今日もまた寒い日でした。
朝は6時過ぎに出て教会の祈り会だったのですが、その時点で-3度くらい。
昼間も6度くらいまでしか上がりませんでした。
ちょっと買い物に出た時には肩をすぼめて歩く・・・という冬の力の入り方、でした。
明日はイースターで、あちらこちらの教会で早朝野外礼拝をすると思いますが、
かなり寒いのではと思います。
確か、アトランタのストーンマウンテンのてっぺんでもありますよね。
ちなみに、その付近の明日の最低気温は-3~4度C。
かなりきつそうです。
でも山の上からの日の出を見ながらの礼拝、すばらしいでしょうね。
超教派の礼拝のようです。
ここら辺ではそういうところはないのでしょうか?
NJの西の方の山の上とか・・・。
マンハッタンの方から日が昇ってくるなんて、いいですよね。
イエスさまの復活の日曜日を待ち望みつつ。
明日の礼拝の準備、
通訳の方には申し訳なかったのですが、
本当にいろんなことを思わされて、
今日の昼過ぎまでかかってしまいました。
本当に御言葉と格闘する1週間でした。
というか、月報にも書きましたが、
自分にとって、イエスの復活はどんなものなのかをもう一度問われたこの数週間でした。
イースターはアメリカではお祭りムード一色ですが、
2000年前のイースターの朝は、
涙に暮れている人々に、
good newsが届いた日なんですよね。
明日の礼拝も、
痛みの中にある方々、涙の谷を通っておられる方々に、
慰めと癒し、そして立ち上がる力が与えられるような
礼拝となりますように。
今日の聖書。
今日は詩篇の14篇でした。
「おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。しかし、主が彼の避け所である。」6節の言葉です。
悩みの中で、考え抜いて、悩み抜いて歩み出したことさえも、
はずかしめられる、ようなことがあるのだという。
屈辱的なこともあるのだろう。
しかし、そんな時にも、主は私の避け所。
主にこそ救いがあり、
主にこそ答えがある。
Jesus is the answer...という歌があった。
今、自分は本当に主にあって答えをもらいたいと思う。
主が導いておられるのはどこなのかを、教えて欲しいと思う。
そして、どこにあっても、
単純に、イエスを証ししていく者でありたいと思う。
他の何ものでもなく、
主を避け所として、
主を慰め主、癒し主として、
そこに解決を頂いて、歩んでいきたいと思う。
主よ、
あなたに解決があることを、
あなた御自身に答えがあることを、
教えてください。
経験させてください。
2007-04-07
目の輝き
今日も寒かったです。
朝は0度くらいで、最高気温も5度くらい。
冬に戻ってしまったみたいです。
明日も寒いでしょう、ってゆーか、ずっと寒いでしょう。
そしていつ小雪が舞っても不思議ではないでしょう。
NJの南の方では、積るほど降る予報が出ています。
日本は入学式の日でしょうか?
みんな元気に学校いったでしょうか?
今年帰ったS君もR君も・・・。
今日はGood Friday。十字架の日です。
サンディエゴのO倉先生のページにこんな話が・・・。
人の話を聞ける者でありたいと思います。
そう、「どうしてこんな目に遭うの・・・」ということが私たちの歩みの中には起こってきます。納得いかない、どうしてこうなるか分らないことが・・・そんな私たちのところに来て下さった主に感謝。
今日の夜は教会に集まって聖餐式をしました。
イエスさまの十字架をもう一度覚えて祈る時。
とても幸いな聖餐式でした。
「ふさわしくないままで・・・」という言葉。今日は特にズシンと来ました。本当なら私もふさわしくなかった。私もふさわしくない。でも、あの十字架ゆえに、罪赦され、受け入れられている。そして、特別に聖餐式を導く立場を与えられている。厳粛な思いがしました。
今日の聖書。
今日は詩篇の13篇でした。
「私の目を輝かせてください。」3節。
この言葉が心に響きました。
自分の目は今日は輝いているだろうか?
自分では分らないことかもしれません。
でも、「輝かせて下さい、神様!」という思いがあふれてきています。
10年前、JOYJOYキャンプを始める時に、
「皆さんはご存じですか?子供が子供になる瞬間。その目の輝き。JOYJOYキャンプは子ども達の目の輝きを大切にします・・・」なんて文章を書きました。今読んでみるとちょっとくさいかな、と思いますが、あのころは本気でした。子ども達の目が輝くときって、うれしいですよね。
でも、今自分の目は輝いているだろうかと思います。
子ども達の目の輝きを引き出すためには、
僕らが輝いていないとダメだよな、と思います。
教会の一人ひとりの目が輝くことを期待する前に、
私の目が輝いているだろうかと思います。
いつもいつも主から力を頂いて、
主から命を頂いて、答えを頂いて、
輝いて歩んでいけるようにと思います。
どんな状況の中でも・・・。
主よ、
どうか私の目を輝かせて下さい。
私の内側にあなたの光を満たして下さい。
あなたの命にあふれさせて下さい。
朝は0度くらいで、最高気温も5度くらい。
冬に戻ってしまったみたいです。
明日も寒いでしょう、ってゆーか、ずっと寒いでしょう。
そしていつ小雪が舞っても不思議ではないでしょう。
NJの南の方では、積るほど降る予報が出ています。
日本は入学式の日でしょうか?
みんな元気に学校いったでしょうか?
今年帰ったS君もR君も・・・。
今日はGood Friday。十字架の日です。
サンディエゴのO倉先生のページにこんな話が・・・。
人の話を聞ける者でありたいと思います。
そう、「どうしてこんな目に遭うの・・・」ということが私たちの歩みの中には起こってきます。納得いかない、どうしてこうなるか分らないことが・・・そんな私たちのところに来て下さった主に感謝。
今日の夜は教会に集まって聖餐式をしました。
イエスさまの十字架をもう一度覚えて祈る時。
とても幸いな聖餐式でした。
「ふさわしくないままで・・・」という言葉。今日は特にズシンと来ました。本当なら私もふさわしくなかった。私もふさわしくない。でも、あの十字架ゆえに、罪赦され、受け入れられている。そして、特別に聖餐式を導く立場を与えられている。厳粛な思いがしました。
今日の聖書。
今日は詩篇の13篇でした。
「私の目を輝かせてください。」3節。
この言葉が心に響きました。
自分の目は今日は輝いているだろうか?
自分では分らないことかもしれません。
でも、「輝かせて下さい、神様!」という思いがあふれてきています。
10年前、JOYJOYキャンプを始める時に、
「皆さんはご存じですか?子供が子供になる瞬間。その目の輝き。JOYJOYキャンプは子ども達の目の輝きを大切にします・・・」なんて文章を書きました。今読んでみるとちょっとくさいかな、と思いますが、あのころは本気でした。子ども達の目が輝くときって、うれしいですよね。
でも、今自分の目は輝いているだろうかと思います。
子ども達の目の輝きを引き出すためには、
僕らが輝いていないとダメだよな、と思います。
教会の一人ひとりの目が輝くことを期待する前に、
私の目が輝いているだろうかと思います。
いつもいつも主から力を頂いて、
主から命を頂いて、答えを頂いて、
輝いて歩んでいけるようにと思います。
どんな状況の中でも・・・。
主よ、
どうか私の目を輝かせて下さい。
私の内側にあなたの光を満たして下さい。
あなたの命にあふれさせて下さい。
2007-04-06
誰が支配者?
4/5の聖書。
詩篇の12篇を読みました。
「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。」4節。
これは詩人を苦しめる人々の言葉です。
言葉は武器です。
ヒットラーが雄弁であったことはよく言われますが、
妙な説得力を持った人がいると、
その意見にぐーっと人々の気持ちが流れていきます。
私は雄弁な方ではないので、
それほど心配はしていないのですが、
どうしたらわかってもらえるか、どうしたら伝わるか、ではなくて、
どうしたら自分の思った方向にことが進んでいくか、
ということを考え始めたらまずいな、と自戒することがあります。
「誰が我々の支配者なのか」
とうそぶく人々。
自分たちが支配者だと思っているのです。
わたしはどうだろうかと思います。
自分の人生の主人は自分ではない、神様。
神様の支配の元に歩むことがどんなことか、
一つ一つ教えて頂きたいと思わされます。
主よ、
あなたが私の主です。私の王です。
このことが単なる言葉ではなくて、
実際にどんなことを意味しているのか、
一つ一つ教えて下さい。
実生活の中で、あなたを私の王として歩んでいくことを教えて下さい。
詩篇の12篇を読みました。
「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。」4節。
これは詩人を苦しめる人々の言葉です。
言葉は武器です。
ヒットラーが雄弁であったことはよく言われますが、
妙な説得力を持った人がいると、
その意見にぐーっと人々の気持ちが流れていきます。
私は雄弁な方ではないので、
それほど心配はしていないのですが、
どうしたらわかってもらえるか、どうしたら伝わるか、ではなくて、
どうしたら自分の思った方向にことが進んでいくか、
ということを考え始めたらまずいな、と自戒することがあります。
「誰が我々の支配者なのか」
とうそぶく人々。
自分たちが支配者だと思っているのです。
わたしはどうだろうかと思います。
自分の人生の主人は自分ではない、神様。
神様の支配の元に歩むことがどんなことか、
一つ一つ教えて頂きたいと思わされます。
主よ、
あなたが私の主です。私の王です。
このことが単なる言葉ではなくて、
実際にどんなことを意味しているのか、
一つ一つ教えて下さい。
実生活の中で、あなたを私の王として歩んでいくことを教えて下さい。
感謝
日付が変わってしまいました。
昨日、4/5は予想通り、雪が降りましたね。
ヤンキースの中継をしている時にも雪が舞っているのが映っていました。
今は夜中の12時過ぎですが、
0.6度で小雪が舞っています。
これから1週間、いつ小雪が舞ってもおかしくないような
日が続くでしょう。
朝晩は氷点下、昼間は10度止まりです。
今日は連れ合いのBirthdayだったので、
夜は家族でゆっくり過ごしました。
家族とされたことを主に感謝しつつ。
もっともっと理解することができるように祈りつつ。
詩篇の12篇はまた明日の朝に・・・。
昨日、4/5は予想通り、雪が降りましたね。
ヤンキースの中継をしている時にも雪が舞っているのが映っていました。
今は夜中の12時過ぎですが、
0.6度で小雪が舞っています。
これから1週間、いつ小雪が舞ってもおかしくないような
日が続くでしょう。
朝晩は氷点下、昼間は10度止まりです。
今日は連れ合いのBirthdayだったので、
夜は家族でゆっくり過ごしました。
家族とされたことを主に感謝しつつ。
もっともっと理解することができるように祈りつつ。
詩篇の12篇はまた明日の朝に・・・。
2007-04-04
主に身を避ける
今日は予想通りの冷たい雨。
予想よりも寒く、一日中5-6度の寒さでした。
今朝のニュースでは東京も19年ぶりの4月の雪だったそうですね。
こちらもかなり冷たい空気が入るので、
夏の「夕立」のように、
夕方になると、4月の日差しで暖められた空気が上昇して、
積乱雲を作り、そこから雪やみぞれが降ってくる可能性はあります。
明日からは最高気温が8度くらい。
朝晩は-3度くらいの日が続くみたいです。
今日はいろいろ考えさせられる記事に出会った。
asahi.comに行って、
「アスパラクラブ」の中の「家族」という連載。
ここはメンバーになってログインしないと見れない。
でも、無料でメンバー登録をすればいい。
記事によっては朝日新聞を取っていないと読めないけれども、
この連載は取っていなくても読める。
特に今連載している
「ある少年の更生」。
4回連載のうちの3回まで進んでいる。
傷害事件を起して少年院に行った経験のある末息子と、
会社が倒産して150億円の借金を抱える親父。
その心のすれ違いとふれあいを記事にしている。
特にお父さんがクリスチャンになったことで、
聖書の「放蕩息子」のたとえ話になぞらえて話が展開していくのが興味深いです。
一番のテーマは、
息子達のよい子のところを喜ぶ親と、
その期待に答えようと自分を偽る子ども達。
でも、これって本当にたくさんあるんだろうなあと思います。
牧師としての働きの中でも、
「信徒に期待する牧師とその期待に表面的に答えて、自分を偽る信徒達」
ということはあるのではないかと思います。
本当の心の叫びを聞くこと、
それがどれほど大切なことかと思います。
時々、もっと強いリーダーシップを持つべきなのかと思う時があります。
でも、人を黙らせて、表面的に従っていく人々を作ってもしょうがない、と真剣にそう思います。
聞く耳を持ちつつ、伝えるべきことを伝えていく、本質的なところでは一致を求めながら、広さを認めるそんな働きができればと思いますが、「絵に描いた餅」でしょうか。
さてさて、今日の聖書。
今日は詩篇の11篇。
この詩も、敵に脅かされている中で歌われた詩です。
心に留まったのは
「主に私は身を避ける。」という1節の言葉です。
主の許に答えがある、
今朝、そのように思いました。
いろんな声が聞こえてくる時、
そこに恐れを感じる時にも、
主の許に答えがある。
いつもいつも主に聞いていく、
そこからぶれてしまってはいけないと思います。
他のところに身を寄せるのではなくて、
主の許で安らぎをえて、
主の許で解決を頂く、
そのような者でありたいと思います。
主よ、
どうか私を守って下さい。
いつもいつもあなたの元に身を寄せて、
あなたから守って頂いて、
あなたの語りかけを待ち望んで、
あなたの御言葉によって生かされて歩ませて下さい。
予想よりも寒く、一日中5-6度の寒さでした。
今朝のニュースでは東京も19年ぶりの4月の雪だったそうですね。
こちらもかなり冷たい空気が入るので、
夏の「夕立」のように、
夕方になると、4月の日差しで暖められた空気が上昇して、
積乱雲を作り、そこから雪やみぞれが降ってくる可能性はあります。
明日からは最高気温が8度くらい。
朝晩は-3度くらいの日が続くみたいです。
今日はいろいろ考えさせられる記事に出会った。
asahi.comに行って、
「アスパラクラブ」の中の「家族」という連載。
ここはメンバーになってログインしないと見れない。
でも、無料でメンバー登録をすればいい。
記事によっては朝日新聞を取っていないと読めないけれども、
この連載は取っていなくても読める。
特に今連載している
「ある少年の更生」。
4回連載のうちの3回まで進んでいる。
傷害事件を起して少年院に行った経験のある末息子と、
会社が倒産して150億円の借金を抱える親父。
その心のすれ違いとふれあいを記事にしている。
特にお父さんがクリスチャンになったことで、
聖書の「放蕩息子」のたとえ話になぞらえて話が展開していくのが興味深いです。
一番のテーマは、
息子達のよい子のところを喜ぶ親と、
その期待に答えようと自分を偽る子ども達。
でも、これって本当にたくさんあるんだろうなあと思います。
牧師としての働きの中でも、
「信徒に期待する牧師とその期待に表面的に答えて、自分を偽る信徒達」
ということはあるのではないかと思います。
本当の心の叫びを聞くこと、
それがどれほど大切なことかと思います。
時々、もっと強いリーダーシップを持つべきなのかと思う時があります。
でも、人を黙らせて、表面的に従っていく人々を作ってもしょうがない、と真剣にそう思います。
聞く耳を持ちつつ、伝えるべきことを伝えていく、本質的なところでは一致を求めながら、広さを認めるそんな働きができればと思いますが、「絵に描いた餅」でしょうか。
さてさて、今日の聖書。
今日は詩篇の11篇。
この詩も、敵に脅かされている中で歌われた詩です。
心に留まったのは
「主に私は身を避ける。」という1節の言葉です。
主の許に答えがある、
今朝、そのように思いました。
いろんな声が聞こえてくる時、
そこに恐れを感じる時にも、
主の許に答えがある。
いつもいつも主に聞いていく、
そこからぶれてしまってはいけないと思います。
他のところに身を寄せるのではなくて、
主の許で安らぎをえて、
主の許で解決を頂く、
そのような者でありたいと思います。
主よ、
どうか私を守って下さい。
いつもいつもあなたの元に身を寄せて、
あなたから守って頂いて、
あなたの語りかけを待ち望んで、
あなたの御言葉によって生かされて歩ませて下さい。
2007-04-03
見ておられる主
今日は、暖かくなりましたね。
朝のうちは昨日と同じような感じでしたが、
9時頃にはもう明るくなって、
晴れてきました。20度くらいまで上がりました。
でも、この後、ちょっと春はお休み。
明日からはまた寒くなります。
あちらこちらの天気予報で「S」の字が躍っています。
東京の場合は一番遅い雪が4月17日(1969年)・・・自分は5歳?
ニューヨークはなかなか見つかりませんが、
確か5月に降った記録もあると聞いたことがあります。
まだ4月の初めですから、何が起こっても驚かないようにしましょう。
日曜日の説教の中でお話しした。
「私は主を愛しているだろうか」
「私は教会を愛しているだろうか」
「私は人々を愛しているだろうか」
「私は家族を愛しているだろうか」
考えさせられます。
大体、メッセージは語った一週間、特に、自分が問われます。
「私は自分の夢のために主を利用しようとしていないだろうか」
「私は自分の夢のために教会を利用しようとしていないだろうか」
「私は自分の夢のために人々を利用しようとしていないだろうか」
「私は自分の夢のために家族を利用しようとしていないだろうか」
余り考えたことがありませんでした。
でも、考えたことのないこと自体が危険なことなのかもしれません。
おそらく、周りを利用しようとする人は自分がそういう傾向があること自体、
気がつかないのでしょうから・・・。
今夜ある方と学びをしている中で、
「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)
というイエスのペテロをいさめる言葉が、心に深く響きました。
神様が私たちをどう見ておられるのか、
神様が私たちに何を望んでおられるのか、
それをもっともっと求めていきたいと思います。
人々を愛することは、どういうことなのか、
もっともっと教えて頂きたいと思います。
さて、今日の聖書。
今日は詩篇の第10篇を読みました。
「彼は心の中で言う。『神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。』」(11節)
「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。」(14節)
私たちが苦しみに遭う時、
神様が私のことを忘れてしまっている、
神様が私のことを見て下さっていない、
そんな風に思うことがあります。
忘れられる、
見られていない、
それは何と悲しいことでしょうか?
人は忘れることもある。
人に覚えてもらっていない時もある。
私も失礼なことをしてしまう時もある。
でも、主は忘れていることはない。
主はいつも見ていて下さる。
私たちを御手の中に収めるために。
その御手で守るために。
疑わないことにしよう、
忘れないことにしよう、
主が私を心にかけて下さっていることを。
主がJCCNJを愛し、
心にかけて下さっていることを。
教会の一人ひとりを愛し、
心にかけて下さっていることを。
主よ、
感謝します。
あなたが居て下さることに。
あなたが見ていて下さることに。
あなたが御手を延べて守って下さることに。
私があなたの愛を疑うことがないように、私の心を守って下さい。
あなたが私をいつもいつも心にかけて下さっていることを、
忘れないように守って下さい。
朝のうちは昨日と同じような感じでしたが、
9時頃にはもう明るくなって、
晴れてきました。20度くらいまで上がりました。
でも、この後、ちょっと春はお休み。
明日からはまた寒くなります。
あちらこちらの天気予報で「S」の字が躍っています。
東京の場合は一番遅い雪が4月17日(1969年)・・・自分は5歳?
ニューヨークはなかなか見つかりませんが、
確か5月に降った記録もあると聞いたことがあります。
まだ4月の初めですから、何が起こっても驚かないようにしましょう。
日曜日の説教の中でお話しした。
「私は主を愛しているだろうか」
「私は教会を愛しているだろうか」
「私は人々を愛しているだろうか」
「私は家族を愛しているだろうか」
考えさせられます。
大体、メッセージは語った一週間、特に、自分が問われます。
「私は自分の夢のために主を利用しようとしていないだろうか」
「私は自分の夢のために教会を利用しようとしていないだろうか」
「私は自分の夢のために人々を利用しようとしていないだろうか」
「私は自分の夢のために家族を利用しようとしていないだろうか」
余り考えたことがありませんでした。
でも、考えたことのないこと自体が危険なことなのかもしれません。
おそらく、周りを利用しようとする人は自分がそういう傾向があること自体、
気がつかないのでしょうから・・・。
今夜ある方と学びをしている中で、
「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)
というイエスのペテロをいさめる言葉が、心に深く響きました。
神様が私たちをどう見ておられるのか、
神様が私たちに何を望んでおられるのか、
それをもっともっと求めていきたいと思います。
人々を愛することは、どういうことなのか、
もっともっと教えて頂きたいと思います。
さて、今日の聖書。
今日は詩篇の第10篇を読みました。
「彼は心の中で言う。『神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。』」(11節)
「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。」(14節)
私たちが苦しみに遭う時、
神様が私のことを忘れてしまっている、
神様が私のことを見て下さっていない、
そんな風に思うことがあります。
忘れられる、
見られていない、
それは何と悲しいことでしょうか?
人は忘れることもある。
人に覚えてもらっていない時もある。
私も失礼なことをしてしまう時もある。
でも、主は忘れていることはない。
主はいつも見ていて下さる。
私たちを御手の中に収めるために。
その御手で守るために。
疑わないことにしよう、
忘れないことにしよう、
主が私を心にかけて下さっていることを。
主がJCCNJを愛し、
心にかけて下さっていることを。
教会の一人ひとりを愛し、
心にかけて下さっていることを。
主よ、
感謝します。
あなたが居て下さることに。
あなたが見ていて下さることに。
あなたが御手を延べて守って下さることに。
私があなたの愛を疑うことがないように、私の心を守って下さい。
あなたが私をいつもいつも心にかけて下さっていることを、
忘れないように守って下さい。
人が誇らないように
また日付が変わってしまいました。
昨日(月曜日)はもっと暖かくなるはずだったのですが、
なかなか雲が取れずに、ひんやりした一日になりました。
特に午前中は10度以下。どんよりとして、肌寒かったです。
午後はちょっと日も差して、15度くらいまで行きましたが、
期待していた20度はほど遠かったです。
今日(火曜日)も昨日と同じで、何時頃から晴れてくるかがポイントでしょう。
今日よりは早いと思いますが、
それでも、午前中はどんよりしていると思います。
そして、この次の暖かくなるのは10日以上先のことだと思います。
お体には気をつけて・・・。
2週間ほど前に雪が降りました。
その後Sleetがかなり降ったのですが、
それが悪かったのか、翌日の土曜日、
教会の車のワイパーが、走っている途中で突然動かなくなったのです。
え~、これはまずい、と思いました。
雪の後は、道路の凍結を防ぐために撒いた塩が
フロントガラスについて、真っ白になってしまうので、大変なんです。
ただ、近所だったので何とか帰ってきました。
後で気がついたのですが、
Highなら動くんですよね。
つまり、ぽつぽつと雨が降ってきた時も、
ワイパーをHighにしなきゃいけないわけです。
みんなが間欠ワイパーで時々「カッチャン・・・カッチャン・・・」と使っている時も、
一台だけ、「カシャ、カシャ、カシャ・・・」とものすごい勢いで動かさなければいけない。
すごい勢い、というよりも、「せわしない」という感じですよね。
しかも、High 以外のところに合わせると、その場で止まる・・・。
それもカッコ悪いです。
で、次の週に直してきました。
ついでに助手席側の窓が開かないと言う症状も出ていたので、
直してもらいました。
まだ5年まで延長しておいた保証期間内だったので、タダ。
よかったです。大体、3年保証の車は3年を越えるとあっちこっち、がたが来始めますから。
でも、この間の金曜日に、今度は「窓を開けると閉まらない」という症状が出てきました。
運転しながら、運転席から、助手席側の窓が閉まらない。
今時、窓の開け閉めを手でやる車はかなり少数派でしょうが、
こう言う時は電気仕掛けは困ります。
「開かない」というのよりもたちが悪い。
だいたい、そういう時って、
「あれっ」と思って、スイッチをがちゃがちゃするじゃないですか。
そうすると、開く時は動くわけだから、どんどん窓が大きく開いていくんですよね。
雨が降ってきたらどうする?
焦りました・・・。
幸い、助手席のスイッチでは閉まるので、ホッとしました。
「ああ、よかった・・・」
でも・・・土曜日、
出かけた先で、今度は、運転席側の窓が閉まらない、という症状が出ました。
これはまた焦った。
マジで焦りました。
今度は他のスイッチはないですからね。
運転席側の窓のスイッチは運転席の横にしかないわけですよね、普通。
でも一生懸命あっちこっち探してしまいました。
どこかにスイッチがないだろうか?
もう一つ、どこかにスイッチがあったら、それは動くかもしれない・・・と。
ま、最終的には何回かトライしているうちに、窓が閉まったのですが、
雨の中でそんなトラブルがあったら大変です。
時間ができたらまた修理に持っていきますが、
何だか、窓を開けるのが怖くなってきてしまいました。
ちなみに、「サンルーフ」が閉まらなくなって、
ひどい目にあった、という話も聞いたことがあります。
「オープンカー」なんかも大変でしょうね。電気系統が雨の中トラブったら・・・。
さて、昨日、月曜日の聖書。
詩篇の9篇を読みました。
心に留まった言葉が、
「主よ。立ち上がってください。人間が勝ち誇らないために。」19節の言葉です。
神様の力です。
人の力ではなくて、
神様の力を見せて頂きたいと思っています。
今、私たちの教会は大きな転機を迎えようとしています。
人間の力で、見えてくるものもあります。
何とかなるかなあ、と思います。
でも、なかなか思い通りに行かない。
人間の力ではないんだろうと思います。
神様の力が必要なんだと思います。
そこに目を留めるべきなんだろうと思います。
私たちが誇ることがないために・・・。
自分が何かをしたことや、
「強い信仰」を持っているかのように思うことさえ、
分っているかのように思うことさえ、
誇ることがないために、
主は私たちを「思い通りに行かない」ところに導かれるのだろうと思います。
主が介入して下さいますように。
主が御力を表して下さいますように。
あのモーセと共にあって下さった主が、
その幕屋に雲を満たして、
光を満たして、
「確かにここに私はいるんだよ」と
示して下さった主が、
今日も私たちと共にあって、
「確かに私はここにあなたがたと共にいる」
と、示して下さいますように。
主よ、
どうか、あなたの臨在を表して下さい。
あなたが共にいて下さっていること、
あなたが導いていて下さっていること、
私たちに分るように表して下さい。
昨日(月曜日)はもっと暖かくなるはずだったのですが、
なかなか雲が取れずに、ひんやりした一日になりました。
特に午前中は10度以下。どんよりとして、肌寒かったです。
午後はちょっと日も差して、15度くらいまで行きましたが、
期待していた20度はほど遠かったです。
今日(火曜日)も昨日と同じで、何時頃から晴れてくるかがポイントでしょう。
今日よりは早いと思いますが、
それでも、午前中はどんよりしていると思います。
そして、この次の暖かくなるのは10日以上先のことだと思います。
お体には気をつけて・・・。
2週間ほど前に雪が降りました。
その後Sleetがかなり降ったのですが、
それが悪かったのか、翌日の土曜日、
教会の車のワイパーが、走っている途中で突然動かなくなったのです。
え~、これはまずい、と思いました。
雪の後は、道路の凍結を防ぐために撒いた塩が
フロントガラスについて、真っ白になってしまうので、大変なんです。
ただ、近所だったので何とか帰ってきました。
後で気がついたのですが、
Highなら動くんですよね。
つまり、ぽつぽつと雨が降ってきた時も、
ワイパーをHighにしなきゃいけないわけです。
みんなが間欠ワイパーで時々「カッチャン・・・カッチャン・・・」と使っている時も、
一台だけ、「カシャ、カシャ、カシャ・・・」とものすごい勢いで動かさなければいけない。
すごい勢い、というよりも、「せわしない」という感じですよね。
しかも、High 以外のところに合わせると、その場で止まる・・・。
それもカッコ悪いです。
で、次の週に直してきました。
ついでに助手席側の窓が開かないと言う症状も出ていたので、
直してもらいました。
まだ5年まで延長しておいた保証期間内だったので、タダ。
よかったです。大体、3年保証の車は3年を越えるとあっちこっち、がたが来始めますから。
でも、この間の金曜日に、今度は「窓を開けると閉まらない」という症状が出てきました。
運転しながら、運転席から、助手席側の窓が閉まらない。
今時、窓の開け閉めを手でやる車はかなり少数派でしょうが、
こう言う時は電気仕掛けは困ります。
「開かない」というのよりもたちが悪い。
だいたい、そういう時って、
「あれっ」と思って、スイッチをがちゃがちゃするじゃないですか。
そうすると、開く時は動くわけだから、どんどん窓が大きく開いていくんですよね。
雨が降ってきたらどうする?
焦りました・・・。
幸い、助手席のスイッチでは閉まるので、ホッとしました。
「ああ、よかった・・・」
でも・・・土曜日、
出かけた先で、今度は、運転席側の窓が閉まらない、という症状が出ました。
これはまた焦った。
マジで焦りました。
今度は他のスイッチはないですからね。
運転席側の窓のスイッチは運転席の横にしかないわけですよね、普通。
でも一生懸命あっちこっち探してしまいました。
どこかにスイッチがないだろうか?
もう一つ、どこかにスイッチがあったら、それは動くかもしれない・・・と。
ま、最終的には何回かトライしているうちに、窓が閉まったのですが、
雨の中でそんなトラブルがあったら大変です。
時間ができたらまた修理に持っていきますが、
何だか、窓を開けるのが怖くなってきてしまいました。
ちなみに、「サンルーフ」が閉まらなくなって、
ひどい目にあった、という話も聞いたことがあります。
「オープンカー」なんかも大変でしょうね。電気系統が雨の中トラブったら・・・。
さて、昨日、月曜日の聖書。
詩篇の9篇を読みました。
心に留まった言葉が、
「主よ。立ち上がってください。人間が勝ち誇らないために。」19節の言葉です。
神様の力です。
人の力ではなくて、
神様の力を見せて頂きたいと思っています。
今、私たちの教会は大きな転機を迎えようとしています。
人間の力で、見えてくるものもあります。
何とかなるかなあ、と思います。
でも、なかなか思い通りに行かない。
人間の力ではないんだろうと思います。
神様の力が必要なんだと思います。
そこに目を留めるべきなんだろうと思います。
私たちが誇ることがないために・・・。
自分が何かをしたことや、
「強い信仰」を持っているかのように思うことさえ、
分っているかのように思うことさえ、
誇ることがないために、
主は私たちを「思い通りに行かない」ところに導かれるのだろうと思います。
主が介入して下さいますように。
主が御力を表して下さいますように。
あのモーセと共にあって下さった主が、
その幕屋に雲を満たして、
光を満たして、
「確かにここに私はいるんだよ」と
示して下さった主が、
今日も私たちと共にあって、
「確かに私はここにあなたがたと共にいる」
と、示して下さいますように。
主よ、
どうか、あなたの臨在を表して下さい。
あなたが共にいて下さっていること、
あなたが導いていて下さっていること、
私たちに分るように表して下さい。
2007-04-01
神の力
礼拝から帰ってきました。
この時間に、時間ができるなんて、すごい久しぶりです。
こういう日が必要だなと思います。
雨も今のところ大したことはありませんが、
ちょっとこれから降るようですね。
そして、明日は20度近くまで上がって暖かい日になるでしょう。
その後水曜日からの一週間が寒の戻りで、
氷点下の日もあるみたいです。
予報にはsnowの字もちらほら見えます。
今日は月に一度の聖餐式。
それも「受難週」イエスが十字架にかかったのが、今週の金曜日。
十字架の一週間。
聖餐式のパンとぶどうジュースはイエスのからだと血を表します。
今日もそのイエスの十字架ゆえに神様の前に出れることを
感謝しました。
「ぶどうジュース」・・・教会によってはぶどう酒を使います。
イエスもぶどう酒を使ったんだろうと思います。
なぜ、ぶどうジュースを使う教会が多いのかというと、
「未成年者への配慮」「元アルコール中毒の方への配慮」
が大きいと思います。
あと、アメリカは20世紀前半に「禁酒法」があったくらい、
教会と禁酒運動とのつながりは強いです。
私もそのような伝統の中で育ってきました。
私たちの教会も、教会のプログラムの中はいっさいノンアルコールです。
結婚式を教会でする方で、レセプションも教会でする場合、
ゲストの方々に理解して頂くのは難しいことかもしれません。
でも、そのようにやってきました。
ある牧師さんは、
近所の方々を招いてBBQをしたあとに、こう言われたそうです。
「ノンアルコールであんなに楽しい時を過ごせるなんて新しい発見だった」と。
でも、私たちが建物を借りている教会はドイツ系の教会で、
元々私たちが日本語教会であるような意味での、
ドイツ語教会でした。
その教会は教会行事の中でも、
アルコールが入ることがありました。
確か100周年記念集会に出た時に、レセプションでアルコールが出ていました。
みんな車で来ているのにね・・・。不可解でした。
日本も去年の9月に日本に行った時には、
ちょうど問題になっていて、かなり厳しく取り締まられていましたが、
今はどうなんでしょうか。
運転する人は論外ですが、それ以外は文化と言ってしまえばそれまでですが、聖書の中に、
「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。」エペソ5:18-19
とありますから、一滴も飲んではいけない、とは思ってはいませんが、酔うほど飲むべきではなく、何よりも、私たちは「御霊に満たされること」を求めていくべきなんだと思います。
さて、今日は詩篇8篇を読みました。
心に留まったのは、2節の言葉です。
「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。
それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」
幼子や乳飲み子の口から出る言葉によって、
神様は力を打ち立てられる。
私たちの弱いところに働いて、
御業をなされる。
子ども達の「あぶあぶ~」という声も主は用いられる。
主の力はどんな中に表されるのか、
私たちの思いを越えていると思う。
大人達のいろいろ考えて理屈をこねて作り上げられたものよりも、
子ども達の、それも乳飲み子のような子ども達の
喃語を主はそのご栄光を表すものとして用いられるのだ。
大きな声を出さなくていい。
理屈をこねなくていい。
素朴な主への声が上がっていくところに、
主の力が表されるのだ。
主よ、
必要な休息を感謝します。
ありのままの主の前の叫び、
嘆き、ホッとした一息、それらがあなたに受け入れられることを心から感謝します。
どうかあなたの命を私の中に満たして下さい。
この時間に、時間ができるなんて、すごい久しぶりです。
こういう日が必要だなと思います。
雨も今のところ大したことはありませんが、
ちょっとこれから降るようですね。
そして、明日は20度近くまで上がって暖かい日になるでしょう。
その後水曜日からの一週間が寒の戻りで、
氷点下の日もあるみたいです。
予報にはsnowの字もちらほら見えます。
今日は月に一度の聖餐式。
それも「受難週」イエスが十字架にかかったのが、今週の金曜日。
十字架の一週間。
聖餐式のパンとぶどうジュースはイエスのからだと血を表します。
今日もそのイエスの十字架ゆえに神様の前に出れることを
感謝しました。
「ぶどうジュース」・・・教会によってはぶどう酒を使います。
イエスもぶどう酒を使ったんだろうと思います。
なぜ、ぶどうジュースを使う教会が多いのかというと、
「未成年者への配慮」「元アルコール中毒の方への配慮」
が大きいと思います。
あと、アメリカは20世紀前半に「禁酒法」があったくらい、
教会と禁酒運動とのつながりは強いです。
私もそのような伝統の中で育ってきました。
私たちの教会も、教会のプログラムの中はいっさいノンアルコールです。
結婚式を教会でする方で、レセプションも教会でする場合、
ゲストの方々に理解して頂くのは難しいことかもしれません。
でも、そのようにやってきました。
ある牧師さんは、
近所の方々を招いてBBQをしたあとに、こう言われたそうです。
「ノンアルコールであんなに楽しい時を過ごせるなんて新しい発見だった」と。
でも、私たちが建物を借りている教会はドイツ系の教会で、
元々私たちが日本語教会であるような意味での、
ドイツ語教会でした。
その教会は教会行事の中でも、
アルコールが入ることがありました。
確か100周年記念集会に出た時に、レセプションでアルコールが出ていました。
みんな車で来ているのにね・・・。不可解でした。
日本も去年の9月に日本に行った時には、
ちょうど問題になっていて、かなり厳しく取り締まられていましたが、
今はどうなんでしょうか。
運転する人は論外ですが、それ以外は文化と言ってしまえばそれまでですが、聖書の中に、
「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。」エペソ5:18-19
とありますから、一滴も飲んではいけない、とは思ってはいませんが、酔うほど飲むべきではなく、何よりも、私たちは「御霊に満たされること」を求めていくべきなんだと思います。
さて、今日は詩篇8篇を読みました。
心に留まったのは、2節の言葉です。
「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。
それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。」
幼子や乳飲み子の口から出る言葉によって、
神様は力を打ち立てられる。
私たちの弱いところに働いて、
御業をなされる。
子ども達の「あぶあぶ~」という声も主は用いられる。
主の力はどんな中に表されるのか、
私たちの思いを越えていると思う。
大人達のいろいろ考えて理屈をこねて作り上げられたものよりも、
子ども達の、それも乳飲み子のような子ども達の
喃語を主はそのご栄光を表すものとして用いられるのだ。
大きな声を出さなくていい。
理屈をこねなくていい。
素朴な主への声が上がっていくところに、
主の力が表されるのだ。
主よ、
必要な休息を感謝します。
ありのままの主の前の叫び、
嘆き、ホッとした一息、それらがあなたに受け入れられることを心から感謝します。
どうかあなたの命を私の中に満たして下さい。
主の許に身を避ける
昨日は暖かい中で、JOYJOYイースター。
去年がみぞれの中だったことを考えると、
穏やかな日で本当によかったなあと思います。
でも、天気がよかった+日本の春休みシーズンで、土曜補習校が休みだったので、お出かけされた方も多かったのでしょう。参加者は50名と、みぞれの中の去年並、でした。
でも、昨日も元気な子ども達の声が教会に響き渡りました。
初めての子も何人かおられてうれしかったです。
今日は雨のようですね。
でも、まあ、大したことはないでしょう。
昨日は詩篇の7篇を読みました。
心に留まったのは1節の言葉。
「私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。」
自分は行き詰まった時、
攻撃を感じた時、
どこに行っているだろうかと思った。
本当に主の許に行っているだろうか?
主の許に身を避けているだろうか?
他のことでストレスを発散したり、
反撃に出たり、
そんなことで解決していないだろうか?
主の許に行く。
きつい時だから、
しんどいところだから、
どう受け取ったらいいか分らないような状況だから、
主の許に行く、
それが大切なことなのだと思わされた。
主よ、
どうか助けてください。
あなたを避け所とします。
あなたの元に隠れます。
あなたのところで平安を頂いて、
進んでいくことができますように。
私の心の目があなたからぶれてしまう時に、
どうか私を守ってください。
去年がみぞれの中だったことを考えると、
穏やかな日で本当によかったなあと思います。
でも、天気がよかった+日本の春休みシーズンで、土曜補習校が休みだったので、お出かけされた方も多かったのでしょう。参加者は50名と、みぞれの中の去年並、でした。
でも、昨日も元気な子ども達の声が教会に響き渡りました。
初めての子も何人かおられてうれしかったです。
今日は雨のようですね。
でも、まあ、大したことはないでしょう。
昨日は詩篇の7篇を読みました。
心に留まったのは1節の言葉。
「私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。」
自分は行き詰まった時、
攻撃を感じた時、
どこに行っているだろうかと思った。
本当に主の許に行っているだろうか?
主の許に身を避けているだろうか?
他のことでストレスを発散したり、
反撃に出たり、
そんなことで解決していないだろうか?
主の許に行く。
きつい時だから、
しんどいところだから、
どう受け取ったらいいか分らないような状況だから、
主の許に行く、
それが大切なことなのだと思わされた。
主よ、
どうか助けてください。
あなたを避け所とします。
あなたの元に隠れます。
あなたのところで平安を頂いて、
進んでいくことができますように。
私の心の目があなたからぶれてしまう時に、
どうか私を守ってください。
2007-03-30
unfailing love
今日は朝は冷え込んで-0.6度。久しぶりの氷点下です。
でも、昼間は20.2度Cとグッと暖かくなりました。
こんな日は家の中の方が寒いくらいです。
今は夜の11時ですが、10度あります。
でも、今夜もそこそこ寒くなりそうです。
昼間はまあまあでしょう。
そう、明日はJOYJOYイースターです。
午後3時から。
天気はいいです。今年は去年みたいにみぞれが降ったりしません。
元気なみんなをお待ちしています。
今日の夜のレント集会はとても大切な内容でした。
「私たちが共につけられる十字架」
私たちはいつも「私の罪」がイエスの十字架にかけられなかったと思います。
でも、ほんとうは「私自身」が十字架にかけられなければいけないほど、
「私」と「私の罪」は一つになってしまっているのです。
だから、パウロは「わたしはキリストと共に十字架につけられた」と言っているのです。
とても大切な「教会が教会となる」ために大切な学びだと思うので、
おいでになれなかった方々は是非HPで聞いて下さい。
まだアップされていないようですが、レント集会の3月30日のメッセージです。
さて、今日は詩篇の第6篇を読みました。
心に留ったのは、「あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。」という4節の言葉です。
私は今、日英対訳で読んでいるのですが、
この「恵み」ということばが英語のNew International Versionという訳では、
「unfailing love」と訳されています。
「確かな、揺るぎない、信頼できる愛」という意味です。
苦しみ中で、
いつでも共にいて下さる神様に
「帰ってきて下さい」と言わなければいけないほどの苦しみ。
神様が共にいて下さることさえ、
忘れてしまう、
見失ってしまうほどの苦しみ。
でも、その中でも彼は、
神様の恵みが
unfailing loveであることを信頼していたのです。
自分に対する神様の気持ちは
unfailing loveであると確信していたのです。
単純に神様を信頼していく者でありたいと思いました。
幼子のように神を信頼していく者でありたいと思います。
主よ、
どうかあなたのunfailing loveを信頼して、
歩む者でありますように。
幼子がお父さんを、お母さんを信頼するように、
私もあなたを信頼します。
あなたの御手の中で歩ませて下さい。
でも、昼間は20.2度Cとグッと暖かくなりました。
こんな日は家の中の方が寒いくらいです。
今は夜の11時ですが、10度あります。
でも、今夜もそこそこ寒くなりそうです。
昼間はまあまあでしょう。
そう、明日はJOYJOYイースターです。
午後3時から。
天気はいいです。今年は去年みたいにみぞれが降ったりしません。
元気なみんなをお待ちしています。
今日の夜のレント集会はとても大切な内容でした。
「私たちが共につけられる十字架」
私たちはいつも「私の罪」がイエスの十字架にかけられなかったと思います。
でも、ほんとうは「私自身」が十字架にかけられなければいけないほど、
「私」と「私の罪」は一つになってしまっているのです。
だから、パウロは「わたしはキリストと共に十字架につけられた」と言っているのです。
とても大切な「教会が教会となる」ために大切な学びだと思うので、
おいでになれなかった方々は是非HPで聞いて下さい。
まだアップされていないようですが、レント集会の3月30日のメッセージです。
さて、今日は詩篇の第6篇を読みました。
心に留ったのは、「あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。」という4節の言葉です。
私は今、日英対訳で読んでいるのですが、
この「恵み」ということばが英語のNew International Versionという訳では、
「unfailing love」と訳されています。
「確かな、揺るぎない、信頼できる愛」という意味です。
苦しみ中で、
いつでも共にいて下さる神様に
「帰ってきて下さい」と言わなければいけないほどの苦しみ。
神様が共にいて下さることさえ、
忘れてしまう、
見失ってしまうほどの苦しみ。
でも、その中でも彼は、
神様の恵みが
unfailing loveであることを信頼していたのです。
自分に対する神様の気持ちは
unfailing loveであると確信していたのです。
単純に神様を信頼していく者でありたいと思いました。
幼子のように神を信頼していく者でありたいと思います。
主よ、
どうかあなたのunfailing loveを信頼して、
歩む者でありますように。
幼子がお父さんを、お母さんを信頼するように、
私もあなたを信頼します。
あなたの御手の中で歩ませて下さい。
2007-03-29
主の盾
今日は昨日までに比べるとひんやりした日でした。
朝は1.1度C。昼間も12度くらいまでしか上がりませんでした。
で、自分はジーンズの下にパッチを履いているオヤジなのですが、
もう最近は暖かいから大丈夫だと思って、
今日もジーンズ一枚で過ごしていたら、
もう午後には足が冷えて冷えて、
3時頃に降参してパッチを履いています。
今夜も冷えるみたいですね。
でも、明日は20度近くまで上がるようで、
パッチレスで過ごせそうです。
JCCNJは今年が20年目。
初めての会堂を持とうといろいろ調べています。
でも、調べてみると、町によっていろんな法律があるんですね。
ある郊外のまだ更地のたくさんある町の場合、
新しく教会を建てるなら10エーカーの土地が必要だそうです。
=4万平方メートル=1万2千平方メートル。
ちなみに私が住んでいる町は最低2エーカーだそうです。
そんなに大きくない教会もたくさんあるのですが、
たぶん、そんな法律ができる前に建てたものなのでしょう。
そういう規制がないところもあります。
市街地に行くと、もっと小さい規定があるところもあります。
最低2000平方メートルとか。大体600坪くらい。
これでも、日本では考えられない話ですよね。
昔ながらの教会は駐車場もないものが多いです。
つまり「歩いていける教会」だったんでしょうね。
でも、今は町の法律で
「教会堂の座席3に対し、駐車場1台分」
とかなっている町が多いです。
なかなかむずかしいです。
神様が私たちにどんな道を準備しておられるのか、
心をオープンにして待ち望みたいと思っています。
今日は詩篇の5篇。
5篇は最初の「朝ごとにあなたを待ちます」という言葉も大切な言葉ですが、
今日は最後の言葉が心に留りました。
「主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。」12節の言葉です。
いろんな攻撃があります。
それにたじろいでしまったり、
心に壁を作ってしまったり、
恐れて言うべきことが言えなくなってしまったり。
そして、サタンからの攻撃があります。
誘惑があったりします。
牧師が骨抜きになれば、
教会は骨抜きになる。
牧師がみんなの信頼を失えば、
教会のメンバーは人間不信になる。
そういう風に考えるんでしょうね。
だから、私には主の盾が必要なんだと思わされます。
主御自身がその愛で私を守って下さる。
それが大切なんだと思います。
それがありがたいですし、それが必要だと思います。
主よ、
あなたの守りを感謝します。
どうか、あなたの盾で私を守って下さい。
あなたの下に隠れ、あなたを避け所とすることができますように。
どうか、守って下さい。
教会堂についても、あなたの道を示して下さい。
朝は1.1度C。昼間も12度くらいまでしか上がりませんでした。
で、自分はジーンズの下にパッチを履いているオヤジなのですが、
もう最近は暖かいから大丈夫だと思って、
今日もジーンズ一枚で過ごしていたら、
もう午後には足が冷えて冷えて、
3時頃に降参してパッチを履いています。
今夜も冷えるみたいですね。
でも、明日は20度近くまで上がるようで、
パッチレスで過ごせそうです。
JCCNJは今年が20年目。
初めての会堂を持とうといろいろ調べています。
でも、調べてみると、町によっていろんな法律があるんですね。
ある郊外のまだ更地のたくさんある町の場合、
新しく教会を建てるなら10エーカーの土地が必要だそうです。
=4万平方メートル=1万2千平方メートル。
ちなみに私が住んでいる町は最低2エーカーだそうです。
そんなに大きくない教会もたくさんあるのですが、
たぶん、そんな法律ができる前に建てたものなのでしょう。
そういう規制がないところもあります。
市街地に行くと、もっと小さい規定があるところもあります。
最低2000平方メートルとか。大体600坪くらい。
これでも、日本では考えられない話ですよね。
昔ながらの教会は駐車場もないものが多いです。
つまり「歩いていける教会」だったんでしょうね。
でも、今は町の法律で
「教会堂の座席3に対し、駐車場1台分」
とかなっている町が多いです。
なかなかむずかしいです。
神様が私たちにどんな道を準備しておられるのか、
心をオープンにして待ち望みたいと思っています。
今日は詩篇の5篇。
5篇は最初の「朝ごとにあなたを待ちます」という言葉も大切な言葉ですが、
今日は最後の言葉が心に留りました。
「主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。」12節の言葉です。
いろんな攻撃があります。
それにたじろいでしまったり、
心に壁を作ってしまったり、
恐れて言うべきことが言えなくなってしまったり。
そして、サタンからの攻撃があります。
誘惑があったりします。
牧師が骨抜きになれば、
教会は骨抜きになる。
牧師がみんなの信頼を失えば、
教会のメンバーは人間不信になる。
そういう風に考えるんでしょうね。
だから、私には主の盾が必要なんだと思わされます。
主御自身がその愛で私を守って下さる。
それが大切なんだと思います。
それがありがたいですし、それが必要だと思います。
主よ、
あなたの守りを感謝します。
どうか、あなたの盾で私を守って下さい。
あなたの下に隠れ、あなたを避け所とすることができますように。
どうか、守って下さい。
教会堂についても、あなたの道を示して下さい。
喜び
昨日は詩篇の第4篇。
「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」7節。
主が与えて下さる喜び、それは収穫の喜び、経済的に満たされた中にある喜びを遙かに超えるのだという。
農業をやっている方々にとって、収穫の喜びはどんなに大きなものかと思います。
また今の時代とこの聖書の時代、そして聖書の生まれた地域、との違いを考えてみる時に、
収穫がどれくらいあるか分らない、不安定さは、この時代の方がずっと大きかったのだろうと思います。
だとすると、この詩人の言葉の重さがどれほどかと思います。
その大きな喜び、収穫の喜びを超える神の与える喜び。
苦しみがあり、怒りがあり、悩みがあるような状況の中で、
主が与えて下さる喜び。
もっともっと経験させて頂きたいと思いました。
主の喜びを満たして頂きたいと思いました。
主よ、
どうか、私の心に、
あなたしか与えることのできない、
あなただけが与えることのできる、
喜びを満たして下さい。
他のどんなに楽しいこと、
どんなにうれしいことも、
与えることのできない、大きな喜びを私に満たして下さい。
「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」7節。
主が与えて下さる喜び、それは収穫の喜び、経済的に満たされた中にある喜びを遙かに超えるのだという。
農業をやっている方々にとって、収穫の喜びはどんなに大きなものかと思います。
また今の時代とこの聖書の時代、そして聖書の生まれた地域、との違いを考えてみる時に、
収穫がどれくらいあるか分らない、不安定さは、この時代の方がずっと大きかったのだろうと思います。
だとすると、この詩人の言葉の重さがどれほどかと思います。
その大きな喜び、収穫の喜びを超える神の与える喜び。
苦しみがあり、怒りがあり、悩みがあるような状況の中で、
主が与えて下さる喜び。
もっともっと経験させて頂きたいと思いました。
主の喜びを満たして頂きたいと思いました。
主よ、
どうか、私の心に、
あなたしか与えることのできない、
あなただけが与えることのできる、
喜びを満たして下さい。
他のどんなに楽しいこと、
どんなにうれしいことも、
与えることのできない、大きな喜びを私に満たして下さい。
また朝に・・・
今日(もう昨日になってしまいましたが)は朝早く「コンピューターを持たないで」(使うひまがないと分っていたので)NYに行って、先ほど帰ってきたので、これからごはんなので、更新は明日~
おやすみなさい。
おやすみなさい。
2007-03-27
眠れるということ
今日はほんとうに暖かい一日でした。
朝から10度くらいありましたが、
昼間には25度まで上がって、
汗ばむほどでした。
でも、ここまで暖かいのは今日だけ、
明日は15度くらい。
あさってからは10度そこそこのようです。
でも、ほんとうに一日でもこういう日があると、
春になったんだなあ、と思いますね。
明日はNYの日です。
すばらしい一日になりますように。
今日は詩篇の3篇でした。
敵に命をねらわれる中で、書かれた詩です。
その中で、この言葉が心に留りました。
「私は身を横たえて、眠る。 私はまた目をさます。」5節です。
夜眠れる方ですが、
何だか「悩みがないんじゃないの?」と思われると、ちょっと悔しいような気もします。
でも、時々、やはりいろんなことが心に巡って、
どうしても眠れない時があります。
やはり眠れるということは恵まれているんですよね。
不眠症で悩まれている方々は、
どんなにおつらいことかと思います。
この詩人、命をねらわれるような危険な状況にあって、
自分が眠れるのは神様の守りの中にあるからだ、と、
しみじみと語っているのです。
神様の守りがあること、
神様の支えがあること、
眠れる平安が与えられていること、
すばらしいプレゼントなのだと思います。
眠れない時は祈ります。
祈ると不思議と眠れます。
お祈りがお居寝りになってしまいます。
ほんとうは、もっと苦しいところを通っていないからそんなことを言えるのかもしれません。
でも、時分が与えられている恵みを素直に分ち合うと、
ほんとうにそうだと思います。
祈る時に与えられる慰め、平安、主に感謝します。
主よ、
あなたに祈ることのできる幸いを感謝します。
痛みの中で、苦しみの中で、不安の中で、
祈ることを教えて下さい。
そして祈る中で与えられる平安のうちに歩んでいくことができますように。
今夜もよく眠れますように。
朝から10度くらいありましたが、
昼間には25度まで上がって、
汗ばむほどでした。
でも、ここまで暖かいのは今日だけ、
明日は15度くらい。
あさってからは10度そこそこのようです。
でも、ほんとうに一日でもこういう日があると、
春になったんだなあ、と思いますね。
明日はNYの日です。
すばらしい一日になりますように。
今日は詩篇の3篇でした。
敵に命をねらわれる中で、書かれた詩です。
その中で、この言葉が心に留りました。
「私は身を横たえて、眠る。 私はまた目をさます。」5節です。
夜眠れる方ですが、
何だか「悩みがないんじゃないの?」と思われると、ちょっと悔しいような気もします。
でも、時々、やはりいろんなことが心に巡って、
どうしても眠れない時があります。
やはり眠れるということは恵まれているんですよね。
不眠症で悩まれている方々は、
どんなにおつらいことかと思います。
この詩人、命をねらわれるような危険な状況にあって、
自分が眠れるのは神様の守りの中にあるからだ、と、
しみじみと語っているのです。
神様の守りがあること、
神様の支えがあること、
眠れる平安が与えられていること、
すばらしいプレゼントなのだと思います。
眠れない時は祈ります。
祈ると不思議と眠れます。
お祈りがお居寝りになってしまいます。
ほんとうは、もっと苦しいところを通っていないからそんなことを言えるのかもしれません。
でも、時分が与えられている恵みを素直に分ち合うと、
ほんとうにそうだと思います。
祈る時に与えられる慰め、平安、主に感謝します。
主よ、
あなたに祈ることのできる幸いを感謝します。
痛みの中で、苦しみの中で、不安の中で、
祈ることを教えて下さい。
そして祈る中で与えられる平安のうちに歩んでいくことができますように。
今夜もよく眠れますように。
2007-03-26
おののきつつ喜ぶ
今日も穏やかな天気。
気温は余り上がりませんでしたが、それでも12度くらい。
夜になってから雨が降ってきたようですが、
明日は回復して20度くらいまで行くみたいです。
庭のクロッカスが満開になりました。

去年よりも10日遅れて、春になっているようですね。
去年も4月の8日のJOYJOYイースターの時にみぞれが降りましたからね。
今年もまだまだ「寒い!」日はあるでしょう。
ちなみに今年のJOYJOYイースターは3月31日、
今週の土曜日です!
今年はスカッと晴れます!きっと・・・たぶん・・・。
先週の月曜日に紹介したおにぎりの素。
裏に「おにぎりを作る時にはよく手を洗って・・・」と書いてありましたが、
それにびっくりして、その後はさらっと読んでしまいましたが、
よく読むと、「調理後はできるだけ涼しいところに保存し、お早めにお召し上がり下さい」だって。うーん、手取り足取りですね。
でも、「注意書き」でググルと、またいろいろ出てきますね。
2005年のアメリカの注意書きコンテストのニュース、日本語になっています。いいですねえ。このトイレブラシの話といい、体温計の話といい・・・。やるひとがいるんでしょうか?
でも、この団体のHPを見ると、今年版が載っています。第10回だそうです。
今年は「この洗濯機で人間を洗わないでください」だそうです。
これは絶対いないと思います。さすがに・・・。
でも、グランプリの賞金500ドルと一緒に賞品として渡される本の題名にもなっている「たたむ前に子供を下ろしてください」という折りたたみ式のベビーカーの注意書き、これもすごいなあ、と思います。これもいないでしょう。それはさすがに・・・でもうっかりそういうことをしてしまった人がいたら、メーカーはその責任を負わされたりするということを恐れているんでしょう。コワい世の中です。
あ、でも、自分的には、
ミニバンのうしろの跳ね上げ式のドアに、
「閉めるドアで頭を打たないようにご注意下さい」
と書いておいて欲しいなあ、と思います。
車のドアに自分の手を挟んだことはありませんが、
何でか、あのミニバンのうしろのドアというか、ゲートというか、
あれはよくやるんですよね。
車のメーカーを訴えたら、勝てるかな?
昨日から読み始めた詩篇、今日は第2篇を読みました。
新改訳の第3版というので読んでいますが、
心に留ったのは、その11節の言葉。
「恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。」
主の前の畏れ、そして、おののき。
それを失わないなかで、「喜ぶ」。
恐れを持ちながら、喜ぶ。
ほんとうに恐れがあるから、喜びが大きくなる、のだと思いました。
でも、時々、「恐れ」を忘れてしまうから、
いつのまにか、「本来、神の前に立てるような自分ではない」ということを
忘れてしまうから、喜びも、感謝も、感動も、いつの間にか薄れてしまって、
慣れっこになってしまって、
「昔はもっと熱かったけどなあ」なんて思ってしまう。
喜びも、他のものに求めるようになってしまう。
いつの間にか、クリスチャンとしての「成功」や、
人との楽しい一時に喜びを求めてしまう。
「恐れ」を忘れない、
「罪深さ」を忘れない、
「どれほど大きな愛をもらったか」忘れない、
そういう歩みをしたいと思いました。
主に愛されている喜びにあふれるものでありたいと思います。
主よ、
罪深い私をおゆるし下さい。
私のためにどれほど大きな愛が注がれたか、
どれほど大きな犠牲が払われたか、
忘れない者としてください。
そして、喜びにあふれさせてください。
あなたから来る喜びにあふれさせてください。
他のものをすべて失っても、その喜びを与えて下さい。
気温は余り上がりませんでしたが、それでも12度くらい。
夜になってから雨が降ってきたようですが、
明日は回復して20度くらいまで行くみたいです。
庭のクロッカスが満開になりました。

去年よりも10日遅れて、春になっているようですね。
去年も4月の8日のJOYJOYイースターの時にみぞれが降りましたからね。
今年もまだまだ「寒い!」日はあるでしょう。
ちなみに今年のJOYJOYイースターは3月31日、
今週の土曜日です!
今年はスカッと晴れます!きっと・・・たぶん・・・。
先週の月曜日に紹介したおにぎりの素。
裏に「おにぎりを作る時にはよく手を洗って・・・」と書いてありましたが、
それにびっくりして、その後はさらっと読んでしまいましたが、
よく読むと、「調理後はできるだけ涼しいところに保存し、お早めにお召し上がり下さい」だって。うーん、手取り足取りですね。
でも、「注意書き」でググルと、またいろいろ出てきますね。
2005年のアメリカの注意書きコンテストのニュース、日本語になっています。いいですねえ。このトイレブラシの話といい、体温計の話といい・・・。やるひとがいるんでしょうか?
でも、この団体のHPを見ると、今年版が載っています。第10回だそうです。
今年は「この洗濯機で人間を洗わないでください」だそうです。
これは絶対いないと思います。さすがに・・・。
でも、グランプリの賞金500ドルと一緒に賞品として渡される本の題名にもなっている「たたむ前に子供を下ろしてください」という折りたたみ式のベビーカーの注意書き、これもすごいなあ、と思います。これもいないでしょう。それはさすがに・・・でもうっかりそういうことをしてしまった人がいたら、メーカーはその責任を負わされたりするということを恐れているんでしょう。コワい世の中です。
あ、でも、自分的には、
ミニバンのうしろの跳ね上げ式のドアに、
「閉めるドアで頭を打たないようにご注意下さい」
と書いておいて欲しいなあ、と思います。
車のドアに自分の手を挟んだことはありませんが、
何でか、あのミニバンのうしろのドアというか、ゲートというか、
あれはよくやるんですよね。
車のメーカーを訴えたら、勝てるかな?
昨日から読み始めた詩篇、今日は第2篇を読みました。
新改訳の第3版というので読んでいますが、
心に留ったのは、その11節の言葉。
「恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。」
主の前の畏れ、そして、おののき。
それを失わないなかで、「喜ぶ」。
恐れを持ちながら、喜ぶ。
ほんとうに恐れがあるから、喜びが大きくなる、のだと思いました。
でも、時々、「恐れ」を忘れてしまうから、
いつのまにか、「本来、神の前に立てるような自分ではない」ということを
忘れてしまうから、喜びも、感謝も、感動も、いつの間にか薄れてしまって、
慣れっこになってしまって、
「昔はもっと熱かったけどなあ」なんて思ってしまう。
喜びも、他のものに求めるようになってしまう。
いつの間にか、クリスチャンとしての「成功」や、
人との楽しい一時に喜びを求めてしまう。
「恐れ」を忘れない、
「罪深さ」を忘れない、
「どれほど大きな愛をもらったか」忘れない、
そういう歩みをしたいと思いました。
主に愛されている喜びにあふれるものでありたいと思います。
主よ、
罪深い私をおゆるし下さい。
私のためにどれほど大きな愛が注がれたか、
どれほど大きな犠牲が払われたか、
忘れない者としてください。
そして、喜びにあふれさせてください。
あなたから来る喜びにあふれさせてください。
他のものをすべて失っても、その喜びを与えて下さい。
2007-03-25
昼も夜も
夕方はちょっと肌寒いですが、
昼間は暖かいですね。
やはり春分の日を過ぎて、太陽がどんどん高くなっているのもあると思います。
今は夜の11時半。3.9度C。ちょっと冷えそうですね。
でも、あさってには20度くらいまで温度が上がりそうです。
今日からどういう風に聖書を読もうかと思っていましたが、
詩篇をまた「一日一篇」で読んでいきたいと思います。
中には「この一篇ですか?」と感じるようなところもあるかもしれませんが、
その中から、語られることを待ち望みつつ、読みたいと思います。
ということで、今日は詩篇の1篇。
神の言葉、聖書のメッセージを慕って歩む、
その言葉に従って歩む者の幸いを書いた箇所です。
その中の2節の言葉が心に留りました。
「昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」
英語ではmeditateという言葉が使われています。
口ずさむ、と訳した新改訳には特別な思いがあるんだろうな、と思います。
単に思いめぐらすのではなく、喜びとして、鼻歌のように口に出てくる。
御言葉を喜びとする、
歌とする。
そんな歩みをしたいと思いました。
聖書を読むのが、ちょっとお勤めっぽくなってしまって、
毎日毎日「読まなければいけない」ではなくて、
それが口をついて出てくるような、
そんな歩みをしたいと思いました。
楽しい信仰生活を送りたいと思いました。
それも御言葉を中心とした楽しさ。
それをもっともっと味わっていきたいと思います。
主よ、
御言葉による喜びを、
それを知る喜びを、語られる喜びをもっともっと教えてください。
経験させてください。
そして、私の唇に、あなたの対する賛美を与えて下さい。
もっともっと賛美させて下さい。
昼間は暖かいですね。
やはり春分の日を過ぎて、太陽がどんどん高くなっているのもあると思います。
今は夜の11時半。3.9度C。ちょっと冷えそうですね。
でも、あさってには20度くらいまで温度が上がりそうです。
今日からどういう風に聖書を読もうかと思っていましたが、
詩篇をまた「一日一篇」で読んでいきたいと思います。
中には「この一篇ですか?」と感じるようなところもあるかもしれませんが、
その中から、語られることを待ち望みつつ、読みたいと思います。
ということで、今日は詩篇の1篇。
神の言葉、聖書のメッセージを慕って歩む、
その言葉に従って歩む者の幸いを書いた箇所です。
その中の2節の言葉が心に留りました。
「昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」
英語ではmeditateという言葉が使われています。
口ずさむ、と訳した新改訳には特別な思いがあるんだろうな、と思います。
単に思いめぐらすのではなく、喜びとして、鼻歌のように口に出てくる。
御言葉を喜びとする、
歌とする。
そんな歩みをしたいと思いました。
聖書を読むのが、ちょっとお勤めっぽくなってしまって、
毎日毎日「読まなければいけない」ではなくて、
それが口をついて出てくるような、
そんな歩みをしたいと思いました。
楽しい信仰生活を送りたいと思いました。
それも御言葉を中心とした楽しさ。
それをもっともっと味わっていきたいと思います。
主よ、
御言葉による喜びを、
それを知る喜びを、語られる喜びをもっともっと教えてください。
経験させてください。
そして、私の唇に、あなたの対する賛美を与えて下さい。
もっともっと賛美させて下さい。
都の中央を流れる川
去年の7月9日から一日一章ずつ読み始めた新約聖書。
3月24日に読み終わりました。
もう日付が変わってしまいましたが・・・。
一日一章ずつ、というのは私の今までのスピードに比べるととても遅いのですが、
それもほんとうに必要な時だったと思います。
聖書は「神様からのラブレター」だと言われます。
ラブレターはもらったら、何度も何度も読み返しますよね。
繰り返し繰り返し、ニタニタうっとりしながら・・・。
でも、聖書を読む時には時々「義務」になっていないかと。
クリスチャンの一人ひとりが悩んだり、苦しんだりするポイントかもしれませんが、
「義務感で読むのはおかしい」
「読みたいと思うまで待っていていいものではない」
この二つの思いの間を行ったり来たりするのです。
でも、御言葉を味わう喜び、
いや、それ以上に、「御言葉によって取り扱われる幸い」を経験すると、
もっと語って欲しい、もっと取り扱いを受けたい、と思うものです。
今回の新約聖書の通読、
私にとってはそんな原点に帰るような経験でした。
そして、昨日24日に読んだのはヨハネの黙示録24章でした。
その中で心に留ったのは、
1-2節。
「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」
時々、無性にどこか静かなところに行きたくなる時があります。
自然の中に飛び込んでゆっくり過ごしたくなる時があります。
自分にはそれが必要なんじゃないかと思う時もあります。
でも、今日、この聖書の箇所を読んで祈っているなかで、
「いのちの川は都の大通りの中央を流れていた」という言葉を読んで、
そうじゃない。主が私にいのちの水を与えて下さるのは、
決して自然の中に入っていった時とか、バケーションでゆっくりしている時とかではなくて、
この今生かされているこの場所なのだ、ということを感じました。
私は東京の下町で育ちました。
都会の川はどす黒く、悪臭を放ち、
田舎の川が澄んでいて、たくさんの魚が生きている、そういうものだと思っていました。
それを天国の川にも当てはめて考えている自分に気づきました。
天国の標準で言うならば、水晶のように光るいのちの川が、
都のど真ん中に流れている。
いま、生かされているこの場所でいのちの水の満たしを与える、と主が語ってくださったように感じました。ここで主が満たして下さるならば、大丈夫、と思いました。元気が湧いてきました。
また、日曜日、主が用いて下さることを期待します。
待ち望みます。
主よ、
あなたは今、ここにいる私を満たすことのできる方であること、
どこか静かなところに行って、祈らなければ、満たされない、
そんなお方ではなくて、
ここにいる、今を生きている私をも、満たすことのできる方であることを、知りました。
感謝します。
ここに生きる者、今を生きる者としてください。
3月24日に読み終わりました。
もう日付が変わってしまいましたが・・・。
一日一章ずつ、というのは私の今までのスピードに比べるととても遅いのですが、
それもほんとうに必要な時だったと思います。
聖書は「神様からのラブレター」だと言われます。
ラブレターはもらったら、何度も何度も読み返しますよね。
繰り返し繰り返し、
でも、聖書を読む時には時々「義務」になっていないかと。
クリスチャンの一人ひとりが悩んだり、苦しんだりするポイントかもしれませんが、
「義務感で読むのはおかしい」
「読みたいと思うまで待っていていいものではない」
この二つの思いの間を行ったり来たりするのです。
でも、御言葉を味わう喜び、
いや、それ以上に、「御言葉によって取り扱われる幸い」を経験すると、
もっと語って欲しい、もっと取り扱いを受けたい、と思うものです。
今回の新約聖書の通読、
私にとってはそんな原点に帰るような経験でした。
そして、昨日24日に読んだのはヨハネの黙示録24章でした。
その中で心に留ったのは、
1-2節。
「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」
時々、無性にどこか静かなところに行きたくなる時があります。
自然の中に飛び込んでゆっくり過ごしたくなる時があります。
自分にはそれが必要なんじゃないかと思う時もあります。
でも、今日、この聖書の箇所を読んで祈っているなかで、
「いのちの川は都の大通りの中央を流れていた」という言葉を読んで、
そうじゃない。主が私にいのちの水を与えて下さるのは、
決して自然の中に入っていった時とか、バケーションでゆっくりしている時とかではなくて、
この今生かされているこの場所なのだ、ということを感じました。
私は東京の下町で育ちました。
都会の川はどす黒く、悪臭を放ち、
田舎の川が澄んでいて、たくさんの魚が生きている、そういうものだと思っていました。
それを天国の川にも当てはめて考えている自分に気づきました。
天国の標準で言うならば、水晶のように光るいのちの川が、
都のど真ん中に流れている。
いま、生かされているこの場所でいのちの水の満たしを与える、と主が語ってくださったように感じました。ここで主が満たして下さるならば、大丈夫、と思いました。元気が湧いてきました。
また、日曜日、主が用いて下さることを期待します。
待ち望みます。
主よ、
あなたは今、ここにいる私を満たすことのできる方であること、
どこか静かなところに行って、祈らなければ、満たされない、
そんなお方ではなくて、
ここにいる、今を生きている私をも、満たすことのできる方であることを、知りました。
感謝します。
ここに生きる者、今を生きる者としてください。
2007-03-24
マイトロンボーン
今から10年前、留学生でした。
いろんな方々のサポートを頂いていましたが、
一応自費の留学生でした。
カミさんがアルバイトしたり、
日本で数ヶ月働いたりして、
支えてくれました。
私も翻訳をやったり、休み中にはアルバイトをしたりしましたが、
日本で国家資格を持っているカミさんとは比較にはなりません。
お小遣い程度にしかなりません。
苦労をかけました。
(今も、別の意味でかけてますが・・・)
10年前ですから、
16歳の息子はそのころ6歳。
留学生活が始まったのが息子が1歳の時からですから、
5年間、それまではホントいろいろ我慢させたと思います。
こっちも気合い入っていましたから・・・。
1ヶ月の食費が100ドルだったり、
光熱費が20ドルだったり・・・。
カミさんに言わせると、
「1ドル以上のものは買ってあげない」ということだったらしく、
「これ1ドル以上?」「これはダメだよね1ドル以上から・・・」と買い物に行くたびに、「いじらしい」ことを言っていたようです。逆に親はこういうのには弱いんですよね。「買って買って」とぎゃあぎゃあ言って、寝ころんで泣き騒がれるよりも、「ダメだよね、これ高いから・・・」の方が効くんですよね。でも、それでも買ってやらないくらい、こちらも気合いが入っていました。というか、現実問題、無理でした。
で、今でも、何だかいろいろ欲しがりません。
周りの子が楽器とか買ってもらっても、
こちらも「どうする?」って聞くのですが、
欲しがりません。
「我慢なんかするなよー」と言うのですが、
子供の時の経験がもう染みついてしまっているのかもしれません。
そんなことを考えていたら、
自分の子供の頃のことを思い出してしまいました。
中学でブラスバンドに入ってトロンボーンを始めました。
最初はどうでもよかったのですが、
やはり2年生、3年生と進んでいくうちに、
「マイ楽器」を買ってもらう仲間が増えてきました。
ドラムのヤツ、トランペットのヤツ、ホルンのヤツ、
そして、フルートの子、クラリネットの子。
伝統・・・っていうか、歴史が長いというだけなんですが・・・
がある学校だったので、
学校の楽器は古い。
でも、実績はないので、部には新しい楽器を買うお金はない。
学校の楽器は凹んでいたり、さびて、使っていると緑青が手につくような、
そんな楽器でした。
今考えると、そんな楽器でも使い込むといいのかもしれませんが、
そのころはみんなのピカピカの楽器がうらやましくてしかたありませんでした。
カタログを見ては「欲しいなあ」とため息をつく毎日でした。
そして、ある時、親に言いました。
トロンボーンが欲しい、と。
「無理だ」と言われました。
泣きました。
あんまり泣いているので、
部屋に親父がやってきて
「いくらくらいなんだ?」と聞いてくれました。
「一番安いので5万円・・・でも、ボクが欲しいのは10万円」
それを聞いて親父は「バカ!」の一言を残して部屋を出て行ってしまいました。
泣きました。
思いっきり泣きました。
そして、あきらめました。
無理だと思っていました。
でも、数ヶ月後、
親父に「中古の楽器があるけど見てみるか?」と聞かれました。
宣教師の先生に聞いてくれたみたいです。
そして出会ったのがマイトロンボーン1号。
親父が2万5千円で買ってくれたのです。
もう天にも昇るような思いでした。
それを5年くらい使いました。
高校時代、おぼっちゃま、お嬢様方も多かったので、
30万円のホルンやら20万円のチェロ(これは安い方でしょうが・・・)やら持っている仲間がいて、またまた「うらやましい病」が再発してしまいましたが、「まあ、自分の楽器があるからいいや」と我慢しました。
でも、さすがに大学へ行くと、楽器のレベルがちょっとネックになってしまって、
「この楽器じゃなぁ」という感じになってきたので、
子供の頃からためていた貯金と
アルバイトで稼いだお金で23万円のトロンボーンを
渋谷のネロ楽器で新品で買いました。
(今もあるんでしょうか・・・)
あこがれのBachの42BGL(だったかな)、
10本の同じ型番の楽器の中から、よく鳴るヤツを
プロの女性のトロンボーン奏者、宮下宣子さんに選んで頂きました。
宮下さんのファンだったので、とてもうれしかったです。
今、そのマイトロンボーン2号、日本のどこかで、若者が使ってくれているようです。
こうやって振り返りながら、
息子に「無理して我慢するなよ」と思いながら、
でも、自分が何でも好きなものを簡単に手に入れることができなかったことが、
よかったことなんじゃないだろうかと思っています。
神様はどうなんだろうなあ、と思います。
私たちが「あれが欲しい」「これが欲しい」というのを
どういう目で見ておられるのだろうかと思います。
うちの親父と違って、
自分とも違って、
この神様はどこまでもどこまでも豊かな方ですよね。
与えるものが無かったら、
「無理だ」と言うのは簡単だと思います。ほんとうなんだから・・・。
でも、あるのに「今は与えない」と決断されるのはどんな気持ちなんだろうかと思います。
「神様はほんとうにいるんだろうか」
「神様はケチな方だ」
「神様は意地悪だ」
「神が愛だなんて嘘っぱちだ」
「何でも聞いてくれるって言ったくせに・・・」
そんなことを言われるリスクがあるわけですよね。
「 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。」ヘブル12:10
神様は今の私たちのことをどんな気持ちで見ておられるんでしょうか?
いろんな方々のサポートを頂いていましたが、
一応自費の留学生でした。
カミさんがアルバイトしたり、
日本で数ヶ月働いたりして、
支えてくれました。
私も翻訳をやったり、休み中にはアルバイトをしたりしましたが、
日本で国家資格を持っているカミさんとは比較にはなりません。
お小遣い程度にしかなりません。
苦労をかけました。
(今も、別の意味でかけてますが・・・)
10年前ですから、
16歳の息子はそのころ6歳。
留学生活が始まったのが息子が1歳の時からですから、
5年間、それまではホントいろいろ我慢させたと思います。
こっちも気合い入っていましたから・・・。
1ヶ月の食費が100ドルだったり、
光熱費が20ドルだったり・・・。
カミさんに言わせると、
「1ドル以上のものは買ってあげない」ということだったらしく、
「これ1ドル以上?」「これはダメだよね1ドル以上から・・・」と買い物に行くたびに、「いじらしい」ことを言っていたようです。逆に親はこういうのには弱いんですよね。「買って買って」とぎゃあぎゃあ言って、寝ころんで泣き騒がれるよりも、「ダメだよね、これ高いから・・・」の方が効くんですよね。でも、それでも買ってやらないくらい、こちらも気合いが入っていました。というか、現実問題、無理でした。
で、今でも、何だかいろいろ欲しがりません。
周りの子が楽器とか買ってもらっても、
こちらも「どうする?」って聞くのですが、
欲しがりません。
「我慢なんかするなよー」と言うのですが、
子供の時の経験がもう染みついてしまっているのかもしれません。
そんなことを考えていたら、
自分の子供の頃のことを思い出してしまいました。
中学でブラスバンドに入ってトロンボーンを始めました。
最初はどうでもよかったのですが、
やはり2年生、3年生と進んでいくうちに、
「マイ楽器」を買ってもらう仲間が増えてきました。
ドラムのヤツ、トランペットのヤツ、ホルンのヤツ、
そして、フルートの子、クラリネットの子。
伝統・・・っていうか、歴史が長いというだけなんですが・・・
がある学校だったので、
学校の楽器は古い。
でも、実績はないので、部には新しい楽器を買うお金はない。
学校の楽器は凹んでいたり、さびて、使っていると緑青が手につくような、
そんな楽器でした。
今考えると、そんな楽器でも使い込むといいのかもしれませんが、
そのころはみんなのピカピカの楽器がうらやましくてしかたありませんでした。
カタログを見ては「欲しいなあ」とため息をつく毎日でした。
そして、ある時、親に言いました。
トロンボーンが欲しい、と。
「無理だ」と言われました。
泣きました。
あんまり泣いているので、
部屋に親父がやってきて
「いくらくらいなんだ?」と聞いてくれました。
「一番安いので5万円・・・でも、ボクが欲しいのは10万円」
それを聞いて親父は「バカ!」の一言を残して部屋を出て行ってしまいました。
泣きました。
思いっきり泣きました。
そして、あきらめました。
無理だと思っていました。
でも、数ヶ月後、
親父に「中古の楽器があるけど見てみるか?」と聞かれました。
宣教師の先生に聞いてくれたみたいです。
そして出会ったのがマイトロンボーン1号。
親父が2万5千円で買ってくれたのです。
もう天にも昇るような思いでした。
それを5年くらい使いました。
高校時代、おぼっちゃま、お嬢様方も多かったので、
30万円のホルンやら20万円のチェロ(これは安い方でしょうが・・・)やら持っている仲間がいて、またまた「うらやましい病」が再発してしまいましたが、「まあ、自分の楽器があるからいいや」と我慢しました。
でも、さすがに大学へ行くと、楽器のレベルがちょっとネックになってしまって、
「この楽器じゃなぁ」という感じになってきたので、
子供の頃からためていた貯金と
アルバイトで稼いだお金で23万円のトロンボーンを
渋谷のネロ楽器で新品で買いました。
(今もあるんでしょうか・・・)
あこがれのBachの42BGL(だったかな)、
10本の同じ型番の楽器の中から、よく鳴るヤツを
プロの女性のトロンボーン奏者、宮下宣子さんに選んで頂きました。
宮下さんのファンだったので、とてもうれしかったです。
今、そのマイトロンボーン2号、日本のどこかで、若者が使ってくれているようです。
こうやって振り返りながら、
息子に「無理して我慢するなよ」と思いながら、
でも、自分が何でも好きなものを簡単に手に入れることができなかったことが、
よかったことなんじゃないだろうかと思っています。
神様はどうなんだろうなあ、と思います。
私たちが「あれが欲しい」「これが欲しい」というのを
どういう目で見ておられるのだろうかと思います。
うちの親父と違って、
自分とも違って、
この神様はどこまでもどこまでも豊かな方ですよね。
与えるものが無かったら、
「無理だ」と言うのは簡単だと思います。ほんとうなんだから・・・。
でも、あるのに「今は与えない」と決断されるのはどんな気持ちなんだろうかと思います。
「神様はほんとうにいるんだろうか」
「神様はケチな方だ」
「神様は意地悪だ」
「神が愛だなんて嘘っぱちだ」
「何でも聞いてくれるって言ったくせに・・・」
そんなことを言われるリスクがあるわけですよね。
「 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。」ヘブル12:10
神様は今の私たちのことをどんな気持ちで見ておられるんでしょうか?
2007-03-23
夜がないところ
まずい、最近、「脱力系牧師」でなくなってしまっているかもしれない。
このブログも固くなっているかもしれない。
今日、そんなことを思っていました。
でも、分ったんです。いいんだってこと。レッテルを気にしなくても・・・。
自分であることが大切で、「脱力」してても、「元気」でも、「気合い」入っても、
そんなのは何でもいいんだ。
主の前にホッとできる自分であれば・・・それでいい。
うん。そうだ。(妙に納得)
今日も何だか暖かいような、肌寒いような、
どんよりしたり、ちょっと明るくなったり、雨が降ったり、
スカッとしない天気でした。
そして、朝からずっと12度くらいだった気温は、
夜になってから下がり始めて夜の12時前で7度。
明日の朝には1-2度くらいまで下がるようです。
そして明日も雨。
それだけではなく、明日の夜には「s」wordが出てきています。
雨に雪が混じるだろうと・・・。
そして、再来週あたりはかなり冷え込むだろうと・・・。
春はまだまだでしょうか・・・。
明日、中高生の集まり。
「友情」について話して欲しいというのですが、
いろいろ考えさせられますね。
「間違ったことをしている友人がいたら、どうするか?注意するのが友情か?注意して友情にひびが入ることを恐れるのか?」
「『mixi疲れ』っていうのがあるらしいけど、日記に足跡残してコメント残さないのが許されないことがあって、それで逆に疲れてしまうらしいけど、コメント残さないと友人とは言えないのか?」(ちなみにかきごおり牧師はmixiやっていません。念のため。でも、知っています。mixiの場合は誰が自分のページに来てくれたか、足跡が残るということ・・・)
・・・なんてのを考えていて、中高生達がどんな気持ちで今の時代を生きているのかと思ったりね。
やっぱり中高生の時って友人関係がすべてみたいに感じちゃいますからね・・・。
でも、何でも「義務」になったらしんどいよね。
「コメント残さなきゃいけない」
「自分の日記にコメント残してくれたら、相手の日記にもコメント残さなければいけない」とかだったら、しんどいよね。
最近読んだ本の中に
「不機嫌な人」は、「自分がこうしたら、相手はこう応答して欲しい」と思っていて、
それに対して、相手が自分の期待していたような応答をしてくれない時に、
甘えた怒りを覚えて、不機嫌になる。
小さな子供だと、その要求を言葉にできるからいい。
でも、大人になったら、それができない。だから不機嫌という形で表す。
と書かれていました。
なるほど・・・と納得してしまいました。
自分もそういうときある・・・からね。
ストレートに言えばいいのにね。
「こうして欲しいんだ!」ってね。
でもそれはプライドが許さなかったりする。
相手に義務を課さない。
要望があるなら、それをちゃんと伝える。
「大切なことはみんな幼稚園で習う」ってホントだな、と思いました。
さて、今日の聖書。
今日は黙示録の21章を読みました。
いよいよ、世の終わり、世界の完成の場面です。
25節に「そこには夜がないからである。」とあります。
その言葉が心に留りました。
もう夜はない。見えないところはない。
トンネルの中に入って出口が見えない時もない。
不安で不安で、ほんとうに夜は明けるんだろうか、という日もない。
そして、その新しい世界を照らす光は主ご自身だというのです。
そう、主が今、私たちと共にいて下さるのとはレベルの違う近さで、共にいて下さる。
それだけで楽しみで楽しみでしかたがない。
また「天国へ行きたい病」が始まってしまいそうだ。
「この世の天国」も捨てたものではない。
この世で神様と共に歩んでいく「この世の天国」もすばらしい。
でも、「あの世の天国」はダンチ(死語?)なんだろうな。
もっともっと神様を近く感じられるのだから・・・。
主よ、
天国の約束を感謝します。
あの世の天国で、あなたが世界を照らす光となって下さることに希望を持ちます。
でも、どうか、この世で、その天国のかけらを見つけていくことができますように。
この世にもあの世の天国のforetasteである「この世の天国」があることを感じることができますように。
このブログも固くなっているかもしれない。
今日、そんなことを思っていました。
でも、分ったんです。いいんだってこと。レッテルを気にしなくても・・・。
自分であることが大切で、「脱力」してても、「元気」でも、「気合い」入っても、
そんなのは何でもいいんだ。
主の前にホッとできる自分であれば・・・それでいい。
うん。そうだ。(妙に納得)
今日も何だか暖かいような、肌寒いような、
どんよりしたり、ちょっと明るくなったり、雨が降ったり、
スカッとしない天気でした。
そして、朝からずっと12度くらいだった気温は、
夜になってから下がり始めて夜の12時前で7度。
明日の朝には1-2度くらいまで下がるようです。
そして明日も雨。
それだけではなく、明日の夜には「s」wordが出てきています。
雨に雪が混じるだろうと・・・。
そして、再来週あたりはかなり冷え込むだろうと・・・。
春はまだまだでしょうか・・・。
明日、中高生の集まり。
「友情」について話して欲しいというのですが、
いろいろ考えさせられますね。
「間違ったことをしている友人がいたら、どうするか?注意するのが友情か?注意して友情にひびが入ることを恐れるのか?」
「『mixi疲れ』っていうのがあるらしいけど、日記に足跡残してコメント残さないのが許されないことがあって、それで逆に疲れてしまうらしいけど、コメント残さないと友人とは言えないのか?」(ちなみにかきごおり牧師はmixiやっていません。念のため。でも、知っています。mixiの場合は誰が自分のページに来てくれたか、足跡が残るということ・・・)
・・・なんてのを考えていて、中高生達がどんな気持ちで今の時代を生きているのかと思ったりね。
やっぱり中高生の時って友人関係がすべてみたいに感じちゃいますからね・・・。
でも、何でも「義務」になったらしんどいよね。
「コメント残さなきゃいけない」
「自分の日記にコメント残してくれたら、相手の日記にもコメント残さなければいけない」とかだったら、しんどいよね。
最近読んだ本の中に
「不機嫌な人」は、「自分がこうしたら、相手はこう応答して欲しい」と思っていて、
それに対して、相手が自分の期待していたような応答をしてくれない時に、
甘えた怒りを覚えて、不機嫌になる。
小さな子供だと、その要求を言葉にできるからいい。
でも、大人になったら、それができない。だから不機嫌という形で表す。
と書かれていました。
なるほど・・・と納得してしまいました。
自分もそういうときある・・・からね。
ストレートに言えばいいのにね。
「こうして欲しいんだ!」ってね。
でもそれはプライドが許さなかったりする。
相手に義務を課さない。
要望があるなら、それをちゃんと伝える。
「大切なことはみんな幼稚園で習う」ってホントだな、と思いました。
さて、今日の聖書。
今日は黙示録の21章を読みました。
いよいよ、世の終わり、世界の完成の場面です。
25節に「そこには夜がないからである。」とあります。
その言葉が心に留りました。
もう夜はない。見えないところはない。
トンネルの中に入って出口が見えない時もない。
不安で不安で、ほんとうに夜は明けるんだろうか、という日もない。
そして、その新しい世界を照らす光は主ご自身だというのです。
そう、主が今、私たちと共にいて下さるのとはレベルの違う近さで、共にいて下さる。
それだけで楽しみで楽しみでしかたがない。
また「天国へ行きたい病」が始まってしまいそうだ。
「この世の天国」も捨てたものではない。
この世で神様と共に歩んでいく「この世の天国」もすばらしい。
でも、「あの世の天国」はダンチ(死語?)なんだろうな。
もっともっと神様を近く感じられるのだから・・・。
主よ、
天国の約束を感謝します。
あの世の天国で、あなたが世界を照らす光となって下さることに希望を持ちます。
でも、どうか、この世で、その天国のかけらを見つけていくことができますように。
この世にもあの世の天国のforetasteである「この世の天国」があることを感じることができますように。
2007-03-22
この大いなる救い
今日は午後からグッと暖かくなりました。
朝は3度くらいでしたが、
最高気温は19度まで行きました。
残念ながらこの天気も今日限り。
明日はまた12度くらいに戻ってしまうみたいです。
1週間前は雪が降っていたことを考えるとずっといいですが・・・。
ちょっとどんよりした日が続くようです。
今日は春めいた天気になったせいか、
JOYJOYキッズクラブも、いつもよりたくさんの仲間が来てくれて、
なんか、楽しかったです。
やっぱり「暖かい」「明るい」って大切なんだなと思います。
これで花粉症がなければ、春は最高の季節なのですが・・・。
去年の今頃どうだったかな、と思って見てみたら、
去年の3月23日は今日キッズクラブをしたレオニアの教会で
レンギョウの花が満開だったんですね。
今日はまだまだ。
3月15日にはウチの庭のクロッカスが咲いていた・・・と。
4月1日には25度を記録しています。
年によってこんなにも違うんですね。
でもクロッカスも雪の中から顔を出しています。
この週末くらいから咲き始めるでしょうか。
最近、「ホントの自分である」ことの意味を考えさせられています。
「人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。」ルカ9:25
「自分自身を失う」ということがある。
他のものを大切にして、
自分の立場を大切にしたり、
物質的な豊かさを求めたり、
表面的な「成功」を求めたりして、
ほんとうの自分を失ってしまうことがあるのだと。
ほんとうの自分は主と共に歩む中にある。
それが聖書の主張だ。
それと共に裸の自分で主の前に立つということ。
肩書きや立場や、そういうものもすべて置いて、
主の前に立つということ。
そのような自分の時を大切にしていこうと思います。
主の許に重荷を下ろして、安らぐ時を。
さて、今日も黙示録を読みました。
いよいよあさってで新約聖書一日一章が終わります。
7月から初めて3月までかかりました。
今日は20章。
「この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。」6節の言葉です。
この言葉の裏には、
第二の死の力の恐ろしさがあります。
本来、私たちは自分たちの罪ゆえに、それを経験するのが
当然の結果でした。
当然のことでした。
この第二の死は永遠の苦しみであり、永遠の孤独です。
永遠に心の中に「憎しみ」「恨み」を持ち続ける世界です。
「地獄で会おう」なんて冗談で言う人がいますが、
あまりに不謹慎です。
「地獄」は「この世の地獄」レベルではありません。
「この世の地獄」だってどうにもならない苦しみであるのに、
ほんとうの地獄はどうだろうかと思います。
「昔の仲間」にそこで会っても、
「やあ、どうしてた、おまえ・・・」なんて懐かしい気持ちが湧いてくるところではないでしょう。
誤解と苦しみ、恨みと、非難・・・。
でも、そこから解放された。
それはイエスの十字架のゆえです。
イエスの十字架のゆえに、私たちは初めてその「第二の死」から救われているのです。
その「第二の死」は全く私たちにとっとは無力なんです。
感謝。
主よ、
あなたの救いの大きさに感謝します。
その救いがあるから、私のうちに平安があるのです。
その救いがあるから、死も恐れることはありません。
「第二の死」は私たちに対して、全く力がないことを、
心から感謝します。
この大きな救い。この救いの大きさを忘れることがありませんように。
朝は3度くらいでしたが、
最高気温は19度まで行きました。
残念ながらこの天気も今日限り。
明日はまた12度くらいに戻ってしまうみたいです。
1週間前は雪が降っていたことを考えるとずっといいですが・・・。
ちょっとどんよりした日が続くようです。
今日は春めいた天気になったせいか、
JOYJOYキッズクラブも、いつもよりたくさんの仲間が来てくれて、
なんか、楽しかったです。
やっぱり「暖かい」「明るい」って大切なんだなと思います。
これで花粉症がなければ、春は最高の季節なのですが・・・。
去年の今頃どうだったかな、と思って見てみたら、
去年の3月23日は今日キッズクラブをしたレオニアの教会で
レンギョウの花が満開だったんですね。
今日はまだまだ。
3月15日にはウチの庭のクロッカスが咲いていた・・・と。
4月1日には25度を記録しています。
年によってこんなにも違うんですね。
でもクロッカスも雪の中から顔を出しています。
この週末くらいから咲き始めるでしょうか。
最近、「ホントの自分である」ことの意味を考えさせられています。
「人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。」ルカ9:25
「自分自身を失う」ということがある。
他のものを大切にして、
自分の立場を大切にしたり、
物質的な豊かさを求めたり、
表面的な「成功」を求めたりして、
ほんとうの自分を失ってしまうことがあるのだと。
ほんとうの自分は主と共に歩む中にある。
それが聖書の主張だ。
それと共に裸の自分で主の前に立つということ。
肩書きや立場や、そういうものもすべて置いて、
主の前に立つということ。
そのような自分の時を大切にしていこうと思います。
主の許に重荷を下ろして、安らぐ時を。
さて、今日も黙示録を読みました。
いよいよあさってで新約聖書一日一章が終わります。
7月から初めて3月までかかりました。
今日は20章。
「この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。」6節の言葉です。
この言葉の裏には、
第二の死の力の恐ろしさがあります。
本来、私たちは自分たちの罪ゆえに、それを経験するのが
当然の結果でした。
当然のことでした。
この第二の死は永遠の苦しみであり、永遠の孤独です。
永遠に心の中に「憎しみ」「恨み」を持ち続ける世界です。
「地獄で会おう」なんて冗談で言う人がいますが、
あまりに不謹慎です。
「地獄」は「この世の地獄」レベルではありません。
「この世の地獄」だってどうにもならない苦しみであるのに、
ほんとうの地獄はどうだろうかと思います。
「昔の仲間」にそこで会っても、
「やあ、どうしてた、おまえ・・・」なんて懐かしい気持ちが湧いてくるところではないでしょう。
誤解と苦しみ、恨みと、非難・・・。
でも、そこから解放された。
それはイエスの十字架のゆえです。
イエスの十字架のゆえに、私たちは初めてその「第二の死」から救われているのです。
その「第二の死」は全く私たちにとっとは無力なんです。
感謝。
主よ、
あなたの救いの大きさに感謝します。
その救いがあるから、私のうちに平安があるのです。
その救いがあるから、死も恐れることはありません。
「第二の死」は私たちに対して、全く力がないことを、
心から感謝します。
この大きな救い。この救いの大きさを忘れることがありませんように。
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