本での活動の報告の時がありました。
15分バージョンから1時間バージョンまで、
今まで何回聞いてきたでしょうか?
(もちろん、いろいろ注文も付けてきましたが)
でも、毎回毎回、新しい話が飛び出してきます。


・・・あ、その話、初めて聞く・・・と思うような部分があります。


考えてみたら、2ヶ月いたんだからそうだよね、と思います。


だから、4ヶ月そこに歩んでいる皆さんのストーリーはどんなになるんだろうかと。


今も、twitter上の検索語は「山元町」のまま。
だから、時々そこを覗くと、山元町の情報が入ってきます。


そんな中で、今日、目に留まったのは「スコップ団」の働き。
どうせ地球のチリだからな

牧師的には「チリじゃねえよ、俺たちは神が一番情熱かけて造った作品なんだよ」とツッコミを入れたくなるのですが(実は昨日の礼拝説教のテーマ)、でも脱帽。


そしてこの動画。







でもね、ほんと、すごいな、と思う。
自分の神からの使命はここで生きて、ここで仕えることだと思っているけど、
やっぱり、なんだかんだ言って、痛みを負っている人たちと一緒に汗を流して、
涙流している人たちは、すごいなと。


いろいろ考える人も必要だろうけど、
やっぱり動いて、ホントに家の中ぐじゃぐじゃで、
どこから手を付けていいかわからない人の励ましになっちゃう人って、
すごいなと。


はちこさんも書いておられるけど、
やっぱり、まだまだ、まだまだ、やることがあるんだなと。
心を向けて、祈りを向けて、行動を起こしていくことなんだなと。


のんちも、今朝5時まで、日本に電話していたみたいです。
自分が活動してきた避難所とか・・・。


そして、いろいろ話をしていたみたいで、
一番の問題はハエと悪臭。
本当にひどいと言っておられたそうです。
既に梅雨も開けて、暑い日が続いているようです。


助けが送られますように。
そして、私たちにもなすべきことが示されますように。


今日は暑かったですね〜。
今、真夜中12時前で、28度もあります。
もしかしたら熱帯夜になるかも・・・。
この2時間でほとんど下がっていません。
明日も暑いみたいです。


さて、今日の聖書。
今日は列王記第二の5章の15−27節。


「今は銀を受け、着物を受け、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか」26節。

ナアマン将軍、エリシャ先生の言う通り、
ヨルダン川に身を7回沈めたら、
完全に病が癒された。

うれしくて、うれしくて、
エリシャ先生のところにたくさんの贈り物を持ってきた。
エリシャ先生は、それを受け取ろうとしなかった。
でもしもべのゲハジはそれを見て、「受け取ればいいのに」と思った。
そして、自分が受け取ろうと思った。

そして嘘までついて受け取った。
そしたら、ナアマンが癒された病までついてきた。
ゲハジはその病を負うことになった。

自分ってゲハジっぽいな、と思うことがある。
ああ、欲しいなあ、もらいたいなあと。

くれる、というのをなんで辞退するんだろう。
相手もがっかりすると思うけど・・・。

で、今日は自分の物欲を掘り下げることにしました。
自分は何でものが欲しいんだろうか?
注目されるため。楽しいことをするため。

そうやって、一つ一つはぎ取っていった時に、
何が残るかと言うと、やっぱり神様の御言葉に立つ信仰かな。

でも、やっぱり神様に物欲を取り扱っていただきたい。
思いっきり与えることを喜びとならせいただきたい。

主よ、
どうか、私の物欲を清めてください、
本当に必要なものをわきまえることができますように。
使えるお金をコントローする力も与えてください。



2011-07-10

御言葉に聞く!

今日はまたいい天気でした。
すかっと晴れて、でも夜はちょっと蒸し暑かったかな。
11時になって、24度まで下がって、楽になってきました。


明日、あさって、とだんだん蒸し暑くなっていくようです。
明日は34度くらい。あさっては、35度くらいの予報が出ています。


今日の午前中は牧師が先月末で異動されて、
次の牧師を捜している教会に招かれて、
礼拝のメッセージをさせていただきました。


朝、家を出るのも遅れて、昼、NJの教会への間も時間がなくて、
両方ヒヤヒヤしましたが、共に守られました。


そして、その午前中の教会、
牧師不在の中で、真実に忠実に礼拝を守っておられる皆さんに、
励まされました。


礼拝は、神様の前にひざまずくひととき。
神の前にひれふすひととき。
私はどんなに「新しい方々にとってのハードルを低く」ということを考えても、
その一線は守らなければいけないと思っています。
ときどきまるでテレビのトークショーを見ているかのような、
また、エンターテインメントを楽しんでいるかのような、
「礼拝」を見ることがありますが、
確かに、その努力や真剣さは尊敬しますが、
礼拝じゃないなあ、ショーだな、と思います。


もちろん、そういう集会があっていい、
そういう集まりがあっていい。
でも、「礼拝」は、集った一人一人が主の前に引き出される、
それが本当に大切だと思わされます。


2つの教会の礼拝で、そんなことを思わされていました。
そして、そのような経験をさせていただいて感謝します。


さて、今日の聖書。
今日は列王記第2の5章1−14節。


「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」13節。

今日はこれを読む前に、
いろんなことを思いめぐらしていた。
そして、どこかで、自分の直感とか、
ひらめきとかを当てにしている自分を感じた。

でも、その時に、先週の修養会のテーマ聖句が心に響いてきた。
「私の思いはあなたの思いとは異なる。天と地ほどに離れている。でも、その天から地に雨が降って、実を結ばせるように、私の言葉もあなたのうちに実を結ばせる。」という言葉。

違うから、ちゃんと聖書を読め、と言われたように感じた。
自分の直感とか、ひらめきとか、
そんなものではなくて、御言葉に聞け、と。

そして、開いたらこの言葉が目に留まった。
プライド故に、エリシャの言葉を受け入れられなかったナアマン。
謙虚に水の中に身を沈めるようにと勧められた。

私も謙遜な者とならせていただきたいと思う。

主よ、
あなたの言葉にいつも聞いていくことができますように。
自分の考えや、直感的に思うこと、ひらめきとか、
それを頼りにするのではなくて、
あなたの介入である御言葉に語りかけに聞いていくことができますように。

2011-07-07

赦されているから。

今日2回目の更新。
昨日から書き始めた奥田牧師の「もう、ひとりにさせない」を読んで思わされたことを続けて書きたいと思って・・・。


自分は偉大な人が苦手です。
偉い人、立派な人、すごい人・・・みんな苦手です。
どうしてかというと、自分が情けなくなるから。


自分がその人のようにできないことが惨めに感じるから。


だから、奥田先生のようにホームレス支援活動をされている方は、私は苦手だと思っていました。それに、先生は1963年7月生まれ。同い年じゃん・・・。いったい自分は何をしているんだろうかと。(ま、こう感じること自体、自意識過剰気味、って思うのですが・・・)


でも、この本を読んで、そういう思いから解放されて、「ああ、会ってみたいなあ」と思うようになりました。


先生が「奥田さんのホームレス支援のキリスト教的背景には何があるのですか?」と聞かれた時のこと、先生は質問をされた方がこんな答えを期待しているのでは、と思われたそうだ。「キリストの教えられた愛は無償の愛。わたしはその無償の愛を実践しているのです」とか。


でも、それは事実ではない・・・と、先生は正直に告白される。


先生は、夜の公園や商店街で寝ているおやじさんたちに声をかけて回っておられる。本気で心配し、できるだけを声をかけて夜の街を歩いている。しかし、その数時間後、先生は彼らを路上に残したまま、暖かい部屋へと戻り、子供たちが眠るベッドに潜り込む。先生は「自分は何をしているんだろう」と思い。自分が無償の愛とはほど遠い存在であることを思い知らされる。


でも、そこで先生は、イエスの十字架のもとにたたずむのだ。「私は十字架において明らかにされた『神の愛』によって、なんとか生きているにすぎない。『アガペー(無償の愛)』は、私のような不完全で不徹底な者を赦し、結局は自己本位にしか生きていない私をとりなす『神の愛』を言う。」赦され、励まされ、キリストに従う道をあゆんでおられるのだという。


あ、それだったら、同じだ、と思いました。
私もそうだって。
不完全で不徹底な中で、いや、偽善的でさえあるのに、
赦されて、生かされて、いること、
その神の愛に突き動かされて歩んでいるのだと。


先生の場合は、でも、その中で、自己矛盾や不徹底さを感じながら、逃げないで歩んでおられるが、自分は自己矛盾や不徹底さの中で、それを感じるのが嫌で逃げているのではないかと思わされています。だから、先生の言葉で、ちょっと勇気が出てきています。


さて、今日の聖書。
今日は列王紀4:1−17。


「器がいっぱいになったので、彼女は子供に言った。『もっと器を持って来なさい。』子どもが彼女に『もう器はありません』と言うと、油は止まった」。6節。

神様が与えようとするのに、私たちの側で準備ができているだろうか?そのことを思わされた。ちょうど、前日のところで、神様の一方的な御業、ということを思わされたのだが、今日はその正反対のことだ。

神様はもっともっと豊かに満たそうとされているのに、
私たちは神様に対して、大きく期待しているだろうか?

もっと器を持ってきなさい。
その言葉を、神様からの言葉として聞いた。

大胆に主に期待して、主に求めて、満たしていただきたい。

主よ、
あなたが満たそうとしておられること、
与えようとしておられること、
それに対して、敏感に応える者とならせてください。
大胆に求めて、たくさん満たしていただけますように。

「flip flop」が「ビーサン」で、「ビーサン」が「運動靴」

暑い日が続いています。
今日はまた蒸し暑い。
まあ、日本のことを考えたら、ずっとましなんでしょうが、
今夜も9時で27度。
これから明日にかけて、雷雨の予報が出ています。

昨日はアメリカに上陸して19周年の記念日。
何にもしませんでしたけどね。
とりあえず、空港到着時の記念写真。

・・・

と思ったけど、実際、はめ込んでみたら、かなり恥ずかしくなったのでやめた。
もう過去にアップしたことがあったかもしれないけど。

で、昨日の夜は、暑さしのぎとちょっと運動(?)のために、
サキを連れて近くのショッピングモールに。

そしたら、以前、「準備中」だった、「極度乾燥(しなさい)」ブランド、
開店していました。

この、意味不明のあやし〜いブランド、おフランスにも進出しているんですね。

Tシャツとか、しわになっていて、見にくかったので、
延ばして「何だこの日本語?」とサキと楽しんでいたら、
店員さんがすかさず、シワを造り直していました。
商品にシワを作って陳列するのがこの店の売りみたいです。
ジーンズに穴を開けたり、ペンキで汚したり、して売る店もあるしね。
もう、おじさんはついていけません。

そんな不思議なお店で売っていたビーサン。















なぜか「運動靴」って書かれています。
ちょっと違うけどねえ。

でも、サキに言わせると「ビーチサンダル」という英語もあまり使わないみたいですね。
普通にはflip-flopだそうで。

さて、火水の聖書から。
列王紀第2の3章でした。

「これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。」18節。

この勝利はがんばったり、
作戦を練ったりすることによって与えられたわけではなかった。
ただ、彼らは主に聞いた。
主の御業がなされただけ。

彼らは何かをしたわけでもなかった。
それほど信仰があったわけでもなかった。

自分の中にもなんだか「自分の信仰深さ」が勝利を与えたり、敗北に至ったり、という結果を導く、という感覚がある。いや、勝利のための信仰の必要を説く部分もある。でも、究極的には神様のなさることなんだろうと思う。その中に神の御業を見ていくんだと思う。

主よ、
自分が何かをしたかのような勘違いをしないように、
いつもいつも守ってください。
主がなさることを見せていただいているのだ、という、
「本当のこと」から目を離すことがありませんように。

2011-07-06

神はどこにいるのか。

のんちが帰米する直前に、
ホームレス支援をしておられる奥田知志牧師の「もう、ひとりにはさせない」の出版記念講演が東京である、と、Twitter上で知って、そこに茂木健一郎さんも来られると知って、時間ができたら行ってきて!とお願いしておいた。


その場でののんちと茂木氏。普通のおっさんとおばちゃんって感じ。のんちはシャイなので、奥田先生とのツーショットは撮れなかったようだ。




横道にそれるが、茂木さんは高校の一年先輩で、その時は存じ上げなかったけど、自分が高校1年でオペラ「魔弾の射手」で、トロンボーンを吹いていたとき、照明をされていたんだそうだ。茂木さんもあちらこちらでそのことを書いておられるけど、この時の公演は本当に心震えるようなものだった。


講演会に話を戻すと、
今回出版された奥田先生の本「もう、ひとりにさせない」を買って、サインをいただいて来てくれたのだが、その本は、本当に多くのことを教えてくれるものだった。


何回かにわたって、そのことを分かち合いたいと思う。


まず第一は、


「神はどこにおられるんだ?」「神がおられるならば、どうしてこんなことが起こるんだ?」という問いに対して・・・。


このような問いは、9-11の時も、大震災の時にも、牧師である私の耳には何度も何度も聞こえてきた言葉だし、正直なところ、私自身の心にも去来した言葉だ。もちろん、私たちが苦しみの中でそのように感じなくなることはないかもしれない。叫ばないではいられないときもあるだろう。でも、奥田先生はこのように言う。


私たちは「宗教的思弁」つまり、神に関して人間が持つ宗教的な想定をもって、神を見いだそうとする。だから、苦難が私たちを襲うと「神はどこにおられるのか」と呟き、神の不在を嘆く。しかし、それは私たちの思弁と思惟において想定している場所に、これまた私たちが想定した神を見いだせないということにすぎない。「神がおられるのなら、なぜこのような悪が存在しているのか」、もしくは「このような悪が存在するのなら、神はおられない」という神義論の問いと答えは、すなわち私たちの「宗教的思弁」にすぎない。
そして、それに対照的なものとしてルターの「十字架の神学」をあげる。この「十字架の神学」とは「イエスが私たちの罪のために、身代わりになってくださって・・・」という「贖罪論」のことではない。神は「隠れたる神」としてご自身をあらわされる。という考えだ。「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神」(イザヤ45:15)という言葉にそれは示されている。神は人間が考えて最もおられなさそうなところにこそ、おられるのだ。そして、先生は次のようにその章を閉じる。


そして、牧師として教会に集う人々共に、また路上に生きる人々と共に、「ご自身を隠す神」を探し続けている。「わが神、何ゆえ私を捨てたのか」との叫び絶えぬ現場のただなかにこそ、十字架の神がおられることを信じて。
本当にそうだと思う。
こんな現実の中に「神はいる」「神はいない」と論じること自体、違うんだと思う。イエスは私たちの苦しみや痛みの真ん中に飛び込んでこられた。その神に出会うために、私たちができることは、同じように現実の中に飛び込んでいくことなのではないだろうか、と思わされた。

今日は暑かった。
今は夜の11時過ぎだが、まだ25度以上ある。
熱帯夜にはならないだろうけれども、
また明日は暑い一日になりそうだ。


さて、日曜日、7月3日の聖書から。
列王紀第2の2章でした。


「エリヤの神、主はどこにおられるのですか。」14節。

エリシャは恩師のエリヤが神の許に召されていったときに、
エリヤを頼っているところから、神から直接力をいただく必要を感じました。
私たちの信仰の歩みには、信頼できる人を頼っていく段階もあります。
でも、どこかで、人ではなくて、神様ご自身に触れていただくことの大切さも思わされます。

「エリヤの神」から「私の神」になるポイントと言うか。

主よ、
どうか、あなたご自身に出会わせてください。
私自身も、そして、私の家族も、教会の一人一人も。
あなたご自身の前にひれ伏し、従って行くことができますように。

2011-07-05

主の導いてこられた道。

今回の修養会の講師は、パスターマック。
自分的には不本意なところでも、
納得いかない道でも、
遠回りに思えるところでも、
神様の視点で見ると、それが一本の線につながって見える。


いろんなこと考えさせられて、
自分の歩んで来た道は、今もまだ一本の線にはつながっていなくて、
ちょっとゆっくり時間をかけて、消化させていただこうかと思っています。


今から15年くらい前、大学院の学びの中で、
一回、そのような実習をしたことがありました。
そして、自分の人生を肯定する経験もしました。
それからだいぶ経って、またいろいろ失敗もして、
もう、子供の時のように何でも親や環境のせいにできるわけがなく、
何かが起こったら、すべては自分の責任、という立場で、
その結果をどう受け取っていいのだろうか、という思いでいます。


ホントは修養会中に、そんな時も持てればよかったのですが、
修養会中は楽しくて、エキサイティングで、
皆さんと話をしていたら、あっという間に時間がなくなって・・・。


でも、今日もパスターマックと話をしていましたが、
牧師自身が、自分の時間を作って、自分の問題に向き合っていくって、
教会にとって、とても大切なことだろうな、と思っています。


なんだか最近、「またゆっくり考えてみます」的な問題が多すぎて、
消化不良っぽい感じもするので、ちゃんと集中しないと。


さて、先週金土の聖書から。
先週の金/土で、列王紀第2の1章を読みました。


「あなたが人をやって、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。」6節。

修養会の開会礼拝で、お話しさせていただいたのですが、
私はこの言葉を金曜日に読んだ時に、
「神様は自分の思いを伝えたいと思っておられる」と感じました。

神様はご自分の思いをシェアしたいと思っているのに、
私は神に求めているだろうか?
神に聞いているだろうか?

解決を神以外のものから得ようとしていないだろうか?

私たちが神以外のものに答えを求める時に、
神は悲しまれる、怒られる。

求めよう。神様がシェアしてくださる思いを聞こう。

主よ、
あなたの情熱を感謝します。
あなたの言葉を聞かせてください。
日々、あなたに聞いていくことができますように。

とりあえず、ご報告。

火曜日の朝です。
昨日までの三連休にもたれた修養会。
英語ではretreat。
他のことをやめて、時間を取り分けて、
賛美と祈りとみ言葉に聞くことに集中して、
語り合い、ゆっくり過ごした3日間でした。

またいろいろ書きたいことはあるのですが、
とりあえず一つ報告・・・。

私は写真撮らなかったのですが、

自タイ来ました。
去年の6月にとてつもなく怪しい登場をしてから1年で4回目か?

もしかしたら、うちは自タイに一番愛されている教会かも。
もちろん、このパスターマックのTシャツ着て。

実は、土曜日の朝、パスターマックとプリンストンの牧師(実はこの2人は同学年と判明!あ、私はちょっと違いますけど・・・)と3人で自タイの噂していたんですよね。

子供たちがたくさん遊んでもらいました。

2011-07-02

修養会に行ってきます。

下の書き込みにもありますが、
今日から修養会です。
明日のMaywoodでの礼拝はありません。

場所はこちら。
http://www.eddyfarm.com/
明日の礼拝の時間は午前10時からです。

昨日の夜、サンディエゴからパスターマックが到着。
語り合う中にあっという間に時間が過ぎて、
日付が変わっていました。

今書きかけのこともあり、たーくさん書きたいこともあるのですが、
たぶん、帰ってきてから。

2011-06-30

忘れるなよ。


今日は「ひがきゃん」最終日。
迎えに行ってきました。

すごーくよかったようで、
みんな大興奮、特に、初めて「ひがきゃん」に参加した子たちが大喜びしていました。
迎えにいって、その後、しばらく我が家で休んでいたんだけど、
賛美大会になっていました。(笑)


自分もむかーし、よくやっていました。
うれしかったです。

そんな彼らとも話したのですが、
今朝Twitterで書きながら思い出していたこと。

自分が牧師になるための訓練を受けるために聖書学院で学んでいたとき、
同級生に目の不自由な方がおられました。
彼は奥さんと二人三脚で勉強をされていました。
ホントにおしどり夫婦って感じでした。

いつもは、ご主人が奥様の肩に手を置いて、
奥さんは一歩前を、ご主人は一歩後ろを、一緒に歩いておられました。

そんなご夫妻ですが、クラスによっては、夫婦別々なので、
私がその奥様の代わりに、ご主人と一緒に歩く時がありました。

私が彼の一歩前を、彼は私の肩に手を載せて一歩後ろを歩きました。
なんだか人の役に立っている・・・という満足感もちょっと心に持ちがながら・・・。

でも、そんなある日、一歩後ろを歩いていたはずの彼が、ゴツンと柱にぶつかったじゃあないですか。

そう、いつの間にか、彼の存在を忘れていたんじゃないんですが、
自分のことしか考えていなくて、柱に彼がぶつからないように注意していなかったんですね。

これは、自分が、夫として、牧師として、自らを省みる原点となっています。
忘れているわけではないんだけど、自分は自分のことばかり考える傾向がある。
だから、みんな柱にぶつかっていないか、と立ち止まって回りを見る必要があるんですよね。

はい、もっともっと人のことを大切にする者となれますように。

さて、今日の聖書。
今日は詩篇の112篇。


「彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。」7節。


この言葉は4月の11日の日記でも触れたのですが、
多くの訳で「悪い知らせ」と訳されている。
英語の訳を見ても、ほとんどが同じように訳されている。

でも、共同訳では「悪評を立てられても」と訳されている。
英語ではThe Messageがそうだ。

そんな時にも恐れない。

そんな強いものを自分は持っているだろうか。

それは「神を信頼しているから」なんだ。
やはりどこを見ているか、誰を見ているのか、それが問われているのだと思う。

主をしっかりと見て歩ませていただきたい。
主を見上げて歩んでいきたい。

主よ、
あなたのことをしっかりと見上げて歩めますように。
人のことばかり見ることがありませんように。
悪評をも恐れない強さを与えてください。

2011-06-29

中高生キャンプ最後の夜。

どうなっているんでしょうね。
土曜日から明日までの東海岸の中高生キャンプ(通称ひがきゃん)。
今夜は最後の夜なので、まだまだ、みんな起きているんでしょうね。


うちの上の二人は大学生のスタッフと、キャンパーとして滞在しています。
ウチの教会のイベントとしてやる時には、私も参加するのが基本でしたが、
最近は他の教会と合同でやるので、子弟のいる私はしばらく、「おまかせ」モードです。


おかげで、ウチが静かなこと。
本音を言うと、もうちょっと行っていて欲しい・・・。(笑)


でも、自分も小学生時代から、大学生まで、ずっと教会のキャンプで育ててもらいました。
楽しかったし、本音トークも、大声賛美もいっぱいした。


毎年課題は違ったけど、
なかなか、日頃、向き合えないことにも向き合った。
涙と鼻水で悔い改めの祈りをしたり、
仲間のために本気で祈ったりもした。


だから、ホントに、今夜も尊い夜となりますように。


で、上の二人がいないと、牛乳が減らない。
こちらではガロンサイズ(3.8L)のを買っていますが、
いつもは2日もつかどうか、のが、
何日も冷蔵庫に入っています。


でも、これは最初はびっくりしましたが、
今では、日本に行くたびに、「なんでこんなに小さいの」と思います。


そんなものがいっぱいありますが、
今回、のんちが日本に行く時に、
「物が足りない、と困るから・・・」といろんなものを持っていきました。
JALに電話して、「援助に行くんだけど、荷物をもう1つ持っていってもいい?」と聞くほど、いろんなものを詰め込んでいきました。


その中には、もちろん、「なんだ、日本で調達すればいいじゃん」というものもたくさんあったのですが、その一つがラップ。


でかいの持っていったら、そんなの持って歩けない。
日本のやつはこんなにちっちゃいんです。




すごいですね。
私的には「大は小を兼ねる」という気持ちなんですが、
幅が小さい方がムダが少ないんでしょうね。


さて、今日の聖書。
今日は詩篇111篇。


「主を恐れることは、知恵の初め」10節。

ホントに神様の前に謙虚になる、
それは大切なことだと思う。

そして・・・
自分は知恵をどこに求めているんだろうか?
いろんな知恵を与えてくれる書籍はたくさんある。
でも、その中で、まず、聖書に聞いているだろうか?

そこに知恵の源があると思って読んでいるだろうか?

まず、主の前にへりくだり、
主に聞いて、それに従っていく者でありたい。

主よ、
バカみたいに単純に、
あなたに聞いて、あなたに従っていく者でありますように。
それが一番の知恵であることを忘れることがありませんように。
気の利いたことを言うことを求めるのではなく、
あなたの御言葉に愚直に従う者であらせてください。

2011-06-28

自分はちっちぇえけど。

今日は蒸し暑かったですね。
でも、どうにかエアコンなしでしのげる一日。
30度くらいまで行きましたが、
ウチの中は28度止まり。
夕方には外も温度が下がって、
ギリギリセーフという感じでした。


そして、今(火曜日の夜10時半)、25度ですが、
雷雲が西の方から近づいてきています。
このまま、消滅しないで進んでくると、夜12時頃にここにも到着かな、です。


明日からはまたカラッと晴れそうです。
何より朝晩が涼しいのが助かります。


今日は「今日しかない!」思い立って、
2ヶ月近くお預けになっていた結婚記念日の「ランチ」に行ってきました。


当日はのんちは山元町にいたので、
電話で一言だけだったので、
帰ったらお祝いしようと言っていたのですが、
それなりにバタバタしていて、
今週、この後もちょっと難しいので、
今日行ってきました。


ちょうど、「奥さんとランチでも・・・」とギフトをいただいていたので、
それを活用させていただいて・・・感謝。


レストランで祈りながら思わされたのですが、
ここでこのように生かされて、共に21回目の記念日を祝うことができるのは当たり前のことじゃない。特別なことなんだと。


だから、その共有するようにと与えられた時間を、
共に歩んでいくようにと与えられている使命を大切にしていこうと思わされました。
二人になると自然と、会話は被災地のことになります。
ぽつりぽつりですが、新しい話が出てきます。


そして、今、蒸し暑い季節を迎えて、
虫の発生や、熱中症など、
新しい困難に出会っている方々のために祈らされます。


今日の聖書。
今日は詩篇の110篇。
これは、イエスについての預言となった詩です。


「あなたの敵の真中で治めよ」2節。

昨日は自分のちっちゃさを思い知らされた日でしたが、
今日は朝から、「そんなの当たり前だ、そうじゃなくて、私が世に勝っていることに目を留めるんだよ」と言われたような気がしました。

そう、イエスは世に勝っている。

敵の攻め寄せる中で、イエスは「恐れることはない、私は既に世に勝っている」と言われるのです。

その方に身を寄せながら歩んでいくことがどれだけ大切かと思わされます。

教会の皆さんは、昨日の私なんかお話しにならないくらい、「持っていきどころのない思い」にとらわれる、状況に置かれているかと思います。

祈らされます。

お一人一人が、イエスによって勝利と平安をいただくことができますように。

主よ、
あなたの勝利を感謝します。
あなたの勝利の許に身を寄せます。
どうか、私にも勝利を味わわせてください。
あなたがおられるから大丈夫、ということを知ることができますように。





2011-06-27

ちいさいな。

一番の失敗は先週の金曜日に、
「月曜日の朝に修理に行っていいですか?」という電話に、
「Sure.」と答えてしまったことだった。


実は1ヶ月前からコピー機が、2つあるトレーのうち、
1つからの紙を上手にfeedできなくなってしまっていたのだった。
1回見に来て、「これは部品が必要だ」と言われ、
「来週の初めに電話するから・・・」と言っていたので、
待っていたのだが、全然電話が来ない。
こっちもそんなに時間が取れないので、
コピー自体はその残った1つのトレーから給紙して取れるもんだから、
こちらから電話もしていなかったのだけれども、
さすがに1ヶ月近くたって、「どうしたの?」と電話した。


「電話したんだけど通じなくて・・・」と見え透いた嘘をつかれたのですが、
まあ、それは笑って赦して、で、「月曜日に修理に行っていいか?」となったわけです。


ま、いいか、と思って、今日、休日にも関わらず、
ちゃんと休まずに、教会オフィスでコピー機の修理屋さんを待った。
「なかなか来ないなあ」と思いつつ待つこと1時間半。
そして、それから昼を挟んで、作業が終わったのが3時間半後。
それで、ろくな説明もなく「部品変えたんだけど、ダメだった」と帰っていった。


9時から2時まで・・・、気持ち的には休みモードなんで、
ぼーっとしていたのですが、寝ることもできず・・・。


直さないで帰られた折には、さすがに行き場のない思いを持て余しておりました。別に彼が悪かったわけでもなく、エアコンもない部屋で汗びっしょりになって作業してくださったわけで、責める気持ちにもなれないんですね。


帰って、一人で「スタ丼」作って食べました。


なんだか、そんなことでイライラしたり、腹を立てたり、時間を有効に使えなかったり、なんだか、もう自分の小ささを思いっきり感じさせられる休日でありました。


さて、今日の聖書。
そんな一日、朝一番には何を思わされていたかと言うと・・・。
聖書の詩篇の109篇を読んでいました。


「祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。」17節。


朝にはこの聖書の箇所を読んで、
「ああ、人を祝福しない人は、自分も祝福を失っていくんだな」と思わされていたのです。

自分は人を祝福する歩みをしているだろうか?
人に出会った時に、その人を祝福する祈りを心の中でしているだろうか?
その人を祝福する言葉をかけているだろうか?

そして、周りの人一人一人に、教会の一人一人に祝福を祈っているだろうか?

そう思って、「祝福を与える人、祈る人になろう」と思ったところだったのでした。

御言葉を読んでいるのに、
そして、語られているのに、
そのように生きられない、小ささを思い知らされたのでした。

神様、
祝福を祈るものとならせてください。
祝福を与えるものとならせてください。
教会の一人一人、出会う一人一人の祝福を祈ります。

2011-06-26

諸行無常を思う。

今日は気温は上がりませんでしたが、
湿度は一日85パーセント以上。
梅雨のような一日でした。
でも、明日から少しずつよくなるようです。

日曜日はカラッと行くみたいです。

・・・とここまで書いたのが、金曜日の夜。
その後、バタバタしていて、更新ができないでいました。

金曜日の夜は実は、ボストンの方に引っ越されるご一家と一緒に、
ゆっくり楽しく過ごしておりました。

で、思ったんですが、今まで、大体、お別れになる皆さんは
なんとか、できる限りお招きして、個人的にお話をするチャンスを持っているのですが、
なんだか、お別れになるよりもずっと前から、こうやってもっともっとお話をするチャンスを持っていれば、どんなによかったかな、と思ったわけです。

もっともっと皆さんと一緒に時間を過ごすことを大切にしたいな、
と思わされた、日でした。

今日はまた気持ちのよい夜を迎えています。
火曜日だけはちょっと蒸し暑く、雷雨もありますが、
その他はカラッとしたいい天気になりそうです。

今日発送作業をした月報ですが、
のんちが日本で経験したこと、感じたこと、書いてくれました。
おかげで、昨日、土曜日は夜遅くまで、夫婦で原稿書き+推敲。

その現実の重さ、痛みの大きさを思うと、
文章にする事の難しさを感じながら、二人で産みの苦しみを経験していました。

祈らされます。

先週読んでいたナホム書から。
「彼らは安らかで、数が多くても、
刈り取られて消えうせる。」1章12節。

このナホム書に出てくるのは、
当時の世界の中心であったニネベに対する神の裁き。

大きな町、滅びるなどは考えられない、その町が滅ぼされることが預言されている。

諸行無常・・・。
どんなに強いもの、大きなものも、
いつまでもその力を持ち続けることはない。

ニネベを首都としたアッシリアも、
バビロンも、
ペルシャも、
ギリシャも、
ローマ帝国も、
衰えていった。

今、自分はアメリカがいつまでも栄えると思っているかもしれない。
でも、それもわからないことを忘れないでいたい。

自分自身が与えられているものも、
いつ取り去られるかもしれないことを、忘れないで、
一瞬一瞬を大切に歩んでいきたい。

主よ、
あなたの大きさの前に、
謙虚に歩んでいくものでありますように。


2011-06-23

いつ、その日が来たとしても。

蒸し暑い一日でした。
そして、激しいにわか雨。雷。
北の方を雷雲が直撃したようで、
大変な洪水も起こったようです。


今、レーダーを見たら、
今夜もう一ラウンド雷雨がありそうですね。


明日ももう一日蒸し暑い日が続きそうです。


ちょうど、その雷雨の時間帯にぶつかってしまったのですが、
今日はサキの小学校の卒業の日でした。
町によって小学校と中学校の切れ目が違うのですが、
ウチの町は4年生まで。
親が学校に迎えにいって、
先生に挨拶をして、ちょっと記念撮影をして・・・
というプログラムがありました。


外だったらよかったのですが、雨で体育館の中で。


まあ、中学校や高校を卒業する時のような、
また日本の小学校を卒業する時のような、
感無量な・・・ということはないですし、
先日のコンサートでスライドショーを見て、そのような感覚は味わったので、
妙にさめている娘の態度も手伝って、
ちょっと写真を撮って、先生に挨拶をして・・・、というひとときでした。


でも、ここまで守り導いてくださった神様に心から感謝。


さて、先週読んでいた第2テサロニケから。


「働きたくない者は、食べるな」3章10節。

文語体では「働かざる者、食うべからず」という言葉で、たぶん、「日本人で聖書を読んだことのない人が一番良く知っている聖書のことば」ナンバーワンだと思われる言葉です。

でも、その文脈は、世の終わり、イエスがもう一度来られる再臨の信仰に関しての話です。

当時、テサロニケには「もうすぐイエスが来られるから・・・」と仕事を辞め、財産も処分して、ただ、イエスの再臨を待っていた人たちがいました。そんな彼らに対して、「それは違う」とパウロは言ったのでした。

いつ来られても大丈夫なように準備しなさい。そして、落ち着いた生活をしなさい。と言ったのです。

1ヶ月ほど前ですね。
NYの地下鉄でポスターを見てびっくりしたのですが、
一人のラジオで活動しているキリスト教の伝道者が「○月○日、大地震が起こって、イエスが来られる。世の終わりが始まる」と宣伝している、というのです。

まあ、こういう話は歴史の中で何度も繰り返してきているので、
そのことに触れることすらいやだと思うほどの嫌悪感を持ったのですが、
とんでもない話です。

イエスははっきりと、その日はわからないと、
自分自身も知らない、ただ、天の父だけが知っていると。
そう言われました。

これは大問題です。
三位一体の神の中で、
父なる神だけが知っていて、
子なる神であるイエスが知らないことがあっていいのだろうか、と思います。

でも、それがある、それは世の終わりがいつかということだ、と聖書は語っているのです。

それほどのことなのに、いろいろ根拠薄弱というか、まあ、噴飯ものの計算をして、
「○年○月○日に世の終わりが来る」なんて、あんたは何様かと思うのです。

でも、そのとき、確かそのしょうもない預言が、5月21日だったと思うのですが、
「5月22日は確実にやってきます。5月22日日曜日、教会で会いましょう」と言っている牧師がいました。それはまたびっくりです。
だって、イエスは「わからない」「誰も知らない」と言われたのに、どうして、「5月22日が来る」「5月21日にはこの世は終わらない」なんて、断言できたのでしょうか?

個人的な人生でもそうです。
そして、大きなこの世の歴史でもそうです。
明日終わりが来るかもしれない。来ないかもしれない。
20年後かもしれない、50年後かもしれない。
いつ、その日が来ても喜んでイエスを迎えることができるように、
目を覚ましているように、テサロニケの教会への2つの手紙を通して、
パウロが、そして、パウロを通して神様が私たちに語っていることなのだと思います。

主よ、
その日がいつ来たとしても、
慌てないで、受け入れることができますように。
明日でも、20年後でも、備えていることができますように。
そして、生かされる日々、あなたの喜ばれるように生きることができますように。

2011-06-21

夏至!

Googleのロゴがいつもと違うので何だ?とおもったら、
今日は「夏至」だったんですね。
1年で一番日が長い日。
日本では22日、こちらでは21日ですね。


これからだんだん日が短くなります。
暑さはこれからが本番ですが、
ああ、もう日が短くなっていくのか、とちょっと残念な感じです。


今日はちょっと蒸し暑いですが、
明日からはそれに加えて雷雨がありそうです。

かきごおり家三代の1週間ですが、
今夜が最後の晩餐でした。


ということで、記念撮影。
今日は特別、家族の風景。




それぞれにいろいろあって、
一緒に食事ができない日もありました。
で、貴重なひとときでした。


昔話で自分の子供時代の話が出てくるのには閉口しましたが、
両親が、牧師としての先輩として、闘いの中で神様を見上げて歩んで来た貴重な話を聞かせていただけて、感謝でした。


次は何年後かな?


さて、6月14日(火)の聖書。
第一テサロニケ5:12-28。
「預言をないがしろにしてはいけません」20節。

この「預言」は「神様から御言葉を預かって人々に語る」という意味ですから、「説教」をさしているのだと、神学校では学びました。

でも、ある人々は「預言」を特別に神様から与えられる啓示と受け取って、実践しています。

「あなたはこれから宣教師になりますよ」とか、
「つらいことが起こるでしょう、でも、信仰を持って乗り越えるでしょう」とか。

わたしは基本的には神様のなさることについては、聖霊様は自由だと思いますので、オープンな気持ちでいたいと思っています。

でも、やっぱり「預言」という意味では、聖書が大切なんだろうな、と思います。

聖書の御言葉を本当に真剣に受け取り、
それを大胆に語る働きをこれからもさせていただきたいと思わされます。

主よ、
預言をさせてください。
あなたのことばを大胆に語らせてください。
あなたが語られることばを聞き、伝える者とならせてください。

2011-06-20

三世代総出。

今日は下の娘の小学校のコンサート。
コンサートと言っても、小学生のレベルなんで、
それほど期待はしていない。
でも、親はそれなりに楽しみに見に集まってくる。


で、ホントは、このコンサート、6月2日の予定だったのだが、
音楽の先生が、直前に学校で転んで骨折して、延期になっていたもの。
でも、おかげで、学年末直前+高校のFinalの期間中+両親の滞在中+月曜日で自分の休日になった。


ということで、今日は自分も行けたし、のんちもハジも、日本から来ている両親も、そして、学年末試験で12時半頃に帰ってくるユキも、一家総出で三世代6人で見に行った。(笑)


コンサート自体も楽しませてもらったし、
JOYJOYシンガーズのためにヒントになるものもいろいろあったけど、
親にとって一番心に残ったのは、
4年生の最後の曲と一緒にスライドショーが流れたこと。
今までなかったので、ちょっとしたサプライズでした。


Kindergartenの時から5年間通った小学校もあと3日。
ウチの町は、5年生から中学校なので、今週の木曜日に卒業します。


スライドを見ながら、ああ、この子もがんばったな、そして、自分もハジの頃から15年間小学生の親をするのもこれで終わりだろうな(たぶん・・・)、としみじみ思ってしまいました。


その後、最近寝不足がたまっていたので、寝てしまったのですが、
起きてみたら、のんちが大きな魚を買ってきて、
それを父がさばいているじゃないですか。
なんだか、母と3人で楽しそうでした。


レッドスナッパーのハニーマスタード


自分はあとで起き出してきて、「またそんなの買ってきて、どうするの?」とかぶつぶつ言っていたのですが(これは最近の自分の口癖になっているかも?)、なんだか、おいしく料理できて、みんなご満悦でした。わたしがいない方がこの3人は楽しそうかも・・・。(笑)


今日ののんちの一言。
「こう言うのをちゃんと写真に撮ってブログに載せてくれないと・・・」


そうですね。いつもあなたのボケ話ですみません。
ほんとは、いつも心から感謝しています。

6月13日の聖書から。
第一テサロニケ4:13-5:11を読みました。


「ですから、他の人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」5章6節

これはもう1週間前に読んだところです。
これを読んだのは月曜日だったのですが、
「目を覚ましなさい」と言われたと思いました。

直接、ここで書かれている「キリストの再臨」ということについてというよりも、
でも、ここでも言われているのですが、
日々の生活の中で自分はちゃんと目を覚ましていただろうか、
そのように思わされたのです。

月曜日、前日の役員会のことを思い出しながら、
そして、その日、朝からそれぞれ、仕事や学校に行く皆さんのことを思いながら、
自分はちゃんと目を覚まして、一人一人の闘いのために祈っているだろうかと思わされたのです。

眠っていたかな、と。
自分は眠っていたんじゃないかと。

そこで祈らせていただきました。
一人一人の歩みが守られるように、
聖書のことばの通りに生きようとすると、
いろいろな闘いのある社会の中で、
一人一人が世と調子を合わせることなく、
そして、世から乖離してしまうことなく、
世の中に、神様の恵みを流しこむ突破口として用いられるように、
祈らされました。

主よ、
今日も、今週も、
一人一人の歩みをお支えください。
わたしを目覚めさせてくださってありがとうございます。
どうか、祈らせてください。
教会の一人一人がその与えられたところで、
主の恵みのながれる突破口として用いられますように。

2011-06-19

まだまだ。

今夜の我が家の会話。

GP「でも、あの桑田も大変だよねえ。」
M「え?」
GP「いや、あの手術するの、桑田じゃなかった?」
GM「桑田じゃないでしょ。」
M「それは松坂でしょう・・・」
N「え、松坂ってRed Crossの?」

のんちさん、今回の日本の被災地での働きのおかげで、頭の中はすっかり25年前の看護師時代にトリップしているようです。

2011-06-16

神様の近くに。


日本から両親が来訪しておりまして、
それなりに、いろいろしております。

いろいろ話が盛り上がり、
気がつけば眠くなっているという感じでしょうか。

で、なかなか更新ができなくなっています。・・・が、今日はちょっとがんばってみましょう。

昨日は午前中からクロッキー教室に一緒に行って、
夕方からは、NYCのダウンタウンのWater Taxiで1時間のクルーズをするというヤツに行ってきました。Goldstar.comというサービスで、半額+手数料。この「手数料」というのが買う直前までわからなかったので、「な〜んだ」という感じですが、それでも、ずっと安いので、お勧めです。

7時45分出港で、6時15分に家を出た、というのがちょっと無謀だったかもしれませんが、あっちもこっちも渋滞で、ダウンタウンの船着き場に着いたのが、2分前。「出港30分前に着いてください」と書いてあるので、もうダメだ、と思いましたが、奇跡的に出航前に着いて、事前の下見もなかったのですが、すぐに乗り場も見つかり、無事に乗り込みました。

思ったよりも猛スピードで走っていましたが、自由の女神の前ではちょっと停泊して写真タイム、ちょうど西の空に沈む太陽をバックにシルエットが浮かびます。



島に上陸するのもそれなりにいいですが、
涼しい時間帯に近くまで行ってしばらく停泊というのもなかなかです。

その後ブルックリンブリッジの下をぐるっと回って戻る・・・1時間って短いね、という程度がまたちょうどいいのかも。


さて、日曜日の聖書。
日曜日はテサロニケ第一4:1-12。

「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」3節。

神様はありのままの私たちを受け入れてくださるけれども、
いつまでも、そのままにはしておかれない。

そして、私たちを、神様ご自身のきよさに招いておられる。
いろいろな試練を通して、御言葉を通して・・・。

私も神様がきよくなそうとしておられるのだ、と思わされます。

主よ、
あなたが私をきよくしようとしておられること、
感謝します。
どうか、私をあなたの近くに導いてください。

2011-06-13

人生の重さ。

今日は曇り時々晴くらい。
昼間も25度止まりで、過ごしやすかったです。
夜になって冷えてきています。
12時前ですが、16度Cです。
そして、これから雨のようです。


明日一日ぐずついて、肌寒い日となりそうです。


先週の金曜日には、
一人のご婦人を訪問させていただきました。
84歳の方なのですが、
その方の人生の歩みをお伺いしながら、
その人生の重さを感じました。
60年前に日本からやってきて、
若くして夫を亡くし、
自分の力で踏ん張って行きていたその人生。
簡単に評価を下したりできないものを感じていました。
もちろん、その方も、私に会うのは聖書の話を聞くためなので、最後には聖書を読んで神様の話をして、お祈りをするのですが、簡単にものを言うことははばかられます。


その経験を通して、自分の聖書の読み方も反省させられました。
例えば、アブラハムが神様から声をかけられて、「自分の故郷を離れて、私が示す地にいきなさい」と言われたのは、75歳の時でした。


また、モーセが神様から声をかけられて、イスラエルのリーダーとしてエジプトでの奴隷状態から解放する働きを任せられたのは80歳でした。


そのような信仰者たちの人生の重さを考えていませんでした。
特にモーセが80歳で指導者に立てられたこと、
40歳の時に一度はリーダーとして自ら立とうと思ったこともありました。
でも、神はそれを許されませんでした。
なのに、ここでリーダーに立て、と言われても・・・という感じだったと思います。


でも、それだけではなくて、本当に語り始めたらきりがなかっただろう40年の日々。その重さに思いを馳せることがどれほど必要かと思います。そこで見えてくる聖書のメッセージ。聖書は真空の中で読むものではないな、と思わされます。


もっともっと聖書を読ませていただきたい、語っていただきたい、そのように思わされます。


さて、土曜日の聖書。
土曜日はテサロニケ人への第1の手紙3:1-13。


「私たちはこのような苦難に会うように定められているのです」3節。

苦しみに会うことは、
それも、信仰を持っているが故の苦しみに会うことは、
もう最初から決まっている、という。

だから驚くな、たじろぐな、
そういうのであろう。

なかなか難しいのだけれども、
織り込み済み、って気持ちは必要なんだと思う。

自分がこれから歩んでいく道、
楽しいことばかり、すべてが順調、なんてことはない。
「神様を信じているのにどうして・・・」という声も聞くけど、
ホントは反対なんだろうな、
神様を信じているから、苦しいこともある。
でも、神様がおられるから、大丈夫。

主よ、
あなたがおられるからありがとうございます。
私たちの歩む道には闘いや痛みもあることを教えてくださってありがとうございます。
どうか、次に苦しみが襲ってきた時に、この聖書のことばを思い出すことができますように。
そして、その苦しみの中であなたの平安に満たされて歩めますように。

2011-06-12

同じ方がおられる。

ちょっと更新できませんでしたが、
ちょっと涼しい日が続いています。
今も夜の11時過ぎですが、18度C台。


今、雷雲が西から近づいています。
そして、更に涼しくなりそうです。


明日の最高気温は25度。
気持ちのいい1日になりそうです。


今日は半年ぶりの洗礼式。
近所に住む男性が、洗礼を受けられました。
自分のよりも年上の男性の洗礼式は数年ぶりでしょうか。


また、今回は始まったばかりのスモールグループで男性同士で集まっておられる方々もおられて、その方々にとっても、特別な喜びの時になりました。


そして、ペンテコステ、聖霊様が弟子たちにくだられて、
弟子たちを作り替え、新しい人々が導かれて、
教会がスタートした教会の誕生日。


毎年、1回お祝いする日ですが、
今年は特に、その同じ聖霊様が今もわたしたちと共にいてくださる、
そのことを特別に覚える礼拝となりました。
同じように、わたしたち自身を新しくしてくださり、
多くの新しい方々が導かれるようにと祈らされます。


さて、ちょっと前ですが、金曜日の聖書。
金曜日はテサロニケ人への第一の手紙2:13-20を読みました。


「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」13節。

神のことばは信じる者の中に働く。
やはり信じることが大切なんだ。
信じても信じなくても同じではなくて、
信じる時に初めて力を持っていく。
神様の御業が働く。

だから、信じていこうと思う。
信じようと思う。
御言葉を信じて、神のことばを信じて、
その力が私のうちに働くことを経験させていただこう。

主よ、
今日の一日を感謝します。
どうか、聖霊様に導かれてこの一週間を歩めますように。
あなたの御力を拝させてください。
御言葉を信じて、その力を経験できますように。

2011-06-09

人ではなくて神を見る。

今日も暑い1日でした。
車の温度計は105度Fを表示していました。
ウチの庭の最高気温も38.6度C。
つまり101.5度F。


でも、夕方から空が暗くなって、雷鳴が轟き、
一瞬停電になって、だんだん気温が下がってきて、
お、雷雨かな、と思ったのですが、
まあ、我が家のあたりは大したことはなくて、
ちょっと雨が降って、涼しくなってよかったという感じ。


そして、今は夜の12時前ですが、
21度Cくらいまで下がってきています。


明日は30度止まり。
今日までの暑さを考えると、ちょっと過ごしやすくなるでしょう。


今日のシニアセンターでののんちの報告は、
とてもよかったです。(「長くならないように」「ポイントを絞れ」「聞く人のことを考えろ」など、いろいろうるさく言いましたから・・・)
それでも、昨日準備している時は「写真は一枚2秒でいいかな?」なんて、「フラッシュカードかい?」というようなことを言っていたのが、実際は1枚10秒くらいかけて話していて、巻きを入れなければいけないほど。でも、それでちょうど良かったかな、という感じでした。


本人も、「伝える使命」ということを感じているので、
ちょっとこの先、教会内外、あちらこちらでそのような機会が与えられるようにと願っています。


明日以降も、週末にかけて、
牧師館と、プリンストンの教会と、自分たちの教会、の3回の報告会があります。
疲れすぎてしまわないように、お祈りください。


さて、今日の聖書。
今日は第1テサロニケ2章1−12節。


「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」4節。

やはり、自分はどうだろうかと問われました。
神様をしっかり見ているだろうか?
見上げているだろうか?

人を恐れないで、神を畏れる、
そして、神の願われること、
神が語りなさいと言われることを、
語らせていただこうと、改めて思わされました。

今日のシニアセンターもそうですが、
明日は、またおばあちゃんを訪問します。

その心からの叫びにしっかりと耳を傾けるとともに、
そのここまで歩んでこられた人生の重さをしっかりと受け止めるとともに、
神様のメッセージをしっかりと伝えることができますように。

主よ、
私がいつもいつもあなたの声に耳を傾け、
あなたに聞いて行くことができますように。
あなたの願われる道に歩むことができますように。

聖霊さまを待ち望む。

テサロニケ人への手紙に入って、毎日更新しようと思いつつ、早速つまずいています。ベッドの中でiPhoneで更新中。

明日…日付が変わったので今日ですね、シニアの集まりでのんちがお話をすることになり、500枚くらいある写真から、60枚くらいを選ぶのに12時を回ってしまいました。帰米後、最初の報告の機会です。お祈り下さい。

昨日は暑かったですね。うちの庭の最高気温は37.1度Cでした。今日は、もう少し上がりそうです。

さて、今日の聖書、テサロニケ人への第一の手紙の1章。






「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。」5節。

本当に伝道しようとするときに、自分の弱さ、足りなさを感じさせられる。

だからこそ、聖霊さまの御業が必要なのだ。自分の力ではない、人の力を超えた、神様の働きが必要。

今日も、そのことを思わされていた。

神様の招きを感じる。

主よ、
聖霊さまを私のうちに満たしてください。
そして、人々があなたを信じる、という奇跡を見せて下さい。 BlogBooster-The most productive way for mobile blogging. BlogBooster is a multi-service blog editor for iPhone, Android, WebOs and your desktop

2011-06-07

民数記を読み終えて。

今日は暑くなってきました。
33度くらいまで行ったでしょうか?
明日からは酷暑です。36-7度の予報が出ています。
でも、今は、夜10時で25.7度C。
これが助かります。
東京のように夜まで暑いと大変ですが、
ここでは熱帯夜も年に2-3日、特別多い年でも10日以内です。


この熱波、2日くらいで、週末はぐっと暑さも和らぐようです。


来週は日本の梅雨のような天気になる・・・かな。
やめてほしいですが・・・。


さて、このところしばらく民数記を読んできましたが、
今日で最後。
一つ一つの言葉よりも、
自分の来し方を思い出す、そんな思いで最後の日を迎えました。

民数記は荒野の40年の記録。
その一番最後のところから旅を振り返って書いたのだろう。

自分も記憶を辿ってさかのぼると4歳くらいまでは思い出す。
だから、45年くらいの記憶があるわけだ。
その一歩一歩が失敗だらけの、傲慢な思いのいっぱい詰まった歩みだったと思う。
自分の責任から逃げたことも何回もあった、
自分のしたことをごまかそうとしたこともあった。
そんなことばかり思い出す。

だから、民数記の民の失敗の歩みは、
まるで自分の歩みを見ているようだった。

だから、人の失敗と神の憐れみの歴史。
その中にちらほら見える、信仰の勝利。

神様の憐れみの中に生かされていることを、思わされる。

主よ、あなたの憐れみの中に生かしてくださってありがとうございます。
責任から逃げたり、傲慢になったり、ごまかそうとする思いから、
守ってください。
聖霊様、私をあなたの思いで満たし、
あなたが持っておられるへりくだりと、
人々への愛を、私のうちに与えてください。

2011-06-06

赦されるはずのない者が。

今日も割合涼しかったですね。
27度くらいまでは行きましたが。


でも、明日からは熱波です。
明日はまあ32度くらい。
そして、水曜日と木曜日は36度くらいまで上がる予報が出ています。


かなり体に堪えそうです。
お気をつけて。


さて、昨日の「野外礼拝」にはたくさんの方々が来られました。
楽しかったですね〜。
いや、楽しかった、の前に、耳を澄ますと鳥たちの声が聞こえるような中で、
礼拝を守るっていいですね。自然の賛美に心を合わせる、という感じです。
で、そのあとは、BBQとゲームとソフトと、スイカ割り。思いっきり遊びました。


写真は例によって、教会のHP(http://jccofnj.org)から「イベントフォト」へ行っていただくと、出てきます。


返す返すも、何年ぶりかのスイカ割りで、外してしまったことはとても悔しかったです。


でも、この野外礼拝、今までも、これをきっかけに教会に来るようになった、という方々がおられます。今年もそういう方々が起こされますように。


さて、ここしばらくずっと「日々のみことば」についてはあまり触れないで来ましたが、ずっと民数記の最後の方を読んでいました。その中から。

民数記35章「逃れの町」について。

「逃れの町」は、「故意ではなく過失で人を死なせてしまった」場合に復讐しようとする者の手から守るために作れた町。でも、「故意」で殺人を犯した者は「逃れの町」も守ることはありませんでした。

イエスは「人を憎んだり、あざけった者は人を殺したのと同じ罪を犯している」と言われた。「過失」ではない。言い訳はできない。「故意」に人を殺したのと同じ罪を犯している。だから、本当は自分は赦されるべき者ではなかった。

その罪の深刻さがわかっているのだろうか。

「罪」それも「故意の罪」は赦されるものではなかった。
イエスはそのわたしたちを赦すために十字架にかかられた。
本当はそれは赦されるはずがなかった、ということを知る時に、
そのことを心の深くで知る時に、
神様の愛が見えてくる。
神様の情熱が見えてくる。

本来赦されるはずがない者が赦されている。

なんと言う幸いなんだろうか?

神様、
あなたの愛に感謝します。
私を救ってくださる、赦してくださる愛に感謝します。
私がそのことを軽く考えることがないように、
守ってください。