2008-11-12

御言葉に生きる。

今日(というか、11日ですが)も晴れたので、
昼間はそこそこ暖かく感じましたが、
日が暮れるとぐんと冷えてきます。


今、夜の12時半頃ですが、3.2度まで下がってきています。
また今夜も0度ぎりぎりのところまで下がりそうです。


もうすでに雲が広がってきていますが、
明日の夜から雨になって、土曜日まで続くようですね。
そして、週明けからはぐんと寒くなりそうです。


さて、ここでも何回か白状していますが、
説教者はみんなそうだと思いますが、
日曜日メッセージを語ると、
それから1週間、特にその内容について、
実生活の中で問われるようなことが起こってきます。


日曜日の礼拝の中で、
「神さまの支配は、病や、生き死に、仕事、自然界、私たちの人生の嵐などなど、あらゆるところに広がっている、私たちはそれを認めることが大切だ」と語りました。
毎回、一つ一つの言葉が真剣です。


でも、今日の火曜礼拝で同じ言葉を語りましたが、
その中で、ほんとうにこの言葉を受け入れるのは、大変なことだと思わされました。
順調な時はいい。平和な時はいい。
でも、嵐の中で、病の中で、生き死にが問われるような場で、
主の支配をほんとうに信頼していけるだろうか、
私は自分が問われているように感じました。
語ることに畏れ、いや、恐れを感じている自分がいました。


主が示してくださったことだから語る。
でも、人々は、それを受け入れることができない、
それを受け止めることができないかもしれない、
だったら、それは語らない方がいいのだろうか?


決してそんなことはない。


主が触れてくださることを心から祈らされます。


今日(11日)からハガイ書が始まりました。
でもたった3日で終わります。
じっくり味わいたいです。


今日は1章でした。


「あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。」9節。

「日々のみことば」の解説の中に、
「彼らは自分たちの生活が豊かになり、安定し、生活に余裕ができたらという自己中心的な考えでいました。このような考えは、いかにも的を得たように思えますが、彼らは大きな考え違いをしていたのです。」とありますが(ちなみに、「的を得る」という表現は誤りだそうで、「当を得る」か「的を射る」かどちらかである、私の使っているATOK15(古っ)という日本語変換ソフトは文句を言ってきます)、
まさに、私の心を見透かされているかのように感じました。
そりゃあ、経済的にいつも自分の生活を優先している生き方はしていないつもりですが、
「生活が安定し、余裕ができたら、もっと神さまのためにできるのに」と思うこともあります。

自分の生活が先になって、ゆとりができたら、神さまのために・・・と。

それは違うって。

ゆとりができたら神さまのために、ってのは違うってことですよね。
ほんとうにそう思いました。
そのようにいきたいと思いました。

すべてが主のために生きる。

主のために生きることを楽しむ。
いや、主と共に生きることを楽しむ、かな。

主の家のために走り回ります。

主よ、
あなたの語りかけを感謝します。
あなたを第一として、具体的に、第一として歩むことができますように。
その祝福を大胆に語る者であらせてください。
その祝福を証する者とならせてください。

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