2011-02-23

たましいが喜ぶこと2。

NYCでの一日。
今夜も帰ってから更新は無理だと思うので、
ちょっと一休みして更新。


今朝も寒かったですね。
温度計見て来なかったですが、
多分-10度C近くいったんじゃないかな。


特にバス待ってたから寒く感じた。


なんだか最近ぐっと朝が明るくなって来た。
6:40にはもうすっかり朝。


春は近いんだけど、昼間も結構寒い。


明日の夜から、明後日は冷たい雨みたいです。
ちょっとまとまった雨。
先日の雪をかなり流してしまう雨になりそうです。


先日書いた「たましいが喜ぶこと」
またちょっと考えています。


イエスを信じることは、
イエスに従うことは、
決して「たましいが喜ぶこと」を捨てることではない。
「自分のやりたいこと」を捨てることではあるかもしれないけれど、
「たましいが喜ぶこと」を捨てることではない。
そうではなくて、イエスに従うことは、
「たましいが喜ぶこと」へと導く。


なぜなら、私たちを造られたのは、
一人一人の個性を大切に造られたのは神だからだ。


私を私に造られたのは神だからだ。
私にいのちの息を吹きかけ、生きる者とされたのは神だからだ。
だから神に従うこと、キリストに従うことは、
私たちを「たましいの喜び」に導く。


こんなことを考えるきっかけは、
Twitterでフォローしているある方が、
自分が30年前にトロンボーンを吹いていた高校のオペラで、
照明を担当しておられたことを知ったこと。


http://twitter.com/nj_otenki/status/39546848117006336


あの経験を共有していた人を見つけたのはホントにうれしかった。


30年の昔にタイムトリップした。
ウェーバーの「魔弾の射手」。
序曲の一部は讃美歌の「主よ御手もて」にも使われている。


その著書にこんなことを書いておられるそうだ。


照明を当てていた彼の全身が震えたその時、
確かに、自分もそこにて、たましいを震わせていた。


荒削りの高校生のトロンボーン吹きにとって、
歌手の声を消さないように音を抑えて吹くのは至難の業。
しょっちゅう、怒られていた。


出番だって多くない。


でも、指揮者の「トロンボーン、もっと抑えろ」の指示に従いながら、一つの音楽に参加しているときに、自分のたましいが喜んでいた。


好き勝手に吹いていたら、ぶちこわしだっただろう。
好き勝手なことをしていたのではなかった。
指揮者に従っていても、音を外したりもした。


でも、自分のたましいの喜ぶことをしていた。


神に従うこともそう。


人の顔色を見て生きることとは違う。「なんか違うんだけどなあ」と思いながら、人を喜ばせることだけを考えて生きることとは違う。反応を恐れて生きるのとは違う。


みんなのたましいが喜ぶ、そのような教会となりますように。


さて、昨日の聖書。
昨日はヨハネ第一の手紙2:12-27。


「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」16節。

この聖書の言葉を読むと、
やはり、欲に従って生きることを主が喜ばれないことがわかる。
だから好き勝手なことじゃないんだよな。

世から出たものがある。

神を神としない世。
自分を神とする世。

そこに惹かれてはいけない。
そこに調子を合わせてはいけない。

イエスから目を離さないでいることができますように。

主よ、
私の心を守ってください。
肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などに
喜びを見いだすのではなく、
あなたご自身に喜びを見いだす者でありますように。

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