2007-01-13

兄弟として

今日はかきごおり予報は外れて、
「暖かい雨」になりました。

昨日の夜は真夜中に2度くらいになった後、

その後はどんどん温度が上がっていったようで、

今日の昼間は12度を超えていました。



夜になっても、昨日よりも暖かい夜です。
今も7度くらいあります。

北に50キロどころか200キロくらい行った、

Albanyでは氷点下に下がってきていますが、

ちょっと北に上がっただけのCatskillあたりでは
まだ2-3度あるみたいですね。

でも、そこら辺もどんどん冷たい空気が入ってきているようです。


明日は、ズバリ、
「ちょっと冷たい雨」でしょう。

ずばり、と言うわりには「ちょっと」というアバウトな言葉が入りますが、

2-4度くらいで降る冷たい雨ではなくて、6-7度で降る、

絶対、雪やみぞれになり得ない、雨です。


月曜日の夕方、雪に変わるか、ですが、

たぶん、冷たい空気が入ってくる前に雨が上がってしまうのではないか、

と思います。


ですから、今回も雪はなし、ということで。


さて、今日、車の中での息子との会話。


息子の言葉・・・

「なかなか自分で勉強するのは難しいよ。先生にやれと言われると、やる気になるんだけど」


瞬間的な自分の心の中の反応・・・

うーん、「やれと言われたら、やる気になる」というだけでも、ありがたいのかなあ。

まあ、言う人が「親」じゃなくて「先生」というのがミソなのかなあ。

でもなあ、ずっと「自分で考えて決める」ように教えてきたつもりだったんだけどなあ。


でも、自分はどうだろうかと考えた・・・

確かに、自分も他人に言われると「そうだなあ、やんなきゃなあ」と思うし、

やろうと思っていることを言われると、

反抗期の子供のように「カチン」と来たりすることもあるけど、

でも、最終的には、やっぱり「そうだよ、やっぱりやらなければ!」と思う。

気がつかなかったことだったら、「自分では見えてないこともあるんだなあ」と反省する。

言われてやる気になることもたくさんある。言われて見えてくることもたくさんある。


だったら、自分もはっきりと言っていく人間になろうと思いました。

あんまり言わないできたところがあったことを反省させられました。

よかれと思って言ったことに反対の反応が返ってきた時にも、

言わなければいけないと思って言って、きつい反撃が返ってきた時にも、

「言わなければ良かった」なんて、子供みたいに思っていないで、

忍耐を持って祈り、語り続ける者でありたいと思いました。


ですから、皆さん、聖書を読みましょう。

これを読んだら、その場で、日曜日の礼拝のために祈って備えましょう。


で、今日の聖書です。

今日は第2テサロニケの3章です。


「もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。 しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい。」14-15節。


これはとても難しいことだと思いました。
問題を起す人がいた時に、
「兄弟」として見るよりも、「敵」として見る方が簡単だからです。
ほんとうに愛が必要だと思いました。
そう、敵としてみてしまう時、その人を愛することよりも、
その人が悔い改めて主に従うことを望むよりも、
自分を守ることの方に重心が置かれてしまうからです。

「あなたが語ろうとしている人々は、あなたが恐れるべき人たちではなく、あなたが愛するべき人たちなのです」というある牧師の他の牧師達への言葉を読んだことがありますが、ほんとうにそれが大切なんだと思います。

結局のところ、愛すること。

恐れるのではなく、愛すること。
逃げるのではなく、愛すること。

主よ、
私を人々への愛で満たして下さい。
恐れではなく、愛でいっぱいにして下さい。

明日の日曜日、
明日の礼拝の中で、
あなたが確かにそこにおられること、
私たちと共にいて下さることを、
示して下さいますように。

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