2010-02-25

訓練。

その後1時間余りで、また2インチくらい降りました。
でも、これがから本番。
明日の朝は全く風景が変わっているかと思い、
取りあえず、5時15分現在の様子を記録。





ここで町から電話が入り、
Paramusの学校は明日は休みだそうだ。

そして、すでにこの雪で犠牲者も出ています。
NYのセントラルパークで、今日の午後、
雪の重みで枝が折れて、50代の男性が亡くなっています。
悲しい事故です。
この雪は特別に重いですから、本当にこれから、このような事故が多発することが予想されます。互いに気を付けましょう。



さて、今日は午前中の祈祷会は普通どおりに守ることができました。
もちろん、この天気でほとんどの皆さんは来られなかったのだが・・・。


今日読んだのは創世記の24章。
アブラハムのしもべの祈りに注目しました。


この人の祈りは「まだ言い終わらないうちに」聞かれました。
こういう事があるのか、羨ましいなあ、と思いました。


でも、考えてみると、この人の信仰は本当によちよち歩き、
自分の信仰というよりも、主人であるアブラハムにくっついて持っていた信仰。
ですから、祈りの中でも、「主人の神」とか「主人を恵んで下さい」ということばばかりが出てきます。その主人のアブラハムは「神はあなたの前に御使いを遣わしてくださるから大丈夫」というのですが、このしもべは大役を預かりながら、不安でしょうがありません。それで、「こういう娘がいたら、あなたの導きだということにして下さい」なんて、かなり身勝手なお願いをしているわけですよね。でも、神様はそれを聞いて下さった。


経験を通して、時々感じます。
神様は、生まれたばかりのベビークリスチャンだったり、よちよち歩きの信仰だったり、まだ、神様を試している段階の方の祈りを不思議と聞いてくださる。そして、信仰の人の祈りの答えは不思議と待たせられることがある。


でも、人間は時間の軸の中で自由がないから、自分の時間でしか物事が見えないから、自分の祈りがすぐに聞かれると、「わたしの信仰だ」と思い、祈りがなかなか聞かれないと「わたしの信仰は駄目だ」と思う。


先日のリック・ウォレンの話を思い出しました。
「数あるテストの中でも特に大切なテストがあります。それは、人生において神の臨在が感じられなくなったとき、どうするかというテストです。」
そのように、神様が「この人は大丈夫」と思われる人に、あえて「神様がわからなくなる」ような試練をお与えになるのかな、と思うのです。


そして、その中で、苦しむ中で、「どうしてですか?」と、神と格闘するような苦しみの中で、「見ないで信じる信仰」を持つようにと導かれるのです。自分の感覚である「実感」を信じるのではなくて、神様の約束である「御言葉」を信じるようにと導かれるのです。


そして、このアブラハムのしもべの方は、この「祈りが聞かれる」という経験を通して、神様との関係が確立してきます。主がわたしに幸いを与えられた、わたしを導かれた・・・という思いが与えられるのです。主人にくっついていた依存的な信仰から、自分と神様との関係に生きる自立的な信仰へと導かれて行くのです。


神様の深いお考えを感じました。


さて、2月19日金曜日の聖書。
マタイ17:14−27。


「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。」20節。


上の話の続きみたいですが、こういう聖書の箇所を読んで、
「ああ、わたしの信仰が問題だから、祈りが聞かれないんだ」と思うんですよね。


でも、「からし種でいい」と言われるのですから、
それでいいんですよね。
単純に主を信頼すればいい。
どんな山でも動くことを信頼すればいい。


山というものはじゃまになるもの、問題、動かないもの、そういうものの象徴。


主が山を移してくださることを、本気で信頼して歩んで行くものでありたいと思う。
それが時間がかかっても、すぐに聞かれなくても、
主の約束を信頼して、歩んで行こうと思う。


主よ、
あなたの力を信じます。
単純に信頼します。
あなたの最善を信頼します。
すぐに祈りが聞かれなくても、
あなたの約束を信頼します。
感謝します。



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