2013-03-30

イエスの右と左に座る者。

今日は暖かくなりました。15度くらいまで上がったようです。
明日も暖かいようですね。
イースターの朝も朝日を見ることができそうです。

日曜日の夜は雨で、来週の前半は少し寒の戻りがあるようです。

今日はイエスが十字架にかかったGood Friday。
夜には我が家で、レント期間中毎週守って来た学び会の最終回。

今年は「十字架を巡る人々」というテーマで、
十字架に関係のある人々の姿を学んできました。

祭司長/ユダヤの長老たち
ローマから派遣されて来た総督ピラト
イエスを裏切ったユダ
通りかかって無理やり十字架を背負わされたシモン
イエスの弟子ペテロ
ベタニヤの村のマリヤ

そして、今日はイエスの弟子ヨハネでした。

ヨハネは弟子の1人として、イエスによるローマ帝国からの解放を期待していました。
ある日、彼は、兄弟ヤコブと一緒に「あなたが栄光をお受けになる時には、あなたの右と左に座らせてください」と抜け駆けのように、イエスに頼み込みます。

イエスには「それが父なる神が決めることだ」と言われるのですが、
問題はヨハネが「イエスが栄光を受ける」ということをそんなレベルでしか、受け取っていなかったことです。

イエスが「栄光を受ける」と言う時に、それは十字架の中に輝く栄光でした。

「人の子が栄光を受ける時がきた。よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」ヨハネ12:23-24。

ヨハネもやがてそのことに目が開かれていきます。

そして、次のように語ります。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」ヨハネ第一の手紙3:16。

「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。」同4:19-21。

今日は、この学びを進めがなら、ここに至って、ヨハネはまさに本当の意味でイエスの隣に座る者になったのではないだろうか?と思われました。

イエスが愛されたように、イエスが仕えられたように、わたしたちも仕えていく、愛していく、それを通してこそ、わたしたちはイエスの隣にいることができるのではないかと。

さて、今週末は引き離されないで追いつけるか・・・ですが、
水曜日27日の「日々のみことば」。

ヨシュア記の6章。
「あなたがたは呼ばわってはならない。あなたがたの声を聞えさせてはならない。また口から言葉を出してはならない。ただ、わたしが呼ばわれと命じる日に、あなたがたは呼ばわらなければならない」。10節。

ここは「黙っている」ということが大切だったんだろうと思う。
声を出したら、「どうして?」「何のために?」ということだっただろう。
神はただ従うことを求められた。

従うことが求められていた。

今、時代はそのようなことには「盲従」とか、「カルト的」とか言って、または「パワハラ」かもしれませんが、ダメ出ししてしまうんでしょうが、結局は「従う」ということを見失っているのだと思います。

私自身そう。

「とにかく従う」ということが苦手。

「納得したら従う」って、ホントは従っていないんでしょうね。

「従う」ということを経験することも大切だと思わされました。
主の最善を信頼して。今はわからなくても、信頼していたら従える、そう思います。

主よ、
従うことを教えてください。
従うことの祝福を経験させてください。

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