2010-11-22

嫌われることを恐れない。

今朝は暖かかったですね。
まだ曇っていて星空は見えませんでしたが・・・。


でも、昼間は晴れてきて、小春日和。
本当に暖かくなりました。
18.5度まで上がりました。


今は夜の11時過ぎですが、まだ11度くらいあります。


明日は少し雨が降るかもしれませんが、
また暖かい一日のようです。


先日から、Twitterで、
脳科学者の茂木健一郎氏をフォローしているのですが、
ときどき、示唆に富んだ発言があります。


最近、目が開かれたのはこれ。


茂木健一郎 連続ツイート 「嫌い」

なるほどですね。
特に「嫌い」は「一種の自己防御反応である。今までの自分を揺るがすような新しいものを前に、自分を守ろうとする。防御の壁が壊れると、一気に好きになる。」というところ。


聖書の中でもパウロにはこんなことが起こっていたのでしょうか?
教会は、パウロにとっては「嫌い」。
なんでかというと、自己防御反応。
今までの自分の生き方が否定されるのが怖くて、自分を守ろうとした。


その壁がイエスとの出会いによって崩されて、
一気にイエスの福音のメッセンジャーになる。


で、最後の方の「嫌われると人は傷付く。しかし、嫌われることに慣れて、人は一人前になるのだろう。『嫌われて一人前』」という一文。


これもなるほどです。


自分も嫌われることを恐れて、失ってきたものがたくさんあるのではないかと思います。「嫌われることを恐れるな」・・・イエスの生き方そのものですね。


自分もどれだけ多くの方々を「みんなに好かれなくていい」「みんなに好かれるなんて、どうせあり得ないんだから、恐れるな」と励ましてきたかと思いますが、実際、自分自身が一番、嫌われることを恐れてきたんだろうな、と思い知らされました。


「嫌われることから逃げない!」


これは大切な宿題だな。


さて、昨日と今日の聖書。
昨日・今日はレビ記21章から22章9節。


「イスラエル人の聖なる者は、わたしのために聖別しなければならない」22:2。

このところはずっと祭司の聖別されるべきことが書かれています。
神と人との間に立つ祭司は、他のものとは分けられる、特別な存在であり、
それゆえに、厳しい基準が当てはめられていました。

新約時代、特にプロテスタントの伝統の中で新約聖書が読まれる場合には、「万人祭司」といって、誰かが神と人との間に立つ必要はない。イエスが大祭司であり、一人ひとりが直接イエスを通して神の前に出ることができ、また互いに互いの祭司として執り成しの祈りをするようにと招かれているのです。

ですから、私たちはみんな神様の前に特別に分けられて、
身をきよく保つところに招かれているのです。

聖とされたから聖なる歩みへと招かれている。

たくさん課題はありますが、一つ一つ、主に導いていただきたいです。
取り扱っていただき、主の前に整えていただきたいです。

主よ、
わたしをきよめてください。
祭司として招かれた私を、
祭司としての働きのために整えてください。
互いのためにとりなす働きをさせてください。

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