2009-03-28

無事到着。

一日経ってしまいましたが、
昨日の夕方、無事到着しました。

皆さんのお祈りに感謝します。

明日は日曜日なので、
今夜はちゃんと休めますように。

2009-03-27

ありがとうございました。

3週間あまりの日本訪問を終え、
NJに戻ります。

日本の皆様、ありがとうございました。
お会いできなくても祈ってくださったみなさん、
そして、NJで、留守を守りながら祈ってくださった教会のみなさん、
その他各地で祈りで支えてくださった皆さん、
ありがとうございます。

本当に不思議なくらい、健康が守られて、
花粉症も「くしゃみ7連発」くらいですんで、
ああ、神様が守ってくださったなあ、と思いました。

お会いできなかった皆さん、
ご連絡できなかった皆さん、ごめんなさい。
次回はお会いできるように、より早く準備をします。

たくさんの感謝を込めて。

2009-03-26

さあ、明日。

何だか寒いですねえ。

今朝は関東でも雪が降ったところもあったとか?
奥多摩もめっちゃさむかったです。

そうです、皆さんご無沙汰しましたが、
火曜日の夕方から奥多摩におりまして、
ネットにつなぐことができず、
木曜日の夜に久しぶりの更新です。

何を隠そう、私は日本ホーリネス教団のメンバーでありまして、
そこからの派遣という形で、NJの教会で奉仕させて頂いています。

ホーリネス教団の教職は普通、ホーリネス教団に所属する160あまりの教会のどこかに任命されるのですが、私のようにホーリネス教団の教職でありながら、他の団体の教会の牧師として奉仕する場合、「派遣」という扱いになります。

17年ぶりに、その「任命・派遣礼拝」に出席しました。
場所は東京・東村山市の聖書学院チャペル。

聖書学院に入る前も何度も集会に出席させて頂き、
聖書学院でいつも礼拝や祈り会を守り、
また卒業して最初に奉仕した学院教会が、
いつも礼拝を守っているこのチャペル。


そこでの17年ぶりの任命式で、
初めて、委員長の口から、
「単立ニュージャージー日本語キリスト かきごおり うじきんとき&のんち」と
教会名と名前が呼ばれた時には、ホント感無量でした。


もう12時を回りましたから、
いよいよ、もう今日、そのNJに向かって出発です。


さて、先週土曜日の聖書。
21日土曜日はヨハネ13:1-20でした。


「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」14節。


イエスが弟子たちの足を洗われたところです。
イエスの言葉、これは直接心に響いてきます。
「あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」と。

私は足を洗っているだろうか。
誰かの足を洗っているだろうか?

その足下にひざまずいているだろうか。
その足を洗い、一つ一つ丁寧に拭いているだろうか。
泥だらけの足、強烈なにおいを発する足さえも、洗っているだろうか。

私は誰かのところに足を差し出しているだろうか。
一番汚いところを、差し出しているだろうか。
カッコをつけて、いいところだけを見せようとしていないだろうか?

互いに足を洗い合うこと、
それがどんなことを意味しているのか、
それを知ることができますように。

神様、
あなたのみことばに感謝します。
あなたのメッセージに従います。
どうか、あなたのみことばに従って、
足を洗うことができますように。
互いの足を洗うことの意味を「経験として知る」ことができますように。

2009-03-23

グッドタイミング・・・というか。

日本は月曜日の夜です。
朝は暖かかったのですが、
午後からぐっと冷えてきました。
夜はまた冷えています。

明日の朝は5度くらいまで下がるみたいです。
5度が寒く感じる・・・。

さっき、風呂に入ろうと思った時に、壊れました。


あ~あ。


でも、このタイミングはまあ、良かったんです。


1.もしも、これが外だったら大変でした。
2.今朝だったらセロテープ貼って一日回らなければいけませんでした。
3.実は、このめがね、3年生か4年生くらいだったので、レンズの安い日本で買おうと、1週間前の土曜日にめがねを注文していたのでした。○×両用デビュー。(「水陸両用」じゃないよ、念のため。)


だから、まあ、壊れるなら、このタイミングで良かったんだと思います。


明日、開店を待ってピックアップして、早速それをかけて、一日の予定をこなします。


さて、先週金曜日の聖書。
金曜日20日はヨハネ12章44-50節。


「わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」48節。

イエスが語った言葉が、
聖書の言葉が、
わたしたちのことを裁く。
最後の日に。

何を信じたか、
どのように従ったか、
どのように生きたか。

信じて、そのように従って、そのように生きる者でいたいと思います。

最後の日、
主に迎えられる日。
ただただ、主のあわれみに
すがるのみです。

主よ、
あなたが私を迎えられる日、
ただ、十字架のめぐみに信頼します。
十字架のめぐみを信じて、
そのように生きる者であり続けられますように。

2009-03-22

守られています。

月曜日の朝です。
しばらく更新できないでいますが、
元気でやっております。
昨日の夜は東京で集会があり、
皆さんのお証で本当に励まされました。

これから、横浜での集会に出かけてきます。

2009-03-20

サッカー伝道青年に出会う。

金曜日の夜です。


海外で信仰を持って日本に帰られた帰国者クリスチャンのための
All Nations Returnees Conference
に参加しています。何だかものすごい申し込みが多かったようで、
いろいろ混乱もあり、スタッフの皆さんはてんやわんや(死語?)です。


集会もいろいろ思わされることがありますが、
やはり一つ一つの出会いに主の導きを感じます。


今日の夕食の時にたまたま隣に座った、若者。
Billyさんという白人の方でした。。


話をしてみると、今、タイでサッカーのコーチをしながら神様のことを伝えるミニストリーをしているらしい。


今回、日本に来たのは、日本でサッカーキャンプをするためというのと、あと、日本人のスタッフをタイに連れて行くため、だそうだ。その日本人のスタッフという若い子がその向かいに座っていた。


「どれくらいうまいとスタッフになれるの?」
「誰でもなれる」
「え?」
「サッカーができなくても、いろんな働きがあるから」
「でも君は?」


そこで、すかさず向かいの日本人の若者。
「彼は全米NO. 1だったんですよ。」
「え?それはチームとして?個人として?」(一応本人に聞こうと思って、英語で聞いた)
また日本人の若者が代弁。
「チームとして全米ナンバー1になったチームのキャプテンだったんですよ、そして、決勝戦のMVP。」
「わお。どの学校だったの?」


そこ出てきた名前が、P州のM大学。
マジですかあ?
NJの教会には卒業生も現役の大学生もいるおなじみの大学じゃん。


「いつ卒業したの?」
「4年前。だから、今はそのころほど上手じゃない。」


うーん誰ともかぶっていないかなあ、と思いながら・・・。


そこで、突っ込んで信仰の話も聞いてみた。
「いつ救われたの?」
「高校を卒業する1年くらい前」
「どうして?」
「サッカーのチームメートが神様のことを紹介してくれたんだ。それで、聖書を読んだ、1年、ずっと読み続けた。そして、『これだ!』と思ったんだよ。」
・・・すごい、やっぱとにかく伝えるべきだよねえ。


「ふーん、で、クリスチャンカレッジのM大学だったんだね。」
「そうだよ、神様のために働く準備ができて、サッカーも強い、もう、no other choiceだね。」とビリー君。
知らなかったなあ。その大学がそんなに強いサッカーチームを持っているなんて・・・。


他にもいろいろ話しました。
今のタイでの経験とか、将来のビジョンとか。
すばらしいですね。スポーツを通したミニストリー。
NJでも、日本でも必要ですよね~。

さて、昨日、木曜日の聖書。
木曜日はヨハネ12章34-43節。


「彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」43節。

どきっとする言葉です。
神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛した、と。
自分はどうだろうかと思わされます。
自分は神様からほめられることを、本当に大切にしているだろうか?
人からほめられることを求めていないだろうか?

人からそっぽを向かれても、
主に単純に、従っていくことができるだろうか?
そのような生き方をすることができますように。
主が喜ばれること、それを単純に求めていくことができますように。
人の反応に振り回されてしまうことがありませんように。

主よ、
私の心を探ってください。
あなたよりも人を大切にすることがありませんように。
あなたを第一とさせてください。
あなたの喜ばれる歩みをさせてください。

2009-03-18

あやまるなよ。

日本にいて、すごい違和感のあることがある。
それは電車の車内放送。


今日も大阪から新大阪に行く電車の中で、
こんな放送が流れていた。


「大阪駅におきまして、
車内で急病の方の救護をしておりましたので、
この電車は4分ほど遅れて大阪駅を出発しました。
皆様、お忙しい中、大変ご迷惑をかけて申し訳ありません」


正直言って、「何で謝る!?」と思う。


胸を張れと。


急病の方の介抱をしていたなんて、
謝るべきことではない。
たとえ、それで電車が遅れても、
絶対に謝るべきことではない。
正しいことをしていたし、
するべきことをしていたのだから。


文句を言うヤツがいたら、
そいつがおかしい。


電車の中で倒れている誰かを介抱することよりも、

自分の時間の都合の方を
優先させろと文句を言うヤツがいたら、そいつはおかしい。
そんなヤツの言うことは聴く必要はない。


簡単に謝るな。


「お待ち頂き、ありがとうございます」
「皆さんのご理解に感謝します」
くらいにしておいて欲しい。


そういえば、
東京でも、こんな放送があった、
「この電車1分半ほど遅れております。お急ぎのところ、大変申し訳ありません」


おいおい・・・そんなの遅れたうちに入るか?


確かに、自分も高校の時とか、
「この時間のこの電車の何両目に乗って、茅場町で降りて走ると、日比谷線の日吉行きがちょうどホームに入ってくる」と決まっていて、東西線が遅れたりして、日吉行きに乗り遅れると、「ヤバイ」と思ったりした記憶がありますが、そんなのも、考えてみたら、いつもあんまり正確すぎるから、それが当たり前だと思っちゃうんですよね。でも、その感覚、「あたりまえだ」と思わない方がいい。


ちょっとくらい遅れても気にしない、
そのたくましさをこの国も持って欲しい、と思います。


とにかく、そんなことで謝らないで欲しい。
悪いと思っていないなら、「申し訳ありません」なんて言わないで欲しい。


誰かの機嫌を取るようなことを言わないで欲しい、
本当に、そう思いました。


さて、今日、水曜日の聖書。
水曜日はヨハネ12章20-33節。


「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。」25-26節。


自分はいったい何を愛しているのだろうか。
自分のいのちを愛していないだろうか?
自分の安楽や安定や楽しみを愛していないだろうか?
自分の利益を愛していないだろうか?

心の奥底まで見つめて、そんなことはない、と言えるだろうか?

主が自分をわたしたちに与えてくださったように、
自分のいのちをわたしたちに与えてくださったように、
イエスの弟子である私は、
自分のいのちを、人々に与える生き方ができますように。
そのような愛にあふれて歩むことができますように。

主よ、
あなたの歩まれたように、
歩むことができますように。
私が何を愛しているのか、
探ってくださってありがとうございます。
与える生き方をさせてください。

関西はすごいかも。

今日は本当に暖かかったです。
20度を超えたところも多かったようですね。


NJも暖かいようですね。


でも、NJの方は明日にはまた寒くなってしまうようで・・・。


さて、今は水曜日の夜ですが、
昨日、火曜日の夜は、夜の9時頃に宿泊先に着いたのですが、
その泊めて頂いた牧師ご夫妻が、
夜10時頃から「グンゼタウンセンター・つかしん」 の「湯の華廊」に連れて行って頂きました。
温泉です!気持ちよかったです。


グンゼの創立者はクリスチャンですから、
そこには教会もあります。


月曜日の「ガーデンズ」といい「グンゼタウン」といい、
関西は結構すごいかもですね。
もっと探検してみたいです。


関東にはどんなのがあるんでしょうか?


東京駅を使うことが多いので、
東京駅にある「キャラクターストリート」は結構楽しいかも・・・と思いますが、
規模がちょっと小さいです。


火曜日は午後神戸市北区の家庭集会。
NJ関係の方のお宅で、集っておられる教会の家庭集会で、
みことばを語らせて頂きました。
十数名の方々が集まっておられて楽しい集まりでした。


夕方には一つのお宅を訪問。


今日の朝はNJのかたがたのための集会だったのですが、
皆さんご都合が悪く、
先生方との祈り会になりました。
特に体調を崩されて来られなかったご高齢の姉妹のことが心にかかります。


夜は東京に戻って、
大学時代の友人と会食。
経済の専門家と日本とアメリカの話、大いに盛り上がりました。


明日からは帰国者のためのカンファレンスです。
400人くらい集まるみたいですね。
たくさんの方々との新しい出会いが与えられて、
たくさんの充電の時となりますように。


更新できるかどうか、わかりませんが、
帰ってくるのは日曜日の夜です。


さて、昨日、火曜日の聖書。
火曜日はヨハネ12章12-19節。


「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。」15節。

「恐れるな」という言葉。
そして、「あなたの王が来られる」という言葉。
本当にありがたく読みました。

この方が、私の王となってくださるから、
私の王として、来てくださるから、
だから、安心して、この方に信頼して、
歩んでいきたいと思いました。

恐れないで、この方の導きに信頼して、
この方が語られること、示されることに、
従って歩んでいきたいと思いました。

主よ、
あなたが私の王となってくださることに感謝します。
あなたに信頼して、歩んでいくことができますように。


2009-03-16

日本のトイレ。

昨日は、西宮のショッピングモールで会食。

ほとんどアメリカのショッピングモールです。
でも、お食事するところはずっといい。


そして、トイレもすごいです。
こんな記事もありますが、ホントにそうです。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0903/16/news087.html



このショッピングモールのトイレも水で洗ってくれるトイレ。


また、つい、この間まで、日本に行く時には
ハンカチを忘れて、手を洗った後、困ってしまっていたのですが、
今や、ほとんどそんな場面はありません。
そう、今回もハンカチを持ち歩いていませんが、
困りません。


こんなので、吹き飛ばしてくれます。


あと、余りアメリカにはないのが、
このベビーに待っていてもらうシート。
そう、自分が用を足している間、
子供をどうするか、で困ってしまうパパたちのための
(もちろん、婦人用トイレにもママ用があるでしょうが・・・)
暖かい配慮ですね。
あちらこちらのトイレにあります。
まだ、使っているお父さんを見たことはありませんが・・・。


さて、月曜日の聖書。
月曜日はヨハネ12章1-11節。


「マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」7節。

昨日は、このマリヤの霊的な敏感さについて考えさせられました。
十二弟子が自分のことで、心の中がいっぱいだったのに対して、
このマリヤはイエスのことで心がいっぱいでした。

イエスが死を目前にしていることを敏感に感じたのではないかと思います。
いや、もしかしたら、そこまで意識していなかったかもしれません、
でも、イエスにこれをささげるのは今だ、今しかない、と思ったのではないでしょうか。

その時を見る目、
その時を見極める、信仰、
私も与えて頂きたいと思いました。

そのためにいつもいつも神様に目を向け、
自分のことではなく、神様と神様の愛してる人々のことに
目を向ける者でいたいと思います。

今日もこれから集会があります。
神の語られるみことばを求め、
神が何をわたしたちに求めておられるのか、
そこに目を向ける者でありたいと思います。

主よ、
あなたに目を向けて、
あなたの願われることに敏感な者とならせてください。
あなたの導きを敏感に読みとる者とならせてください。
それを私の喜びとしてください。

神の言葉を告げる人。

日本は火曜日の朝です。
昨日から明日まで関西です。

とてもいい天気で暖かくなりました。
途中、新幹線の窓からも日本一の富士山が、きれいに見えました。
ちょっと雪が少ないような気がしますが・・・。


関西も神戸の南の方とか、海沿いは花粉が少ないようです。
今日はちょっと山の中に入りますので、
要注意ですね。


昨日お会いした方々も、
1年ぶりの方も、数年ぶりの方もおられました。
神様の守りと導きに感謝します。


さて、日曜日の聖書。
日曜日はヨハネ11章45-57節。


「ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」51-52節。

この聖書の箇所はイエスに敵対していた大祭司が、
イエスの死の意味を預言していた、ということを言っているところです。
これはまたいろいろ考えさせられます。

説教者の人格を見て、わたしたちはその言葉を聞いたり、聞かなかったりします。
あのような人の話は聞きたくないとか、
どうしても素直に聞けないとか・・・。

もちろん、説教者として語る時はそのことを忘れないでいたいと思います。
つまり、生活のすべての側面が問われる、
みことばに従って生きることが語ることよりも大切、
ということです。

でも、自分が聞く側に立った時に、
神様は、その人の人格を超えて、
神様がこの人を通して語る、と決められた人を通して語られる、
ということを忘れないで聞く者でありたいと思います。

今週の後半、そして、来週も、
どちらかというと充電の時、
学びの時が与えられています。

その時に、主が何を私に語ろうとしておられるのか、
それを本当に素直に聞く者でありたいと思います。

主よ、
あなたのみことばを素直に聞く者でありますように、
斜に構えて聞くのではなく、
主の語られることとしてまっすぐに聞く者でありますように。
主よ、人を通して語られるあなたの言葉に、
従順な者であります用に。

2009-03-15

おりかえし。

日曜日の夜です。
今日は関東・茨城でしたが、
とてもいい天気でした。
花粉を恐れましたが、
やはり、花粉の宝庫、秩父・奥多摩から離れていたせいか、
それほどきつくありませんでした。


たとえば、ここ で花粉の飛散の様子を見ても、
ちょうど、今日行ったあたりは花粉の量が少なめです。


今日も、守られて感謝。


今日お招き頂いたのは、
のんちの郷里の教会。
義姉夫婦が集っていますが、
その一家、義母も礼拝に出席してくれました。
おいやめいとも久しぶりに楽しく話をさせてもらいました。
感謝。


午後には茨城県内にいる10年前に帰国されたメンバーが
1年ちょっと前に結婚された奥さんと一緒に来訪してくれて、
幸いな語り合い、祈り合いの一時を持ちました。


日本も折り返し地点まで来ました。
ちょっとホームシック気味ですが、
(家族というより、教会なんですがね・・・ハハハ。)
ここまでの歩みに感謝しつつ、
これからの後半戦に大きく期待しつつ・・・。


さて、昨日、土曜日の聖書。
土曜日はヨハネによる福音書11:28-44でした。


「霊の憤りを覚え・・・」33節。

イエスは人々の悲しみを前に、
人々の涙を前に、
死の前の無力感を前に、
霊の憤りを覚えられたという。

今日も墓参をしながら、私自身も、
いろいろ考えさせられた。
死の力について、その前の人間の無力感について。

罪の力、死の力は人を絶望に追いやる。
でも、主はその死に勝利された。
死に対して勝利を宣言されて、
本当に死に勝利された。

感謝。

主の憤りを、私の憤りとし、
主の勝利を、私自身の勝利とさせて頂きたい。
「わたしはよみがえりであり、いのちである」と宣言された、
イエスの力によって歩んでいきたい。

主よ、
どうか、私にあなたの憤りを教えてください。
私があなたが憤りを感じるポイントで、
へらへら笑いながらいい加減に過ごしてしまうことがありませんように。
あなたが憤りを感じるポイントで、
私も同じ憤りを感じますように。
そして、あなたの勝利を私の勝利とさせてください。


今から始まろうとしているJCCNJの礼拝を祝福してください。

2009-03-13

いのち。

日本は土曜日の朝です。
昨日の夜、大阪について、
今日は大阪からまた東京です。


今日もまた雨。
結構雨が強く降っているので、足下が悪くて、外に出るのがおっくうになる方も多いと思うのですが、
私の場合は助かります。


さて、昨日、金曜日の聖書。
金曜日はヨハネによる福音書11章17-27節。


「わたしは、よみがえりです。いのちです。」25節。

イエスはいのちの源。
いのちの主。
この方がおられるから、
この方が導き手であられるから。

死を打ち破った方。
死をも支配しておられる方。
だから、
主の御手の中に生かされ、
主の御手の中に主に召される。

だから、そこに信頼して歩んでいこう。
そこに信頼して前進していこう。

そして、生きている時も、
ただ生きているのではなく、
主にあって、「生きて」いきたいと思う。
今、生かされている喜びを感じています。

これからも、日々、
生かされていることに感謝して歩むものでい続けることができますように。

主よ、
私はいつまで生かされるのでしょうか?
それもあなたの御手の中にあることを信頼します。
あなたがいのちであってくださるから感謝します。
それが今日までであっても、
10年後までであっても、30年後まで、40年後までであっても、
その時に、あなたを喜んで受け入れて、
次の世界に歩み続けていくことができますように。

2009-03-12

主の栄光。



6軒の方々と、2つの教会のご訪問でしたが、
一つ一つが主にあって守られました。


山形南部教会のご訪問。
祈り会に伺い、メッセージをさせて頂きました。
その様子が先方の教会のHP に写真入りで紹介されています。


主のお計らい・・・とありますが、本当にそうだなあと思わされました。


本当にお世話になりました。
ありがとうございます。
感謝。


今日は東海地方に行きますが、
花粉は関東ではひどいようですが、
東海地方では昼頃から雨で、
花粉は落ち着くようです。


もう、神さまの特別なお計らいに心から感謝。


さて、昨日、木曜日の聖書。
ヨハネ11章1-16節。

「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」4節。

神さまの栄光、それは何だろうかと思います。
癒されることだろうか?
主が癒し主であることが顕わされることだろうか?

主がわたしたちの命を御手の中に置いてくださっていることだろうか?

イエスが死に勝利する方であることだろうか?

一般論と共に、
一つ一つの病の中に、思わされる。
お一人一人の病を思わされて、
主が栄光を顕わされる、
それはどのように表されるのだろうかと、思わされる。

わからない時もある。

でも、主の約束だから、
信頼して、主を見上げる。

主よ、あなたが栄光を表してくださることに感謝します。
あなたの栄光を見せてください、と。

ひとりの方に思いを寄せる。
その方の病も主の栄光があらわれるためだ、という主の約束を信頼して。

主よ、
あなたを見上げます。
あなたが栄光を表してくださる、
それを信頼します。
その栄光を私の目にもわかるようにしてください。

無事、東京に戻りました。

12日の夜です。3泊4日の東北・北海道の訪問が、
守られて、無事、東京に戻りました。

ちょっと遅くなったので、
ゆっくり休みます。

お祈りに感謝しつつ。

2009-03-10

神さまのユーモア。

続けて、水曜日の朝。
外が明るくなってきましたが、
がんがん雪が降っています。
昨日は全く雪のなかった函館の街も一面の銀世界です。
無事に山形まで行けますように。

神さまってユーモアのある方だと思います。


去年の日本訪問。
その中である方を訪問する時に、
神さまに祈りました。
今日は聖書のどこを開きましょうか?と。
その中で心に浮かんできたのが、
ヨハネによる福音書4章のサマリヤの女の記事です。


サマリヤの井戸のところでイエスは休んでおられました。
そこに真っ昼間から水をくみにきた女の人が一人いました。


その女の人にイエスは話しかけて、
こんな話をしました。


「この水を飲む者はまた渇く、でも、私が与える水を飲む者は決して渇かない。
そして、その水はその人のうちで泉になり、永遠の命に至る水がわき上がる」


その聖書箇所を開きながら、
わたしたちのいろんな問題の中で、
自分の外側に自分を満たしてくれるものを求めると、
また渇いてしまいます。
でも、わたしたちの内側に泉を持つならば、
わたしたちは渇かない。
その泉をイエスは与えてくださるのです、
そんなお話しをしたのです。


お会いした方は、その泉を頂きたいと、それから教会の集まりに顔を出されました。
ちょうど時を前後して、「おいでになりませんか?」と誘われていた集会です。


その集会の名前が「泉」だったことを知ったのは、
そのあと何回かその集まりに集うようになった時だそうです。


そこに「ああ、神さまが導いてくださったんだ」と感じられて、喜んで集っておられます。


私も今回その集まりの皆さんとお会いすることができて、
共に主に感謝しました。


でも、今回の訪問でわかったもう一つの神さまのユーモア。


その集会をしているお宅の名前が「井端」さん。


わかります?


ヨハネによる福音書4章でイエスが「涸れることのない泉」の話をされたのも、
まさに「井戸端」だったんです。


ああ、神さまはここまで考えてくださったのか、と思うととても心が温かくなりました。

さて、今日、水曜日の聖書。
今日はヨハネによる福音書10章31-42節。


「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。」31節。

イエスがご自分を神とされた時に、
人々はそれを受け入れられなかった。

ほどほどのことは人に受け入れられる。
でも、ホントのことはなかなか受け入れられない。

でも、イエスはほどほどのことを言って、
人とうまくやっていこうと思われなかった。

はっきりと自分の立場、自分の役割、
自分の存在について、主張した。

それが人々を怒らせ、自分の身を危うくすることであっても、
イエスはひるむことをなさらなかった。
はっきりと語って、人々に迫られた。

反対にそれによってあぶり出されたのは、
人々の無理解と、自己中心と、
神を神としない心だった。

恐れないで語る者でありたいと思いました。
人と調子を合わせて生きていくのではなくて、
世渡り上手になるのではなくて、
ぶつかってもいい、自分の身が危うくなってもいい、
はっきりと真理を語る者でありたいと思います。

主よ、
イエスが生きられたように生きることができますように。
いつもいつも真理を語り続ける者であることができますように。

キリストのからだ。

水曜日の朝になりました。
メールのチェックはしましたが、
ブログの更新はお預け。


昨日の午後遅くから
雪が降り始めました。
函館は地形の影響でしょうか、
それほどでもないようですが、
場所によっては暴風雪になっているようです。


今日は山形に向けて出発します。
列車が守られますように。

昨日の函館の教会訪問は幸いな一時なりました。


今年のJCCNJの主題聖句は「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」という第1コリント12章27節の言葉なのですが、まさにそのモデルを見せて頂きました。


リーダーが一人一人の賜物を知り、それを的確に指摘して、それをまたひとりひとりがそうだなあと受け取って、自覚している。牧師を始め、すべての人が、スーパーマンになろうとするのではなくて、手になること、足になることを自覚している。できないことはできない、と認める謙虚さを持っている。でも、それでひねくれることもない。サタンがつけいる隙を知っている。ひねくれたり、いじけたりすると、サタンが喜ぶことを知っている。


その場で一つ一つのことを書き留めておきたい、と思うほどでした。


今朝は早く目が覚めてしまったので、(何度も寝ようと思いましたが・・・)
今、NJ時間では火曜日の午後の3時半頃。
ダラスの学生たちは着いたでしょうか?


これからJOYJOYキッズクラブスペシャル。
そのことを祈りなさい、と主に起こされたような気がしています。

昨日、火曜日の聖書。
火曜日はヨハネ10章22-30節。


「だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」28節。

主の御手の中に入れられたら、
わたしたちは安全。大丈夫。
誰も、わたしたちをイエスから、神さまから奪うことはできない。

大丈夫。
大丈夫。

主が守ってくださるから。
主が支えてくださるから。

恐れるな。
あなたは私のものだ、と言ってくださる。

恐れないで歩んでいこう。
恐れないで前進していこう。
主がわたしたちの神であられるから。

主よ、
あなたの守りを感謝します。
あなたが共にいてくださるから感謝します。
あなたが「これはわたしのものだ」と言ってくださるから感謝します。
平安を感謝します。


今、始まろうとしているキッズクラブに祝福がありますように。

雇い人か?羊飼いか?

(火曜日の朝に記録。水曜日の昼にアップ)

もうすぐ青函トンネルの出口です。
もう、勢いで追いついてしまいましょう。
・・・と書いていたら、トンネルから出ました。
北海道です。
こちらもまだ晴れています。

昨日、月曜日の聖書。
昨日はヨハネ10章7-21節。


「牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」12-13節。

究極的な羊飼いとしてのイエスさまが、わたしたちを捨てない、
決して捨てない、というメッセージを受け取ると共に、
昨日はもう一つのレベルのことを考えさせられました。

それは私は牧師として雇い人になってはいけない、ということです。
サタンが攻撃してきます。
オオカミがやってきます。
「でも、おまえ、羊を置き去りにして逃げるなよ」
と主がお語りくださいました。

究極的な羊飼いとしてイエスさまがいてくださる、
それに対して、牧師はどのような立場なんだろうか?
「羊の中の一匹」「小牧者」「シェパード犬」・・・いろんなことが言われます。
でも、いずれにせよ、「雇い人」になってはならないんでしょうね。

羊のことを心にかけていない、
そうなってはいけない、と思います。
主が私のことを心にかけていてくださるのだから、
主があなたのことをも心にかけておられる・・・ということを伝えながら、
私自身も一人一人のことを、不十分であっても、
不完全であっても、心にかけていく、者でありたいと思います。

サタンの攻撃に対して、必死で羊を守り、
置き去りにして逃げたりしない、そのような働き人でありたいと思います。

主よ、
あなたが私をいつもいつも心にかけてくださっていることに感謝します。
どうか、私も人々のことを、もっともっと心にかけて、
もっともっと愛することができますように。

聞き分ける耳。見分ける目。

(火曜日の午前中に記録、水曜日の昼にアップ)



スーパー白鳥、空いていて、周りに人もおらず、
とても快適なので、もう一回分更新。


今、青函トンネルの手前なのですが、
たくさんトンネルがあります。
これかな、これかな、と思うのですが、
「あ、まだ違う」「あ、まだ違う」の連続。
なんか楽しいです。鉄道ファンの気持ちがちょっとわかったかも。


でも、携帯を使おうと思ったら、圏外の連続。
ああ、もうすぐ青函トンネルです。
このあと30分間圏外・・・。


一度、コンピューターなし、携帯なしの旅をすべきだなあ、と思いました。

さて、日曜日の聖書。
日曜日からヨハネによる福音書に戻ります。
10章の1-6節。

「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」4-5節。

主の声を知っていることの大切さを思わされました。
自分はいったい、主の声を聞き分けているだろうか?
自分はいったい主の声と他の声をしっかり聞き分けているあろうか?

そして、それを教会の人たちにもちゃんと受け継いでいるだろうか?
主の声をちゃんと聞くように導いているだろうか?
考えさせられました。

ちゃんと主の導きに従っていく、
主の御声を聞いていくことが、どういうことなのか、
その知識と感性を伝えていっていれば、
それを受け継いでいれば、
起らなかっただろうなあということもありました。

サタンはわたしたちが用いられそうになるならば、
激しく攻撃してきます。
今が大切な時だと思います。

これからの自分自身の歩みの中でも、
また教会の歩みの中でも、
主のみ声を聞いていく、
自分自身がそうあると共に、
それをしっかりと受け継いでいく者でありたいと思います。

主よ、
どうか、聞き分ける耳を与えてください。
見分ける目を与えてください。
私自身にその感性を与え、
また教会の一人一人にそれをしっかりと受け継いでいくことができますように。
それを伝えていくことができますように。

傷もしみもない者として。

(水曜日の昼にアップ)

火曜日の朝、列車の中でこれを打っています。
スーパー白鳥という名前の特急に乗っていますが、
パソコン用のコンセントがあるのにうれしくなって、
早速利用させてもらっています。


月曜日から東北・北海道を回っています。
郡山→弘前→函館→山形→仙台→東京で、
6軒のお宅と2つの教会を訪問します。
木曜日の夜には東京に戻ります。


月曜日の朝、東京を出てからほとんどインターネットから離れています。
途中の駅で一瞬つながったので、メールのチェックをしましたが、
それから18時間くらい経っています。
大切なメールとか入っていないだろうなあと思いますが、
まあ、どうしようもありません。
またどこかの駅でつながったらラッキーということで・・・。
その時にこの文章もアップできたらまたラッキーということで。

月曜日は天気に恵まれて、
火曜日も、さっき青森駅では雨が降ってきましたが、
今青函トンネルの手前で、晴れています。
でも、これから雪みたいですね。


大雪にならないことを祈ります。

さて、土曜日の聖書。
土曜日はペテロ第2の手紙3章14-18節。

「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」14節。

わたしたちが救われるのは行いじゃなくて恵みだから・・・ということばかりが強調されて、
もしかしたら見失われていることなのかもしれません。
しみも傷もない者として、主の前に出ることができるように励む。
それが聖書の中で何度も命じられていることです。

自分は果たして「励んで」いるだろうか?
ただ、主の前に立つことを目指して励んでいるだろうか?
そのように反省させられました。

しみも傷もない者とならせて頂きたい、
そのために励んでいきたい、と思いました。

主よ、
どうか、私の内側をきよめてください。
傷もしみもない者としてあなたの前に出ることができますように。
そのために励みます。

2009-03-08

つながっている。

日曜日の夜、11時頃です。


今日は午後から雨、という予報が出ていましたが、
大丈夫でした。
明日も同じような予報です。


でも、明日から私は東北、北海道を回るので、
そちらの方の天気が気になりますが、
明日は晴れるようですが、
あさっては雪の降るところも多いようです。
大したことがないことを願います。


今日は1年ぶりの出身教会(母教会と呼ぶことが多いです)の礼拝。
大好きな東京の下町の教会です。
そこで最初の讃美歌を歌っている時に、
このたくさんのお寺や神社に囲まれた小さな教会に、
神さまの目が注がれて、
神さまの愛がここからこの地域に、この社会に注がれようとしている、
そのことを思うだけで、心の中にこみ上げてくるものがありました。


アメリカのおおきな教会にも、
日本の小さな教会にも、
同じように神さまの目が注がれ、
同じように神さまの臨在が与えられている、
感動を覚えます。


そして、その一つ一つの礼拝が主にあって、
つながっていることを感じました。


間もなく、NJの教会でも礼拝が始まります。
神さまの祝福のあふれる礼拝となりますように。


さて、金曜日の聖書。
金曜日は第2ペテロ3章8-13節。


「かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」9節。

イエスの再臨のことが書かれているところ。
主が「忍耐しておられる」ということに心が留まりました。

自分の生きている間に再臨があるかどうかはわからない。
2000年間なかったのが、この数十年の中にあるかどうかはわからない。
でも、必ず来ること、それは私自身の死。

再臨であれ、自分自身の死であれ、
今までの歩みが止められるその日、
その日を喜んで迎えられるように、
その日を感謝して受け止めることができるように、
歩んでいく者でありたいと思いました。

主よ、
今日も生かされていることに感謝します。
この世での歩みがいつ止められたとしても、
それを受け止める、感謝して受け入れる、
備えをさせてください。