2011-04-14

今、必要なもの。

昨日までの2日間のぐずついた天気が今日はすっきりと晴れて、
気持ちのいい一日となりました。


子どもたち、一週間で外に連れ出すのが、
火曜日の映画だけだったし、
昨日はちゃんとふたりで留守番した、ということで、
今日はお休みをいただいて、Bronxに行ってきました。


はい、Bronx といえば・・・


はい、家のお嬢たちは動物大好きですから、


はい、ハジに会ってきました!
3人で、「あ、ハジだ、ハジ〜!!」と
はしゃいできました。



のんちがいなくて、ちょっとなんか足りない、という3人の生活ですが、
ハジと会えて、なんだか元気が出てきました。


あ、なんで、彼がハジかというのが不思議に思う方もおられるでしょうね。
ハジは、上手なんですよ、彼らのまねが。
それで、教会の子どもたちの間では、
「ああ、ハジ、早く帰ってきて、ゴリラのまねやってくれないかなあ」という声が上がっています。




Bronxといえば・・・夜の部もあり、
5ドルのチケットも売っていたのですが、
今年はちょっと寒いと思ったので(そうでもないようですが)、
ま、もう少し夜が暖かくなったら、ということで、
今夜はテレビ観戦です。




のんちは、木曜日の夕方に無事に石巻に着きました。
今頃は初日の働きに出ていると思います。
初日はまず、入浴の支援だそうです。
介護系の働きでしょうか。


石巻まで連れてきてくださったのが、石巻在住の方。
20メートル級の水と瓦礫の壁に襲われた、石巻では、
その方が個人的に知っている方の間だけでも、
本当に本当に、過酷な、とてもとても悲しい話があって、
それを、運転しながら、してくださったそうです。
私もちょっと聞きましたが、
とてもとてもここに書けるようなものではありません。


そこには、神学校で勉強するような神義論(神が全能の愛の神ならば、どうしてこの世にこんなに悲惨なことがあるんだろうか、という問いに聖書から答える議論)やキリスト教弁証論(キリスト教が科学的に、論理的にどれだけplausibleかを主張する議論)が、どうしようもない全く安っぽいものに見えてしまう現実があります。そんなのはコリント人への第一の手紙の13章の最初にある「やかましいどらや、うるさいシンバル」以外の何物でもありません。


ただただ、どれくらいの時間がかかるか、わかりません、でも、その中で、一人一人の心に「立ち上がろう」という思いが与えられるという奇跡を祈るのみです。


そして、ただ黙ってその痛みに寄り添う人たちがどれほど必要かと思います。


のんちが新しい働きの地で、主のしもべとして用いられるように祈ります。


「神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」ヨハネ第一の手紙4章12節。


議論の中には神はいません。
愛する実践の中におられるのです。




さて、今日の聖書。
マルコ13:28-37。


「だから、目をさましていなさい。」35節。

ん〜、眠っていたかな、自分。
ホントにいつ何が起こっても動じないような、
いつ、世の終わりが来ても、大丈夫なような思いだったかな、というと、
やっぱり、そこまで準備はできていなかったように思う。

でも、やはり今回の震災で、心の備えの大切さを思わされた。
また日常の中での働きの大切さも思い出させられた。

また、原発のことも、考えの甘さを思い知らされた。
権力者を無批判的に信頼することの愚かさ、
無関心であることが罪であることも。
自分の考えをしっかり持って行くことの大切さも。
そして、必要以上に便利、快適な生活を追い求める貪欲さを悔い改めるべきことも。

目を覚まそう。

主よ、
目を覚まさせてくださってありがとうございます。
二度と眠りこけてしまうことがないように守ってください。
しっかり見るべきものを見ることができますように。
言うべきことを言うことができますように。

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