2008-07-17

忍耐。

今日もまた暑かったですねえ。
35度までいきました。
そして、夜になっても、気温が下がるスピードは遅く、
9時45分で26度あります。

明日はまた今日以上に蒸し暑い日になりそうです。
英語ではoppressive heatといいますが、
英和辞典では「うだるような」という訳がありますが、
もともとの言葉は「うだる」というよりも、
「押しつぶされる」という感じです。

そんな暑さになりそうです。

先日のハミルトンの記事で、
おばあちゃんが対決したことが書かれていましたが、
それを読みながら、
先日、去年お会いした、ミシガンの中嶋先生のブログにあった、
「相手のことを本当に心配しているなら、ぶつかっていく」
という記事の中で紹介されていた、
"Caring Enough to Confront"という本を思い出しました。


早速、注文して買っていたのですが、
なかなか読めないでいたのを、読み始めました。


この著者のAugsburgerはうちの教会のある集会で読んだ、
「聞く」という本を書いた人。


その最初のところで一つの言葉が心に留まりました。


"I feel deeply about the issue at stake."



この言葉を反芻している中で、自分はこんな気持ちになったことが、
今までどれだけあっただろうか、と思いました。

そして、

「自分の深いところには問題を無視しようとする気持ちがある」
と気がついたのです。


「イエス様に目を向ける」といいながら、
実際はただ、問題を問題として見るのが怖くて、
逃げていただけなのかもしれない。
イエス様に祈りながら、問題に取り組んでいくのではなく、
ただただ、問題を無視しようとして来たのではないだろうかと。


そして、今日の午前中の祈祷会でも、
「忍耐」という言葉が話題になりました。

「暑さの中で忍耐する」「イヤなことが怒る中で忍耐する」
というときに、ただただ、文句を言わないで、黙っているというイメージがあります。
昔のCMの「男は黙って・・・・・・・」というヤツです。

でも、それが本当に聖書の言う「忍耐」なんだろうかと。

「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。」という忍耐なんだろうかと。

ただ、問題を問題としないで、
それを無視して、それから逃げて、
ただ、じっと我慢している、
それが神様の私たちに望んでおられることなんだろうかと。


ホントの忍耐は、何だろうか、ちょっと宿題になっていますが、
神様の愛と真実を信頼して、試練の中でも、神様の答えを待ち望むこと、
それは単なる沈黙ではなくて、葛藤や、神様への訴え、格闘なんかも含むんだろうなと思います。


さて、今日の聖書。
今日はコリント第一の手紙の9章19-27節。


「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」
19節。


本当の自由を経験した人だけが、
本当に僕になることができる。
そんなことを感じました。


何かにとらわれているとき、
何かにこだわっているとき、
誰かの存在に振り回されているとき、
(それがポジティブでもネガティブでも・・・)

私たちは僕になることはできない。

本当にイエスによって与えられた自由をいつもいつも
確かに持っていたいと思いました。


そして、その自由をもって、
人に仕えていくものでありたいと思いました。


主よ、
あなたの与えてくださった自由を感謝します。
でも、時々、恐れが私を支配します。
時々、欲望が私を支配します。


神様、あなたの自由の中に私を守ってください。
そして、その自由をもって、
自由に仕えていくことができますように。

 

 

No comments:

Post a Comment