2010-11-27

明日に備えて。

今朝は思ったほど冷えず、-1.0度。
この秋最低更新ならず、でした。
そして、今夜もどうなんでしょうか、
今、夜の10時40分ですが、2.8度。
夜は弱いし、明日に備えて今日はもう休みます。

良い日曜日を!

2010-11-26

旅人として。

今朝は冷え込みも緩んで、
というか、だんだん気温が上がっていたみたいで、
寝る前には5度くらいだったのが、
起きたら7度くらい。
ちょっと雨が降っていましたが、
朝からお店の前の行列に並ばれた皆さんにとっては、
救いだったのではないでしょうか。


今日は一日どんよりしていましたが、
夜になって、晴れて、冷えてきました。
今、夜の11時過ぎですが、2度くらい。
明日の朝は-2度くらいの予報が出ています。


今日は、ニュースレターの原稿と、
日曜日の準備。
もう一度アドベントの礼拝説教計画を再考して、
以下のように準備を始めました。

11月28日 クリスマスって12月25日じゃなかったの?・・・じゃあ、どうして?
12月5日 クリスマスを24日で終わらせるな!・・・じゃあ、いつまで?
12月12日 恋人たちのクリスマス?・・・愛を育む秘訣は?
12月19日 最高のプレゼントを準備しよう!・・・Rush and Shoveの街から。


クリスマスの商業主義化を嘆くよりも、
クリスマスがこんなに注目されていることを、
積極的に受け取って、何とか、一人でも多くの方々と、
イエスの誕生の喜びを分かち合いたいと思います。


あさってからはいよいよアドベント。


明日は礼拝の準備と、アドベント聖書黙想の準備、そして、中高生の集会です。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記の23:26−44でした。


「これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」43節。

この世での私たちの歩みは仮庵の中で住むような歩み、
そのことを忘れないようにと、主は仮庵の祭りを定められた。

そうなんですよね。

私たちはこの世では旅人。
天国に向かって旅を続ける旅人。

なのにいつの間にか、この世の歩みが全てであるかのように生きてしまう。
そんな先入観の中に閉じこめられてしまっている。

本当は私たちはこの世では旅人に過ぎない。
だから、荷物はできるだけ、軽いほうがいい。
簡素な方がいい。

荷物が増えないように、
持っているものに縛られないように、
神さまを見上げて、
眼に見える「物」ではなくて、
神様によって心満たされて、
歩んでいくことができますように。

主よ、
私がこの世では旅人に過ぎないこと、
旅には沢山の荷物は必要ないこと、
いや、それ以上にじゃまになること、
忘れることがありませんように。


今日も、もう一度思い出させてくださって、
ありがとうございます。

感謝。

日付が変わりました。
サンクスギビングが終わりましたが、
なんだか朝の準備から夜まで、楽しく過ごしました。

朝は、先日遠足(社会科見学)で、下の娘が、
Macy'sのパレードの準備の様子を見に行ったので、
朝からじっくりTVでパレードを見て、
その後、掃除と料理。

食事の後は、中高生たちとカードゲームをやったり、
iPadとMacBook Airのどちらがいいか、
WinとMacのどっちがいいか、
などで盛り上がったり、ちょっと久しぶりの感覚でした。

あんまり「牧師らしい」ことをすることはなかったのですが、
こういうのもいいな、という感じ。

フットボールでも
Paramus High vs. Ridgewood HighではParamusが勝ち、
NY Jets vs. Cincinnati BengalsではJetsが勝ち、
いい気分。

興奮しているのか、2時を回っても、
眠くなりません。

明日は日曜日の準備とニュースレターの準備。
主の助けを待ち望みながら。

2010-11-24

Happy Thanksgiving!

今朝はよく晴れた。
久しぶりに土星やスピカも見えた。
それから明るく輝いていたのは
うしかい座の0等星、アルクトゥルス。
振り返って西の空を見れば、
月明かりに負けまいと輝くのは
シリウス(-1.5等星)、ベテルギウス(0.5等星)、プロキオン(0.4等星)


はい、これら、すべてStar Walkのおかげです。
自分では全然わかりません。
ちょっとこれから勉強しようかな、です。


冬の晴れた朝は最高です。
そのまま、神さま素晴らしい!と賛美に入れます。ハイ。


今は夜の11時半で4度。
明日の朝は氷点下で、多分この秋最低を更新。
昼間も雨で肌寒そうです。


さて、明日はThanksgiving・・・
去年はいろいろ「感謝」考えていたんだなあと思いました。


今年はほんとうに心の思いが研ぎ澄まされて、
「あれが感謝」「これが感謝」を超えた世界にいます。
すべてが取り除かれた後に残る感謝ってなんだろうと、
そんな事を思わされながら、過ごしています。


去年はずいぶんたくさん集まって来られたThanksgivingですが、
今年はそこそこいろんなお宅にバラけたようで、
20人くらいでしょうか。
いい傾向・・・。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記23:1−14。


「六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。」3節。

ルターによって、労働の尊さが回復され、
「仕事も礼拝のうち」という考えが定着してきました。
間違いじゃないと思います。
私たちの生活のすべての側面が礼拝で、
神さまの栄光を表すときなのです。

でも、時計の振り子は反対側にふれてしまったようにも思います。
つまり、「仕事を休んで礼拝しなさい」という聖書の命令の意味を見失ってしまっているのではないかということです。

日曜日が都合がいいから礼拝をする、
これがもしも月曜日がよかったら、月曜日、
火曜日がいい人は火曜日、
夜がいい人は夜。
なんて感じでしょうか。

仕事が忙しい時には
「仕事だからしょうがないよね」となる。

「しょうがない」ではなくて、「仕事も礼拝のうちだから・・・」というのもある。

でも、毎日が礼拝なんだけれども、
そんな中で、神さまが決められた方法がある。
神さまを第一にするならば、神さまの方法に従うこと。
submissionだ。

もちろん、律法的に義務として守っていくこと、
それだけでは違うだろう。
でも、神さまが「こうしなさい」と言われたことに、
理屈を越えて従っていくこと、
自分の理屈にこだわらないで、
神さまの理屈を受け入れていくこと、
それは本当に大切な事だと思う。

人間って本質的に「わがまま」だと思うから。

主よ、
あなたを礼拝します。
あなたの方法を導いてください。
そして、そこに従っていくことができますように。

2010-11-23

愛すること。

今日も暖かくなりました。
朝は5度くらいでしたが昼間は18度くらいまで上がりました。
そして、夜になって寒冷前線が通過。
雨は殆ど降りませんでしたが、
これから冷えてくると思います。


今は夜の10時半で気温は11.3度ありますが、
明日の朝は2−3度の予想が出ています。


今日朝一番に目に飛び込んできたニュースが
朝鮮半島での砲撃。
ほんとうに心配です。


一日祈りつつ思いめぐらしていた中で、
子供の頃から、朝鮮半島にゆかりのある方々との出会いがたくさん与えられ、励まされ、支えられてきたことに気付かされました。


大学時代のゼミやクリスチャンのサークル、少しずつ。
そして、聖書学院の仲間たち、
EmoryやDrewの学友たち。
特にDrewの仲間たちは質・量共にパワフルでしたねえ。


こちらの教会で出会った皆さん。民団系の方も総連系の方も、半島出身の方も。


そして、今、特に思わされるのは地区の牧師会で共に歩んでいる先生方のこと。韓国教会に支えられている日系教会もいくつかあり、韓国からの宣教師の方々にも本当に力を貰っていると思います。


そして、なかなか直接お会いすることはできませんが、互いのブログで交流をしているハワイやカルフォルニアの聖書学院出身の先生方、奥様のご家族が半島におられたり、ご自身半島にルーツをお持ちだったり。


お一人ひとりの顔を思い出しながら、どんな思いで祈られているか、心を向けながら祈っています。




でも、そんなことを思いながら、
正直に感じたこと・・・。


自分はアフガニスタンやイラクの戦争のために、
コソボやアフリカ各地の紛争のために、
こんなに祈ったことがあっただろうか。


身近なところに、その地にゆかりのある方々を置いてくださって「祈れ」と主が招いてくださっているのだ、とはわかるのですが、自分の関心がいかにも自分の周りだけに、自分と関係のあるところだけに、なってしまっているのだろうかと思わされたのです。




それには伏線があって・・・。


昨日ご紹介した茂木氏ですが、
いつの頃からか、注目してきました。
考え方が違ったり、
不祥事でがっかりしたこともありますが、
心の底でやっぱり応援しています。


どうしてか、というと、
一つは、難しいことを分かりやすく説明できる人が尊敬できる、ということが一つ。
でも、もっともっと大きなことは、
面識とかないんですが、
同じ時代に同じ高校で過ごしているんですね。
1年先輩。


この心の動きってなんだろうと思っていました。


愛校心ていうか、それが一方的な仲間意識みたいになって・・・。
自分のアイデンティティーを作っている一部だから、
そこを共有しているのがうれしい、ってことでしょうか。


でも、同じ愛◯心で、
今、こんな紛争が起こるとき思わされるのが
「愛国心」。


オリンピックやW杯なんかでも感じますけど、
紛争の時に思うのは、「どうなのかな」という思い。


9-11直後のアメリカを席巻した愛国心。
違和感を感じながらも、それを口に出したときの人々の感情的な反応。
God Bless Americaばかりが流れて、
「アフガニスタンは神にとってどうでもいいのか?」と思ったこと。
空爆が始まったときにクリスチャンの施設の中で沸き起こった拍手への「なにそれ?」という思い。


いろんな思いがかけめぐっています。
ああ、また整理できない・・・。
整理できないままこんな表明していいのか・・・と思いつつ書いてしまっています。


近くにゆかりのある人がいるから、より具体的に祈ることができる、そうなんですよね、それはいいんです。でも、愛することは自分の領域から一歩外に出ることだと思うから・・・。


でも、いずれにせよ、今回祈りに招かれていることは間違いないです。
主が各国のリーダーたちの決断を守ってくださいますように。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記22:10−33でした。


「欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。」20節。

主へのささげ物に、自分としては余り大切ではないものをささげようという人がいたんだろうなあ。これは差別の問題とは全く無関係で、大切なモノを主に捧げることの意味を伝えた言葉。

果たして自分はどうだろうかと思う。

たいせつなものをささげるから、ささげ物の意味がある。

自分にとって大切なモノはなんだろうか?
神さまよりも大切にしているものはないだろうか?

それをささげなさい、と言われたときに、
主にささげたくないものがあるだろうか。

主を信頼して、最高のものを主のもとに持っていく、
そのような生き方をしたい。

そう、主は必要なものをすべて与えてくださる、と約束してくださったのだから。

神さま、
どうでもいいもの、余ったもの、役に立たなくなったもの、
そういうものではなくて、
最高のものをあなたのもとにお捧げすることができますように。
あなたのために最高のものを用いていただくことができますように。
それはまた、元々あなたからお預かりしたものなのですから。

2010-11-22

嫌われることを恐れない。

今朝は暖かかったですね。
まだ曇っていて星空は見えませんでしたが・・・。


でも、昼間は晴れてきて、小春日和。
本当に暖かくなりました。
18.5度まで上がりました。


今は夜の11時過ぎですが、まだ11度くらいあります。


明日は少し雨が降るかもしれませんが、
また暖かい一日のようです。


先日から、Twitterで、
脳科学者の茂木健一郎氏をフォローしているのですが、
ときどき、示唆に富んだ発言があります。


最近、目が開かれたのはこれ。


茂木健一郎 連続ツイート 「嫌い」

なるほどですね。
特に「嫌い」は「一種の自己防御反応である。今までの自分を揺るがすような新しいものを前に、自分を守ろうとする。防御の壁が壊れると、一気に好きになる。」というところ。


聖書の中でもパウロにはこんなことが起こっていたのでしょうか?
教会は、パウロにとっては「嫌い」。
なんでかというと、自己防御反応。
今までの自分の生き方が否定されるのが怖くて、自分を守ろうとした。


その壁がイエスとの出会いによって崩されて、
一気にイエスの福音のメッセンジャーになる。


で、最後の方の「嫌われると人は傷付く。しかし、嫌われることに慣れて、人は一人前になるのだろう。『嫌われて一人前』」という一文。


これもなるほどです。


自分も嫌われることを恐れて、失ってきたものがたくさんあるのではないかと思います。「嫌われることを恐れるな」・・・イエスの生き方そのものですね。


自分もどれだけ多くの方々を「みんなに好かれなくていい」「みんなに好かれるなんて、どうせあり得ないんだから、恐れるな」と励ましてきたかと思いますが、実際、自分自身が一番、嫌われることを恐れてきたんだろうな、と思い知らされました。


「嫌われることから逃げない!」


これは大切な宿題だな。


さて、昨日と今日の聖書。
昨日・今日はレビ記21章から22章9節。


「イスラエル人の聖なる者は、わたしのために聖別しなければならない」22:2。

このところはずっと祭司の聖別されるべきことが書かれています。
神と人との間に立つ祭司は、他のものとは分けられる、特別な存在であり、
それゆえに、厳しい基準が当てはめられていました。

新約時代、特にプロテスタントの伝統の中で新約聖書が読まれる場合には、「万人祭司」といって、誰かが神と人との間に立つ必要はない。イエスが大祭司であり、一人ひとりが直接イエスを通して神の前に出ることができ、また互いに互いの祭司として執り成しの祈りをするようにと招かれているのです。

ですから、私たちはみんな神様の前に特別に分けられて、
身をきよく保つところに招かれているのです。

聖とされたから聖なる歩みへと招かれている。

たくさん課題はありますが、一つ一つ、主に導いていただきたいです。
取り扱っていただき、主の前に整えていただきたいです。

主よ、
わたしをきよめてください。
祭司として招かれた私を、
祭司としての働きのために整えてください。
互いのためにとりなす働きをさせてください。

2010-11-21

三段階の感謝。

101・・・感謝すべきことを探してみよう。
201・・・神さまはすべてを最善にしてくださるから、感謝できないように思えることも感謝しよう。
301・・・神さまがおられるから、共におられるから感謝しよう。

今日の礼拝メッセージ。(音声ファイルです)

38分も話していたんですね。(笑)

今朝は0.1度。
今朝も夕方も薄曇りです。
Star Walk出番がありません。


今夜は曇っています。
そして、木曜日くらいまで、曇りがちで、そして、時々雨も降る天気みたいです。
そして、Thanksgiving明けからは寒くなります。


今日の礼拝と愛餐会には沢山の方々が来られて、
楽しい、幸いなひとときとなりました。


はい、例によってゲーム担当の中高生たちにはやられました。




観察力・記憶力共にプライドが打ち砕かれました。
ありがと。
君たちのおかげで謙虚になれる・・・。





2010-11-20

冬支度。

今朝の最低気温は-1.1度。
この秋最低をあっさり更新。
紅葉もすっかり終わり、
落ち葉の片付けが大仕事です。
明日はThanksgivingの礼拝。
神様の恵みのあふれる日でありますように。

2010-11-19

冷えてるよ〜。

はい、ビールの宣伝みたいな題ですが、
そうじゃなくて、天気の話です。
今日は夜の12時前に氷点下になっています。
明日の朝の最低気温予想が0〜2度ですが、
もうすでにそれを下回って、-0.1度(11時50分)。
はい、明日の朝は、この秋最低更新です。


明日も晴れて、秋らしい天気になりそうです。


今日は、朝の祈りの中で、
自分がいかに人の言葉に振り回されやすいか、
それを思い知らされて、
それはどうしてかなあと思ったら、
祈りの中で、神さまとの関係がもっともっとしっかりしないと、
いけないんだなあということを思わされ、
それで「もっとあなたとの関係が強められますように、今日も沢山の方々にお会いしますが、あなたとの関係の中で、確信と平安を持って、お話をしたり、お話を聞いたりできますように」という祈りに導かれました。


そんな平安の中で、今日の一日は幸いな一日でした。


朝も、夜も集会があったのですが、
平安が自分の心を守っている、という感覚がありました。


毎日の祈りが祝福されますように。


あ、でも、今朝の祈りの時には、伏線があって、
昨日の夜、10時半に就寝。
それも、風邪薬を飲んで(風邪じゃないけど)、
しっかり7時間寝た。
ホントは5時間後の3時半に目が覚めたんですが、
薬のおかげで、そのまま眠れた。
ちゃんと寝ることが、朝の祈りの時の祝福につながる。
ほんとそう思います。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記の20:1−16でした。


「あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。私があなたがたの神、主であるからだ。」7節。

自分の身を聖別する・・・
その後に続くのが性の問題。

自己の経験からしても、
本当に主の前に聖別が問われるのは
性の問題だと思う。

いや、それだけではないと思うけれども、
でもとても大きな問題だと思う。

主に守っていただきたいと思う。
若い時には「結婚すれば」「歳をとれば」解決すると思っていた。
でも、たしかに結婚前とは問題は違うし、若い時とは違うと思うが、
やはり闘いはある。

主に守っていただきたいと思うし、
主の前に、自分を清く守りたいと思う。
こころと体を守っていただきたいと思う。

主よ、
あなたが守ってください。
私の思いと体を清く守ってください。

2010-11-18

主へのささげもの。

今夜、何げなく読んでいた記事にこんなのを発見。



ミスコン候補の女子大生へのアンケート。
「返信に困る男性からの携帯メールの内容」



返信に困る男性のメールは、「自分撮りの写メを添付してくる」「とにかく長文」が1、2位で票を集めた。3位以下は「質問ばかりしてくる」「日常の報告をしてくる」「甘えてくる」「難解な話をしてくる」「天気の話をしてくる」など。


最後の一つが気になった。


「天気の話」だとぉ??


わりーか?と反発しつつ・・・


内心かな〜りショック。


別に自分の子供の年代の女子大生にモテたいとも思わないが、これって、結構普遍的な傾向かと思うと落ち込む。やっぱり「天気の話」はダメ?


自分的には一番盛り上がる話なんですがねえ。
まあ、自分が好きだからと勝手に盛り上がるのは最悪なんでしょうし。
それなりに読めない空気読んでやっていこうと思いますが・・・。(苦笑)






でも、どんな反応があろうとも、
読み飛ばされようとも、
はい、ここでは天気の話をします。(上を向いてキッパリ)






ということで、今、夜の10時前で、外の気温は7.8度。
ちょっと雨が降っているのかな。


明日の朝は2度くらい。
昼間は晴れても10度以下の11月らしい天気になりそうです。


中期的にはやはり来週の木曜日くらいを境に、米国東部「冬に突入」のようです。
その前にはちょっとした「小春日和」もあるかも。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記19:19−37でした。


「あなたがたが、かの地に入って、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。四年目にはその実はすべて聖となり、主への賛美のささげ物となる。五年目には、あなたがたはその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。」23−25節。


木の実がなっても、3年間はそれをとらないように、
多分それは、木の力を弱くしないためなんだろう。

そして、4年目。
待ちに待ったその年、
さあ、収穫できるぞ、という最初のものを、
主のもとに持って来なさい、という。

ゆとりがあるからではない。
自分が十分満たされているからではない。
たくさん食べた余りではない。

最初のものを主のもとに持っていく。

神さまを第一とすることの意味を思わされる。

すべての必要が神様から与えられるのだということを、
どこまで本気で信じているのかが、問われているのだと思う。

文字通り、そのような生き方をさせていただきたいと思った。

主よ、
私の必要をすべて満たすことができるのはあなたです。
この手ではありません。私の努力ではありません。
勤労ではありません。
あなたの恵みです。
そのことを本気で信じて、生きる者とならせてください。


あなたを第一とすることの意味を、そのまま生きる者とならせてください。

2010-11-17

隣人を愛しなさい、と。

今朝起きたら、すっかり雨は上がっていました。
そして、朝のうちにどんどん青空が広がって、
いい天気になりました。
風は強かったですが、私たちの住んでいるあたりは、
大きな被害はなかったようです。


夜になって、ちょっと冷えてきたかな。
でも、真夜中の12時頃で、9.9度。
明日の朝も4−5度ありそうです。


でも、来週に向けてだんだん冷えてきそうです。


さて、今日の聖書。
今日はレビ記の19章1−18節でした。


「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」18節。

これは新約聖書への引用で有名な言葉。
レビ記の中にあるんですよね。
意外かもしれないけど。

そして、イエスが「隣人だけではなくて、敵をも愛せ」と言われているから、このレビ記では「隣人」は「普通の周りの人」、または「なかよし」、のことだと思われている。

でも、前後を見ると、

人を中傷するな!
血を流すな!
心のなかで憎むな!
優しく戒めよ!
復讐するな!
恨みを抱くな!

・・・愛せよ。

となっている。

とすると、その隣人とは、「中傷したくなる相手」「仕返しをしたくなる相手」「つい、憎んでしまう相手」「戒める必要がある相手」「復讐したくなる相手」「恨みを抱いてしまう相手」なんですね。

イエスが言われたとおり。
自分に良くしてくれる人を愛するのは誰でもできる。
神の愛に捕らえられて、イエスの十字架によって救われて、
聖霊様に導かれている人は、

このような隣人をも愛することが求められている。
このような隣人をも愛そうと思う。
このような隣人をも愛する力が与えられる。
このような隣人をも愛する。

今、自分は「愛させてください」と祈るだけだ。

主よ、
あなたの愛を与えてください。
自分に良くする人だけではなく、そうではない人をも、
いや、そうでない人をこそ、愛することを教えてください。
愛する力を与えてください。
聖霊によって奇跡をなしてください。

2010-11-16

いのち。

今日は朝と夜に雨。
今は夜の10時過ぎですが、しとしと降っている音が聞こえます。


この後、雷雨になるかもしれないそうです。
雨の量は大したことがなくても、
落ち葉で排水口が詰まっていたり、
路面が滑りやすくなったり、
この時期特有のトラブルがあるかもしれません。


そして、この後、来週前半まで、「秋」みたいですが、
Thanksgivingあたりから、「冬」になりそうな予報が出始めています。


さて、先週末から計画はあったのですが、
今夜、初めて豆腐を作ってみました。


というのは、下の娘が日本語補習校で、
「大豆が原料の食べ物がいろいろある」と習ってきて、
じゃあ・・・ということで、ほんとに大豆から豆腐ができることを、
一緒に実験してみたわけです。


以前、アトランタにいた頃、納豆をつくってみたことがあったのですが、
豆腐は初めて。たまたま「にがり」を数年前に頂いていて、棚の中にあったので(液体のヤツだったんだけどきれいな結晶が出来ていた)、やってみたわけです。


で、やはり最後ににがりをうって、固めるあたりのにがりの量と豆乳の温度の調節が難しかったですが、温度を上げてにがりを増やしたら、かたまりました(邪道かもしれないけど)。


で、娘に「写真撮ってお天気何とかに載せないの?」と催促され、撮った写真がこれ。


あんまりうまそうに見えませんが、どうしてどうして、うまかったです。
にがり増量で水にさらす前はちょっとにがりの味を感じてしまいましたけどね。


これは楽しいし、できたてがうまいので、ちょっと研究しようかな、と思ってしまっています。平気で4時とかに目が覚める今日この頃、豆腐屋でも始めようかと・・・。


さて、日曜日の聖書。
日曜日の朝は、レビ記の17:1−16を読みました。


「いのちとしての贖いをするのは血である」11節。

今、私たちは「いのち」について考えなくていい生き方をしていると思います。
肉や魚を食べる時にも、その命をいただいている、という感覚を持たないことが多いです。

聖書の時代には、その血を注ぎ出して、命をいただいている、と受け取ったり、犠牲の動物も、文字通り、自分の身代わりだったわけです。

また、人の生き死にの場面に出会うことも少ないです。

たぶん、なるだけ、見えないところに追いやられてしまっているのだと思います。
肉を食べるために屠殺する場面も、人がその人生を終えて、旅立って行く時も、私たちに見えないところに押し出されてしまっているのです。

仕方が無いといえばそうですし、私もそのような場面をたくさん見るべきだと思っているわけではないです。でも、それゆえに、命の大切さや、ありがたさを見失っていないかと思うのです。

イエスの十字架もそうです。

私たちの命の回復のためには、イエスの血が流されなければならなかった。血は命そのものだから、贖うことができる。

それなのに、イエスの十字架の恐ろしさ、痛み、苦しみは、後ろに追いやられ、ほかのこと、充実した教会イベント、マネージメントのよさ、いい音楽、本音トークができること、それらが教会の中心になり、力になり、活力の元になっていないだろうか?

いつもいつも、いつまでも、この十字架の恵みが中心。
そのことを忘れないでいたいと思います。

主よ、
イエスの血が流されたから、
私たちが救われていること、
心から感謝します。


どうか、どこまでもどこまでも、十字架のもとに救いがあり、喜びがあり、力があることを、忘れることがないように、そのことをいつもいつも伝えていくことが出来るように、守り、導いてください。


2010-11-15

「苦行」ってあり?

今日は午前中は雨が降ったりしていましたが、
午後には回復して、落ち葉集めができるくらい。


今夜はまた雨みたいですね。
でも、その中心は明日の夜のようです。
今週前半は冷え込みも弱く、過ごしやすい日が続くようです。


さて、土曜日の聖書から。
土曜日はレビ記16:23−34でした。


「あなたがたは身を戒める。」31節。

この言葉ですが、どんなことかなあと思いますが、
新共同訳では「苦行をする」と訳されています。

「苦行」って何なんでしょうかね。
これは「贖罪の日」についての記述の中の言葉。
そこ深刻さ、罪赦されることの大きさを、表しているのかと思います。
軽々しく考えられないこと、それを表しているのかと思います。

新約聖書になって、
イエスが十字架にかかり、救いの道が開かれたのですが、
その十字架の恵みも、簡単に軽々しく受け取られてはいけないのかと思います。

本当にどれほど大きな犠牲が払われているのか、
それを忘れないでいたいと思います。

主よ、
あなたの十字架の重さを忘れないようにしてください。
安っぽいものにしてしまうことがありませんように。
どれほど大きな犠牲が払われているのか、
そこをおぼつつ、礼拝を守ることができますように。

12時半だからねえ。

元気なんですが、まあ、この時間なのでもう休みます。
でも、本当に聖書には教えられることが多いので、
またゆっくり書きます。

一つ一つの出来事に感謝。

あ、そう、最近、また「何時に寝ても5時間で目が覚める」日々が続いています。
昨日も11時に休んだので、今朝は4時に目が覚めた・・・。

今夜はちょうどいいかも。

ではでは。

2010-11-12

明けの明星。

今朝は、6時ごろに、東の空に、金星が明るく輝いていました。
さすがにiPhoneのカメラでは・・・と思いながら、撮ってみると、
・・・ハハハ、わかるかな。



ま、わからなくもない・・・というところでしょうか。
ゴミが付いたのかな?という程度。


でも、ちゃんと写るんですから、ほんとに明るいんですね。
マイナス4等星くらいだそうです。


冷えましたが、ぎりぎり氷点下にならず。0.5度。
昼間は暖かくなりました。
夜はそこそこ冷えて、今9時半前で5.5度。


この先、週末は暖かな日が続きそうです。


さて、今日は早速聖書。
今日はレビ記の16章1−22節。


「わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。」2節。

「贖いのふた」とはイエスのことを予表するもの。
イエスの十字架を予表するもの。
そこにご自身が現れてくださる。

そう、神さまはいつも十字架の上にご自身をあらわされる。
その愛を知りたければ、十字架を見ればいい。
それなのに、いつの間にか、私たちは、
「物事の順調さ」に神を見ようとする。

たとえば、健康が与えられたり、
仕事が順調だったり、
子どもが願っていた学校に進めることの中に、
神様の祝福を見ようとする。

だから、うまくいかないと、
「神様の愛がわからない」となってしまう。

でも、聖書はそんなところに神の愛をさがすなよ、
と言っていると思う。

いかにも神さまが祝福してくださっている、
というところよりも、
神さまがおられるなら、どうして、というところにこそ、
私たちのちっぽけな頭で、一番「神さまらしからぬ」ところに、
ご自分をあらわされる。

十字架はその極致。

人々は「お前がそこから降りたら信じよう」とののしった。

そう、人間の常識では、
神だったら、神の子だったら、
そこから降りることができて当然だ、
いや、そこから降りるべきだ、
そんなところにイエスは行かれたのだ。

なのに、私たちはいつの間にか、
「トントン拍子に行く」
「うまく物事が進む」
ことのなかに、「神さま」を見ようとしていないだろうか?

十字架のもとに行こう。
そして、自分自身も十字架を負って歩み始めよう。
そこに神さまがおられるというのだから。

主よ、
あなたが、イエスの十字架に、ご自身を現しておられること、
そこに気がつかせてくださってありがとうございます。
あなたの十字架のもとにやすらい、
自分の十字架を背負って歩む者であることができますように。

2010-11-11

葉っぱのフレディを読む。

今日はまたいい天気でした。
朝から晩までスカっと晴れました。


夜、冷えてきています。
今は夜の11時ですが、すでに2.5度。
明日の朝は氷点下ですね。


この秋最低の−0.2度を下回る可能性もあり!


さて、今日はMaywoodのJOYJOYキッズクラブ。
楽しかったです。20人余りの子たちが来てくれました。
そのなかの7割くらいが男の子。


そんな中で、今日は久しぶりに私が絵本の読み聞かせを担当しました。
今月は秋らしく「葉っぱのフレディ」。
子供たちは一生懸命聞いてくれました。


日野原先生が紹介してくださったということもあり、
日本では、クリスチャンの間でもかなり受け入れられている本であり、
またアメリカでも、Cokesburyなど、クリスチャン系の本屋でも売られています。


でも、今回、もう一度読んでみて、
聖書の死生観とどこまで一致するのか、いろいろ考えさせられています。


まあ、一番簡単なのは「聖書とは違う」と一刀両断してしまうことなんですが、それもいいのかな・・・というところもあり。


でも、今回もう一度英語で読んでみて、
それから日本語訳も読んでみて、
ずいぶん印象が違うことが気になりました。


私にとって決定的に違うな、と思わされたのは、


原作の
"Will we return in the Spring?" (春になったら、僕たちはここに戻ってくるの?)
"We may not, but Life will"(多分違うな、でも、いのちは戻ってくる。)
というくだりが、日本語訳では全くなくなってしまっているところです。


"may"と柔らかにですが、「輪廻」が否定されているのが、
日本では受け入れられないと訳者は考えたのでしょうか。


生かされている意味(木の全体像は、フレディが落ちていく時に初めて見える・・・)、みんな違う存在なのだ、死は恐れなくていい、というメッセージなどは、そうだなあと思いますが、やはり神のもとに行くのだという聖書のメッセージがそこに込められているかというと、違うなあと思いました。


今日はその後に「わたしがよみがえりであり、命である」と言われたイエスのことを話してまとめましたが、ちょっとこの後もこのテーマ、考えていきたいと思います。

昨日、今日の聖書。
レビ記15章。


「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」創世記1:27。

聖書の言葉は、今日の箇所ではないけれども、レビ記15章の面倒な一つ一つの戒めを読みながら、なんで、神さまは人間を男と女とに造られたのか、いろいろおもいめぐらしていた。人間に男と女がいるから起こることがこの世にはたくさんある。

人間に男も女もなくて、ただ「人間」だけだったらどんなに楽だろうかと思ったりすることもある。

でも、男と女とに造られたことが、「神のかたちに造られた」ことの意味だという解釈もあるくらいだ。

一つ思わされたことがあった。
女性は子供を産むがゆえに、自分のお腹を痛めるがゆえに、9か月間その一部として共に生きる。でも父親は違う。それをともに歩むけれども、やはり自分の一部ではなく、自己の大切な存在である妻の中に、自分とつながりのある命が宿る。でも、やはり、母親のように、その存在が自分の一部であるということはない。だから、子供との距離感が違う。見方が違う。本当に母の愛は偉大だ。父親である私にはどうにも太刀打ちできないほどの深いものを感じる。脱帽だ。でも、また神はまた違った見方をする父親という存在をもおいておられる。

女性に男性がいることによって、神は違った視点で物を見ることを要求しているのだと思う。
逆もまた真だ。

違った視線で見る人の存在をそこに与えておられるのだと思う。

男と女が造られた神秘。
また一つ一つ知っていきたいと思う。

主よ、
私を男性として作って下ったことに感謝します。
男性として与えられていることを、
積極的に行うものとなれますように。
そして、足りないものを、主に求める者とならせてください。


また、女性がこの世に与えられていることに感謝します。
もっともっと愛し、敬うことを教えてください。

NYはこの季節がいい。

日付が変わって、昨日の事でしたが、ミッドタウンのBryant Parkを通ったら、スケートリンクがオープンしていました。まだまだ真冬の寒さには程遠いのですが、こういう風景が、この街には似合うんですねえ。

今夜は、もう遅くなったので、また、明日。

2010-11-10

バスに乗り遅れて電線に文句を言う。

NY行のバスの時間をミスして、バス停で待っていたら、
また、神様のプレゼント。携帯カメラで撮ってみるのだが、電線がジャマだと文句を言っている自分。いつもお世話になっているのにね。

かなりワガママ。

あっと、バスが来た。 BlogBooster-The most productive way for mobile blogging. BlogBooster is a multi-service blog editor for iPhone, Android, WebOs and your desktop

2010-11-09

朝の戦いは前の晩に勝負がついている。

ということで、
明日は朝から教会に行って、そのままNYに行く日なので、
今夜は早く休んでおきます。

いつだったかの学びの中で、
「次の日の朝の祈りの時のQualityは前の晩にもう勝負がついている」という文章を読みました。本当だなあと思います。

明日は朝7時半からNYのミッドタウンのマクドナルドで小さな祈り会を守ります。
Lexington Ave.の45th St.のところです。

多くの人々が生活しているマンハッタンの中で、
主の目がそこに注がれていることに感謝しながら。

2010-11-08

初sleet。

今朝は場所によっては雪も降り、
うっすら雪化粧したところもあったようですが、
こちらはほぼどんより曇り。
時々、雨が降ったり、時々「パチパチ」とsleetが降ったりしました。
このsleetというのは氷の粒で、雪よりも気温が高めでも降る場合が多いです。


明日からはしばらく暖かめの日が多いみたいです。
MY初雪はまだまだお預けのようです。


最近、こちらに滞在されて、教会に集っておられる方がおられるのですが、初めて来られたときに、「デンバーの修養会に先生が来たときに、私もそこに行っていたのです。」と言われて、「その時に初めてイエスの十字架の意味がわかったんです」と言われました。


それはうれしいですよねえ。今から9年前。まだサキがのんちのおなかの中にいた頃ですよ。
初めてJCFNに関わった修養会。
その時にお会いした方々の多くが日本に帰ったかな。
一緒にNYから行った人たちも誰が残っているだろう?
ん?もしかしたらみんな日本?
そして、天国に召されていった方もいる。


そこで時間を共有していたんですよね。
そして、一人の方がイエスの十字架の意味に目が開かれる。


それは確かに神さまのみ業。そう、人間業じゃあない。そこに関わることができたのは神様からのプレゼントだなあ、と思う。


これからも、たくさんの方々と「イエスの十字架の意味がはっきりと示された」という瞬間を共有させていただきたいと思う。


今夜はここで。