2010-01-17

新しい道。

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夜の11時になりました。
今日2回目の更新。


外は小雨。
と書いたところで、
屋根に当たる雨の音が聞こえてきた。
レーダーにもあまりハッキリ映っていないんだけど、
雨が本降りになってきたようです。


今日の聖書。
今日はマタイ8:14−22。


「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」17節。

今日はちょっと恐れを感じながら、
自分でメモしたことをそのまま書きます。

「私に今まで大きな病、家族に大きな病が与えられなくて、健康が与えられてきたのには、主の意図があった。主のお考えがあったからなのだ。私にとって病の方々と向きあうということはどういう事なんだろうか?どういう使命が与えられているのだろうか?」

この背景には、自分が牧師として、
そのような病の問題を自分の問題として、経験したことがあまりに少ないことが、ハンディのように感じることがあるからです。
人は、いろんな経験の中で、
特に痛みの経験の中で訓練され、整えられ、
また人の痛みのわかる存在になっていく、
そのように思わされてきました。

だから、自分が健康であることを、
素直に受け入れられないでいた部分があったのです。

ですから、今朝、「そこには神の意図があった」と気がつかされたことは、
自分の今までの歩みを肯定的に受け取ることができたことは、
とても良かったと思います。

そして、今日の礼拝後の交わりの中で、
ある方が言われていたことがまた、心に留まりました。

「自分が周りの人に相談したときに、多くの人は、自分の経験を土台にして、いろいろアドバイスしてくれる。もっと過酷な経験をしている人は『そんなのたいしたことじゃないよ』と言ってくれたりする。でも、牧師は、自分の経験でアドバイスをしない、経験を超えた、ちがった基準、聖書という基準によってアドバイスをする。そういう存在が自分には必要なんだ」そんな意味のことを(含自分の解釈)言われました。

「新しい道」が開かれたように感じました。

牧師の歩みの中で当たり前の事なのかもしれません。

でも、自分はあまりに自分の人間としての経験の貧しさに、こだわっていて、その当たり前のことが見えなくなっていたのだと思います。

「あなたの弱いところに私の力が現れる」と言われた主のみ言葉をも信頼して、「自分の経験の貧しさ」にも神様の力が注がれる、と信頼して、主の与えてくださった使命を果たさせていただきたい、そのように思わされました。

主よ、
今日の御言葉に感謝します。
どうか、あなたのことを指し示す器にならせてください。
私のうちにおられる宝物である、あなたの輝きが、
あなたの慰めが、私のうちから輝きますように、
私のうちから、溢れ流れますように。

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