2009-03-16

神の言葉を告げる人。

日本は火曜日の朝です。
昨日から明日まで関西です。

とてもいい天気で暖かくなりました。
途中、新幹線の窓からも日本一の富士山が、きれいに見えました。
ちょっと雪が少ないような気がしますが・・・。


関西も神戸の南の方とか、海沿いは花粉が少ないようです。
今日はちょっと山の中に入りますので、
要注意ですね。


昨日お会いした方々も、
1年ぶりの方も、数年ぶりの方もおられました。
神様の守りと導きに感謝します。


さて、日曜日の聖書。
日曜日はヨハネ11章45-57節。


「ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」51-52節。

この聖書の箇所はイエスに敵対していた大祭司が、
イエスの死の意味を預言していた、ということを言っているところです。
これはまたいろいろ考えさせられます。

説教者の人格を見て、わたしたちはその言葉を聞いたり、聞かなかったりします。
あのような人の話は聞きたくないとか、
どうしても素直に聞けないとか・・・。

もちろん、説教者として語る時はそのことを忘れないでいたいと思います。
つまり、生活のすべての側面が問われる、
みことばに従って生きることが語ることよりも大切、
ということです。

でも、自分が聞く側に立った時に、
神様は、その人の人格を超えて、
神様がこの人を通して語る、と決められた人を通して語られる、
ということを忘れないで聞く者でありたいと思います。

今週の後半、そして、来週も、
どちらかというと充電の時、
学びの時が与えられています。

その時に、主が何を私に語ろうとしておられるのか、
それを本当に素直に聞く者でありたいと思います。

主よ、
あなたのみことばを素直に聞く者でありますように、
斜に構えて聞くのではなく、
主の語られることとしてまっすぐに聞く者でありますように。
主よ、人を通して語られるあなたの言葉に、
従順な者であります用に。

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