2008-11-14

最高のものを主に。

今夜はこれから教会で祈り会なので、
早めに更新して、帰ってきたら速攻で寝れるようにしておきます。


今日は曇りがちで時々霧雨。
英語では霧雨はdrizzleですね。
この言葉は音がそれっぽい感じだと思います。
でも、日本語の「霧雨」の方がちょっと上品かな。
京都のお寺の庭園が目に浮かんできます。


明日はもうちょっとちゃんとした雨。
日曜日からまた寒くなるでしょう。


来週はずっと寒いようですね。
いよいよ、冬間近、という感じです。


さて、今日の聖書。
今日からはしばらくマラキ書。
今日はマラキ書の1:1-14


「群れのうちに雄の獣がいて、これをささげると誓いながら、損傷のあるのを主にささげるずるい者は、
のろわれる。」14節。

「ずるい」って面白い訳ですね。
姑息な、って感じでしょうか?
口語訳も、新共同訳も「偽り者」となっています。

どうでもいいもの、いらなくなったものを
神さまのもとに持ってくる、
それがホントのささげものだろうかというのです。

残ったから、余裕ができたから・・・というのもこれと同じでしょう。

手放すのに痛みを感じるようなもの、
最高のものを主のもとに持っていこう。

私たちの人生の中で一番大切なものは何かと考えました。
今朝は「時間」じゃないかな、と思いました。

だったら、最高の時間を、
この時間だけは取っておきたい、
という時間をこそ、主のもとに持っていこう。
時間が余ったから、主のもとに持っていくのではなくて、
まず、最初に最高の時間を主のもとに持っていって、
残った時間を他のことに、
主が私たちの使命として与えてくださったり、
プレゼントとして与えてくださっていることに、
用いさせて頂こう。

主よ、
私が「この時間だけはこのために使いたい」と思う時間をこそ、
主よ、あなたのもとに持っていかせてください。
教えてください。気付かせてください。
もしも、私があなた以外のものにもっと心を奪われているなら。

復活・・・かな?

昨日早く休んで良かったです。
風邪と言っても、たいしたことないんですけど、
すぐ大騒ぎをしてしまう性格なんで・・・。


のんちの場合は、「なんか、ちょっと調子悪いねえ・・・」という時は、38-9度台です。
でも、たとえば、私は37度をちょっとでも超えたら、
「わー、熱だ~!もうだめだ~」と騒いで、薬を飲んで寝てしまうわけです。
昨夜の場合はその37度もない。


だから、普通の生活をちょっと「無理しない」程度でやっています。


とにかく、日曜日に万全の体調で臨めるようにお祈りください。


さて、昨日の聖書。
昨日の聖書箇所はハガイ書の最後、2章10-23節。


「『もし人が聖なる肉を自分の着物のすそで運ぶとき、そのすそがパンや煮物、ぶどう酒や油、またどんな食物にでも触れたなら、それは聖なるものとなるか。』祭司たちは答えて『否』と言った。」12節。

「日々のみことば」の解説には、
「きよさは伝染しないが、汚れは伝染する」と書かれていました。

あまり意識していなかった対照です。
汚れ、というか、罪や信仰的な妥協はほんとうに簡単に伝染します。
でも、きよさもまた広がっていくモノだと思っていました。

でも、ここではっきりと、聖なるものが汚れたものに触れても、
汚れたものは聖とはならない。聖なるものが汚れたものになる。

だから、やはり聖の源である神さまのきよさに触れることなんでしょうね。
誰かのきよさをもらうのではなくて、人に期待するのではなくて、
神さまのきよさに自分で直接触れる。
自分と神との関係が大切なんだと思いました。

マタイによる福音書の25章に出てくる、
10人のおとめの話を思い出しました。
花婿が来た時に、5人のおとめたちは、油の準備ができていなくて、
準備のできていた5人に「分けてください」とお願いするのですが、
「あなたがたの分までは足りません」と断られてしまう。
「なんで?」と思います。
協力、助け合いの大切さを知っている私たちは、
どうして?そんなこといわないで分けてあげればいいのに?
と思います。
実生活ではそうかもしれませんが、
神さまの前では、他人のきよさをもらって、
自分がきよくなることはできません。
誰かの功徳を分けてもらうことはできないのです。

一人一人がちゃんと神さまとつながらないと、いけないのです。

神さま、
きよさは人から分けてもらえるのではない、
一人一人が神さまとの関係に生きることの大切さを思います。
どうか、きよさを与えてください。
そして、周りの一人一人も神さまにきよさを求めるようになりますように。

2008-11-13

風邪引くかも。

なんか、風邪引きそうです。
で、今日は早く休みます。
また明日、更新します。

2008-11-12

NYの一日。

今日は朝は冷えましたし、
昼間も、結構肌寒かったです。
でも、天気は持ちました。
そしてこれから雨が降ってくるということで、
夜の冷え込みはゆるんでいます。


明日は一日雨。


土曜日も雨。


金曜日は雨は降らないかもしれませんが、
天気はスッキリしないようです。


今日は朝からNYに行きましたが、
「イラク戦争終結!」の新聞を配っていて、
「えー、どういう意味?」と思いましたが、
もらいませんでした。
そのあと、インターネットでニュースを見ても、
別に何も話題になっていないし、
「どういう意味で『終結!』って報じたんだろう?まさか、日本のスポーツ新聞の芸能欄のように『終結』ってデカイ字で書いて、小さく『オバマは目指す』とか『きっと間近』とか『18ヶ月後かもしれない』とか書いてあるんじゃないだろうなあ・・・」と思いながら、
そのあとは、そんなことは忘れていました。


そしたら、夜になって、帰ってきたら、朝日新聞のサイトとかに
ニュースになっているじゃないですか。
「NYタイムスの偽新聞」。
どうやら、左派系団体のいたずらだったようです。
でも、asahi.comによると、6ヶ月かけて準備したそうで、
ご苦労なことです。


ああ、記念にもらっておくんだった!


NYに行くと、
だいたいミッドタウンの図書館にいます。
面会とかが入っていない時は、
そこでたまっている仕事を片づけます。

まあ、言ってみれば、JCCNJーNYオフィスなんですが、
困ったことがいくつかあります。


電話を取ったら、階段に出なければならない。
・・・図書館ですからねえ。


使えるコンセントが限られていて、取り合いになる。
・・・つまり一度場所を取ったら、もうなかなか席を外せない。
・・・ランチに出ると、帰ってきたらもう席はない。
・・・トイレに行きたくなっても、ぎりぎりまで我慢する。


飲食は禁止。
・・・これも図書館ですからね。お弁当もってきて、机で食べるってことができない。


居眠り禁止。
・・・最近、午後1回眠くなるんですよねえ。居眠りすると警備員の人に起こされる。でも、本を読んだり、英語の本を翻訳をしていたりすると、必ず水泳選手が襲ってくるんですよねえ。


で、ここ最近、何回か、面倒なので2時過ぎまで昼を取らないで、
2時をすぎた頃に近くのマクドナルドに行っていました。
近くの日本のファーストフード2時になっても混んでるし・・・。


でも、今日の行く時の地下鉄の中で、
「普通の大人の必要カロリーは一日あたり、2000キロカロリー」という広告を見て、
その後、朝のマクドナルドでの祈り会の時に、最近義務化された、メニューのカロリー表示を見て、
もう、NYのランチにハンバーガーはダメだ。と思いました。セットメニューは1500キロカロリーくらいですよ。びっくり。最近、せっかく夏に減った体重が元に戻ってきているし、ここは気をつけようと、ランチは新しいところを開拓しようと決意しました。


これも、もしもホントにJCCNJ-NYオフィスがあったら、
家からおにぎりか何かもってくれば解決なんですがねえ。
どなたか、「うちのオフィスの机一つ、週一回くらいなら貸してあげるよ」と言ってくださるクリスチャン実業家の方とかおられたらいいのですが。
電話も携帯があるので、必要ないですし、コンピューターも持参で、ネット環境も携帯で見れる範囲で十分なんですが・・・祈ってみようかな。


まあ、とりあえず、今日はそんなことを考えながら、
新しいところを開拓に行きました。
そしたら、グランドセントラル駅のすぐそばの食べるところ、
中に「モンゴリアンバベーキュー」がありました。


教会の近所のショッピングモールにもあって、
結構好きで、以前は時々行っていました。
生の野菜や肉や麺を好きな組み合わせで取って、
係の人に持っていくと、その場で炒めてくれるんですよね。
本格的な相撲には小さいけど、尻相撲には大きいような丸い鉄板で焼いてくれます。
その場で、ってのがいいです。


今日も、うれしくて、早速いろいろ取って、
たぶん取りすぎて、カロリーもマクドナルドに負けなかったかもしれませんですが、
おいしくいただきました。


反省としては、うれしくて何でも取ってしまうので、
シーフードと肉といろいろごっちゃになってしまっていました。
次回はもっと落ち着いて、シーフードならシーフードに集中して、
コーディネートしてみようと思います。


あ、NJの店は、重さ関係なくどんぶりに一杯分で何ドルでしたが、
さすがマンハッタン、重さで値段が決まります。
今日も8ドルくらいかかりました。
次回は6ドルくらいを目標に、量より質で勝負してみようと思います。
ちょっと2週間後にすでにわくわくしてきています。


さて、今日の聖書。
今日はハガイ書の2章1-9節でした。


「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。」9節。

ソロモンが建てた前の神殿の壮麗さに比べて、
今の神殿は見た目はそれほど立派なのではありませんでした。

でも、主はその神殿にご自身の栄光を満たそうと約束してくださったのです。

外面的な華やかさや立派さではなくて、
神さまが喜んでくださるかどうか。

神さまが栄光を表してくださるかどうか。

教会もそうなんだろうと思いました。
建物の立派さや、集まっている人の多さではなく、
雰囲気が盛り上がっているかどうかでさえなく、

主ご自身が栄光を表されるかどうか。

これからもっともっとすばらしいことをしてくださる、
と約束と励ましをいただきました。

主よ、
今日の励ましに心から感謝します。
約束通り、あなたの栄光を、これからの教会の歩みの中に、
表してくださいますように。

御言葉に生きる。

今日(というか、11日ですが)も晴れたので、
昼間はそこそこ暖かく感じましたが、
日が暮れるとぐんと冷えてきます。


今、夜の12時半頃ですが、3.2度まで下がってきています。
また今夜も0度ぎりぎりのところまで下がりそうです。


もうすでに雲が広がってきていますが、
明日の夜から雨になって、土曜日まで続くようですね。
そして、週明けからはぐんと寒くなりそうです。


さて、ここでも何回か白状していますが、
説教者はみんなそうだと思いますが、
日曜日メッセージを語ると、
それから1週間、特にその内容について、
実生活の中で問われるようなことが起こってきます。


日曜日の礼拝の中で、
「神さまの支配は、病や、生き死に、仕事、自然界、私たちの人生の嵐などなど、あらゆるところに広がっている、私たちはそれを認めることが大切だ」と語りました。
毎回、一つ一つの言葉が真剣です。


でも、今日の火曜礼拝で同じ言葉を語りましたが、
その中で、ほんとうにこの言葉を受け入れるのは、大変なことだと思わされました。
順調な時はいい。平和な時はいい。
でも、嵐の中で、病の中で、生き死にが問われるような場で、
主の支配をほんとうに信頼していけるだろうか、
私は自分が問われているように感じました。
語ることに畏れ、いや、恐れを感じている自分がいました。


主が示してくださったことだから語る。
でも、人々は、それを受け入れることができない、
それを受け止めることができないかもしれない、
だったら、それは語らない方がいいのだろうか?


決してそんなことはない。


主が触れてくださることを心から祈らされます。


今日(11日)からハガイ書が始まりました。
でもたった3日で終わります。
じっくり味わいたいです。


今日は1章でした。


「あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。」9節。

「日々のみことば」の解説の中に、
「彼らは自分たちの生活が豊かになり、安定し、生活に余裕ができたらという自己中心的な考えでいました。このような考えは、いかにも的を得たように思えますが、彼らは大きな考え違いをしていたのです。」とありますが(ちなみに、「的を得る」という表現は誤りだそうで、「当を得る」か「的を射る」かどちらかである、私の使っているATOK15(古っ)という日本語変換ソフトは文句を言ってきます)、
まさに、私の心を見透かされているかのように感じました。
そりゃあ、経済的にいつも自分の生活を優先している生き方はしていないつもりですが、
「生活が安定し、余裕ができたら、もっと神さまのためにできるのに」と思うこともあります。

自分の生活が先になって、ゆとりができたら、神さまのために・・・と。

それは違うって。

ゆとりができたら神さまのために、ってのは違うってことですよね。
ほんとうにそう思いました。
そのようにいきたいと思いました。

すべてが主のために生きる。

主のために生きることを楽しむ。
いや、主と共に生きることを楽しむ、かな。

主の家のために走り回ります。

主よ、
あなたの語りかけを感謝します。
あなたを第一として、具体的に、第一として歩むことができますように。
その祝福を大胆に語る者であらせてください。
その祝福を証する者とならせてください。

2008-11-10

御声を聞く。

今日3回目の更新。
追いつきました。


で、今日は昼間も10度くらい。
夜になってまた冷え込んできて、
今、夜の12時で3.6度。
明日の朝は久しぶりの氷点下かも。


天気は水曜日くらいまではいいようですが、
その後はまた雨。


それもまたちょっとぐずつくみたいですね。
昨日の日曜日に久しぶりにすかっと晴れて、
ほんとうにまぶしく感じましたが、
また、週の後半どんよりや雨の日が多くなりそうです。


さて、今日は午後、冷蔵庫の中を見て、
おからが2週間くらいずっと入ったままになっているのに気がついて
(もちろん、パック入り)
おからチキンナゲット を作りました。
数ヶ月前に何回か作って、好評+安上がりのメニュー。
時間がなくなって、揚げるのはのんちにまかせましたが、
おいしかったです。


で、6時頃に出て、NYで井上先生ご夫妻のお話をもう一度お伺いしました。
今回はたっぷり時間があって、
ゆっくり伺うことができて良かったです。


その中で、ご夫妻がお二人とも、
「主がこういう風に語ってくださったんです」
と何度も言われていたことが
心に留まりました。


主が心に語ってくださる声に聞くこと。
先日もここに書きましたが、聖霊様の語りかけに、
従っていくこと、その大切さを思いました。


そう、わたしの場合「これはどうかなあ」って考え過ぎなのかも。
「自分の思いこみだったら・・・」と思って何もしないでいることがどれくらいあることか。
もっともっと単純に、心に響いてくる声に聞いて、従っていこうと思いました。


そして、それと共に、多くの初めてお会いする方々がおられたのが喜びでした。
直前まで「NY行こうかなあ、どうしようかなあ」と思っていたのですが、
神さまの導きを感じて、行ってよかったです。


最後は英語の教会に行かれているご近所の方にも初めてお会いして、
一緒の車で帰ってくることもできました。


ああ、この方々とお会いするために今日は導かれたんだなあと思いました。


さて、今日の聖書。
今日はピリピ人への手紙の最後。4章10-23節。


「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」19節。

昨日の夜、役員会で予算案を話し合っていた後なので、
ほんとうにこの言葉が主からの語りかけであると感じました。

主の豊かさを疑ってはいけない。
すべての必要を満たしてくださる、という約束を信じよう。

個人的な必要も、
教会の必要も、
主が満たしてくださる。
主が与えてくださる。
わたしは主の導きに従って、
ビジョンを語り、
行動していくこと、
それが使命だと思いました。

この地域の子供たちのためにできること、
次の世代をになう若者たちのためにできること、
また、親の世代、またシニアの世代の心の叫びに耳を傾けていくこと。
真剣に祈り、具体的に行動に移し、
神の御業を見ていこう。
必要なものがあったら、それは神さまが与えてくださるから。
主よ、
あなたが与えてくださった平安と確信の故に感謝します。
あなたはあなたの豊かさをもって、私たちの必要を満たしてくださる方であることを心から感謝します。
それを信頼して一歩踏み出していきます。
主よ、よろしくお願いします。



JOYJOYシンガーズ2回目。

土曜日はJOYJOYシンガーズの2回目の練習。
小学生以下の数は前の週と同じ5人。
でも中高生が5人になったので、
すごくにぎやかになって、華やかになって、
前の週に練習した子もちゃんと歌えるし、
先週よりも3倍くらい、良くなりました。


この調子で毎回3倍良くなっていけば、
来週は最初の9倍、その次は27倍、その次は81倍、その次は243倍、
その次は・・・すごいたくさん・・・と良くなって、
来年のクリスマスの頃には、
ウィーン少年合唱団もびっくり!になるでしょう。
もうカーネギーホールも夢ではありません。
ミラノのスカラ座でミュージカルをやることになるかもしれません。
(スカラ座はオペラかな?)


こんな楽しいことをやっていいのだろうか?っていうくらい楽しいです。
やばいですねえ。
あ、でも何ヶ月かやっていると、
きっと、野球選手の「2年目のスランプ」みたいになって、
壁にぶち当たって、
「俺たちって才能ないよねえ」「ここまでは順調に来たけれども、どうして?」
「これ以上上達しないのだろうか!?」とか悩むんでしょうねえ。
そして、その壁を乗り越えた先に、飛躍がある!って感じ?

ああ、考えているとわくわくしまくり。


でも、気をつけて「あの牧師は子供たちのことばっかり考えている」って言われないようにしないと。ホント、大人のために使っている時間の方が何倍も多いんですが、こうやってはしゃぎすぎると誤解されちゃいますよねえ。そうそう、来年の教会の歩み、全体にわくわくしてきた今日この頃です。


さて、日曜日の聖書。
日曜日は、ピリピ4:1-9でした。


「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」6-7節。

人のすべての考えにまさる神の平安、という言葉が心に留まりました。
私たちが神さまから与えられる平安は、人間の想像が及ばないもの、
ほかのところで経験しようと思っても経験できないようなもの。

その平安が私たちに与えられている。
私たちに与えられる。

どんどん実行しなければ、ですね。

昨日も役員会で来年度の予算案がまとまりましたが、
やっぱり収入的にはタイトな中で、
これはやらせて頂きたい、ということを出していくと、
どうしても支出は大きくなっていきます。

「思い煩わないで、祈りなさい!」
足下の一歩目から、始めようと思わされました。

主よ、
これは実行しないとダメですよね。
思い煩う暇があったら祈る。
思い煩いが襲ってきたら、神の前に自分の願いを見てもらう。
そのときに与えられる平安、それを経験したいです。
この世のものではない平安、もっともっと経験したいです。


神の支配の下に。

昨日、寝る前には、「風邪引くかなあ~」って感じで、
今日予約していたのですが、もうあきらめようと思っていました。
1年4ヶ月ぶりの献血。

日本みたいに街頭でやってたら、「ふら~」っと入ることもあるでしょうが、
こちらでは、そういうのがないので、なかなかそんな気にならないです。
だから、電話がかかってくると、出かけていきます。

まあ、そんなことで先週電話をもらって、
電話では、「ほんとうに足りないんです」と言われて、
何とかしようと思います。
「じゃあ、来週の月曜日」って約束をしていました。


で、今朝起きたら、なんと、元気!
昨日の役員会でも出てきた、
「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」ヤコブ4:17の言葉も心にあったので、ちょっと休みたい気持ちもありましたが、これくらい元気だったら大丈夫だろう、と行ってきました。


そしたら、いつも思うのですが、
すごいおじいちゃんとか、結構来ているんですよね。
昼間だし、若い人はあまりいない。


75歳まで献血できるそうですが、
もっと行ってるんじゃないの?(失礼)という方もおられるんですよねえ。
そんなおじいちゃんたちの姿を見るたびに、
来て良かったな、と思います。


体重も110LB(50キロくらい?)以上
ということで、何とか(うそ)クリア。


ヘモグロビン量が15.6。
前回  よりも上がっています。
ほどほどに濃くて、いいです。
これが低いと朝起きるのつらいんでしょうねえ。


血圧も上が118で下が78とホントに健康体。
これが低くても朝起きるのがつらいんでしょうねえ。


前回も書きましたが、
健康が与えられていること、
献血ができる身であることに、感謝します。
やがて、いつかわかりませんが、最高であと30年したら、
できなくなるわけで、できる時にできることをさせて頂くのはうれしいです。


でも、今日思ったのですが、
怪我をしたら、どくどく血が出たらコワイですよねえ。
それが献血なら400CCくらいなんてことない、
10分くらい寝てる(眠ってるじゃないよ)うちに血が採られて、
終わった後、手を挙げて、強く押さえて止血すればいい。
それはどうしてなんでしょうかねえ。
やっぱりコントロールの元に置かれているからでしょうか?


昨日の礼拝で「私たちの健康も、生き死にも、仕事も、嵐もすべて神の支配の元にある」とお話ししましたが、ほんとうは神さまのコントロールの元にあるから安心していいのに、全然心配しなくていいのに、それが見えなくなって、焦ってしまうこと、たくさんあるなあと思います。


今のわたしを取り巻く状況も、
神さまが御手の中に置いていてくださる。
だから、主を信頼していこうと思いました。


さて、土曜日の聖書。
土曜日はピリピ人への手紙3章15-21節。


「兄弟たち。私を見ならう者になってください。」15節。


今使っている弟子訓練のテキストにも出てくるのですが、
自分は「わたしを見習ってください」と言えるだろうか?
考えさせられました。

多くの場面で、
「わたしを見ないで主を見てくださいね」と言っています。
それは自分の弱さを知っているから、
自分は自分の愚かさや、罪深さや、弱さを知っているから。

でも、その弱い中で、
主を見上げて歩む、その姿を、「見習ってください」と言うことができないのか。

それができないなあ、と思っているのは、
もしかしたら、また「わたしはもっと立派になったら、もっとクリスチャンとして理想的な歩みができるようになったら、牧師として、円熟したら、わたしを見習ってください、と言えるようになる」と傲慢にも思っているのだろうか?

ただ、甘えて、逃げ道を造っていただけなのだろうか?

わたしはどこまで行っても、罪人。
情けないヤツ。だらしなさに自分で嫌になることもある。
でも、そんな中で主を見上げて、主に目を上げながら歩んでいる姿は、
他の情けないヤツに、見習って欲しいことなのではないだろうか?

主よ、
わたしをこのままで受け入れてくださっていることに感謝します。
あなたの恵みの中で歩むことをもっともっと経験させてください。
あなたの恵み深さをもっともっと経験させてください。
そして、その喜びに満たされて、
イエスを受け入れた人たちに、「わたしに見習いなさい」と言うことができますように。

2008-11-09

2連敗。

昨日、今日とちょっと隙間がなくて、
オマケに今朝は久しぶりに寝坊して朝起きたら6時すぎてて、
今夜も遅くなったので、2連敗です。
いろいろ聖書から教えられることはあるんですけどね。
それから、JOYJOYシンガーズも楽しいし、
いろいろエキサイティングなことはあるのですが、

書く時はそれなりにゆっくり書きたい。

たぶん明日中には復活でするでしょう。

ではでは。

2008-11-07

小春びよらなかった。

いやあ、今日は小春びよらかなったですね。
晴れませんでした。ほとんど一日どんより。
気温も朝から16度くらいあったのですが、
20度直前でストップ。


夜には雨が降ってきました。


明日は雨が降ったり止んだり。
気温はもう一日高め。


でも、夜には風が南から北西に変わって、
日曜日から火曜日まで、昼間は10度くらい、夜は0-3度くらいの、
11月らしい寒さになるようです。


そして、来週一週間は何となくそんな感じですが、
その次の週はぐっと冷え込むと思います。
MY初雪もそこらへんに期待できそうです。


今日は早速聖書。
夜更かしをしないように・・・。


ピリピ人への手紙3章1-14節でした。


「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」9節。

神さまからの義。
自分の力、自分の信仰深さ、
そういうことではなくて、
神さまの恵みによって、義とされる、
それなくしては生きられないことをもう一度覚えました。

パウロも自分が誇りたいものをたくさん持っていた。
でも、それがイエスを知った時に、
必要ないものであると共に、
邪魔なモノでさえあることを、感じたのでした。

わたしもそうです。
だから、主から力をいただくことだけ、
主の恵みによって赦されていることを覚えることだけ、
その大切さを覚えたいです。

そして、もう一度、主とつながるこの祈りの場が、
わたしと教会にとって生命線であることを感じました。

今朝も書いたように、
聖霊様の導きに敏感であること、
従順であることの、大切さを覚えます。

主よ、
あなたと共に歩めることに感謝します。
あなたがもう一度わたしを招いてくださったこと、
受け入れてくださったことに感謝します。
どうか、あなたとの交わりの中に生かしてください。




聖霊さまに聞く。

昨日は夕方NYに行きましたが、
早く帰ってきました。
ダウンタウンを8時半すぎに出て、
家に着いたのが9時45分。
地下鉄も、バスもちょうどいいタイミングできてくれて、
とても効率のいい時間の流れで
とても気持ちが良かったです。


でも、裏を返せば、時間がうまくつながらないと、
イライラしてしまう自分がいます。
人とお会いしたりして、有意義な時を過ごすならば、
遅くなることはそんなに苦にはならないのですが、
乗り継ぎとかの時間がつながらないのは苦手。
未熟ですよねえ。
乗り継ぎがうまくいかない時も、
それは神さまの御手の中にあること、
忘れないでいたいと思います。


読むものとか、ちゃんと持って歩かないとダメですよね。


そう、寝過ごした時も、乗り過ごした時も、
忘れ物をした時も、
主の御手の中にある。
雨の日にも、嵐の日にも、風の日にも、雪の日にも・・・。

で、早く帰ったのですが、
いろいろあって、更新は遅れました。
なんとしてでも夜更かしはやめようということで。


今日は暖かくなる予報が出ています。
20度くらいまで上がるんだそうで。
まさに小春日和、でしょうか。


でも、明日は雨で、日月は秋らしい冷え込みになるようです。


昨日の夜、
日本のある方とのコミュニケーションの中で、
聖霊様の声を聞くことの大切さを再確認させられました。


何か耳に聞こえてくるわけでもなく、
幻が見えるわけでもありません。


あ、でも、先日、ゲストの先生にお伺いしたのですが、
その先生の恩師の牧師さんは、
どちらかというと学者肌、社会運動とかに関わる方で、
「聖霊さま」のことなんてあまり考えていなかったそうですが、
ある日、車の中で、聖霊様の炎に包まれてしまったそうです。
そして、がらっと変わってしまったそうです。
だから、そういうこともあるようです。聖霊様の勝手です。


でも、多くの場合、内なる声が聞こえてきます。
それに対して、「いいえ、わたしはこれをしたいのです」と拒否をしていると、
いつの間にか、その声が聞こえなくなってしまう。


聖霊様は悲しまれて、身を引かれるのだと思います。


わたしもそれを自覚していました。
だから、昨日の夜、そして今朝の祈りの中で、
聖霊様の内なる静かな声に従っていこうと思いました。


さて、昨日、11月6日の聖書。
昨日はピリピ人への手紙2章19-30節。


「 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」20-21節。

自分は何を一番心配しているだろうかと思いました。
人々のことに心を配っているだろうか?
自分のことで精一杯になっていないだろうか。
愛を与えて頂きたいと思いました。

もっともっと人々を愛し、
人々の必要を覚え、
人々が神さまに近づいて、
祝福をいただいて、
喜びにあふれて歩むことができるようにと、
そのことを求めて、そのことを第一に求めて
歩んでいきたいと思います。

主よ、
どうか、自分のことでいっぱいいっぱいにならないで、
人々を愛し、仕える者となることができますように。
あなたの愛を与えてください。
テモテに与えてくださった愛の心を、
わたしにも与えてください。

2008-11-05

ハジ、新聞に写真が載る(ちょっと)。

今日は夕方から暖かい雨。
明日も雨が残ると思います。
そして、金曜日は晴れて暖かくなるでしょう。
土曜日にはまた雨。
日曜日からはまた冷えます。


晩秋ですね。


さて、表題の件ですが、
おとといの朝、ハジが新聞のスポーツ欄を見て、
「お、俺出てるじゃん。」


地元紙Bergen Recordの高校スポーツ欄の表紙に載っていたんですねえ。
それが、オンライン版でも・・・。


これがスクリーンショット。






こちらがその写真の部分。




主役は敵のチームの子で、ハジは背景の一部です。
ピントもちゃんと前の二人に合っていて、
ハジはめちゃぼけています。
でも、はっきり本人だと確認できますし、
泥まみれの青春をしていることがわかりますよね。


実はこの試合のあった日、帰りの車の中で、機嫌が悪いこと悪いこと。
大切な試合に惜敗して、ホント悔しかったようです。
まあ、実質的に、これで高校サッカーは終わり。
明日がホントの最終戦になるようです。


小学校の頃から、楽しんできたサッカー。
つい、2-3年前までは、親もよく応援に行っていたものです。
たくさんの気持ちいいプレーと、もっとたくさんの悔しい経験。
これからの歩みの中で、きっと大切な宝物になっていくことでしょう。


さて、今日の聖書。
今日はピリピ人への手紙2:12-18。


「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」(15-16節)

「日々の御言葉」で、救いの達成の目標は、
1.非難されるところのない純真な者となる。
2.世の光として輝く。
とありましたが、そういわれるとそうなんですね。
あまり、今まで意識したことがありませんでした。

何となく「信仰の成長」と漠然と受け止めていたと思います。
でも、それは具体的には、
上の二つのことなのだと受け止めると、
もっと焦点が絞られていくように思いました。

純真な者になる。
そして世の光として輝く。

大きな課題ですね。
でも、このことを実現に至らせるのは神さま、
というのが、また大きな励ましです。

主よ、
あなたが与えてくださっている、
わたしの信仰の目標の故に感謝します。
純真なものにならせてください。
世の光とならせてください。
あなたの御手の業を信頼します。

「あなたはわたしの子だ!」

昨日はまた帰りが遅くなったので、
更新が遅れました。


で、昨日は、お客さんのご希望で、Brooklyn Tabernacleの祈り会。
折しも、大統領選挙の日。
開票作業が始まる中での祈り会、
家にいたら、テレビの前にいるだろうなあ、と思いながら、
主の前に出る一時となりました。


最初から、「だれが大統領に選ばれようとも、私たちの主はイエスです。」と
当然のことなのですが、浮ついた心が引き戻される思いになる言葉で、
祈り会が導かれていきます。


投票権がない私にとっては、
どっちがいいのかなあ、とはっきりしない態度でも赦されるこの日。
もしも投票権があったら、もっと真剣に考え、聞き、祈っていたかなあと思い、
自分の無責任さに恥じる思いもあります。


最近の民主党の同性愛結婚や妊娠中絶に対する容認の姿勢は行き過ぎていると思うし、
かといって、共和党の外交や経済の政策に賛成できるかというと、
ちょとなあ、と思うし、もっともっと知らなければ決断できないことが多いと思います。

「だれが大統領になっても、私の主はイエスです」というのは、
確かで間違いはないのですが、
それと共にもっともっと関心をもって知るべきものがあると思わされました。


そして、昨日はCymbala牧師が不在で、ゲストスピーカーが来られました。
Long Island でTeen ChallengeというプログラムをしているJimmy Jack師 。
薬物中毒やアルコール中毒の子供たちの救出のプログラムです。


彼がどのように救われたのか、メッセージの中でも語ってくださいましたが、
ここにもっと詳しく書かれています。 (英語ですが・・・)


彼自身の経験もすごいインパクトがあったのですが、
私自身が語られたのは、彼が開いた聖書の言葉です。


「父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください」
ルカによる福音書の15章の「放蕩息子のたとえ」で、
弟息子が父親に遺産を分けてもらうところです。


これはお父さんに「あなたの存在はいらないけれども、あなたがくれる財産は欲しい」と言っているようなものだと。


夫が妻に「あなたはいらないけれども、あなたの稼ぎは欲しい」と言われたらどうでしょうか?
妻が夫に「あなたの存在はいらないけれども、家事はやって欲しい」とか、
「あなたはいらないけれども、あなたのカラダは欲しい」と言われたら、どうでしょうか?


でも、私たちはそれと同じことを神さまにしていないだろうかと、問われたのです。


経済的安定、健康、家庭、仕事、・・・
そのようなものを求めていながら、神さまご自身を求めていなかったら・・・。


だから、弟息子がすべてを失って、
お父さんのところに帰ろう、使用人でもいいから・・・、と帰っていく時に、
まさに「ほんとうの自分に戻った」のです。


そして、「自分には息子と呼ばれる資格はない」と思っていた息子に、
父は、「いや、おまえは私の息子だ!」と言ってくれる。


Jimmy師自身がそうですし、また彼が出会う多くの子供たちが、
「おまえはわたしの子どもだ!」と愛をもって受け入れられた経験がありません。
もっと恵まれているように見える日本の子供たちの中にも、同じことが言えます。
もしかしたら、NY・NJにおられる日本の方々の中には、
そのような痛みがあるからこそ、ここにおられる方々、
そのような痛みがなかったら、ここには来なかったのではないか、という方々が、
たくさんおられるのかもしれません。


そんな私たちに対して、
「おまえはわたしの子どもだ!」と語ってくださる神。
その声を聞くことの大切さ、
また語り続けること、伝え続けることの大切さを思わされます。


神は、ご自身の元に帰ってきた者たちを迎えます。
「おまえはわたしの子どもだ!」と。


さて、昨日の聖書。
昨日はピリピ2章5-11節。


「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり・・・」7節。

教会の一致のことを思わされている時に、
この言葉が心に響いてきました。
主がそうしてくださったように、
仕えること。仕える者として歩むこと。

そして、このイエスを主とすること。
この方の前にひざまずくこと。

月曜日に思わされたことにあわせて、
主が歩まれたように、わたし自身も歩むこと、
その歩みに教会の一人一人を招くこと、
その大切さを思わされます。

主よ、
あなたが仕えてくださったように。
わたしも仕えることができますように。
仕える者とならせてください。

2008-11-03

2つの大切な言葉。

夜になりました。
今は9時すぎですが、10度以上あります。
今夜はあまり冷えないようです。


明日からも気温は高めなのですが、
天気はちょっとどんよりで、水曜日の夜からは雨が降るようです。

1年限定で無料で見れるTV Japanですが、
1ヶ月が経ちました。
やっぱり見ちゃいますよね。
1年後、すぱっとやめるのは難しいかも・・・。
だから、プロモーションなんですよね。


相手の作戦がわかっていながら、それにまんまと引っかかってしまう自分がコワイ。


で、最近ここでやっている「斎藤さん」。
1年くらい前に日本テレビでやったドラマみたいですが、
第4回を見ました。


空気を読んでものを言う、のを期待されることに
最近めちゃくちゃ反発を覚えていましたから、
このドラマは痛快です。
でも、コワイ。
ママたちの陰口もコワイし、「そんなことして気持ちが良かった?」と聞くママさんたちののリーダー格の人の言葉もコワイ。


でも、この第4回。ほんとうに心が動かされました。
「悪いことをした時に、心が痛いでしょ、コワイでしょ、それを忘れないで。」と子どもに教えるところ。


私たちは子供たちがあんまり心が痛む経験をして欲しくなくて、
大切なところを子供たちが通ることを邪魔してきているのではないかと思いました。


私もJOYJOYに来る子供たちに、2つの大切な言葉、という話を時々します。


「ありがとう」


そして、


「ごめんなさい」


これが言える人がほんとうに勇気のある人。


でも、「ごめんなさい」も時にはインフレを起こして、
安っぽい言葉に成り下がってしまう時があります。


悪いことをした時に、
嘘をついた時に、
心が痛くなる、怖くなる、
それを深く深く感じることがなくて、
ただ、「怒られるから」だけで「ごめんなさい」を言う、
そんな子供たちになって欲しくない。
そんな大人になって欲しくない。


そして、何よりも、自分もそんな大人になっていないだろうか、
そう思います。
そして、「悔い改めるなら赦される」というのが単なる甘えになってしまって
「心が痛くなる」ということを経ないで安易に解決していることがないだろうかと、
思わされます。


イエスが十字架にかかるほどの大きな犠牲が払われた、
という事実を忘れないように・・・と思います。


さて、今日の聖書。
今日はピリピ人への手紙1章27節~2章4節。


「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」2章2節。

人が集まっている教会が一つになるってどういうことなんでしょうか?

いつの間にか考え方が同じになっている?
小さなところでは違いがあっても、大きなところでは一致できる?
適当に距離をとりながら、上手にやっていく?
誰かが強力なリーダーシップを取って、みんなが「あの人が言うなら」と思って進んでいく?
違った考え方を持った人がいなくなって、同じ考えの人だけが残る?

主の前にひれ伏して、神さまをほんとうに主として歩んでいく、
そこで、「私の夢」「私のビジョン」ではなくて、
主に従う者たちの集まりとして、一つになっていく、
それが主にある一致なんだろうなあと思います。

だから、一人一人が主の前にひれ伏しているか、
心砕かれて、自分が主人じゃなくて、神さまが主人、と言う歩みをしているか、
そこが問われているんだろうと思います。

主よ、
私はあなたを主としているでしょうか?
私が自分を主人とする時があるならば、
あなたがそれを示してください。
教えてください。
そして、あなたを主として歩んでいくことができますように。


そのような者たちの集まりである教会が、
一つになる、という奇跡を見せてください。

「しまじろう」その後。

今朝起きたら、雨が降ったみたいですね。
気温は昨日寝る時は1-2度まで下がっていましたが、
朝起きたら6度くらいありました。


今日も暖かかったですし、
今週はずっと暖かいようです。


TOYOTAのしまじろうCMの話、
書き込みコメントはいただけませんでしたが、
実は大反響で、週末いろんな反応をいただきました。
投票結果は「だよね~」「聞こえる、聞こえる」「英語の方もそう言われれば・・・」が主流で、
「一発で聞こえた」が2票でしたが、
日曜日も「私も『しまじろう』派です」という方、
「英語一発だよ」という方、
それぞれでした。


でも、私が話題にする前に、
こんな記事が出ていました。
http://ameblo.jp/k2at/day-20081013.html
これはもうオバマ氏もびっくり、全米的な現象です。


きっと、きっと、
「隠れ『しまじろう』派」もたくさんおられると思いますよ。


分析してみると、
「しまじろう」の子音は s-m-j-r
「saved by zero」の子音は s-v-d-b-z-r

「同じなのは最初と最後だけじゃん!」と思われるかもしれませんが、
jとzはかなりにていますし、(日本語の「じ」は原則「ji」ですけど「zi」にもなりますよね)
そして、「vdb」をいっぺんに言うと「m」に聞こえるんですねこれが・・・


というのはちょっと無理がありますが、
v,dには母音がつかないので、聞こえなくなり、
たぶん、「b」も「m」もくちびるを閉じて発音するので、
兄弟みたいな関係で、似たような音になることがあります。


個人的には、「ママ」(mama)が年を取ると「ババ」(baba)になるのも同じ系列だと思っています。


まあ、もっと広い視野で物事を見るならば、
英語のwaterが「ウォーター」よりも「わら」の方が通じるという現象も、
「What time is it now?」が「ほったいもいじるな」だったり、
「どういたしまして」が「Don't touch my mustache.」だったりする現象と
共通するものがありますよね。


もっと広く考えれば、江戸っ子は「ひ」と「し」の区別ないし。


もう、収拾がつかなくなりそうなので、今日はこれくらいで・・・。

さて、昨日の聖書。
昨日(11/2)はピリピ人への手紙1章12-26節。


「それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」20節。

「キリストがあがめられるため」
いつもいつも「私たちの生きることの目的はこれです」と言われることですが、
昨日はこの言葉がほんとうにそのように生きたいと思いました。
私の人生の目的は神さまの栄光が表れること。

神さまのすばらしさが人々にあがめられること、
人々に伝わることが私の願いです。

ほんとうにそのように思いました。
もちろん、うっかりしていると、自分が目立とうとしたり、
自分を喜ばせることを考えてしまう場面もあります。
そんな自分もまたほんとうです。

でも、神さまのすばらしさを知る人が起こされることが、
また喜びです。

昨日も、井上先生のお話をお伺いしながら、
先生をとおして、神さまのすばらしさを感じていました。

もっともっと神さまのすばらしさがあがめられますように。

主よ、
私の人生を通して、
一瞬一瞬を通して、
あなたのすばらしさを表してください。
それを喜ぶ自分でいられますように。

2008-11-02

南の方は大雪だったらしい。

今夜は一時間長いんですよね。
今、2日の12時45分なんですが、
あと1時間ほどしたら、時計が1時間前に戻ります。
つまり1時59分の次は2時じゃなくて、1時になるわけ。
何とか、その瞬間を見る前に夢の国に旅立ちたいと思いますが、
とにかく、1時間得をするのは助かります。


だからといってゆっくり起きていたら元も子もないのですが・・・。


で、土曜日も暖かい一日でした。
でも、夜になってちょっと冷えてきていると思います。
今7.7度。明日の朝は1度くらいまで下がるようです。


あ、それで今日、明日の礼拝でお話ししてくださる井上先生が来られたのですが、
送ってこられたプリンストンの先生によると、
あっちの方は結構降ったみたい。
井上先生が泊まられた、North Brunswickでは、
まだ葉っぱが落ちていなかった木の枝に雪が積もり、
その重みで枝があちらこちら折れていたそうです。


不思議ですね。こちらは降ったか降らなかったか、なのに、
南の方が結構大雪だったなんて。


うらやましい・・・。


土曜日は待ちに待ったJOYJOYシンガーズのスタートの日。
元気なみんなが8人集まりました。
まるで初めてじゃないかのように元気に歌ってくれました。
これはいける!って感じ。


でも、もっともっと団員募集です。
ファーストステージはJOYJOYクリスマス。のつもり。
たぶん、12月21日。
集中して練習して、元気な楽しい賛美があふれるようにと祈ります。


夕方には元ヤクザの井上先生ご夫妻が来られて、
夕食をご一緒しながら、楽しい一時を持ちました。
ホント楽しいご夫妻です。
時間を忘れて、そして、今夜が1時間長いと言うことでゆっくりと時間を過ごさせて頂きました。先生方にとっては時差ぼけの中で、1時間長かろうが短かろうがあまり関係ないかもしれませんが・・・。


明日の礼拝では、ご自身がそのようなところから救われた喜びを語ってくださいます。
明日の礼拝が楽しみです。


さて、1日の聖書。
1日からはピリピ人への手紙の1章に入りました。
1章1-11節。


「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」6節。

神さまが、私たちを完成へと導いてくださる。
なぜなら、主は私のうちに良い業を始めてくださったから。
神さまが救いの御業をなしてくださったのだから。
完成のためにも力を注いでくださる。

主は私たちのことをそのままにはしておかれない。
私たちはありのままで主の前に行く、
でも、主は私たちをそのままにはしておかれない。

完成に向けて、私たちを導いてくださる。

だから、そこに身を委ねていこう。
神さまが私を作りかえようとなさるならば、
喜んで作りかえて頂こう。

そして、その御業が教会の一人一人のうちに実現することを
本気で祈っていこう。主はそれを約束しておられるのだから。

主よ、
あなたは私のうちに救いの御業なし、
そのままにしておかれないで、
私を完成に向けて、導いてくださる。
感謝します。
これからも、あなたの御手の中で歩みたいです。
完成へと導いてください。
私をあなたの御心のままに「完成」させてください。

2008-11-01

豊作。

昨日はハローウィーンでしたが、
ほんとうに暖かくなりましたね。
たくさん子供たちが歩き回っていました。


でも、ハローウィーンに紛れて、強盗に入る悪いヤツもいれば、
どんな事情があったのかわかりませんが、
やってきた若者を射殺した、という事件もありました。


子供たちが仮装するのはかわいくていいのですが、
大人がそれに便乗して悪魔的な格好をしたり、
馬鹿騒ぎをするのは勘弁して欲しいです。


今日はまたそこそこ暖かくなるでしょう。


昨日の夜はまたNYで弟子訓練があったのですが、
その中で気がつかされたこと。


ルカによる福音書の5章で、
イエスがこれから「あなたを人間を取る漁師にする」と漁師たちを招く時に、
先に豊漁を見せてくださったことの意味を思わされました。


豊漁を見せられないで、「あなたを・・・」と言われるのと、
豊漁を見せられて、「あなたを・・・」と言われるのと、
弟子たちの心に起こったイエスに従う者たちの歩みの将来に対するイメージは
どんなに違っただろうかと。


考えてみたら、
イエスの収穫のイメージはいつも豊か。
この場面でも、
水を葡萄酒に変える奇跡でも、
5つのパンと2匹の魚の奇跡でも、
4つの種のたとえでも、
羊飼いのたとえでも、
いつもいつも豊漁、豊作、豊かさ、必要以上、が強調されている。


それに対して、自分が神さまに期待するのはどうだろうかと思わされました。
ほんとうにその神さまの豊かさを信頼しているだろうかと。


もちろん、十字架を負う道であり、
自分の弱さを見せつけられる道です。


でも、それと同時に、
もっともっと神さまの豊かさを経験させられる道なのだと。


もっともっと大きく、豊かに神さまに期待し、信頼していこうと思いました。


さて、昨日、11/31の聖書。
昨日は詩篇の64篇でした。


「だれに、見破ることができよう」5節。

そうですよね。
私たちはそう思います。
「わかりはしない」と。

そして、被害を受ける時も、
「わかってもらえない」と。

でも、主は必ず隠れたことを明らかにされる。

だから、畏れ、
だから、安心して、
だから、信頼して、
歩んでいくことなんだと思います。

どんな状況になっても、
自分の芯がぶれない、
そのような歩みが必要だと思います。
主に目を向けると、そのような歩みをさせて頂けるんですね。
感謝。

主よ、
あなたの与えてくださる平安、
すべてがあなたの御手の中にあるんですよね。
だから、安心して、あなたに任せます。
すべてを守り、導いてくださいますように。







2008-10-31

すり込み。

投票ありがとうございました。
28-29日に初雪を見た、という方が2人。見ていないという方が5人。
サキとハジの友だちを入れて4人は見たというのですから、降ったんでしょうね。たぶん。
まだ締め切っていないので、今からでも投票お願いします。


でも、マイ初雪がまだの方、私を含めてですが、たくさんおられますので、
また次回を楽しみにしましょう!


昨夜も「無理は禁物」モードで、
12時ちょっと前に帰ってきて、
おとなしく休みました。


でも、寒かったですね。
帰った時の気温が1.5度。
今朝起きたらー1度でした。


今日は昨日より暖かくなって、15度くらいまで上がるようです。
そして、今夜も冷え込みは弱くて、明日の朝は楽そうです。


自分のヒアリング力のなさをばらすようで、
恥ずかしい話なのですが、
最近テレビやラジオで流れている、
TOYOTAのCM、こ~んなにたくさんの車が0% financingだよ~というヤツ。
最後になんて歌っているか聞き取れますか?










これ、私にはずっと「しまじろう!しまじろう!」  と歌っているように聞こえていたんです。
もちろん、空耳なんですが、どうしても英語がわからない。
車のCMなので「See ??? on the road!」かな?とも思って集中して聞くのですが、
そうじゃないみたい。でも、わからない・・・。








で、ある日、プライドを捨てて、子供たちに聞いたら、
"saved by zero"だって教えてくれました。
そう思って聞いたら、なんだ、簡単じゃないか、って思うほど、はっきり聞こえるんですね。


80年代の歌を宣伝に使っていたみたい。


でも、それくらい、すり込みって言うか、先入観って大きい。


「しまじろう!」はちょっと無理があったけれども、
そう思って聞くと、そう聞こえてしまうことってありますよね。


ほんとうのことを聞くと、もう迷わない。


人間同士のコミュニケーションの問題もそこにあるんだろうなあと思います。
「あの人はこういう人だから・・・」ってすり込みをされると、
またそういう先入観を持って人と接すると、
ほんとうのコミュニケーションができなくなってしまったりする。
人の言葉を、間違って受け取ってしまったりする。
そして、そちらの方を思いこんで、すべてのことをそのラインで受け取ってしまう。


気をつけなければいけませんね。


さて、昨日、10月30日の聖書。
昨日は詩篇の63篇でした。


「ああ、私は床の上であなたを思い出し、
  夜ふけて私はあなたを思います。」6節。

実は昨日の明け方、夢を見ました。
自分の左手の手のひらに穴が空いていました。
三角みたいな四角みたいな穴が空いていて、
向こう側が見えるんです。

どうしてこんな穴が空いているんだろうかと、考えていたら、
「ああ、そうだ、庭仕事している時に、杭を打って、そのときに、間違って手に穴開けちゃったんだな」と思い出したのです。(たぶん、最近キッチンで爪そいだり、指切ったりしているから?)

そしたら、そばにいたおばちゃんは、「私は二つ空いているわよ」とやはり左手に空いた二つの穴を見せてくれました。

それだけなんですが、妙にリアルな夢で、
目が覚めた時に(時計を見たら4時頃だったのですが)、
一生懸命左手に穴を捜して、「あれ、ない!どうしたんだろう?」と思ったほどでした。

でも、目が覚めた時に、イエスさまのことを思い出しました。
今も、イエスのその手には穴が空いている。
十字架の時に釘を打たれたその手。
穴の空いた手を今も私たちにさしのべてくださっている。
そんなことを寝ぼけた頭で考えていた時に、
心の中に喜びが湧いてくるのを感じました。

そして、昨日の朝、教会に行って祈る時に、
この聖書の言葉を読んで、
あの夢も、神さまからのプレゼントだったんだなあと思いました。

感謝。

イエスよ、
あなたが私のためにしてくださったこと。
あなたが払ってくださった犠牲の故に心から感謝します。
主よ、
あなたが夢を通しても語りかけてくださって、
ありがとうございます。
寝ている時も、覚めている時も、共にいてください。

2008-10-29

初雪ふったらしい。

うーん、今日も雨がぱらぱら降ったり、晴れたり、
の一日で、初雪が降るかなあ、という一日だったのですが、


サキの情報によると(ここら辺がちょっと情けない・・・)、
ランチタイムには雪が降ったそうです。


それで、ユキのことはユキに聞けと、ユキに聞いたら、
「知らない・・・」と素っ気ない返事。


夜になって、ハジに聞いたら、自分は見てないし、信じてないけど、
友だちが「降った」と言っていたらしい。


で、総合的に判断すると、やっぱり降ったんでしょう。
・・・ちょっと歯切れが悪いけど・・・。


で、右のコラムに投票コーナーを作っておきましたので、
NY周辺の皆さんは、「見た」「見なかった」に是非、一票を!


今夜は冷えています。
今10時半ですが、2.7度。
明日の朝は氷点下に下がるでしょう。


昨日の優先順位の話の続きなんですが、
じゃあ、自分の優先順位の中で最初はなんだか、と言うと、
やっぱり、自分自身が神さまから取り扱いをいただくこと、
聖書の御言葉によって養われていくことを第一としたい、
と思ったのでした。


今、それができているか、ということを問われた時に、
昨日は9時過ぎに速攻で寝るべきだと思ったわけです。


今朝も、祈りながら、
決して「豊かな祈りの時間」とまでは行かない
自分にもどかしさを覚えながら、
でも、この時間を大切にしていきたい、
眠くて仕方がなくて、
「神さまごめんなさい、眠いから休みますね」
とは言いたくない、と思っていました。


今日、元気だったのですが、
やろうと思っていたことの何分の一もできなかったことに、
ちょっとフラストレーションを感じてはいますが、
それも、「自分がこの時間の中でできること」への期待が大きすぎたんだと思います。
自分が5時間かかることを、3時間くらいでできるような勘違いをしていたのだと思います。
それとも、3時間、何もハプニングがなく、何も電話への応対や、メールへの返信とかが、
必要がない、絶対集中すればできることを、ハプニングや電話やメールへの応対をしながら、
3時間に収めようとするから、いっぱいいっぱいになるんでしょうね。


3時間でできることを5時間でやるつもりのゆとり、
いつ、予定を変えなくてはならなくなった時にもあわてない心・・・
特にいつでも必要とされる時に対応することの要求される牧師の働きには、
必要なことだと思いました。


さて、今日の聖書。
今日は詩篇の62篇。


「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」1節。

黙ること。
主の前に黙っていること。
訴えることにまさって、
助けを求めたり、
不満を訴えたり、
叫び声を挙げたりすることも大切。

でも、その中で最終的には「黙って」、
主から答えをもらっていく、
主に聞いていく。

そう、一方的に訴えをぶつけ続けるのではなく、
ぶつけたら、黙る、ぶつけたら、聞く。

黙って聞く。
神さまの前以外のところ、
共に祈ってくれる友との間以外のところでは、
がたがた騒がないで聞く。

その平安を与えて頂きたいと思いました。

主よ、
あなたの平安をお与えください。
私があなたの前で黙って、聞く、
黙って待ち望むことができますように。


人々の間で、がたがた騒ぐことがないように。
黙って、主の前に出て、聞く者であることができますように。

優先順位。

昨日、降ったんでしょうかねえ、初雪。
西に10キロとか行ったところでは確実に降ったのでしょうが、
うちのあたりはどうだったんでしょうか?
私が気がついた範囲では、「もう少し!」って感じでしたね。

まあ、この「雪」も、あと2ヶ月くらい経ったら、
「また雪か・・・」となるんでしょうから。
たぶん今年は・・・。

今日は晴れても10度までいかない、寒い日になるでしょう。

でも、明日からはぐっと暖かくなるようです。

次の寒波は11月半ばくらい。
それまでは、「ちょい暖か」「ちょい寒」が交互にやってくる
晩秋らしい季節になりそうです。

毎年、隣の家の木(Mapleかな)が真っ赤に燃えるので、
とてもきれいなのですが、今年はどうしたんだろうと思っていました。
そしたら、今朝、かなり紅葉していることに気がつきました。
あと2-3日でピークでしょう。
その真っ赤な紅葉が終わったら、
最後に街路樹のOakが色づきます。

昨日はまた更新をさぼって寝てしまったのですが、
ここ数日、2-3時間睡眠の日が続いていて、
月曜日も牧師会と翻訳しなければいけないものとがあって、
ちゃんと休めなかったので、
恥ずかしいことに、昨日の集会中に、睡魔に襲われて、
居眠りをしそうになってしまいました。

で、昨日のその集会で、
「優先順位を決める」ことの大切さを学んだので、
「これはいくら何でもまずい」ということで、
夜9時過ぎには夢の国に行ってしまっていたのです。

夜中に起きたら、更新かな、と思っていたのですが、
目が覚めても起きあがるところまでも行かず、
目覚ましが鳴るまで休んでおりました。

で、今朝はスッキリ。
8時間寝ましたからね、とても久しぶりで。

今日の一日も優先順位を大切にしながら、
元気に過ごしたいと思います。

さて、昨日(10/28)の聖書。
昨日は詩篇の61篇。

「どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。」(2節)

私が届かないところにも主が導いてくださる。
自分の力ではどうにもならないことも、
主が助けて道を開いてくださる、
そのことを思わされました。

主はそのことをしてくださる方だ、と。

自分で勝手に「ダメだ」と思っていることがあります。
無理だと思ってしまうことがあります。

確かに背伸びをして疲れてしまうこともあるので、
自分を知ること、大切でしょう。
でも、その上で、主を信頼して、
主に期待して、

私の届かないところにも、
届かせてくださる、そのことを経験させて頂きたいと思いました。

主よ、
あなたが私を私の届かないような、
高いところに行かせてください。
あなたの翼によって、
私を高いところに導いてください。