2008-11-10

神の支配の下に。

昨日、寝る前には、「風邪引くかなあ~」って感じで、
今日予約していたのですが、もうあきらめようと思っていました。
1年4ヶ月ぶりの献血。

日本みたいに街頭でやってたら、「ふら~」っと入ることもあるでしょうが、
こちらでは、そういうのがないので、なかなかそんな気にならないです。
だから、電話がかかってくると、出かけていきます。

まあ、そんなことで先週電話をもらって、
電話では、「ほんとうに足りないんです」と言われて、
何とかしようと思います。
「じゃあ、来週の月曜日」って約束をしていました。


で、今朝起きたら、なんと、元気!
昨日の役員会でも出てきた、
「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」ヤコブ4:17の言葉も心にあったので、ちょっと休みたい気持ちもありましたが、これくらい元気だったら大丈夫だろう、と行ってきました。


そしたら、いつも思うのですが、
すごいおじいちゃんとか、結構来ているんですよね。
昼間だし、若い人はあまりいない。


75歳まで献血できるそうですが、
もっと行ってるんじゃないの?(失礼)という方もおられるんですよねえ。
そんなおじいちゃんたちの姿を見るたびに、
来て良かったな、と思います。


体重も110LB(50キロくらい?)以上
ということで、何とか(うそ)クリア。


ヘモグロビン量が15.6。
前回  よりも上がっています。
ほどほどに濃くて、いいです。
これが低いと朝起きるのつらいんでしょうねえ。


血圧も上が118で下が78とホントに健康体。
これが低くても朝起きるのがつらいんでしょうねえ。


前回も書きましたが、
健康が与えられていること、
献血ができる身であることに、感謝します。
やがて、いつかわかりませんが、最高であと30年したら、
できなくなるわけで、できる時にできることをさせて頂くのはうれしいです。


でも、今日思ったのですが、
怪我をしたら、どくどく血が出たらコワイですよねえ。
それが献血なら400CCくらいなんてことない、
10分くらい寝てる(眠ってるじゃないよ)うちに血が採られて、
終わった後、手を挙げて、強く押さえて止血すればいい。
それはどうしてなんでしょうかねえ。
やっぱりコントロールの元に置かれているからでしょうか?


昨日の礼拝で「私たちの健康も、生き死にも、仕事も、嵐もすべて神の支配の元にある」とお話ししましたが、ほんとうは神さまのコントロールの元にあるから安心していいのに、全然心配しなくていいのに、それが見えなくなって、焦ってしまうこと、たくさんあるなあと思います。


今のわたしを取り巻く状況も、
神さまが御手の中に置いていてくださる。
だから、主を信頼していこうと思いました。


さて、土曜日の聖書。
土曜日はピリピ人への手紙3章15-21節。


「兄弟たち。私を見ならう者になってください。」15節。


今使っている弟子訓練のテキストにも出てくるのですが、
自分は「わたしを見習ってください」と言えるだろうか?
考えさせられました。

多くの場面で、
「わたしを見ないで主を見てくださいね」と言っています。
それは自分の弱さを知っているから、
自分は自分の愚かさや、罪深さや、弱さを知っているから。

でも、その弱い中で、
主を見上げて歩む、その姿を、「見習ってください」と言うことができないのか。

それができないなあ、と思っているのは、
もしかしたら、また「わたしはもっと立派になったら、もっとクリスチャンとして理想的な歩みができるようになったら、牧師として、円熟したら、わたしを見習ってください、と言えるようになる」と傲慢にも思っているのだろうか?

ただ、甘えて、逃げ道を造っていただけなのだろうか?

わたしはどこまで行っても、罪人。
情けないヤツ。だらしなさに自分で嫌になることもある。
でも、そんな中で主を見上げて、主に目を上げながら歩んでいる姿は、
他の情けないヤツに、見習って欲しいことなのではないだろうか?

主よ、
わたしをこのままで受け入れてくださっていることに感謝します。
あなたの恵みの中で歩むことをもっともっと経験させてください。
あなたの恵み深さをもっともっと経験させてください。
そして、その喜びに満たされて、
イエスを受け入れた人たちに、「わたしに見習いなさい」と言うことができますように。

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