NYCでの一日。
今夜も帰ってから更新は無理だと思うので、
ちょっと一休みして更新。
今朝も寒かったですね。
温度計見て来なかったですが、
多分-10度C近くいったんじゃないかな。
特にバス待ってたから寒く感じた。
なんだか最近ぐっと朝が明るくなって来た。
6:40にはもうすっかり朝。
春は近いんだけど、昼間も結構寒い。
明日の夜から、明後日は冷たい雨みたいです。
ちょっとまとまった雨。
先日の雪をかなり流してしまう雨になりそうです。
先日書いた「たましいが喜ぶこと」
またちょっと考えています。
イエスを信じることは、
イエスに従うことは、
決して「たましいが喜ぶこと」を捨てることではない。
「自分のやりたいこと」を捨てることではあるかもしれないけれど、
「たましいが喜ぶこと」を捨てることではない。
そうではなくて、イエスに従うことは、
「たましいが喜ぶこと」へと導く。
なぜなら、私たちを造られたのは、
一人一人の個性を大切に造られたのは神だからだ。
私を私に造られたのは神だからだ。
私にいのちの息を吹きかけ、生きる者とされたのは神だからだ。
だから神に従うこと、キリストに従うことは、
私たちを「たましいの喜び」に導く。
こんなことを考えるきっかけは、
Twitterでフォローしているある方が、
自分が30年前にトロンボーンを吹いていた高校のオペラで、
照明を担当しておられたことを知ったこと。
http://twitter.com/nj_otenki/status/39546848117006336
あの経験を共有していた人を見つけたのはホントにうれしかった。
30年の昔にタイムトリップした。
ウェーバーの「魔弾の射手」。
序曲の一部は讃美歌の「主よ御手もて」にも使われている。
その著書にこんなことを書いておられるそうだ。
照明を当てていた彼の全身が震えたその時、
確かに、自分もそこにて、たましいを震わせていた。
荒削りの高校生のトロンボーン吹きにとって、
歌手の声を消さないように音を抑えて吹くのは至難の業。
しょっちゅう、怒られていた。
出番だって多くない。
でも、指揮者の「トロンボーン、もっと抑えろ」の指示に従いながら、一つの音楽に参加しているときに、自分のたましいが喜んでいた。
好き勝手に吹いていたら、ぶちこわしだっただろう。
好き勝手なことをしていたのではなかった。
指揮者に従っていても、音を外したりもした。
でも、自分のたましいの喜ぶことをしていた。
神に従うこともそう。
人の顔色を見て生きることとは違う。「なんか違うんだけどなあ」と思いながら、人を喜ばせることだけを考えて生きることとは違う。反応を恐れて生きるのとは違う。
みんなのたましいが喜ぶ、そのような教会となりますように。
さて、昨日の聖書。
昨日はヨハネ第一の手紙2:12-27。
「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」16節。
この聖書の言葉を読むと、
やはり、欲に従って生きることを主が喜ばれないことがわかる。
だから好き勝手なことじゃないんだよな。
世から出たものがある。
神を神としない世。
自分を神とする世。
そこに惹かれてはいけない。
そこに調子を合わせてはいけない。
イエスから目を離さないでいることができますように。
主よ、
私の心を守ってください。
肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などに
喜びを見いだすのではなく、
あなたご自身に喜びを見いだす者でありますように。
No comments:
Post a Comment